第7話

 袋、というよりも羽は平木のほうで処分してくれるようだ。迷惑をかけるわけにはと一度は断ったのだが、封をしているとはいえ精神的に不安定な片瀬が持っているのはよろしくないと押し切られてしまった。片瀬としては冷静でいたつもりなのだが、どうも信用してもらえなかったらしい。

 時刻は17時をやや過ぎた頃。サークル室からおいとまし、帰路の只中だった。

 日も暮れ始め、群青の空に黒く陰る雲は夜の始まりを告げているようだ。遥か遠くで輝く日の威光も、今が最後とばかりに煌々と真っ赤に燃え上がりながら地に落ちていく。

 秋風が目に染みる。ぴゅうと木の葉を巻き上げながら駆け抜けていく。肌に冷たさを残して、去っていった。冷たさから労るように腕を擦るが、今は鼻をつんとさせるほどの冷たさすら気持ちがいい気がした。土と木の匂いが混じっていた。

 気分のいいまま、散歩気分で広いキャンパス内を歩く。4限を終えれば開講されている講義もあまりない。17時ともなれば学内に残っているものも少なく、窓から覗く室内灯は少ない5、6限を受けているか研究にいそしむかのどちらかだろう。サークルや部活の線もあったか。消えない部屋も、なくはないのだが。

 とはいえわざわざ肌寒い外をうろつく者はいない。散歩道は貸し切りである。

 黄色く色づいた落ち葉に覆われ、心なしか柔らかくなったアスファルトの上を歩く。先ほどの木枯らしのためか、踏み均らされてばかりの中にさくさくと小気味の良い音を立てる枯れ葉が混じっている。

 キャンパス内の中央より少し手前、正門寄りに位置する付属図書館の辺りまでくると、群青の空はいつしか濃い紫へ、そしてぽつぽつと星の目立つ真っ暗な空へと移りつつある。

 控えめだった街灯の明かりも出番だとばかりに主張をはじめ、強く光を放っている。

 もう、夜の世界だ。

 日は沈み切り、代わりに欠けた月がうすぼんやりと淡い光で世界を照らしている。月の威光は酷く弱弱しい。途切れ途切れの人口灯がギラギラと光を放つ。眩しい。

 暗さと眩しさが実にちぐはぐだ。

 眩しさを避けるように、薄暗い道を歩いた。

 なんてことはない、いつもの道だった。丸屋根の大きな建物、学生会館の前を通り過ぎ、フェンス沿いに植えられた木々に沿って道を歩く。落ち葉のカーペットはもうない。この時期の常緑樹は碌に葉を落とさない。ちらほらと古い葉が落ちているだけだ。ここが落ち葉で覆われるのはあと半年は先だ。

 シンとしていた。

 時折通る車の音は、葉に遮られて消えていく。静かだ。シンとしてる。

 視線の先には結衣がいた。

 シンと静まった中、ぼうっと立っていた。

 取り残されたような街灯の明かりの下で、ぼうっと立っていた。

 彼女は片瀬のほうを向くと、のっぺりとした表情を崩した。口元だけが歪に歪んでいた。

 彼女はまだ天使にはなっていないらしい。


「こんばんは」

 彼女の口は開かれない。

「誰か、待っているのか?」

「羽はどうしたの?」

 彼女は口だけを動かしてそう言った。声までものっぺりとしていた。

 片瀬はどう答えるべきか、逡巡した。そのまま答えるのがいいのだろうか、それとも誤魔化したほうがいいのだろうか。どちらにせよ信用は失いそうだと思った。いや、もう失くしてしまった後だろう。

「そういえば土曜に新潟に行くんだっけ」

 悩むくらいなら答えなければいいのだ。

「そうだよ」

「行くのって古谷さんだけなの?」

「そうだよ」

「サークルの友達とかは?」

 結衣は少し考えるようにして黙る。

「……たぶん梅岡の方に行くんじゃないかな。あっちの方に司祭様が来ると思うから」

「そうなんだ」

 結衣はじいっと、片瀬の顔を見ていた。

 いや、見ているようで、何も映していないのだろう。その目はとても平坦だ。

「滝原をさ、誘ってみたんだ」

「え?」

 ピクリと眉を動かし、歪に動くだけだった口唇が自然と開いた。

 彼女はようやく表情というものを見せた。

「今日、聞いてみたんだ。一緒に天使に会いに行かないかって。答えはまだ貰ってないけどさ、どうせあいつも暇だろうから、来るだろ」

「いいんじゃないかな。そうだよね、佳乃ちゃんもきっとわかってくれるよね。佳乃ちゃんも結構ため込んでると思うんだ、だったら教えてあげないといけないよね! 悩む必要なんかないんだよって。そんなこと無意味だよって」

 フフフ、と頬がだらしなく崩れた。

「わかってくれるよ。だって佳乃ちゃんって、麻美ちゃんとそっくりだし」


「そうだ」と結衣が呟いた。

「これ、つけて」

 結衣は羽を突き出した。わざわざ予備を用意したのか。それとも取りに行ったと言っていたのだ、余りがあったのか。

 差し出された羽を無言で見つめていると、片瀬の腕をとり、有無を言わさず握らせた。

 眼鏡越しに、ガラス玉はこちらをじいっと見つめていた。

 覗き込むと、平坦だったガラス玉にはじめて何かが見えた気がした。


 奥深くから、何かがこちらを覗き込んでいた。目が合った。そんな気がした。


 酷い悪寒が背筋を走った。ひどい眩暈が片瀬を襲う。自分は今立っているのか、それとも倒れてしまったのか、狂った平衡感覚はそれすらも理解できない。そんな中でも、片瀬は必死に結衣と目線を合わせない、目を覗き込まないようにした。

 何かが瞳から入り込んできそうになるのを、必死に堪えようとした。

 彼女の瞳を介して、片瀬は悍ましくも人間よりも遥かに偉大で、盲目的に狂信してしまいそうになる――神を見た。そんな気がした。

 そう、気がしただけだ。主観では片瀬は路上をごろごろとのたうち回っているようにすら感じている。痛みがあるかも感知できず、足以外のどこかが地面に触れているかもわからない。何もかもの情報を脳がシャットアウトする。アルコールに酔わさせられたような、体中の感覚が麻痺してしまったような中で脳だけが、頭蓋という固い防壁の向こう側、厳重に秘匿されているはずの脳髄の内側で何かが蠢いている気がした。

 気がしただけだ。

 無視をしろ無視をしろ無視をしろ。

 耐えろ。

 耐えろ。

 耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ。


 幾ばくかの時間をそうして過ごし、ジンと痺れていた手足の感覚、そして極度の混乱に陥っていた思考がようやく平静を取り戻したころ、片瀬は地震が地に足をつけ、無様に倒れるようなこともなく、直立していたことに気づいた。

 目は自身の足元を見ていた。少し汚れたスニーカーに焦点があっていた。

 ゆっくりと目線を上げる。

 そして彼女の顔を、おそるおそるといった具合に見た。

 ガラス玉は、平坦だった。何も映してはいない。

 片瀬のことすら、映していない。

 手の内で羽が脈動する。じんわりと生暖かく、ぬめりとした感触が広がった。薄黄色の粘液が染み出し、手の平からこぼれ、甲を伝いゆったりと尾を引きながら地に落ちていく。

 まだ若々しかった葉に触れた。

 どろりとした液体に覆われる。

 葉が錆びた。

 赤黒い錆が埋め尽くした。

 カサリと音を立てて崩れた。

 赤黒い粉が舞った。

 気がした。

 粉末が鼻腔をくすぐる。気味の悪いほどに甘ったるい。

 頭蓋の奥底から、何かが染み出てくる。

 それはイメージだ。暗い世界、ゴムのように柔らかい地面。ぐじゅりぐじゅりと耳朶を犯す、全方位からの水音。気味が悪い。

 それは塔の中だ。

 無数の異形が、階段を下る。

 真っ暗な穴の底へ。

 穴の奥底へ。

 下っていく。

 上っていく。

 脳の奥底へ。

「歩け」

 結衣がそう言った。

「そうすれば幸せだよ?」

 誰がそう言った?

「神様と、一つになろうよ」

 天使がそう言った。

「ね?」

 ぐじゅりと足が崩れる。潰れた表皮から粘液が染み出した。粘ついて、糸を引きながらぐじゅりぐじゅりぐじゅり。

 気持ち悪い。

 ああ気持ち悪い。


 イメージは不意に途切れた。

 結衣がそれを中断させたのだ。彼女は開いたままの片瀬の手から羽を取り、愛おしいものを扱うように一撫ですると、背伸びをしながら手を伸ばし、片瀬の首へと回した。

 片瀬はそれに対し特に抵抗することなく、なすが儘にされていた。無表情に、その様を眺めていた。

 そうして、結衣は片瀬との身長差に四苦八苦しながらかけ終えると、満足そうに相好を崩した。表情を蠱惑的に歪めた。蕩けさせた。




 街灯が照らすのは、いつの間にか片瀬一人だけになっていた。

 まるで世界に一人だけ取り残されたようだ。

 いや、弾き出されたのかもしれない。


「気味悪い」


 片瀬は羽を思い切り引っ張った。

 細い紐が千切れた。

 赤黒い粉が、舞った気がした。

 全部、秋風がさらっていった。


 脳の奥底で、遥か星の彼方で、暗い昏い穴の奥底で。

 何かが無関心に唸った。

 そんな気がした。



***



 家についた頃には既に19時を少し回っていた。一体どれだけの時間、あそこで立ち尽くしていたいたのか。

 ポケットからハンカチを取り出す。ハンカチに包まれていた、羽を取り出す。ぽろぽろと粉が落ちた。フローリングに赤や褐色、黄土色などの大きな欠片が転がっている。ハンカチは粘液が染み出したのか、乾燥し、強張っていた。動かすたびにパリと音がはじける。

 取り出された羽はひどく静的だ。瑞々しさは失われてはいない。だが、脈打つことはない。液体の漏出も既に止まっていた。もはやこれは気味が悪いだけの、ただのオブジェだ。

 ただ、処分に困る。普通に捨ててもいいのだろうか。収集業者に影響を与えてしまっても寝覚めが悪い。寺か神社に持っていくべきか? いやそれも意味がないだろう。坊主や神職が遥か外からのモノに対処できるだろうか。専門外にも程がある。

 応急処置として、包んでいたハンカチごと適当な袋に放り込み口を縛る。後で平木にでも相談しよう。

 これを持って大学に行ったら、そこでもし結衣にでも出会ったら、彼女はどんな反応をするだろうか。考えるのは少し怖かった。

 そういえば、土曜にもう一度会うということを思い出した。捨てるのは不味いかもしれない。液が零れないよう適当なケースにでも入れて保管しておこうか。


 そう一人結論を出すと、不意にもう片方のポケットから振動が伝わる。携帯に着信があったようだ。袋をセンターテーブルへと放るように置き、スマホを取り出す。

 メールだった。送信したのは古谷正幸。件名はなく、ひどく短い、ただ簡潔な文が載っているだけ。

 それはどこかで、そしていつの間にか知っていたことだった。驚愕はなかった。もしかしたら軽く感覚が麻痺しているのかもしれない。


『麻美ちゃんが行方不明になった。僕のせいだ』


 たったの二行に、強い後悔が滲み出ていた。

 彼の顔にまた暗い影が落ちていそうだと、少し前に会った正幸のことを思い返した。よからぬことを考えていないかと心配になり正幸へと電話を掛けるが、つながらない。

 仕方なく『後で電話ください』と返信をし、手近にあったリモコンを手に取り、テレビをつける。時間帯的にまだニュース番組がやっているはずだ。リモコンを操作しチャンネルを変える。見るのは19時のニュース。ちょうど、とある事件を報道していた。それは昼にも見たものだ。新潟での、男性と女性の行方不明。そういえば、と思い出す。あの時はさして気にも留めていなかった。テレビ画面には顔写真とテロップが表示される。行方の分からなくなった男性と女性の情報だ。

 女性の名前は、若狭麻美だった。

 警察は事件性が高いと判断し、捜査を行っているようだ。昼にも聞いた内容だった。

 そして、新たな情報として。若狭麻美の行方が分からなくなる少し前のこと。彼、そして彼女は複数の男女と行動を共にしていたという目撃情報を得たらしい。警察が公表したのか、それとも報道陣が独自に得た情報なのかはわからない。

 どこか覚えのある状況だ。似たような事件の情報を何件も漁った。古いものも、新しいものも。

 集団の内、身元が判明しているのはただ一人。

 古谷結衣だった。


 ああ、と自然に吐息が零れた。

 テーブルに置いた袋を、その中身を想像しながら、軽く見やる。

 結衣は言っていた。『特別なもの』だと。

 そのフレーズがひどく気になった。

 椅子を引き、深く腰掛ける。少し無理をして買った革張りのチェアは、体を委ねても柔らかく背を支えてくれる。そのまま沈み込んでしまいたかった。どうにも疲れが一気に出たようだ。疲れというよりも焦燥、いや後悔かもしれない。麻痺していると思ったものが雪崩のように殺到する。

 どうしようもなかったのだと、簡単に切り捨てられるほど薄情なつもりはない。言ってしまえば、関係性など皆無に等しいのだが、なんとなく巻き込んでしまったのだと責任を感じる。

 ああ、本気で正幸のことが心配になってきた。思い詰めていないだろうか。いや、思い詰めているだろう、当然。真面目そうな男だった。きっと責任感も人一倍だろう。

 おそらく若狭麻美をどうこうすることはもうできないだろう。片瀬や平木の予想が正しいのであれば、結衣の言う天使の正体があんなモノであるのだとしたら、どうしようもない。どうしようもないのだ。


 一人項垂れていると、またしても携帯に着信があった。正幸だろうか。

 握っていたスマホの画面を見る。

 滝原だった。


「……どうした」

「……話はできるか?」

「どっちの意味でだ」

 昼の時は正気でなかった。

「どっちって」

「ああ、まあ時間も大丈夫だし、理性的ではあるよ」

 電話越しの、沈黙が痛い。彼女の信用を崩してしまったのだと今更ながらに理解する。

 少々胸に来るものがあった。

「正幸さんからの連絡、見たか。それかニュース」

「若狭さんのことか。それと結衣……さん」

「……そうだ」

 何かを堪える様な間を挟み肯定の意が返ってくる。さすがにニュースにまでなってしまえば、平静ではいられないだろう。

「なあ、どうしようか。……どうすればいいんだろう」

 声は少し震えていた。彼女の涙ぐんだ声なんて初めて聞いた気がする。

 どうすれば、か。若狭麻美はもう、どうしようもない。

「それは結衣さんのことか」

 返事はない。若狭麻美のことも含まれているのか、それか諸々全てということなのだろう。

「結衣さんのことなら、まあ止めるしかないだろうな。もう無理やりにでも」

「警察が結衣のこと捕まえるんだろう。だったらもうどうしようもないじゃないか!」

 耐えていたものが決壊したように、彼女は声を荒げた。そして「ごめん」と小さく呟く。

 正直なところ、警察がどうこうできるものかと聞かれると、簡単には頷けなかった。おそらくは警察にとっても全くの未知なのだ、この行方不明は。

 それに、結衣が警察に捕まる――まずは事情聴取からだろうが――とは、なぜだか思えなかった。運や偶然のような確率を、彼女は外部から強制されるはずだ。最悪、彼女と同じ信者共が出てくるはずだ。大学だけでも20人近くいる。

 だから彼女は捕まらない。

 だから、全ては土曜で決まるのだ。

 自分にならどうこうできる、という自惚れではない。少なくとも、彼女は土曜に姿を現す。天使のもとへ行く。人との約束は違えても、天使との契りは遵守するだろう、あれは。

「たぶん、捕まらないと思うよ」

「なんで、そんなこと……!」

 わかるのか、ということだろう。生憎その答えは片瀬も持ち合わせていない。明確な答えは。

「だから、たぶんだって言ってるだろ。きっと想像にも及ばない方法で、捕まらないだろうさ。まあ、警察がなんとかしてくれるならそれが一番なんだけどさ」

 片瀬が警察に強力することが最善手かはわからないが。

「……なら、どうすればいいのさ。どうすればあの子を助けられる?」

 僅かに息をのむ。結衣を助ける、か。彼女はまだ、引き返せるのだろうか。

「土曜」

「え?」

「土曜に、結衣さんと会うことになってるからさ、その時に説得でもしようじゃないか。何があったんだって、今度こそちゃんと、問いただそうじゃないか。無理やりふん縛ってでも捕まえて。どうするかはそれから考えればいいさ」

 ほんの少しの沈黙を挟む。当然だろう、片瀬の言葉はなんの解決にもなってないのだから。

「……結衣から連絡があったんだ」

「え?」

「土曜日の13時に、干山公園で待ってるって」

「いつ来たんだ、それ」

 少なくとも片瀬が結衣と別れた後だろう。

 滝原を誘ったと告げたのはその時なのだから。

「あんたに電話する少し前だよ。だから、ニュースの後。あの子はたぶん、まだ捕まってない」

 だろうな、と思う。

 ぼんやりと眺めていたニュースでは、警察は結衣に話を聞く方針だとはしていたが、接触をしたような報道はされてなかった。

 公表してないだけかもしれないが。

「なあ、警察にこれ、言わなくても大丈夫なのかな」

「どうだろうな。情報提供を求められたわけじゃないんだ、もし後々追及されたら『警察に任せれば大丈夫だと思ってました』とでも言えばいいだろうさ。まあ、土曜に会うとなると、ちょっとまずいかもしれないけど」

「そっか……」

「黙ってる分には大丈夫だろ、心配いらんさ」

「会いに行ったらまずいんだろ」

「……行く気か?」

「行くさ」

 躊躇いなく言い切った。

「そもそも誘ったのもそっちだろう?」

「そうなんだけどさ」

 あの時は正気ではなかったのだ、という言い訳は通じないだろうか。それに、こうなるとは予想していなかったというのもある。新潟に行くのが結衣一人なら滝原を連れて行っても大丈夫だろうと思っていたのだが。

「確かにまあ、ついてきて貰うのは心強いんだけどさ、説得的にも。でもたぶん、危ないかもしれないからあんまり来てはほしくないなあ」

「なんだ、殊勝じゃないか」

 先ほどから、彼女の調子が戻ってきてるようだった。

「茶化すなよ。本気なんだから」

「なら、一人で行くつもりだったのか」

「正幸さんについてきて貰おうかなとは思ってたよ」

 まだ連絡はついていないが。

「ならやっぱり、私も行ったほうがいいな」

「なんでだよ」

「当然だろう」

 電話越しに、鼻で笑ったような声が聞こえた。彼女の表情が目に浮かぶ。不敵に笑う、そんな表情を作っているはずだ。

「男二人で結衣みたいな子をふん縛るなんて、間違いなく不審者に思われるだろうな」

「おい、だから正幸さんに失礼だろって」

 ハハハ、と笑い声が聞こえた。曇りはもう、晴れていた。

 しかし、そうなると警察にも事情を話しておいたほうがいいのだろうか。いや、そうなるともしかしたら彼女は逃げるかもしれない。

 そして二度と、二度と人として会うことはできなくなるかもかもしれない。

 土曜に会って、捕まえて、そのあと警察に引き渡せばいいか。正直彼女は社会的にも引き返せないレベルの状況になっている。原因が原因なだけに明確な罪に問われることはないかもしれないが、匿ったままというわけにはいかないだろう。

「本当についてくるのか」

 努めて真剣な声音を作る。

「当然さ。私は結衣の友達なんだから」

「……そうか」

「そうさ」

「もしかしたら、だいぶショッキングなことになるかもしれないぞ」

「おい結衣に何するつもりだ」

「何もしないさ」

 ショッキングなものを、見るかもしれない。

「心構えだけはしといてくれよ。俺だって慣れたわけじゃないんだからな」

「だから何のことを言ってるんだよ」

「……あんまり、話したくはないなあ」

 認めてしまうと、寄ってくる。

 知ってしまうと、目をつけられてしまうかもしれない。

「言わなきゃダメか?」

「言え」

「……明日でいいか?」

「まあ、それでいいさ。それなら明日の朝、お前ん家に行くぞ」

「大学じゃダメなのかよ」

「大学でそんな話をするつもりか」

「それもそうか」

 もしかしたら、警察も来てるかもしれないしな。結衣と親しい友人である滝原は十中八九警察から事情聴取を求められるだろう。別に構わないといえば構わないのだが、土曜にまで響けば困る。

 いや、いっそのこと警察に突き出してしまってもいい気がする。そうすればわざわざ危険を冒さなくて済む。……そんなことを企てたら彼女一人で突っ走ってしまいそうだから、しないが。

 サークルの連中も、きっと話を聞かれるのだろう。一人も見たことはないが、彼らは一体どう答えるのだろう。もし警察の調べが入るなら、カルト疑惑があったということは簡単に発覚するはずだ。警察の捜査方針にすら影響するだろう情報だ。

 それとももう、梅岡とやらに行ってしまったのだろうか。

 彼らの、〝司祭様〟に会いに。

 まあ、どちらでもよいか。さすがにそちらまでは手に負えない。見捨てるようで悪いが、警察に任せるほかはないのだ。

「じゃあ、明日の9時にな」

「おい、早いな」

「1限とたいして変わらないだろう」

 最後に軽口を言い合って、通話を終えた。

 準備ができるのも、覚悟を決められるのも、もう明日一日だけだ。

 今日は夢を、あの悪夢を、見なければよいのだが。


 正幸からの連絡は、終ぞ無かった。



***



 奇妙な夢を見ていた。

 現実とは途方にかけはなれた状況でありながら、意識だけは起きているときのようにはっきりとしている。


 私は一人暗い空間の中を歩いているのだ。

 見渡すほどの闇。一寸先すら見えない、いや、そもそも目を開いているのかすらわからない。

 足元はぶよぶよとした、ゴムの上を歩いているような感じがする。踏みしめるたびに足は鈍く沈みぐちゅりと何かが染み出すような音がする。そうして、足の裏を何か液体のようなものが伝うのだ。

 また一歩、前へと進むために突き出した片足は先ほどよりも一段低く着地する。

 それの繰り返しだった。

 ああ、これは下っているのか。そう気づいた。

 辺りはひどく甘ったるい匂いが充満し、あまりの臭気に気持ちの悪さを覚え胸が悪くなる。息を止めようにも、そもそも呼吸をしているのかもわからない。鼻があるのか、口があるのか、わからない。胸が動いているのか、確認してみようにも、思ったように手は動いてくれない。


 真っ暗な世界は、地面の感触と不愉快な匂い、そして水音だけがあった。それ以外を感じ取る手段は私にはない。

 どれだけ歩いていたのだろうか。

 どれだけ下ったのだろうか。

 ようやく目が慣れてきたのか、あたりの光景がほんの少しだけ見えてきた。

 正確には、目の使い方がわかった、というべきかもしれないが。

 辺りは薄暗いが見えない、というほどではなかった。コンクリートのような、粘土のような土色と赤色をした滑らかな壁と、壁に沿って下へと続く、一周するのに何歩必要になるのかわからないほど長く、幅の広い螺旋の階段。壁はいたるところに錆のようなものが広がり、薄い層のようにところどころ剥げかけている。

 この壁は金属なのだろうか。とてもそうは見えないが。

 中央はぽっかりと口を開けた空洞であり、柱のようなものは見て取れない。

 手すりのようなものは一切なく、もし足を踏み外せば転落死は避けられないのではないだろうか。


 まるで塔のような空間だった。

 そしてそこを、私は歩いていた。

 そこを歩くのは私と、そして――


 歩いているのは私一人じゃなかった。

 しかしそれを『人』と表現していいのかもわからない。目の前を歩くのは赤褐色の体表と、それを覆うように広がる錆色が混じった姿をしたものがいた。その錆のようなものは肌の大部分を占めている。そしてところどころ――たとえるなら古い手すりなどだろうか、錆びて、表面がぽろぽろと崩れている、そんな部分を見たことがあるだろう――肌も錆もこそげ落ち、水気を帯びてらてらと光る薄黄色のゼリーのような小胞のかたまりと、かたまりから透けて骨すらも見えた。

 寸胴な体形で、首は無く頭部には髪も何もなく、ただただ茶色の皮革のような、大きな凸部があるだけだ。

 ほんの少し張り出した部分は肩なのだろう、先には細く不安定な鞭のようなものが2本ずつ伸び、互いに寄り合い1まとまりになっている。先からは無数の糸のようなものが生え、歩くたびになびいている。

 そして背中から腰にかけてに一対から三対ほどの赤褐色の生々しい肉の触肢が生え、それぞれにびっしりと昆虫の羽のようなものがひしめいている。

 しかし肉枝は体表のように水気を帯びておらず、羽根も決して透き通っていない。まるで粘土のような分厚い肉に、血管のような条脈が走っているようなイメージだ。それはひどく禍々しい。脈打つように、揺れている。

 脚は短くそして太い。体表が錆の重さに耐えられなかったのだろうか、足首のあたりはたわんだ肉に埋もれ、まるで象の足のようだった。そして彼らが歩くたびにぐじゅり、ぐじゅりと水音がし、黄色く半透明な液体が糸を引き、足跡として残る。


 ひどく、気味の悪い光景だ。

 吐き気すら催す。もし私に口があれば、迷わず吐いていた。何が出てくるのかは、わからないが。

 一方で、心のどこかでは彼らに親しみを抱いていた。それは何故か。何故だったか。明瞭なはずの思考にどこか霧が掛かっていた。

 ぐじゅり、という音が、足元から聞こえた。

 ああ、そうか。

 同じなのだ。同じになれたのだ。

 ぐじゅりという水音は、気付ば周囲から聞こえていた。

 前からも、後ろからも。少し離れて右も、すぐ左隣からも、そして上からも、下からも。

 皆が皆、階段を下っている。

 深い深い、穴の底へ。

 底は目にすることができない。穴があるとは認識していても、暗く、深く、深淵の底のように黒く塗りつぶされている。


 足が止まらない。


『おかしい、いつもならここで終わるはずなのに』


 ふと思考にノイズが走った。いつもとはなんだ。こんな夢を私はいつも見ていたのだったか。

 そう考えている最中にも足は機械的に階段を下り続ける。深い穴の底へと。

 次第に中央の暗闇が薄れてきたように感じる。目が慣れたのではない。おそらく頭が慣れたのだ。今ならば、底にあるものを見通すことができるかもしれない。


 しかし視界は動かない。そこを見るのに〝目〟を動かす必要がないということも今ではわかるのに、頭の中には〝底〟の情報が入ってくることはなかった。

 直感的に、そこは見てはいけないものなのだと理解したのだ。そして底に辿り着いてはいけないのだということも。

 そこに行けばすべてが変わってしまう。それに会えばすべてが壊れてしまう。

 もう、取り返しがつかなくなってしまう。

 そう理解したのだ。


 ――その先に私は無性に惹かれてしまう。そこには私が求めてやまないものがあるのだ。躊躇う必要など一体どこにある。

 それでも足は止まってくれない。

 今まで能動的に動いていたと思っていたが、意志とはまるで関係ないようだった。

 行きたくない。行ってはいけない。私はまだ生きていたいのに!

 ――内側のほうで誰かが叫んでいる。生きたいと願っている。それは違う。もう、捧げたはずだ。

 嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだイヤダ!助けて!

 ――縋っている。誰にだろうか。神にだろうか。ならば進めば会えるというのに。

 止まらない止まらない止まらない止まらない止まらない、止められない。

 ――止まってほしくない。

 この体が、この夢が、自らの意思で動いてくれないことがとても恨めしい!

 ――この体が、この夢が、自らの意思で動いてくれないことがとてももどかしい。

 ――見たい、見たい、見たいみたい見たいみたい見たい早く行きたい会いたい。


 ――ああ、会えた。神様、私を――



***



 翌日金曜日の朝、古谷結衣の失踪が報道された。



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