第6話

 夢を見ていた。


 暗闇の中、ただただ歩いている。

 何も見えない。わかるのは足、それも踵から下の動きと、足の裏に感じる地面の感触だけ。

 地面はとても柔らかい。沈み込む、というほどではないがアスファルトのような硬さは感じない。例えるならば、ゴムの上だろうか。

 暗闇の中、ゴムの上を歩いているのだ。

 どこへ向かっているのかはわからない。だが下っているのではないか、そう思えた。


 どれほど歩いただろうか。気づけば周りから奇妙な音が聞こえてきた。


 ぐちゃり、ぐちゃり。

 ぐじゅり、ぐじゅり。


 なにかを潰しているような音。規則正しく一定の間隔を持っているのだが、それが一方向からではなく全周囲から聞こえてくるのだ、もはやそれが耳朶を打たない瞬間はない。

 前と、後ろと、すぐ左隣と、少し離れて右側と。上と下からも聞こえてくる。

 絶えず聞こえてくる。どこまでも聞こえてくる。


 ぐちゃりぐちゃりぐちゃりぐちゃり。

 ぐじゅりぐじゅりぐじゅりぐじゅり。


 醜い音だ。不快な音だ。

 何を潰しているのだ。何が潰しているのだ。

 いつの間にか、地面は沈むように柔らかくなった。

 ぐじゅり、と足元から水音が聞こえた。

 靴の中に水がしみていくような感覚が広がる。靴を履いているのかなんて、わからないのだが。

 不快だ。ただひたすらに不快だった。

 夢は、そこで終わった


 ***


 ピピピ、ピピピと、規則正しい電子音で片瀬は目を覚ました。いつもは鬱陶しく感じるそれがまるで釈迦の垂らした蜘蛛の糸のように感じる。

 ひどく汗をかいていた。

 寝起きだというのに倦怠感がひどく、体を起こすのも億劫だ。

 片瀬は寝台からなんとか半身だけでも起こすと、サイドテーブルに置かれた目覚ましへと手を伸ばす。テンポと音量がだんだんと大きく、今ではけたたましいと呼べるほどになったそれはようやく口をつぐんだ。

 四日連続で同じ夢を見た。

 暗闇の中をひたすら歩く、気味の悪い夢だ。

 はっきりとまではいかないが、そこそこ正確に記憶に残っているので思い違いということはない。もっとも、夢の内容自体曖昧なせいで、それは何の意味もなしていないのだが。

 きっと、二度寝をすれば五度目を見ることになるだろう。そう確信めいた感覚を薄っすらと脳が、思考が囁いている。


 二度寝をしたら、さぞ気持ちがいいだろう。

 さあ、寝ろ。

 寝ろ。

 歩め。


 脳髄の内側で、思考が囁いている。

 目覚ましを止めたのは失敗だっただろうか。

 

 間違いなく悪夢にカテゴリわけされるであろうそれを見ることになった原因には勿論心当たりがあった。

 片瀬は首から下げられた一つのアクセサリーを手に取る。不気味な意匠、生きているかのように瑞々しく、そして何も語り掛けない、ただのアクセサリー。

 軽く握ると、薄黄色の液体が滲んだ。


 あの日、街灯の薄明りの下で結衣と邂逅した翌々々日。同じ時間に、同じ場所で出会った彼女は片瀬の分の羽を持ってきた。

 彼女はそれを「特別なやつだよ?」と一際大事そうに、愛おしそうに撫でていた。

 それを片瀬は受け取ったのだ。好奇と、切望と、ほんの少しの躊躇いを持って。

 結衣はこれを肌身離さず持っていろと言っていた。「勿論、寝る時もね?」そうにこやかに述べた時の表情はやはり蕩けていた。もしかしたら彼女はこの夢をひどく待ち遠しく思っているのかもしれない。回を重ねるたび、自分もそう思うようになるのだろう。そう理解していた。

 そして、引き返せるのは今だけだということも。

 小出や彦野、高見らもこの夢を見たのだろうか。それとも、手にした時の〝刺激〟にやられたのだろうか。どちらにせよ、気の弱い人物であれば気分を悪くしてしまうのも無理はないのかもしれない。いや、芯があるからこそ受け入れがたいのだろうか。


 羽を受け取って以降、片瀬も結衣と同じようにネックレスのように首から下げているのだが、あの時以降、身を委ねていたくなるような心地よさを感じることはなかった。だが、幸福感だけは常にある。見守られているような、包み込まれるような、酷く中毒性のあるものだ。

 きっとあれは、最後の報酬なのだろう。彼らの最終目的、それに対する褒美なのだろう。 漠然とそう感じていた。

 

 そしていつかは自分も辿り着くのだろう。

 それは夢から覚めた後、いつも感じる予感のようなものだ。

 羽を手放せずにいるのはそのためでもあった。

 

 掴むようにして止めた時計を見ると、時刻はすでに10時を回っていた。なぜ目覚ましをセットしたのだったか。そういえば今日は3限から講義があるのだったかと思い出した。

 それに加え、今日は特別な予定もあった。

 予定というのは彦野の伝手で、マタ旅の連中と話をしたという人物と会うことだった。

 今となっては会う必要のない人物になってしまったのだが、行かなければならないだろうか。話を聞きたいなら、結衣に聞けばそれで事足りてしまうのだ。

 しかしまあ、彦野に聞いた限りだとオカルトに傾倒した人物らしいので。案外話は合うかもしれない。暇つぶしくらいにはなるだろう。

 二度寝をすることは諦め、もぞもぞと包まっていた薄手の布団から這い出ると、ようやく、遅すぎる朝が始まった。


 昼に近い朝食を摂り、ぼんやりと点けられたテレビをみながらコーヒーを啜る。安っぽい苦味と酸味に交じってほんのり甘さが広がった。ミルクも砂糖も、入れてはいない。

 コーヒーにはほんの少し、赤い粉が浮いていた。胸元がざわついた。袖口から軽く粉が舞った。

 カラフルな画面はワイドショーを映しているらしい。キャスターが最近起きたいくつかの事件を紹介している。ちょうどいま扱っているのは、どうやら行方不明事件らしかった。新潟で起きた事件らしく、36歳の男性と20歳の女性の行方が分からなくなっていることが家族からの訴えで判明したらしい。警察は事件に巻き込まれた可能性があると判断し、捜査を開始したという。

 ただそれだけの事件だ。どこにでもあり、いつでも起こりうる事件。

 片瀬はそれを見て、すぐに興味を失った。

 キャスターも既に別の事件を読み上げている。企業の不正発覚らしい。ますます興味のないものだった。

 行方不明事件といえば、自分も何かを調べていたなとぼんやりと頭に浮かぶ。調べていたのはたしか、結衣が訪れた先で起きた奇妙な事件のことだ。つい最近は正幸に聞いた土地の事件を漁ったりもしたのだった。

 すべてではないが、それらの土地では同様の、奇妙な集団が見られた失踪・行方不明事件が起きていることは間違いなかった。結衣の故郷であり、たびたび帰省しているという条谷にはなかったのは少し気になったが。

 それらに何らかの関連を見出しているものはほとんどいない。オカルト好きな連中が精々だ。それもこじつけだ、不謹慎だと酷評されるものが多かった。距離も、時間も、そして顔ぶれが違えば疑う者も少ない。

 では彼らは何なのか。何の集団なのか。

 なんのことはない、彼らも歩いていたのだろう。

 会いに来てくれることはないのだ、向かうのは足のある自分たちだ。天使の羽は飛ぶのには適していない。

 天使に会いに行くのだ。

 そういえば結衣は次の土曜に新潟に行くと言っていた。新潟の、地元の山に天使がいるらしい。一緒に会いに行こうと誘われたのだった。

 天使はいまだ見たことがない。知ろうとしても頭にロックが掛ったように思考が停止する。酷くもどかしい。

 それも、直接会えば解決することなのでたいして気にはしていないのだが。

 ならば、結衣の誘いを受けるべきだろうか。

 天使に会いに行くべきだろうか。いや、行かないべきだろう。だが行くのもいいかもしれない。

 行くのならあいつも誘ってみようか。きっと乗ってくれるに違いない。



***


 3限の講義は文化人類学だ。理学部であった片瀬にとって必須の科目ではないが、なんとなく趣味でとっていた。片瀬の通う天倉市立大学は総合大学ということもあって、学部の垣根を越えて様々な講義を受けることができる。もちろん他学部・他学科にも解放されている講義に限られるのだが。文化人類学もその一つだ。

 当然とでもいうべきか、親しい同じ学科連中はもちろん、理学部の学生はほとんど選択しない講義だった。理系の学生は実験やら何やらで忙しい、ということを差し引いてもわざわざ分野違いの講義に注目するのはそれこそ1割もいないだろう。おそらく受けているのは片瀬と同じくよっぽどの趣味人か、学芸員かなんらかの資格取得のための単位稼ぎだろう。そして、ちょうどその学芸員志望の知人が片瀬にはいた。

 3限から出席の片瀬と違って、学食かそこらで昼食を摂ってきたのであろう、いくつもの学生グループが次々と講義室の中に入ってくる。それでも段々の扇状に広がるこの大講義室では席が埋まるようなことはない。大講義室は数枚の黒板とスクリーンの備わった教壇を正面に、5席1セットの机が扇状に広がっている。席は大まかに3ブロックに別れ、また後方からでも黒板が見えるようにと1列下がるごとに1段高くなっている。ホールのような教室だ。

 そんな講義室の中段よりやや後ろ、その端に片瀬は陣取っていた。ブランチを自宅で済ませてきた片瀬は早くからそうしている。談笑に興じる知人がいるわけでもなくただ暇を持て余し、何をするでもなく、右手で頬杖を突きながらただぼうっと、入口をくぐってくる、楽しそうにお喋りに興じながらたむろする彼ら彼女らを眺めている。

 ふと、右隣の席に誰かが座ったことに気づいた。構造上机も椅子も5人分が一続きなため、軽い衝撃もたやすく伝播するのだ。

「なんだ、眠そうじゃないか。寝起き?」

「もう結構経ってるよ。でもまあ、二度寝はしたかったかなあ」

 時刻は13時手前。3限は13時からだ。

「なんか、昨日よりやつれてない?」

 隣に座った人物、滝原は片瀬の顔を覗き込んでそう言った。昨日もやつれてると言われたのだったか。お互い雑な扱いをする間柄とはいえ、こういう時は素直に心配できる彼女はやはりできた人間なのだろう、と片瀬は内心思う。

「んまあ、夢見が悪くて?」

「ふうん」

 怪訝そうな顔だ。

「そっちこそどうだよ。メッキ剥がれたりしてないか」

「メッキとは失礼な。……でもまあ、ちょっと疲れ気味かな。なーんかここ最近、結衣が変にテンション高くてね」

「へえ」

 ちらと横目で見ていると、滝原は頬杖を突きながら、軽く吐息を零した。気怠そうに緩められた瞳はどこでもない中空を眺めている。

 並んで頬杖を突いているなんて、傍から見たら大分滑稽に映るだろう。

「何かあったのって聞いてみても、何でもないの一点張りだし。楽しそうなのはまあ喜ばしいことなんだろうけどさあ」

 彼女の愚痴は完全に保護者目線だ。

「複雑」

「だろうな」

 もう1、2分で13時だ。大多数の生徒はもう席についていて、がやがやと騒がしい。教壇の方へ目線を移すと担当教員がノートパソコンを操作していた。黒板の両脇に降ろされたスクリーンにはファイルアイコンでごちゃごちゃとしたデスクトップが映されていた。


 そういえば、と片瀬は滝原に言うべきことがあったのだと思い出した。

「そういやさ、結衣が今週の土曜天使に会いに行くんだってさ」

「は?」

 困惑を多分に含んだ反応が隣から聞こえた。

 顎を支えていた右手が横からぐっと引かれ、うたた寝時のようにがくんと頭がずり落ちる。

「なんだよ」

 非難を込めて恨めしそうに下手人を睨む。

「なんだよ、じゃないよ。ねえ、ほんと何言ってんの?」

 薄っすらと震えた声をしながら片瀬の右腕を揺さぶる。

「だから土曜に天使に会いに行くんだってさ。お前も行かない?」

 彼女は絶句したような顔でこちらをぼうっと見つめていた。瞳は未知と出会った時のように散瞳し、真っ黒いビー玉のように綺麗だった。

 何をそんなに驚いているのか、片瀬にはわかるようで、わからなかった。

 滝原の答えを聞く前に、軽いハウリングと共にスピーカーから教員の声が響いてきた。

 お喋りでざわついていた室内も、次第に音の波を鎮めていった。


 ***


 14時半に人類学の講義を終えると、どこか調子の悪そうな滝原と別れた片瀬は以降の暇な時間を大学の付属図書館でつぶした。そういえば返答を聞きそびれたなと思いメールを一つ打った後、適当な座席の一つに腰かけ、本を開くでもなくただぼんやりと過ごした。

 そうして暇をつぶした後、予定の少し前に図書館を出て、片瀬は現在文芸部サークルの一室を訪れていた。

 時刻は16時30分ちょうど。この時間に、彦野から紹介された人物が待っているという。名前は確か、平木だったか。そうだ、平木信一だった。先輩からの紹介なのだから、あまり失礼な態度はとりたくない。名前くらい間違えないようにしないといけないだろう。

 最近はどうも、些細なことに気が回らないことが多かった。約束事や時間にもややルーズになったと思う。講義なんていくらかさぼってしまっているくらいだ。今日も危うく約束をすっぽかすところだった。それも意図的に。結衣もこんな感じなのだろうか。

 ドアの向こうからは話し声は聞こえない。

 しかしたまに物音はするので、少なくとも無人ということはないだろう。

 つい手がドアノブに伸びてしまうが、その前にノックを先に済ます。コンコンとドアを叩くと、やはり人はいたようだ、男性の声で返事が返ってきた。

 室内はそれなりの広さがあった。講義室よりは少し手狭といったところか。

 壁の二面が長机と椅子で占められ、残りは本棚が。部屋の中央には交流用だろうか、クロスのかけられた腰の高いテーブルが二つ合わせて並べられ、椅子とセットになっている。

 壁沿いの机は個人の作業用なのだろう。区画ごとに個人の特色が出ている。また、室内の椅子の種類がバラバラなせいもあって、寄せ集め感がひどく滲み出ていた。

 どこもかしこも乱雑に物が置かれており、あまり綺麗な部屋とは言えない。


 迎えてくれたのは男性一人だった。線の細そうな男で、あまり身なりに気を使わないのか髪は男性にしては長め。ファッションというよりただ切っていないだけだろう。眼鏡をかけていることもあって、目元が殆ど見えない。この人がおそらく平木なのだろう。

 現在も使われているであろう席の数と人数が極端に釣り合っていないので、他の人は講義中か、今日は来ていないようだ。もしかしたらわざわざ二人にしてくれたのかもしれない。


「ようこそ、片瀬君だっけ」

「はい。平木さん、でよろしいですか? 今日はよろしくお願いします」

 軽く頭を下げると、平木も「よろしくね」と返してくれた。ずぼらそうに見えて案外丁寧で、物腰も柔らかいらしい。席を進められて、中央の机、扉側の方のパイプ椅子の一つへと腰かけた。クッションがへたっていたようで座り心地はよくない。別のものにすればよかったと内心後悔したが、平木が既に片瀬の対面に座ってしまったため今更席を変えるのは少し躊躇われた。

「あのサークルについて聞きたいんだっけ」

 会話は平木のほうから切り出された。

「ええ、まあ一応」

 平木は「物好きだねえ」とうんうん唸る。

「ホラーとか、オカルトとか、やっぱり好きなの? でないとあんまり関わろうとか考えないよね」

「ホラー、ですか?」

 そういう要素はあっただろうか。どちらかというとミステリーな気もするが。思い当たる節がなく首をかしげる。

「あれ、聞いてない? 彼らはほら、行く先々でまあ、巡礼みたいなことしてるんだよ。いや、巡礼目的で旅行してると言ったほうが正しいか」

「ああ、天使に会いに行くとかいうやつですね」

「そうそう。なかなか無いよ、そんなに聖地とか、縁の地がある宗教なんて。特に新興なものではね」

 天使は増えるのだから、当たり前なのではと片瀬は思う。そこまでは聞いていないのかもしれない。

「僕はね、小説の中で特にホラー小説が好きなんだ。自分で書くのももっぱらそういうのさ。まあ、ちょっとした怪談や都市伝説、不思議な話とかも好きだけどね。とにかく日常の中ではあんまり味わえないものが好きなんだ」

「嫌いじゃないですよ、そういうの。自分の場合は未解決事件とか、そういうのですけど」

 平木は「いいねえ」としきりに頷く。どこか上機嫌である。

 しかしそうなると一つわからないことがある。片瀬は結衣の心変わりの件について、調査・解決を目的とする形で関わった。成り行きとはいえ、最終的には自分の意思だ。ならば平木はどうなのだろうか。目の前に彼の琴線に触れた未知があるのだ、非日常があるのだ。手を伸ばせば簡単に届く位置に。さらに言えば彼は実際に接触しかけてまでいる。

 ならばなぜ、彼は〝拒んだ〟のか。

 片瀬は平木の首元へ目を向けた。室内だからか上着の類は来ておらず、丸首のTシャツからは素肌のみが覗く。

 首だけとは、限らないのだろうが。

「平木さんは天使に会ってみたい、見てみたいとかは思わなかったんですか」

 片瀬の問いに、野暮ったい髪の毛の向こうで、平木はほんの少し眉をひそめたような気がした。

「まあ、なんだかんだでこういうのは創作か勘違いが大半って知ってるからね。どこかの小説で読んだねよ、心霊現象ってのは脳みその中でできあがるんだ、って。本人の願望や、もしくは理解の及ばない現象に理由付けするんだとさ。これがすべてだ、とは言わないけど感銘を受けたなあ」

 それなら。

「なら平木さんとしては、天使はいないって考えてるんですか」

 平木は困ったように笑う。幾度か口を開きかけ、すぐに閉じるを繰り返した。何と言うべきか、言葉を選んでいるようだった。

「彼らがああも揃って信じ込むんだ、そう思わせるに至った何かはあったんじゃないか、とは思うよ。一人だけならまだしも、二十人近くの集団で、だからね」

 わずかばかりに顔を伏せ、黒いぼさぼさの髪が上縁を隠す。

「何か、凄いものを見たのかもしれない」

 一拍を挟み、平木はそう述べた。その言葉は何かを確かめるように、言い聞かせるように。そして否定してしまいたいという思いが透けて見えた。

「でも、そうだね。きっと僕には見えないだろうな。見えてほしいとも、思わない」

 平木は苦笑いを浮かべながらそう言った。

 平木は察した上で拒んだのだ、賢明な判断だと片瀬は思う。

「まあインスピレーションは得られたよ。なかなか無いよ、こんなにゾッとできる話を身近な人から聞けるなんて。しばらくは明らかな創作ですよーって話の方が聞きたいかな」

 ははは、と平木は笑う。怖い話は笑い飛ばしてしまうのがいいのだとでもいうように。

 ゾッとできる話、というのは平木自身も語る気がないのかもしれないと片瀬は感じた。

 彼自身それを恐れているのだということが表情から、言葉の端から滲んでいるのだ。

「それにやっぱり、常識の世界の中を生きている身としてはそういったものはなかなかに信じがたいからね。興味もあるし、実在するなら面白い、なんて思うけれど何だかんだで疑って見てしまうもんさ。彼らだってもしかしたら旅先の雰囲気に呑まれただけなんじゃないか、感動を伝えたいがために過度な誇張をしているんじゃないか、とかね」

「嘘だとは言わないんですね」

「嘘と断じれるような感じじゃなかったからねえ」

 平木は腕を組んで視線を上げ、背もたれにもたれかかる。その目はいつかを思い返すように何もない中空を見上げていた。

「彼らはみんな真剣だったんだよ。真剣に信じ込んでいた。根っからの真面目なやつも、碌に笑えないジョークが好きなやつも。揃いも揃って大真面目に信じていたんだ。彼らにとっての神様をね」

 言葉を紡ぐごとにその目は細められていった。それは懐かしむようにも、惜しむようにも見えた。

「ああ、そうだ彼らの神様の話はもう知ってる?」

「神様ですか。まだ見たことないですね。でもちょっとだけなら聞いたことありますよ。どんなのかは知りませんが」

 片瀬がそう答えると、平木はピクリと眉をひそめた――ような気がした。そしてどこか怪訝な表情を浮かべている。

「……じゃあ天使には会ったことはあるのかな」

「ないですね。今度会いに行こうとは誘われましたけど」

「それは、誰からだい?」

 これには困ってしまった。結衣の名前は出していいのかと少し悩む。ぼかすにしても、自身と結衣の関係はなんなのだろうか。友人と呼ぶには、片瀬と結衣は付き合いが短すぎた。

 実に歪な関係だ。ほぼ他人に近いが、明確な繋がりもまたあるのだ。

「……知人、でしょうか。実のところそれほど親しくないんですけどね」

 平木は顎に手を添え、一度考え込むように黙った。

「ならその誘いは断ったほうがいいんじゃないかな」

 そして片瀬の首元を睨みながら、そう告げた。諭すような口調でもあり、強制するような凄味もあった。

 平木が何を睨んでいるのか、それはすぐに見当がついた。

 片瀬はここ最近、襟の高い服を着るようになっていた。当然、隠すためだ。装飾品の類を好んでこなかった自身が急にネックレスなんてものをつけていたら誰かが指摘するかもしれない。アレは、衆目にさらされるべきでないことは実際に手にした片瀬自身よくわかっていた。幸い近頃は涼しくなってきたこともあり、襟を隠すのは特におかしなことでもない。誰にも指摘はされなかった。

 それでも、今日はほんの少しだけ不十分だったらしい。自身の首元を見ると即席の首紐が上着の下から覗いていた。

「それは、なぜですか」

「実をいうと僕もね、はじめは彼らの話に誘われて、彼らの言う天使様を見てみたいって思ったんだ。たとえそれが天使と言わしめるだけの何かだったとしても、それこそ執筆のインスピレーションになればと思ってね」

 でも、と顔を歪めながら。

「詳しく聞いていくとね、どうも僕が求めていたようなものとは別物だってことがわかっていったんだ。そしてそれはきっと殆どの人にとって、目に毒だ」

 やんわりとした雰囲気は鳴りを潜め、平木はどこか吐き捨てる口調でそう告げた。

「彼らもね、本当のところは神様になんて会っていないんだってさ。会ったのは天使様だけ。まあ、これくらいは知ってるかもしれないけどね」

 そういえば、結衣もまだ会ったことがなかったのだったか。

「それと、これも知っているかもしれないけど、彼らは信仰の果てに天使になるのだと、神様の一部になるのだと言っていた。なかなかにエキセントリックだよね、信じる神に救われようと思うだけならまだしも、信仰の対象を目指すなんて。キリスト教でもユダヤ教でもイスラム教でも、その分流でもグノーシスの類でも、まあ他のマイナーな民族宗教はカバーしきれないけど、そんな教えをするところなんてみたことがないよ。もしかしたら仏教や神道が近いのかな。仏教は苦しみから解放された、さとりを開いた、いわゆる仏様に成ることを目指しているし、神道ではそもそも人間は皆神様の分霊だ。死後は神様のもとに還るし、解釈によるのかもしれないけど、祀り上げられた先祖の霊はいつしか祖霊神や氏神なんてものにもなる」

 結衣たちが信じる神を、平木は既存の宗教に絡めることで評価する。

「それでもやっぱり彼らは、彼らが信じているものは既存の宗教とは別物だ。なんてったって彼らにとっての神様は世界の創造をしたわけでも、人間の生みの親というわけでもない。まして釈迦のように人々に教えを説いた偉人というわけでもない。まったく他所の神様を崇めているんだ」 

 そうして、排他するのだ。

 片瀬はそれを、彼の排他的評価を身じろぎ一つせずに聞き続ける。

 片瀬が黙りこくっていると、平木の弁舌はだんだんとヒートアップしていく。

「君は見たかい、あの灰と黄土と赤土色の世界を。目に見えるほどの大きさの塵芥が舞い続け、積り、侵されていく醜い世界を。よたよたとまるで引きずるように二足で歩く赤土に埋もれた歪な生き物たちを! 彼らの神はきっとあそこにいる。あの世界にいる。あれが地球上のどこかなんてことは断じてない。遥か古代の話でもないよ。もしあれが現代まで連なる地球史の一コマなのだとしたら、地表を深く深くまで覆いつくしてしまった気味の悪い赤土の地層が見つかっていなければおかしいのだからね。そんなものを信じているんだよ、彼らは。ああなることを望んでいるんだよ、彼らは」

 思い出したくないものを、脳の引き出しの中に閉じ込めるようにしてしまっていたはずの記憶を、一息に抜き出してしまったかのように、彼は恐れながらも、痛む頭を押さえるかのようにしながらも吐き出し続ける。

 それは警告のようだ。片瀬に対する、そして平木自身に重ねて言い聞かせている、知ってはいけない、見てはいけない、受け入れてはいけないという警告だ。

「彼らは神とのお目通りが叶った後、ある特別な司祭様から洗礼を受けることで天使になるそうだ。人から、天使なんてものになってしまうんだ。それは神様の声が聞こえるようになるとか、神の御業を起こせるようになるとかそういった婉曲的なものじゃない。文字通り天の、神の使い走りさ。僕は初めのうちは、彼らが崇めているもの、彼らが赤黒く不動で美しいものと表現したものは、きっと大昔の僧の即身仏、言ってしまえばミイラだね、その類か何かかと思っていたんだ。そんなものをフィルタ越しじゃなくその目で直接見てしまえば、よっぽど肝が据わっていたり、あるいは信心深いか、その手の学者のように見慣れた連中じゃなければパニックになったっておかしくない。ある種の、例えばミイラを美しいなんて思ってしまう新しい価値観が形成されてしまっても、不思議じゃないとも思ったよ。連中が謳い文句のようにのたまっていた『俗世から解放される、幸せになる』のだとかを考慮すると、仏教的な到達目標と似通っていたようにも思えたからね。自身もそれを目指す、というのはまさか即身仏になりたいなんてわけはないだろう、もしそうだとしたらどうしようと取り越し苦労をしたこともあったくらいだ」

 そしてかぶりを振って、平木は自身の言葉を否定する。

「でもそれも杞憂だった。いや、もっとひどいものだった。君は言ったね、天使に会ってみたいと、見てみたいと思わないのかって」

 眼鏡越しに、鋭いともいえるほどの眼光が片瀬に向けられる。外見からは想像もできないほどにそれは威圧的で、狂気的な色を孕んでいた。

「ああそうだ、僕も試したさ。あれは本当に僕の落ち度だ。あんなものを躊躇なく手にするなんて愚かを通り過ぎて哀れだよ。哀れな僕は、君と同じように彼らの差し出したあの気色の悪い羽を受け取った。そうしてわかったのは、アレは天使の羽なんてものじゃないってことだ。ソレはやつらに生えている羽だ。あんなものはやつらの背中から生えている肉枝の末端に過ぎない。あの忌々しく思えるほどに醜く、生々しく拍動するあの羽だ。そして彼らの天使は、あの腐った粘土のような連中が、あれが天使だ! あんなものに直接会いたいと思うわけがあるかい!? 僕は決してそうは思わない。君はどうだ、どうせ理解しているんだろう? 同じなのだから。あんなものが彼らが天使と呼び慕う、盲目的に受け入れ、愛し、崇めているものの正体だ。いや、あれほど醜いのは彼らの意思ではないのかもしれない。彼らだって強要されているだけかもしれない。その身に赤土が降り積もってしまっただけなのかもしれない。ならばそうさせたのは誰だ、何だ。そうさ神さ。彼らが本当に会いたがっているのはそんないかれた化け物だ! 彼らが目指してる開放だとか、幸せだとかはニルヴァーナなんてものじゃ断じてない。ただ委ねるだけだ、捨てるだけだ、捧げるだけだ! 自分の意志と肉体をその化けものに!」

 だんだんと語調が荒くなり、とうとう怒鳴るようにして彼はまくし立てた。口角が震え、留め金が弾けたようにして繰り出される言葉は時折論理性と脈絡を失っている。あらゆる情動を押さえつけるためか杭打ち機のごとく机に叩きつけられた指は、這いずり回られ不愉快な体を掻き毟るかのように机上でわなわなと蠢き、爪を立てた。

 一息にすべてを吐き出すと、彼は荒い呼吸に激しく胸を上下させ、苦しそうに俯く。

「君はまだ化け物……これだとどっちのことだかわからないか。天使にも会ったことはないんだよね」

 片瀬は肯定を示す頷きでその問いに答えた。

 それを平木は見ることもない。どうやら問いかけというわけではなかったようだ。

「それにまだ、大分理性的に見える。まだ普通の人に思えるよ。だったらなおさら天使なんか見に行ってはいけない。彼らに関わってはいけない。君が現世に引き返せるのは、人間の世界に留まることを選べるのは今だけだ。あんなものに親しみなんかを感じてはいけない」

 それは警告だったのだ。

「よく言うだろう、認めてしまうと、情けを持ってしまうと霊ってのは寄ってくるんだって。それと同じだよ。興味を持ってしまえば、受け入れてしまえば君は同類だとみなされる。そうして執着されて、逃れられなくなるんだ」

 落ち着いたのだろう、大分息が整い、穏やかになったというより、脱力したような口調で彼はそう諭した。

「心変わりをするなら今だけだ。ソレを、その羽をさっさと捨てなさい」

 平木の警告は、片瀬の心に波紋を生んだ。

 そして、波紋を起こしただけだった。

 平木の迫真のそれに気圧されたのか、それとも知りえてはならない事実を知ってしまったがためか、いいや知っていたはずのものを自覚してしまったせいで、知らず指先が震え、口の中はカラカラと乾いてしまっていた。

 脳はしきりに自身の首、胸元にある異物の存在に生理的嫌悪と恐怖、そして警鐘を鳴らし続ける。

 が、それも表層だけだ。不必要に肥大化した理性だけがソレを嫌った。あるいは本能すらも嫌っていたのだろう。

 それでも脳髄の内側、もっとも深い部分はすでに侵されていたのだ。

 激しく恐慌を起こすようなこともなく、片瀬は理性がさざ波を立てているのにもかかわらず、心の内は実に凪いでいた。

 そして、本当に引き返せるのかという疑問と相対していた。それは可能か不可能かという問いではない。引き返してしまっていいのかという、誘惑だった。ソレは快楽を与えると、叡智が得られると誘い込む。

 冷静な思考にそれはよく響いた。

 今の自分は、いったいどんな表情をしているのだろう。

 手は知らずのうちに羽を求めて胸元をさまよい、服越しにソレを掴んだ。じんわりとシャツに何かが染み渡っていくいくような気がした。それはひどく不快であった。


「捨てる決心は、つかないかい」

 鈍く光るガラス玉が片瀬を見ていた。あれは錆びるのを拒絶したのか。

 燃えるような情動を秘め、それでいて波一つなく淡く輝く結衣のそれと比べて、ひどく安っぽく見えた。

 見ているせいだ。何かを映しているせいでそれは価値を落とすのだ。

 何を見ている。何を映している。

 あのガラス玉は片瀬を見ていた。

 それに映る片瀬のガラス玉はどうだったか。

 なんて事はない。ただの目だった。

 ただのつまらなそうな目だった。

 ふと、綺麗だった彼女の目を思い出した。

 似ても似つかない、真逆の目。生きている目だった。少し潤ませてしまった、その目を思い出したのだ。

 悪いことをしたかな、と、ちょっとした後悔が頭に浮かんだ。


ゆっくりと首へと手を回し、紐に手をかける。緩慢な動作は何かと鬩ぎ合っていることを暗示するように洗練さに欠く。それでも、初めから執着は薄かったのだ。何よりソレが与えるものは必要としていない。

 ソレが与えてくれる叡智はきっとひどくすばらしいものだ。なぜならソレ自身すばらしいのだから。

 ソレが与えてくれる叡智はきっとひどくおぞましいものだ。なぜならソレ自身おぞましいのだから。

 ソレ自身になってしまうのだ、叡智も何もあったものではない。

 ソレは探究者なのかもしれない。

 だがソレは退屈だった。

 未知を失ってしまったから、退屈になったのだ。

 退屈は敵だろう。それだけは共感できる。

 その手が逡巡したのは、一瞬だけだった。

 取り出したのは醜い羽。

 昆虫の羽。

 粘土細工のように不透明で、今にも羽ばたきそうなほどに瑞々しく、手の内で脈動する。

 しかしそれはひどく静的だ。

 どこまでいっても羽でしかない。

 ただの羽。

 羽なのだ。

 惹きつけられるような魅力を持っていても、吐き気をもたらすような不気味さを持っていても、それはただの羽でしかない。


 ことり、と硬い音を立てて、片瀬の手によってソレはテーブルに置かれた。

 鱗粉のように、赤黒い粉が舞った気がした。

 平木はそれを顔をしかめながら睨み付けると、ふと立ち上がりゴミ箱を手にして戻ってきた。手近にあったペットボトルでそれをずいっと端に寄せ、ゴミ箱の中へと放り込んだ。

 ゴミ箱に被せられていたビニールがこすれる音と、底に落ちた硬い音、そしてべちゃりという水音が耳を突いた。


「純粋な疑問なんですけど」

 屈みこみがら袋の口を縛っている平木に、片瀬は問いかけた。

「なんでそこまで知っていて、そんな危なそうな人たちを放っておいているんですか?」

「そりゃ、学務に駆け込んだに決まってるじゃないか」

 平木はこちらを向くことなく答えた。

「それに、僕以外にも通報した人たちがいたみたいでね、もう調査は始まってたらしいよ。でも、成果は結局は何もなし。尻尾を出さなかったのか、それとも大学側が怖気づいたのか、どっちなのかは知らないけどね」

 厳重に封をしたゴミ袋を手に持ち、さらに別の袋を探していた。平木は、片瀬もよく利用するコンビニのロゴマークのついたレジ袋を手に取った。

「どっちにしろあそこは厄ネタだ。ああいったのは関わんないほうが身のためだよ」





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