第5話
「マタタビ? なんで急に猫の話なんかを?」
「いや、そっちじゃないです。うちの大学のサークルの話ですよ」
休憩と称して生協で手軽につまめる物を買い、研究室へと戻るその途中。丁度所属する研究室のある棟内に入ったあたりで、片瀬は隣を歩くやや小柄な男性にあることを尋ねた。
〝マタ旅〟について何か知っていないか、と。もっとも正確に意図が伝わるようなことはなかったようで、男性、片瀬の先輩にあたる小出義男は首をかしげていたが。
「まあ、まぎらわしいですよね」とぼそりと呟きを零しながら訂正すると、小出も「ああ、そっちの話ね」と納得したようだった。
「そっちだとしても、急だな。それに片瀬君は根っからのインドア派だと思っていたんだけど、案外そっちもいける口なの?」
「いやあ、そういうわけじゃないでんすけどね。この前友人とそのサークルの話になったってだけですよ」
嘘ではないが、事情を多分にぼかされた理由を述べると、小出は「ふうん」とどこか訝しむように頷いた。
長かった夏休みも終わり、今現在はそれからまた少し時間が経っていた。相変わらず滝原は友人である古谷結衣のことで頭を悩ませ、その兄である古谷正幸からは妹の旅行先などについて教えて貰って以降連絡はない。彼女の旅先では、全てではないが、やはり失踪届や行方不明事件などの情報が奇妙な集団とともに見つかった。思考にバイアスがかかっていないとは言えないが、全くの無関係ということはないだろうと、片瀬は考えていた。
それ以外の方面、つまり、結局のところ古谷結衣の身に一体何が起こったのかは分からずじまいで、特別進展らしいものはない。半ば膠着状態だった。
そんな中片瀬は、いつかの滝原がそうしていたように、自身の知人友人に古谷結衣が所属している旅行サークルについてのことを聞いて回っていた。もちろん、古谷のことはぼかしながら。
聞き込みというやつだろうか、と何度か考えることもあった。友人知人、そしてその伝手からの情報収集だ、赤の他人から聞き出すのとはわけが違うのだろうが。
しかしながら、それすらもどうもうまくいかない。片瀬の友人は片瀬の趣向とは相反するような人物ばかりであった。簡単に言えばスポーツ系が多いのだ。バリバリの体育会系というわけでもないが、少なくとも部屋に籠らず体を動かすのが好きな、それこそどうしてこの中に自分が混じっているのかと思わんばかりに文化系とは相反する人種達である。
そして当然といえば当然なのか、彼らの交友関係もやはりそういったスポーツ好きが多く、アウトドアとは言えおよそ系統の外れた趣向である旅行サークルに所属または関係しているような人物はいないようで、身になる話は一つとして入ってきていなかった。
数少ないインドア派の友人はやはりインドア派であったため、結果は推して知るべし。
結局たいした情報を得られることもなく、尋ねた相手はそれこそ小出のように〝マタタビ〟の話と勘違いする者たちばかりだった。
中には猫に対して熱烈な愛情を持った者もいて、こちらが引くくらいに語り始めたこともあったが、見た目のわりにかわいい物好きというどうでもいい情報をインプットしたくらいである。
そんなわけで友人方面が全滅した片瀬は縦のつながりを当てにし始めたのだ。
特にサークルも部活も行っていない片瀬にとっての先輩は研究室関係だけであり、その研究室自体、正式に配属されてから日数もたっておらず、まだ数える程しか顔も合わせていない先輩しかいないのだが。
小出義男もその一人だ。彼は片瀬の一つ上の先輩で、彼の研究課題が片瀬の興味のあるものと共通しているため、3年である片瀬が研究室に顔を出す機会があれば小出のところに何度か訪れることがあった。
10月2週目の金曜である今日もちょうど、研究室内での簡単な講義が午後のはじめにあり、それ以降予定のなかった片瀬は他の同学年が帰った中一人、そのまま研究室にお邪魔していた。
「それで、そのサークルはどんな活動をしているのか知らないかと思いまして」
「そりゃあ、旅行サークルなんだから旅行じゃないの?」
もっともな意見だった。「それはそうなんですけど」と頬を掻く。
「どうもそのサークル、あんまりいい噂を聞かないって友人から相談があったんですよ。それで自分も色々聞いてみたんですけど思ったようにいい話が聞けなくて。それで先輩はどうかなと」
「なるほどねえ」
雑談を交わしながら階段を2フロア分上る。
5階や6階なら気兼ねなくエレベーターを使えるのだが、3階や4階は自粛するような風潮があった。
所属する研究室が割り当てられたのは現在いる棟の3階。3人の教員の個室と、研究器具のおかれた実験室が2つとあまり使われてはいないが物置兼資料室、そして学生と研究生用の大部屋――別段正式名称があるわけではないが、学生部屋と呼ばれている――がある。また、指導する教授と准教授が3人いるわけだが、研究室全体の所属人数がそれほど多くはないということもあって専攻するテーマ別に部屋が分かれているということはない。
学生部屋の扉前までくると、扉の中央にある縦長の明り取りから、生協へ向かう前に消したはずの電気がついていることが見て取れた。
どうやら誰かが新たに来ていたようだった。
研究室は人数分のオフィス机が壁際に沿うように、そして空いた中央に通り道が残る程度に並べられている。机の規格は統一されているようなことはなく、色も形も、そして高さもばらばらだ。買い足しということもあるのだろうが、おそらく研究室間で余り物の融通のし合いなどがされているのだろう。
室内へ入ると、小出は自身の席へとさっさと戻っていった。片瀬はそれについていき、近くの空き席――壁沿いの一席である小出の丁度真後ろの席――から椅子を拝借させてもらった。小出によるとその机の主は今日は来る予定はないらしい。
研究、および卒業論文の進み具合は人それぞれ。そして取り組み具合というか、やる気というのも人それぞれだと小出は苦笑いを浮かべながら教えてくれた。学生部屋にいたもう一人――茶色く染めた髪、小洒落た服装とやや軽薄そうに見える男性の先輩――彦野達史も「大丈夫かねえ。あいつそろそろ先生に怒られるんじゃない?」と茶化したように呟いた。
この席の主は石橋賢一というらしかった。
片瀬には覚えのない名前だ。何度かあった研究室での顔合わせの機会でも、そんな名前の人物はいなかったような気がする。院生や研究生であった場合、4年である小出や彦野が軽口を叩いたりはしないだろうことを考えると石橋も彼らと同学年のはずなのだが。
石橋の机は備え付けだろうパソコンの他、自前か借り物かわからないやや古びた書籍と研究資料らしいプリント類が雑多に置かれ、辛うじてキーボードを叩ける、といった具合だった。そして空いたスペースにはいくつかプリンとが置かれ、一番上のものは研究室内での連絡用らしく、丁寧に置かれている。それにはうっすらと埃が被っているだけだったが、書籍や他のプリント類は結構な期間放置されているように見える。隅にはコード類に絡まるようにして大きな綿埃が見える。キーボードも汚れ、白かったのであろうキートップがどことなく色づいているように見えた。
特にエンターキーとスペース、そしてバックスペースあたりには薄膜のような汚れがついているように思え、思わず視線が引き寄せられた。
脇に置かれた卓上カレンダーは、8月から変わっていない。
比較するわけではないが、一方で小出はどうも綺麗好き、というよりも若干神経質な性格をしているようで、石橋の席とは背中合わせの位置にある彼に割り当てられた席は石橋はおろか、学生部屋の中のどの机よりも綺麗に整えられている。
小出は席に備え付けのデスクトップパソコンのキーボードを脇によけ、買ってきたばかりの荷物を机に広げると「それにしても、マタ旅ねえ」と、どこか含みのある声音で呟いた。
「そういや、片瀬君って賢一と会ったことあったっけ」
「ないと思います。以前の飲み会にも、ゼミにも出てませんでしたよね」
「だよねえ」
片瀬が小出の問いに答えると、一息つくように、小出は買ってきたばかりの缶ジュースを手に取る。カシュっと小気味のいい音を立てて蓋が開く。炭酸飲料の甘い香りが広がったような気がした。
続きをせかすように、あるいはそのまま黙ってしまった小出の後を引き継ぐように、少し離れた席で作業をしていた彦野が話に加わった。適当な椅子を引っ張ってきて、小出と、その背後、現在片瀬が間借りしている石橋の席の間までやってきた。
「それってさ、賢一のいたとこだろ」
缶ジュースに口をつけたまま、小出は無言で頷いた。
「石橋さんがマタ旅に所属してたってことですか」
「名前まではしっかり覚えてなかったけど、たしかね。まあ、なんでマタタビ……恥ずかしいなこの名前。なんでその話してるのかは知らないけど」
疑るような視線を向けられて、ようやく小出は缶を置いた。
「なんてことはないよ。片瀬君が知りたがってただけ。『あんまりいい噂聞かないけどどうなのか』ってね」
「へえ」
彦野の興味が片瀬に移った。
片瀬としては詳しい話を聞いてみたいところだったが、それほど親交があるわけではない先輩からの意味深長な視線の前に尻込みしてしまう。
「なんで知りたいのかは知らないけど、よくない噂ってのは本当だよ。まあ、あんまり突っ込まないほうがいいんじゃないかな」
それを見越してかどうかは知らないが、彦野はそう告げた。
「噂の内容とかって、知ってます?」
そんな忠告の内容をまるきり無視したような質問に彦野は苦笑いをする。
どうも何か知っていそうな口振りだったためか、思わず口をついてしまった。ようやく〝当たり〟を引いてしまったせいだ、と片瀬は内心で自己を擁護する。
「まあ、真面目だったやつがある日突然不真面目になったり、急に人生悟り始めたりとかかな」
彦野は「こいつもそうだったし」と石橋の机を軽く叩く。
案外答えてくれるらしい。しかし滝原から聞いたものと大差がないとわかると片瀬は若干の落胆を覚えた。
図々しくも他には何かないのか、と視線で訴えてみるが、彦野は肩をすくませる程度だった。
「宗教臭い、とはよく言われるね。勧誘含めて」
意を汲んだのは隣にいた小出だ。
「サークルの勧誘文句が『小さな世界から脱却できる』だからね。初めて聞いたとき、というか字面だけ聞いたときはそんなに違和感はなかったけど、実際にそう話してるのを見たら……凄かったね」
「まああれはヤバいよな」
渋面で彦野も同意する。
「そんなにひどいんですか」
まあね、と二人は頷く。
「賢一はそうでもなかったんだけどね。あいつと一緒にいた他のヤツが結構ぐいぐい来て。『ただただ普通に生きていることに意味なんてどこにもない。お前も〝自分〟を捨てるべきだ』ってね。お前に俺の何がわかるんだっての」
うんざりしたように彦野はそう述べた。
下手な勧誘だ、というのが率直な感想だった。カルトの勧誘といえば、もっと言葉巧みに、安易に不快感を抱かせず、むしろもっと段階を踏むようなものだと考えていた。もちろん、自宅に訪問してくる〝神様や教えの押し売り〟というイメージも無くはないが。
内容自体は古谷結衣が正幸に対して言ったことと似ているような、似ていないような、そんなものだ。彼女の場合は『悩んでいることがどうでもよくなる、幸せになれる』といった感じだった。宗教臭いとはいえ、教義のようなものはないのだろうか。決まった信仰内容を持たず、さらに人によって感じ方は異なる、ということかもしれない。
では『自分を捨てる』ということはどういうことか。おそらく〝天使〟ないし〝神様〟とやらに捧げるということだろう。
自分を捨てる。捧げる。それは奉仕するということか、それとも〝生贄〟のようなものなのか。彼らは自らそうなることを望んでいるのか?
それほど魅力的な存在なのだろうか、その天使というのは。神というものは。
「あんまり悪くは言いたくないけどさ、こいつもおかしくないわけじゃない」
片瀬の内心で湧き上がった興味をよそに、彦野は石橋の席へとちらと視線を向ける。つられるようにして片瀬も意識をそちらへと向けた。
「もともとかなり真面目で、俺らより研究もかなり先に進んでたんだけどさ。いつの間にか研究室にあまりこなくなるし、ゼミ発表も無断で休むし。理由聞いてみたら『勉強したところで何にもならない』だってよ。思春期かよって」
そう苦々しく言う彦野から弁護するように小出が補足する。
「完全にさぼってたわけではないかもしれないんだけどね」と。
「賢一がたまたまふらっと研究室に来て、先生に進み具合を尋ねられたことがあったんだ。ちょっと詰問気味にね。その後さっと資料書き上げて、提出しちゃうくらいには独力で進めてたみたいだ。……まあ、今までこつこつとやってきたというよりも、その場で適当に書き上げたって感じのほうが強い気がしたけど」
だがそれはどこか気味の悪い思い出を話すような口振りでもあった。表情もどこか険しい。
そしてこの話をさらに彦野が引き継いだ。
「あれ、結構滅茶苦茶だったらしいぜ」
「滅茶苦茶って、提出した資料がですか」
「そうそう」と彦野は頷いた。
「別に間違いだらけだった、ってわけじゃないみたいだけど、過程をすっ飛ばして結論を持ってきたようなものだったって。確定した事実をつらつらと書いたような。あいつの課題って素粒子研究だぜ? 実験なしでどうやって検証すんのさ」
これは小出も初耳だったようで、苦かった表情がますます歪んでいった。
「どこかからパクってきたってことですか」
「いや、先生曰く『空想で真実を語っているようなもの』だってさ。それも当てはめてみればかなり理にかなってるっていう質の悪いおまけつき」
それは、新発見をしたということだろうか。
「たしかに前から頭良かったけどさ、そんなことできるんだったらもっといいとこ行ってるだろ」
そう言うと彦野は、『手に負えない』とでもいうように先ほどよりも大きく肩をすくめて見せた。
「まあその話はいいんだよ。問題はこいつがお土産だっつって気味の悪いもん押し付けてきたことだよ」
「ああ、あれか。どこのお土産って言ったかな」
「覚えてないよ、そんなもん」
どうやら彦野はそのお土産が相当気に入らなかったらしい。苛立ったように吐き捨てた。
そしてそのお土産とやらには、片瀬は心当たりがあった。それは古谷結衣が大事そうにしていたというモノ。
「お土産って、もしかして羽みたいなやつですか」
昆虫の羽のような、粘土細工のようなアクセサリー。見るだけで生理的嫌悪をもたらす程に不気味なモノ。血管のように走る翅脈は、まるで生きているかのように瑞々しく脈動する。それは長い枝から、まるで葉のようにつく。
想像力のたまものだろうか、片瀬は実物など見たことがないはずなのに、やけにその形をリアルに思い描くことができた。
そしてそんな片瀬の問いに、二人は驚いたように目を見開き、振り向いた。
「片瀬君も貰ったことあったりするの?」
落ち着いてこそいたが、どこか上擦った声でそう聞かれた。友人から話を聞いただけ、と答えると、安堵したように胸をなでおろしていた。そこまで心配するものなのかと、片瀬は妙なものを見た気分になる。小出は片瀬の怪訝気な視線にまるで気づかないよう、もしくはどうとでも思っていないかのようだ。
「知ってるなら話が早い。もし誰かからアレを押し付けられそうになっても、絶対に受け取っちゃダメだ」
ひどく真剣に、小出は念を押す。その目にはうっすらと恐怖すら浮かんでいるように片瀬は感じた。
しかし、ここで簡単に「わかりました」で済ませるわけにもいかなかった。
「受け取ると、どうなるんですか」
忠告をした小出は、バツの悪そうに目をそらす。彦野は首筋に手を当てているだけだ。
〝羽〟は正幸の話に出てきたものだ。そして正幸はそれからとても嫌な感じがしたとも。
正幸は見ただけだといったが、その羽を二人は実際に受け取ったのだ。受け取った上で何かを経験した。
二人が〝おかしく〟なっていない以上、この羽が原因の全てだとは思わない。きっと原因の+αに過ぎないのだろう。しかし古谷結衣の、いやサークルメンバーの様子がおかしくなったというのに必ず関係があるはずだと片瀬は確信していた。ゆえにここで引き下がるわけにはいかない。
――なぜ引き下がれないのだろうか。
ふと、そう思った。
古谷結衣のため?
それとも正幸のため?
滝原のためだろうか。
いや、きっと自分のためだ。自分の興味本位に過ぎない。どうしようもなく片瀬は惹かれていたのだ。知れば知るほど不気味さと、そして未知を与えてくれるものに。
その正体が、ひどく気になったのだ。
なぜここまで拘るのかは自分でもわからなくなっていた。しかし知りたいという欲求が湧き上がるのを止められない。
先ほどまでは、それほどでもなかったというのに。少し話を聞ければ、程度に考えていたはずなのだが。
今はどうしても止められない。脳が、体が何かを欲しているかのようにざわついている。
「興味本位じゃないんです。ただちょっと、困ったことになった人がいて」
だから、教えてくれませんか、と。
半ば嘘のような言葉がすんなりと出てきたのは少しだけ驚いた。半分くらいに分けられた思考が小狡い、と呟いた。
自分の興味のために、誰かを利用することに罪悪感が内に芽生える。自分を心配してくれる先輩に、嫌なことを思い出させようとしていることにも。
しかし結果として、古谷結衣のためになるかもしれない、滝原や正幸の憂いが解消されるかもしれない。そんな打算にも似た考えが片瀬を後押しする。
お願いします、と頭を下げる。
頭を下げているため、二人の顔を伺うことはできなかった。
たっぷりと間を含んだ。
身じろぎも何もなく、ただ部屋の外から聞こえる生活音だけが時間が正しく進んでいることを教えてくれる。
「……知り合いに、詳しく話を聞いたってやつがいる。本当に知りたいんだったら、紹介するよ」
そう言う彦野を小出が「おい」と止める。
片瀬はそのやり取りを半ば無視して「お願いします」と、もう一度頭を下げた。
片瀬の視界の外で、呆れたようにため息をつくのが聞こえた。
「言っとくけど、本当に深入りだけはするなよ?マジでちょっとタブーになってるくらいだからな」
「タブー、ですか」
疑問には小出が答えた。
「まあ、どれだけの人がヤバいって感じてるかはわからないけどね。少なくともうちの連中、というよりアレを貰ったやつはヤバいって思ってると思うよ。高見なんかは体調崩すくらいだったからね」
高見というのは同じ研究室の先輩の一人だ。
おとなしそうな女性だったと記憶している。
それにしても体調を崩すとはどういうことだろうか、と片瀬は気になった。気味が悪いとはいえただのアクセサリーだろう。グロテスクな見た目をしているとは聞き及んでいたのだが、もしかすると気が弱い人なのかもしれない。もしくは、正幸の話では天然もののようだったということだったが、事実その通りであり、さらにはあまり衛生的ではないのかもしれない。だとしたら、古谷結衣はどうなのだ。彼女は肌身離さずつけているのだろう。
「俺もあれはもう勘弁だな。すぐ捨てたわ」
彦野は吐き捨てるようにそう言ってのけ、エンガチョと人差し指と中指を指を交差させた。
こればかりはなぜ捨てたのか、と聞いても思い出したくないと、この話題は終わりだと素気無く返された。
しかしこれだけ毛嫌いされれば、より一層そのアクセサリーに興味が湧くというものだ。
正幸はそれには触れていないという。だからこそ触れた人の感想が聞きたかった。
触れるとどうなるのか、肌身離さぬようにしている古谷結衣はどう感じているのか。
なぜ高見は体調を崩し、古谷結衣は平気なのか。
〝古谷結衣には何が見えているのか〟。
それを、とても知りたい。
何はともあれ、片瀬はこうして詳しい話を知る人物を紹介して貰うことを約束づけることができた。詳しい話はその人に聞くことにしようと、その場は引き下がることにした。
***
時間は17時と30分をやや過ぎた頃。先輩達はまだ残ると言うが、やることのなくなった片瀬は先に帰ることにした。研究の話を聞く雰囲気では、とうになくなっていた。
外は既に暗く、ところどころの窓から漏れる蛍光灯の明かりは、別世界とその入り口を思い起こさせる。この場合、どちらが外なのだろうか。もちろん、こちら側だろう。
吹き出るように激しい光を見るたびに、自分は外にはじき出されてしまったのだ、と強く実感させられる。
キャンパス内にもぽつぽつと街灯はある。
一般的な背の高いものの他、まれにフットライトのように足元を照らすものもある。要所要所、特に中心付近では明かりが途絶えない程度の間隔に配置されている。
駐輪場と、生協前を通り抜け、付属図書館を通りかかると、明るい光の中からまた二人ほど外へと出てきた。彼らは向こうの闇に消えていった。同じ道は歩かないらしい。
丸屋根の大きな建物、学生会館の前まできた。学生会館は利用される機会は少なく、窓の向こうも暗闇の只中だ。ここまでくるともう人通りも少ない。教員あるいは来客用の大きな駐車場が左手側にあり、右は公道と区切るために木々が植えられフェンス沿いに広がる小さな林のようになっている。時折車が通り抜ける音が聞こえるが、それもまばらだ。
人気がなかった。
静かで、暗く、物寂しい。
前方にぽつんと、街灯が立っていた。
一人取り残されたような光が、呑まれまいとぼんやりと周囲を照らす。いや、もしくはあの光こそあちら側なのだろうか。
光の下には人影があった。
寂しそうに佇んでいる。仲間を待っているよう、そう思えた。
人影は女性だった。
短めの黒い髪に、眼鏡をかけた優しそうな面立ち。ほっそりとした体に、装飾の少ないシンプルな装い。記憶に残りにくい地味目な服装ではあるが、素朴さと、そしてどこか儚げという印象を与える。それが周りの雰囲気と合わさり、余計に孤独さを際立たせていた。
片瀬はその女性を見たことがあった。
広い大学内、数多くの学生、教員の中でもとりわけ記憶に残っていた人物だ。印象深かったわけでもない、話したこともおそらくない。しかし片瀬は知っているのだ。それもつい最近、思い起こしたばかりの人物。
人影は古谷結衣だった。
彼女は待ち人が自分であったのかとわからせるように、片瀬を見てほほ笑んだ。
蕩ける様な笑顔に見えた。
それは仲間を、同類を見つけたような歓喜を滲ませていた。寂しげな、そして儚げな雰囲気は霧散した。残ったのは、どこか異様な〝妖艶さ〟。
彼女の笑みは、迷える子羊を導く天使のほほえみに思えた。彼女はもう、望む天使になったのだろうか。
まだ、人のようにも思えた。
片瀬真っ暗な道から光のほうへ、彼女の方へと歩いていく。初対面の異性と会うという、少し前に抱いていたはずの緊張は最早なかった。いつのまにか自身の中では身近な人物になっていたのだろうか。それほどまでに片瀬はこれまでのことに肩入れしていたのだから。
「片瀬君だっけ」
「そうだけど、滝原からでも聞いたのかな」
「ごめんね、この前は会えなくて。折角会いに来てくれてたのに」
「気にしてないよ。俺より滝原に謝っておきなよ?」
「片瀬君も、興味があるんだよね?」
「ね、ほら」
古谷はジャケットの襟元をはだけさせると、中に来ていた薄手のセーター、その首元を下へ強く引き下ろす。
羽が見えた。
羽はネックレスのようにかけられていた。
覗く胸元は、かさぶたのような赤黒い大きな跡がいくつもあった。
それは〝錆〟としか言いようがない。
肌が錆びていた。
白く綺麗な肌に、その錆はとてもよく映えていた。
周囲はひどい乾燥肌のようにひび割れたように見えたが、それは積もり重なった薄膜なのだと気づいた。
いつかそれも、錆びるのだ。
結衣は羽を首から外すと、片瀬のほうへと差し出してきた。
昆虫のような羽。
粘土細工なんてものではない。生の粘土のようにしっとりと、瑞々しさのある羽。
まるで生きているかのような羽。
翅脈は激しく脈動し、今にも飛び立たんとするほど生命力に溢れている。
だがそれは酷く静的だ。
結局は羽だ。
羽だけでは、羽だ。羽なのだ。
羽でしかない。
羽でしかないが、それでも惹きつけられるがある。
そうだ、体はこれを求めていたのだ。
脳は、頭の中枢よりさらに深いところはもっと別のものを求めているが、体はこれで満たされる。
片瀬はいつの間にか、差し出された羽を、結衣の手ごと包み込んでいた。
手のひらはしっとりとしていた。
手の甲はパサつき、粉っぽかった。
きっと片瀬の手も、湿り、粉を吹いているのかもしれない。
皮膚という薄っぺらい隔たりを抜け、いつしか幸福と快感にも似た波が拍動に混じる。
血流に乗り指先、内腑まで行き渡ったそれらは自分を更なる高みへ、いや高みそのものへと至らせるのだと直感した。
ああ、でも、足りない。
これ以上がほしい。
脳髄の奥深く、決して手の届かないところがもどかしい。降り積もるだけではダメなのだ。埋めつくすまでに、覆いつくすまでにいったいどれくらいの時間がかかるというのだ。
それでは遅い。遅すぎる。
不必要に肥大化した大脳をかき分けて、脳幹の内側、その奥深くに直接塗りたくってしまいたい。そうすればきっとあの暗い穴の奥底に今すぐにでも辿り着ける。
狂おしいほどに何かを求めている。
何かは遥か遠くから眺めている。
来てくれることはない。
会いに行くしかないのだ。
自分も所詮群れの一つだ。
個である必要はない。
群である必要もない。
結局は一部なのだ。
埋めつくす一つであり、散りばめられた一部なのだ。
そうやって、そうやってまた一つ世界を眺めることができるようになるのだろう。退屈は敵だ。飽いてしまえばまた代わりを求めるのだ。
あの灰と黄土と赤土にまみれた世界には最早楽しみは残っていない。肥沃だった土地は赤色に侵され、歩むたびさくりと音を立てて沈む、柔らかだった土壌は岩盤ごと錆にまみれた。濃い霧の中に浮かぶ歪な極光のカーテンも最早壁の染みのように見飽きてしまった。
じっとりと重くなった大気は停滞し、風の一つも吹くことはない。
豊かだった生命は一種を残してすべて埋もれた。すでに地上を歩くのはそれらのみ。中には歩まず、ただただ立ち尽くすだけのものもいる。だが、それだけだ。数えてみればいくつもある。地表すべてに疎らに立ち尽くしているのだろう。
歩むそれらはすべて、一つの大きな、塔の中へと入っていく。他にもいくもの塔が立つが、誰も彼も見向きもしない。
赤の混じった黄土の、粘土を寄せ集めたかのような歪な建造物群はどれも似たり寄ったりだ。時経るごとにぶくぶくと太り、まるで大地に生えたただの醜いな突起にしか見えない。内と外から降り積もる錆に、それはいつまでも肥大化し続ける。
かつてのそれらは、技術の粋を尽くして建てたものだったように思える。だがそれはすべて記憶と記録とともに時の果てに埋もれてしまった。
それは悲しむべきことだろうか。
いいや私は悲しまない。なぜならそれは私の役目ではないのだから。
未知を望むのだ。
既知であっても、別物である。そう、きっと例えるならば観光だ。きっと旅行と何一つ変わらない。同じものでも見栄えだけは違うのだから。
それだけで十分暇は潰せる。目が楽しむ。
少なくとも、また埋め尽くすまでには。
それには一体どれほどの時間がかかるのだろうか。しかしきっと退屈ではあるまい。
その時にはすでに時間なんて概念は形骸化しているはずだ。考える必要も悩む必要もない。それは私がすることではない。
なぜなら私は、所詮触覚なのだから。
すっと、両の手のひらで包んでいたものがすり抜けていった。
満たされていたものが抜け落ちていく。血管に穴が開いてしまったかのようにそれはとめどなく漏れ出ていき、体が冷たくなっていく。否、もう一度暖かい何かが広がっていく。
縄張りを主張するかの如く、勢いよく追い立てていく。焼け焦げてしまうほどに熱い。
血管がショートしてしまいそうだ。戻ってきたのは血なのか。赤い血なのか。
そうしてまた個になってしまうのか。
ダメだ、これではたどり着けない。
だがこれが正しいのではないか。
人間は個であることが正しいのではないか。
抜け落ちていったものは、あの充足感は、独立した個であることを、自由であることを捨ててまで得たいと思うものであろうか。
とても、心地よかったことは否定しない。
もう一度浸れるというのなら、明け渡してしまうかもしれない。
もう一度、浸れるというのなら。
「それは、片瀬君が欲すれば、ちゃんと手に入るんだよ」
結衣はそう言った。
囁くようだ。
だが耳によく残る。
静かなのだ。
音はそれだけ。
「個人差はあるらしいけど、私たちはいつか天使様になれる」
「神様と一つになれる」
それは至上の喜びかもしれない。
耐え難い苦痛なのかもしれない。
それでもきっと、幸せだ。
「片瀬君ならきっとすぐだよ。もしかしたら私より早いかも」
「だからほら」
「ね?」
蕩ける様な笑顔だった。
その瞳は異様に熱っぽく、そして何も映していない。のっぺりとしたガラス玉のようだった。きっとあれも、錆びるのだ。
「今は私の分しかないけど、今度は片瀬君の分も用意してあげる」
「誰か持ってるかな」
「もう全部配っちゃったかな」
「もし残ってなくても私、とってくるね! ちょうど明日だから! 遅くても明々後日には用意できてると思うよ」
「じゃあまた月曜日、同じ時間に」
「ばいばい!」
そう早口に述べると、結衣は去っていった。
最後までその顔は幸せに満ちていた。
手には暖かな、薄黄色の、滲出液のような液体だけがじっとりと残っていた。
空気に触れたためか、それもすぐに乾き、崩れ去ってしまった。
名残惜しむよう、残った錆を舐めとった。
甘い、甘いそれは、それだけはいつまでも残った。
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