第4話


 短い廊下を抜け、リビングへと通された。

 正幸は「どうぞ適当にかけていてくれ」と言った後、ダイニングキッチンのほうへと歩いて行った。

 適当に、と言われたようにソファへと腰かける。二人掛けの白いソファで、滝原も片瀬の隣に座った。

 部屋の様子を見まわすと、今座っているソファが部屋の中央で、もう一組と対面状に置かれている。部屋の扉はちょうど背後にあるような感じだ。間はガラステーブルで、読みかけの新聞が反対向きに広がっている。おそらく正幸は先ほどまで対面側のソファで新聞を読んでいたのだろう。開いていたのはごく一般的な三面記事。テレビをつければたいして変わり映えのしないようなことが流れるであろう記事ばかりだ。

 視線を右に向けるとテレビとキャスター付きのテレビ台が置かれている。テレビ台は両開きの収納付きとなっているが、ガラスではなく木目調の扉が閉められているため中の様子はうかがえない。

 部屋の全体はフローリングの床と、中央付近、ちょうどテーブルとソファのあるあたりには白いカーペットが敷かれている。壁紙は薄いクリーム色のビニールクロスでテレビ横には飾り気の少ないカレンダーが掛けられている。

 一方左側は掃き出し窓となっており、淡い緑色のドレープカーテンは両端でまとめられており、今はレースのカーテンが掛けられているだけだ。窓からはカーテン越しに日差しが差し込んできている。

 片瀬が座るソファの正面、部屋の扉から正面のほうにはダイニングキッチンがあり、正幸はそこでお湯を沸かしていた。

 ダイニングキッチンには食卓だろう、二人用のテーブルとイスがやや端のほうにある。

 

 ほかには本棚やチェスト、収納ラック、小物などの雑貨が置かれているだけでごく一般的な部屋の風景だ。一見するとおかしなところはどこにもないように見える。


 しかし、片瀬はどことなくこの部屋に対して陰気な感じを覚えた。しかし、その違和感はどこから感じるているのかは、片瀬自身いまいちわからない。

 ふと、片瀬は『どこかから』、ではなく『全体から』なのかもしれない、と気づいた。


 日が傾きはじめているとはいえ、掃き出し窓からは十分な光量が入ってきており、部屋の中は十分明るい。電気をつけるような時間でも暗さでもない。それなのに片瀬は急に、部屋の中がうっすらと暗くなっているように感じはじめた。

 いや、空気自体がよどんでいるような気すらする。頬を撫でるだけで気分の悪くなるような、ねっとりとした空気が肺に満たされていくように感じ始めた。取り込んだ空気が口内、喉、そして肺胞の隅々にまでがさつくような何かを塗りたくっているかのような感覚を覚え、喉がつかえた時のように無性に咳払いをしたくなった。

 換気が十分ではないのだろうか。湿った感じもしないし、特別何か嫌なにおいがするわけでもないのだが、漠然とそう感じた。

 滝原は何か感じていないのかと思い、隣に座る彼女に目を向けるも、どうやら古谷結衣にメールでも書いているようで、特に室内に違和感を覚えた様子はない。

 片瀬は自分の気のせいだろうか、それとも多少ほぐれたとはいえやはり緊張でもしていたのだろうかと考えるが、やることもなく手持ち無沙汰なため結局違和感の原因を探すように視線を室内を彷徨わせるしかない。

 白いソファにテーブル。フローリング、カーペット、テレビにテレビ台。そしてレースのカーテンと掃き出し窓に、本棚やチェスト、収納ラック。

 そしてクリーム色のビニールクロス。

 ふと、片瀬はテレビのあたりで視線を止めた。なぜそこに注目したのかは自分でもよくわからなかったため、すぐに視線は離れた。

 しかし違和感はどうも拭えない。今度はテレビではなく本棚、いやラックの方が気になった。ラックは4本のスチールの支柱に木目の天板と棚板とが計5枚あり、棚板の上に、下段では収納用だろう布製のカラーボックスのようなものが、上段・中段では置時計やインテリアなどの小物などが置かれている。

 それだけなのだ。特に興味を引くような、例えばオブジェや写真、絵画などが飾ってあるわけでもない。

 強いて言うなら壁だ。壁が気になった。

 一見すると周りの壁と大差ないように見える。棚板や置かれているもので若干影が出来ているくらいだ。しかし気になるのはそこではない。片瀬は違和感の原因を探るため、周囲の壁と丁寧に見比べると、その正体がようやくわかった。

 ほんのわずか、それこそ注意して見なければわからない程度だが、壁の色がラックの部分だけ薄いのだ。

 周囲の薄いクリーム色と比べ、ラックの裏、そして先ほど気になったテレビの裏などは若干白い。そう気づくと、途端にこのクリーム色だと思っていた壁が、もとは白色で、今は何か黄ばんだ汚れが染みついてしまったのではないかと感じる。また、よく見るとところどころ色の濃くなっている部分、黄色というよりやや褐色のシミのようなものが薄っすらと広がっていることに気づいた。

 おそらくは日焼けか、またはキッチンと隣り合っているため、油汚れなどだろう。先ほどは匂いなどには気づかなかったが、もしかしたら正幸は煙草を吸うのかもしれない。

 ――そう考えるのが、妥当だろう。

 しかし、汚れに気づいてからは片瀬はこの部屋のところどころにまた言いようのない歪さを覚え始めた。そしてその正体はやはり汚れだ。埃がたまっているとか、そういうことではない。むしろ丁寧に掃除されているのか、フロアも、テーブルも、テレビ台なども埃が積もっている様子はない。汚れが目立ちやすい白色のカーペットなど、綺麗に掃除されている。

 壁紙の日焼けやシミなどはよく聞いた話だ。

 しかしそれは、家具にまで通じるものだろうか。

 片瀬はそっと視線を下に降ろす。先ほどは白く見えていたはずのソファになんとなく色がついたように見える。それも向かいのソファに比べ、片瀬や滝原の座っているソファのほうが、だ。さらにソファと背もたれ、または肘掛けとの間やミシン目などに何かポロポロと黒い砂埃のようなものがたまっている。

 目の前のテーブルの天板はガラス製だ。埃が積もるようなこともなく、とても綺麗なように見える。が、それは天板だけであって、よく見るとガラスではないテーブルの足の部分に何かがへばりついていることに気づいた。

 それは褐色のシミ、というよりかは何か粘液のようなものがつき、それが乾いた後のような薄い膜状になっていた。指でなぞるように触るとペリと簡単に剥がれ、脆いそれは赤黒い粒子となって崩れた。

 指をこすり合わせるとざらざらとした感触が皮膚に残る。特別匂いなどはしなかったが、どうにも粉っぽい。吸ってしまったのか、痰が絡む。弄繰り回していると指のシワの間へと刷り込まれていくように残ってしまったため、慌てて衣服で拭い取った。赤黒い粉は落ちたように見えるが、ざらざらとした感触だけはいまだに残っている。

 この汚れはきっと何かをこぼしたのだろう。

 そう考えるのは容易だが、無視してはいけない何か、いや無視してしまいたくなる何かを感じ、指に残ったそれに嫌悪を覚えた。


「何してんのさ」

 しきりに指をこすり合わせていると、唐突に声をかけられ、はっと我に返る。

 部屋をキョロキョロと見まわしているだけでなく、急にテーブルの脚を触りだしたのはさすがに目立ったらしい、滝原が胡乱げな目でこちらを見ていた。

「いや、ちょっとね」

 他人の家で急に『汚れが目立つ』なんて言い出すわけにもいかず、愛想笑いで誤魔化すほかなかった。

 滝原はふうん、と納得していなさそうな感じを醸し出しながらも特に追及はしないようで、手に持っていたスマートフォンをガラステーブルの前上に置いた。

「それより連絡はついたか?」

 なんとなくいたたまれなくなった片瀬は、古谷結衣とは連絡が取れたのかを尋ねる。指に残った嫌悪感のことはすっかり忘れてしまっていた。

「それが反応なくてねえ。まったくどこ行ったんだか」

 そう答えた滝原の目は不安の色が濃い。彼女の話しぶりから、古谷結衣は約束を土壇場で、それも連絡もなしにキャンセルするような人物ではないのだということを理解していた片瀬は、それがどういった意味合いを含んでいるのかがよくわかった。


「結衣と連絡はつきませんか」

 そう言いながら、キッチンのほうから正幸が戻ってきた。

 手にはトレーを持ち、カップが3つ乗せられている。部屋にはコーヒーの香ばしい香りが漂っていることに今更ながら気づいた。

 正幸は「コーヒーでよかったかな」といいながら二人の前にカップを置くと、自身も手に取り、片瀬達の反対側のソファに座った。

「ありがとうございます」とカップを手に取るが、淹れたてでまだ少し熱かった。

 滝原はトレーに乗せられたコーヒーフレッシュと砂糖を混ぜているようだった。




「さてまずは何を聞こうか」

 ほどなくして、正幸が口を開いた。

「まず君たちは、結衣の友達でいいんだよね?」

「はい、専攻が同じということもあり、友人をやらせていただいてます」

 すんなりと答える滝原とは裏腹に、片瀬は正幸の問いに答えあぐねていた。当然だ、片瀬は古谷結衣とは面識すらないのだから。

 適当にはぐらかせ、という意味だろうか、テーブルの下では脛を軽く小突かれているような気もするが、別に誤魔化す必要もないだろうと、片瀬は正直に白状することにした。

「実は、俺はただの付き添いでして……」

 もし古谷結衣が途中で帰ってきたら、そうでなくても後で正幸が結衣に今日の話でも振ってしまえばバレる話なのだ、正直に話したほうが余計な不信も抱かれないだろうと。それに今日は別に世間話をしに来たわけではないのだ。変に隠す必要もあるまい。

 そう考えた末の言葉を聞いて、正幸は訝しむでもなくふっと笑みをこぼした。これには片瀬が困惑することになった。少なくともはじめのうちは怪訝な顔をされるものだとばかり考えていたからだ。

 驚きが表情にでも出ていたのだろうか、正幸は取り繕うようにわけを話す。

「いや、すまない。結衣に男の友達ができるとは想像できなくてね」

 ならば何をしに来たのか、という質問をされることはなかった。

「結衣さんはちょっと人見知りなところがありますからね」とにこやかな表情で滝原が話を広げる。

「昔から、ちょっと内気な子だったんですよ。大学という、新しい環境で友達ができるかどうか心配していたんですが……いらぬ心配だったみたいですね。滝原佳乃さん、でしたね、結衣からいつもお世話になってると聞いてますよ――」


 それからしばらく、古谷結衣の大学での話が続けられたのだが、片瀬が加われるようなものでもなく聞き手に徹するしかなかった。

 聞いていて分かったことといえば、古谷の普段の様子――滝原から聞き及んでいたものをより詳しくしたようなもの――から、彼女の幼少の頃の話まで。また、古谷結衣が上京するにあたってひと悶着があったなど、終始和やかな様子だった。


 カップの白い底が見えてきたころ、二人の話も一段落したのか、正幸はおかわりを用意してきますね、とカップとトレーを持ち席を立った。

 そうして戻ってきた後。ゆっくりと腰を下ろした正幸は先ほどの和やかさを惜しむかのように軽く肩を落とした後、「それで、そちらも聞きたいことがあるのでしょう」と、深い疲れを宿した声音で、そう促した。


 一度滝原と目を合わせると、彼女は伏し目がちに顔をそむけた。軽く唇を噛みしめ、あご筋には力がこもっていた。

 そんな様子を認めてか、滝原が何かを話す前に、片瀬が口火を切った。

「結衣さんに、何か変わったこととか、ありませんでしたか。例えば……普段絶対取らないような態度をとったり、何かそうですね、話が噛み合わなかったり、などといったことが」

 そう、半ば答えのわかりきったことを尋ねる。古谷結衣の態度の変化、これが意図して行われていたことでないというのなら、正幸にも当然思い当たる節があるはずなのだ。

「少し前から、学校での結衣さんの様子におかしなところが見られるようになったんです。とても言葉にし辛い変化なのですが、いうなれば極端に空気が読めなくなった、といった感じなんです。何かご存じないでしょうか」

 合わせるようにして滝原からも質問が重ねられる。

 細く絞ったような目でそれを聞いていた正幸は、やがて顔を伏せてしまう。そして暗く沈んだ声で、何かを確かめるかのように、祈るかのように重い口を開いた。

「……結衣は、結衣は学校で、神様だとか、天使だとか、そういった話はしませんでしたか」

「神様、ですか?」

 滝原は困惑したように聞き返すが、正幸はそれきり反応をみせない。

「そういえば、サークルをやめたって人が天使がどうとか言っていたんだろ? なら、その……結衣さんはどうだったんだ?」

「……結衣がそんな話をしたことはなかったと思う」

「曖昧だな」

「話の流れでは少しくらいあったかもしれないってことよ。でも、多分同じ意味合いで『天使』の話をしたことはない、はず」

 それを聞き、黙っていた正幸は「そう、ですか」と呟き、顔は伏せたまま、ポツリポツリと語り始めた。

「僕も、結衣がおかしくなってしまったということはわかっている。……その原因にも心当たりはあるんだ。君たちも知ってるかもしれないが、結衣が所属しているサークルでの活動が原因で間違いない。でもそれが理由で、もしあの子と君たちの間に亀裂ができてしまうのでは、と考えると……」


「大丈夫ですよ」

 尻すぼみになった正幸の言葉を覆い隠すように、滝原はそう言い切った。

「なんてったって、結衣の友達ですから」


 正幸はゆっくりと顔を上げる。いまだ鬱屈とした雰囲気こそ感じるが、それでも覚悟は決めたのだろう、まるで絞り出すように正幸は結衣がおかしくなった経緯を語りだした。



***



 結衣の様子がおかしくなってしまったと感じるようになったのは、それは丁度ゴールデンウィークの最終日、結衣がサークルの活動である旅行から帰ってきた日だった。

 旅行から帰ってきた日は夕食時にその時の話を聞くのが常のことだった。旅行帰りのため疲れているだろうと、夕食を作ったのも正幸だった。

 そして夕食時、手製のクリームパスタをつつきながら、いつものように旅行での話を聞いたのだ。旅行は楽しかったか、どんなものを見てきたんだ、と。

 そしていつものように、楽しそうに結衣が旅行でのことをを話してくれる、そう信じて疑っていなかった。

 いや、楽しそうに話してくれていることだけは、同じだったか。

 結衣が話し出したことが、正幸の耳を疑うようなものだったのだ。


『神様って、本当にいるんだね』


 結衣は、とても楽しそうに、嬉しそうにそう言ったのだ。

 はじめはちょっとした話のタネとして言っているのかと思った。旅行先で何か面白い出来事、または不思議な出来事にでも遭遇して、きっとその話の前置きなのだろうと。しかしそんな正幸の予想に反して――あるいは予想通りに――結衣の語る話の内容は不可解極まりないものであり、正幸には到底理解できないものだった。

 結衣は、自分は今までとても狭い世界で生きていたのだと、そう語った。それが今回の旅行で綺麗さっぱり、まるで生まれた時からずっと嵌められていた枠が取り払われるかのように世界が広がったのだと、そう告げた。


 そしてそれを教えてくれたのは。


「私ね、天使様に会ってきたんだ。とても綺麗な天使様に」


 サークルでの旅行先、『錦鍾乳洞』で天使に会ってきたのだと結衣は言う。そもそも今回の旅行先はその天使に会うために選ばれたのだとも。

 思えば今回の旅行は少々言いようのない気掛かりを覚えていたのだ。錦鍾乳洞に行くことになったことはおよそ二週間ほど前に結衣の口から聞いた。正幸には聞き覚えのない場所で、首を傾げたのを覚えている。これまで結衣がサークルで訪れていたのはいずれも正幸でも聞いたことのあるような有名どころの観光地だった。それが今回急に知らない地名が出てきたものだから少しだけ気になったのだ。しかしその名前からきっとマイナーながらも観光地なのだろう、別に気にするほどでもない、と納得したのだが。

 それゆえに単なる興味本位として結衣にそこはどういう場所なのかと聞いたところ、サークルの一員である結衣も、そして同じサークル仲間ですら初めて聞く人がほとんどの場所だと言っていた。これには正幸も声を出して驚いた。

 どうしてそんなところに行くことになったのか、そう尋ねると錦鍾乳洞に行くことはとある一人が提案し、他何名かが後押したと教えてくれた。その人物は4年生で、サークル代表とも個人的に仲がいい人物だったこともあってスムーズに話が決まったそうだ。それに結衣が所属する旅行サークルはそこそこの活動歴があり、有名どころの観光地は粗方行き尽くしてしまっていたらしい。そのため新規開拓もいいだろう、ということで最終的に決まったのだとも。


 正幸は今まで結衣から聞いていた活動から、てっきり普通のサークルなんだと思い込んでいた。いや、実際これまでは何もおかしなところなどなかったのだろう。所属するメンバーの人柄もよく、危ないところに行くこともない。団体名を聞いた時は結衣も「かわいいでしょ」と笑っていた。

 他の文科系のサークルと違うところがあるとすれば、せいぜいが旅費として少しお金がかかるくらいだった。それゆえ健全なサークルだと、安心しきってていたのだ。


 しかしその実態は、まさか〝カルト〟が混じっていたとは。

 正幸は呆然としていた。そして次第に沸々と苛立ち――妹に変なことを吹き込んだサークル員と、そしてそれを指を咥えて見ていることしかできなかった自身への怒りが込み上げてきた。

 しかしそんな正幸の内心など知ったばかりでないと、結衣はまるで恋い焦がれる乙女のように頬に朱を差して、とても、とても楽しそうに語る。

 にへらと眦を下げ、慈愛を浮かべるように崩した笑みで。愛する者を謳うかのような唇は艶やかに揺らぎ、されど虚空を見つめる瞳はひどく不気味に燃えている。


「天使様を見ているとね、とても気持ちが楽になるの。何も考えなくていい、ただ幸せを享受していられるの。隣にいる誰かのことなんて気にしなくていい。明日会う誰かのことなんて考えなくていい。嫌いな自分なんていなくたっていい。全部が全部どうでもいいの。天使様ってすごいのね、私がずっと悩んでいたことを、簡単に解決してくれるんだもん」

 

 とても、とても楽しそうに。

 嬉しそうに。

 幸せそうに。

 恍惚とした笑みで、結衣はにへらと笑った。



 幸せそうなはずの結衣を見て、正幸は初めて結衣を〝恐ろしい〟と感じた。


 大仰な手振りもないし、他者の心を揺さぶるような話術もない。しかし正幸には、見惚れるほどの笑顔で語る結衣の姿があらぬものを盲信し、そして自らも誰かを惑わす扇動者のようにしか見えなかった。

 

 正幸の中で燃え上がったはずの怒りが、水を掛けられたかのように急速に萎えていく。

 残ったのは生ぬるく、纏わりつくような不安感と気味の悪さだけ。

 情動に枷をかけられてしまったかのようにふっと体から力が抜ける。


「天使様を使わしてくださった神様もきっと素晴らしい方なんだろうね。私はまだ会うことはできないけど、お祈りを続ければきっと君も会うことができるって、教えてもらったの。この羽を身に着けているとね、神様に目をかけてもらえるんだって。そしていつか神様に会って、私も天使様に、もしかしたら司祭様に選ばれるかもしれないって!」


 結衣はまるで宝物を見せつけるかのように、気味の悪いアクセサリーのようなものを取り出した。ソレはネックレスのように鎖で通され、今までも首にかけていたようだ。

 結衣はソレを〝羽〟といった。天使の羽といえば真っ白い羽毛を想像するだろうが、正幸が目にしたのはまるで似ても似つかない、ひたすらに生理的嫌悪をもたらす不気味なものだった。

 たしかに、羽のように見えなくはなかった。

 しかしそれは、昆虫の羽だ。

 ハエやハチ、そしてカブトムシの鞘羽の下に隠された薄羽のような見た目をしていた。

 しかし昆虫のそれと違って透明ではなく、平らにした赤土色の粘土のように不透で、全体を走る翅脈はまるでトンボの羽のように目が細かい。

 不透明だということも相まってひどく作り物のような見た目をしていたのだが、それには確かに天然の生き物から得られたかのような、いや、今なお生き続け、体液がその複雑な翅脈中を巡り続けているかのようなみずみずしさがあるような、そんな錯覚に陥る。

 正幸はそれを目にしてからひどい不安が胸の内に芽生えた。いつのまにか動悸が激しくなっており、ドッドッと胸を打つ感覚。それと真逆に、体中のエネルギーが欠乏しているかのようにひどい脱力感が支配していた。

 また、何か悪いものを吸い込んでしまったかのように喉や肺がイガイガとし、血流にのってそれが体中を巡り、隅々に積もっていくのではないかと思わせるほどの嫌悪も覚えた。


 結衣はそれを正幸にも貸してあげようかとでもいうように差し出してきた。

 親切心からだろう。彼女の顔はとても優しそうな、柔らかな表情だった。

 蕩ける様な瞳をしていた。

 しかし正幸には決して触りたいとは思えなかった。一瞬にして摩耗し、脱力しきっていた精神を立て直し、なんとかやんわりとその誘いを断ることができた。

 結衣は「そう?」と不思議そうにし、首にかけなおした。


「結衣、さっきの話、外で言うんじゃないぞ。友達の前でもだ。それと、それを見せるのもだめだ」

 正幸にはそう絞り出すようにして言うことしかできなかった。

 正幸の言葉に結衣は「なんで?」と疑問の声を上げるが、「まあ、いいけど」とあっけらかんと納得した。

 正幸の様子に何かを感じたのか――それとも何も感じていないのか――それ以降結衣が話を続けることはなかった。無言のまま時間は流れ、お互いの食器だけがカチャカチャと音を立てる。

 自信のあったクリームパスタが、ひどく味気なく感じた。



 その日から正幸は結衣のことをまともに見れなくなっていた。表面上は隠していても、心の深いところでは恐怖のようなものが渦巻いている。妹を怖がる兄がどこにいるのかと自身を叱咤したところで、これ以上踏み込む勇気などこれっぽっちもわかない。


 兄として、妹を危ない連中と引き離さなくてはいけない。しかしそのカルトや『神様』『天使様』の話題になると、結衣の様子が文字通り変化するのだ。

 豹変という言葉では生ぬるい。普段の、おっとりとした、悪く言えばおどおどとした様子は鳴りを潜め、蠱惑的な表情で、まるで定型句でもあるのかというほど流暢に、そして蕩け切った情愛を捧げるかのような文句で彼女の神を、天使を礼賛するのだ。

        


***



「情けないことだが、僕は妹が、結衣が怖くてたまらないんだ」

 正幸はか細い声で、そうつぶやいた。

「結衣の中では既に、あの子の信じる神や天使が物事の中心になっている。だから、他のことなんてどうでもいいんだろう。君たちが感じてたあの子の変化はきっとそのためだ」


「僕は結衣にサークルをやめてもらいたい。そして昔の結衣に戻ってほしい。だが、神とやらを否定してしまうのはきっと悪手だと思っている。もし一度でも否定するようなことを言ってしまえば、結衣はきっと僕のことを信用してくれなくなるだろう。聞く耳すらもってくれなくなるはずだ。もう、どうすればいいか、わからなくなってしまった」


 正幸の話はそこで終わった。

 質の悪い話だ。

 厄介な宗教集団に魅入られてしまい、それを信じ込んでしまっているのだ。

 どこにでもありそうなトラブルの種。しかしどうにも、メディア越しではない、直接関係者である正幸に話を聞いたからだろうか、それとも単に真に迫った語り口だったからだろうか、その話がとてもおぞましいもののように思えた。


「大学のほうに通報、というか相談とかはなされたんですか? うちの大学もそういったのは禁止されていたと思うんですが……」

 滝原がそう尋ねる。事実カルトの類は大学で規制されていた。構内にカルト禁止の立て看板やポスターが貼ってあるのを時たま見かける。

「もちろん、相談窓口に連絡したことはあります。調査も行ってもらいました。しかし勧誘や集金のような事実は認められなかった、活動もごく一般的なものだといわれてしまってね……」

「集金はともかく、勧誘もですか? 勧誘は結構ひどいって聞きましたが」

「そうなんですか?」

 

 ああ、と滝原は何かに納得したように頷いた。

「それって今日話したことでしょ。多分それ、ただのサークルの勧誘だから宗教の勧誘とは別物だって認識されてるんじゃないかな」

「あ、そういうことか」

 実態がどうであれ、いまのところは実害は出ていないわけだ。宗教として名前があるわけでもないし――知らないだけだが――どこかで事件を起こしたわけでもない。信じるだけならそれは自由だ、その権利も保証されている。

「それでもやっぱり注意くらいはされると思うんですけどね、そういうのを信じてる人ってあまり誤魔化さないと思ってたんですけど」

 調査したとなると、関係者に話くらいは聞いたのではないだろうか。しかもサークルメンバーが退学までしているのだ、不審がってもおかしくないとは思うのだが。

 それに正幸の話しぶりからすると勧誘まではせずとも、尋ねられたら神様天使様の話くらいはしそうなものだと思ったが。


「それは……僕のせいかもしれない」

「どういうことですか?」

「大学の窓口に相談して少しして、調査の結果を聞いたわけだけどね、その少し前に結衣がこんなことを言ったんだ」


『お兄ちゃんのいう通り、話さなくてよかったよ』

『だって言っても信じてくれなさそうな人たちだったし』


 ――と。


「結衣は何でもないことのようにそう言っていた。まさかそこで約束を守るとは、考えていなかったよ。どういったやり取りがあったのかはわからないが、きっとサークル内でも口裏を合わせたんじゃないかな。それに、いままでの活動が真っ当だったことも裏目に出たんだろうね」

「そんな……」

 落胆したように滝原が呟く。

 片瀬はそんなに簡単に調査から手を引くものなのか、とも思ったがそもそもまともに取り合っていなかった可能性もある。どちらにせよ大学側はあまり期待できそうにない。


「お兄さんでダメなら、私から言っても多分話は聞いてもらえなさそうですね。誰か、結衣を説得できそうな人はいないんですか」

「親御さんとかも、ダメそうですか」

 正幸は「そうだな」と顎に手を当てて思索に耽る。ほどなくして、「麻美ちゃんなら、もしかしたら」と呟いた。


「その麻美ちゃんというのは……」

 そう尋ねると、正幸は懐かしそうに目を細める。

「結衣の地元の友達さ。昔から仲が良くてね、小学生のころから高校を卒業するまでべったりだったんだ。情けないことだけど、僕や、父さん母さんよりも懐いていたんじゃないかな」

「その麻美さんはいまどこに?」

「実家……新潟のほうかな。すぐには難しいだろうけど、折を見て会わせてみるよ。電話でもいいけど、やっぱり直接のほうが話しやすいだろうからね。でもそうなると一度相談は必要かな。あとで連絡先を聞いておかないと……」

「……その、仲が良かったとはいえ、友人にそういったことを任せても大丈夫なんでしょうか。こう言っては何ですが、正幸さんの話では結衣の様子は、かなりひどいようなので」

 滝原が遠慮がちにそう尋ねた。

 正幸は「そうだね……」と曖昧な笑みを浮かべたのち、力なかった表情を引き締めた。

「麻美ちゃんは、結構賢い子でね。もしかしたら、って思ってしまうところもある。けれど、麻美ちゃんでももし説得できなかったのなら、僕はもう諦める、いや、覚悟を決めるよ」

「覚悟ですか?」

「ああ。妹に嫌われてでも、実家に連れて帰るよ。サークルにさえ行かなければ、これ以上悪影響を与えるようなことはないだろうし。あとは実家のほうで……そういったことに専門的な人の力を借りることにする」

 正幸はふっと相好を崩し、「もっと早くからそうしていればよかったんだろうけどね」と自嘲した。

「どうすればいいか悩んでいたんだけど、答えも出ないで、ずっと保留にしたままだった。ましてや妹を怖いと思ってしまうなんて。どうも駄目だね、一人では考えているようで、結局思考停止しているだけだったみたいだ」

「そんなことありませんよ、こういったことはやっぱり皆戸惑ってしまうでしょうし」

 柔和な表情を浮かべる滝原に対し、正幸は若干恥ずかしそうに「ありがとう」、と呟いた。


 時刻は五時を少し回ったころだ。日も落ち始め、いつの間にか部屋はうっすらと影に包まれている。

「いい時間だね」と正幸は立ち上がり、壁のスイッチを押し部屋の電気をつけた。LEDの明るい光が部屋中を強く照らし、影を追い払う。

「はあ、結局結衣からの返信はなしか」

 スマートフォンを手に取った滝原は、嘆息するようにそうごちた。

「せっかく訪ねてきてくれたのに、すまないね」

 正幸は申し訳なさそうにしながらこちらを振り向くが、片瀬としては本人に尋ねる以上の情報を得ることができたのでは、と考えていた。もし古谷結衣に同じように尋ねたところではぐらかされるか、もしくは具体性のない讃美歌のような〝独り言〟を聞かされる羽目になっていたかもしれない。

「聞きたいことはこれくらいかな。そうであれば暗くなる前に帰ってしまいなさい。行先次第では、結構混むよ」

 それを聞き「帰ろっか」と、既に手荷物をまとめ始めながら滝原が声をかけてくる。それを認めて片瀬は慌てて聞いておきたかったことを口にする。

 古谷結衣のの旅行先、そして具体的な出身地と、先日新潟に向かった時はどこに行っていたのかを聞いておきたかったのだ。

 それを聞いて出身地に関してはすぐ答えてもらえたが、他の二つは正幸にはわからないようだった。

「すまないね、ゴールデンウィーク以降結衣がどこに行っていたのか、あまり具体的に話してくれないんだ。いくつかは覚えているんだけど」

 そう言いながら正幸は自身のスマートフォンを持ってきた。

「まあ、聞けば教えてくれると思うから、後で連絡するよ。連絡先を教えてもらってもいいかな」

「あ、じゃあ私も」と滝原もポケットからスマホを取り出す。

「じゃあ、何かあったらいつでも連絡してください。こっちでも適当に調べておきますんで」

 そう告げた片瀬に「ああそのことなんだが」と正幸は待ったをかける。

「勝手なことだとは思ってるけど、君たちにはあまり結衣を刺激しないでほしいんだ。もし、サークルの話題でも出して君たちとの間にわだかまりでも出来てしまったら、あの子の拠り所は家の中だけになってしまう。サークルは以ての外だしね。……結衣には、少しでも日常の中にいてほしいんだ」

 滝原は「わかりました」、と笑みを浮かべた後、片瀬に向かって「あんたもね」と釘を刺す。

 それに対して「本人には聞かないよ」と半目で返す。面識もない相手に勝手にずけずけ話しかけるわけないだろう、それもデリケートな話題を、と。


 そうして、古谷結衣本人との邂逅を果たさぬままその日は撤収することとなった。

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