第3話
片瀬は自宅近くのコンビニで暇を持て余していた。それなりの広さを持つ店内は昼時を過ぎて落ち着いた時間帯ということもあってか利用者は少なく、買い物目的でない片瀬には少々居心地が悪い。買うものを選んでいる風を装うにも、店内をぐるりと3周した頃には気まずさを覚えてしまった。
丁寧に磨かれたフロアの上を無駄にぶらぶらと歩いた末、おとなしく雑誌コーナーで立ち読みに耽ることにした。
雑誌コーナーは流行りのファッション誌や芸能雑誌が多数を占めている。他にはビジネス、文芸、旅行、生活情報誌などが少しと、あとの大部分は漫画雑誌だ。隅には成人誌があることも目に入ったが、いくら成人済みとはいえ店内で堂々と立ち読みする勇気なんてない。
ここの雑誌コーナーはコンビニの規模の割に案外品揃えは良くないのか、というのがふと思い浮かんだ感想だった。最寄りのコンビニとはいえ、普段雑誌コーナーを利用しない片瀬にとっては新しい発見だった。
ビニール紐で縛られていない漫画雑誌を適当に選んで手に取る。週刊漫画の代名詞とでもいえる少年誌は大体がビニールの紐がかけられており、結局あまり名前の聞かないものを読むことになった。しかしパラパラと捲ったところでめぼしいものはあまりない。
このコミック雑誌にも好きな漫画は載っている。しかし片瀬は単行本派のためそれらは作品は読まず、そのため興味の薄いものしか残らないのだ。何よりいけないのは残りはみな話の途中からということだろう。週刊、あるいは月刊誌の痛いところだ。欠かさず読んでいる者ならいざ知らず、暇潰しや新規の読者には話がわからない。そして話の流れのわからないものを読んだところで没入しきれない。そう考えるとウェブ上でよくみる一話無料立ち読みという試みはなかなか良いのではないか。やはり読むなら一話からがいい。それが一単行本派の考えだった。取り留めもないことを考えながらページを捲り、また巻末の目次を眺めてみるも、選んだ雑誌には都合よく新連載が載っているようなことはなかった。
となれば読むとしたら一話完結型や時系列の関係ない4コマ漫画くらいだ。それだけで時間が潰せるだろうか。
ふっと視線を腕時計に落とすと、時間は15時を少し回ったところ。近場とはいえ、余裕をもって早めに到着した片瀬が暇を持て余し始めてから10分弱。
待ち人はまだ来ない。
***
「いやごめんごめん、調べものしてたら少し遅くなっちゃって」
結局当の待ち人であった滝原は約束の時間から15分ほど遅れて到着した。
今日の彼女は以前のだらしのない恰好と比べ、ネイビーの薄手のジャケットに黒ニットと落ち着いた色合いで揃えられたトップス、ホワイトのパンツルックという〝外行き〟のいで立ちをしている。
てっきり彼女が外面を被っているときはズボラさをうまく取り繕っているものだと思っていたのだが、遅れてきたことを考えるとそれも必ずしも完璧というわけではないようだ。
目の前で悪かった、と両手を合わせている彼女に、それほど待っていない旨を告げやめさせる。こういうのはあまり長引けばこちらが悪者にされてしまうのだ。主に周囲の目によって。片瀬は何度かそれで痛い目を見た経験があった。実際それほど待ったわけでもないが、思わずずるいヤツめ、とぼやきたくなる。
それよりも時間は大丈夫なのかと問うと、古谷の家は電車で20分ほど、駅からも少し歩くがそれほど遠くなく、遅れることはないだろうとのことだった。道順は覚えているものの、滝原も古谷宅を訪れるのは今回が二回目のようで、そのため待ち合わせ自体それなりに余裕を持った時間にしていたとのことだった。
特に何を買うでもなかったコンビニを離れ、閑散とした住宅街を並んで歩く。彼女と歩くのは嫌いではない。自身と同程度に背丈のある滝原には歩幅を合わせなくてもよく、言っては何だが楽だった。
異性に気を遣うのが苦手な片瀬だが、その点彼女とは付き合いやすさを感じている。今で言えば背丈や歩調もそうだが、口調や、少々毒のある冗談を交えても平気で返してくるあたり、片瀬にはやりやすかった。
よく知らない他人が滝原を評価するなら、面倒見のいい人物とでもいうのだろうか。
確かに社交的でそのうえ面倒見もよいが、とにかく取っ掛かりやすい。そういった雰囲気が、彼女が他人と距離を詰めることを得意とする理由なのだろう。
もっとも片瀬からすると、数年の付き合いの中で培った〝こいつには気遣いなんてしてやらない〟という恨み言染みた教訓が大きく影響しているのだが。
その一方でこれから会う古谷に対して、片瀬は若干の緊張を持っていた。
初対面。
異性。
そして友人の友人という微妙な立ち位置。
これらはまあ、そこまで大したことじゃない。
問題は古谷と会う理由だった。片瀬は今回は彼女の心変わりとも呼べる変化について、ある程度切り込んだ質問をすることを期待されている。
しかし古谷にとっては、知らず知らずのうちに見ず知らずの相手に身の上を知られ、その上あれこれ聞かれるのだ。相手は一体どう思うだろうか。それも片瀬は教師でも医者でもなんでもないのだ。古谷もきっとなぜこんなヤツに話さなければいけないのだ、と思うのではないかと不安で仕方ない。
それが気がかりというか、尻込みしている理由だった。
片瀬自身も気になることではあったので了承したが、もう少し準備というものをさせてもらいたいのが本音だった。
コンビニから最寄りの駅、御川駅までは少し歩くことになる。徒歩10分といったところだろうか。
日曜日にはここらの住宅街は人通りが少ない。自宅で思い思いの時間を過ごしているか、少し離れた商業地域に出かけているのだろう。
せいぜいが近くのスーパーからの買い物帰りかレジ袋を提げた主婦や、犬の散歩をしているご老人くらいとしかすれ違うくらいだった。
そんな中静かに歩くというのはなんとなく気まずく、会話がなければ少し寂しいところだ。
そういえば、と滝原自身は古谷に何を聞くつもりなのかが気になった。調べ事をしていたともいうし、考えくらいはあるのだろう、と。滝原の会話に合わせて自身も質問するというのなら、それほど気を使うこともないだろう。
もっとも、滝原がまったく関係ないことを調べていたり、もしくは話題にした場合は話は別なのだが。
そう思い話を振ってみると、滝原はすんなりと答えてくれた。
古谷の所属するサークルについて聞いてみるつもりだと。
「マタ旅か」
「そ、マタ旅」
名前だけ聞くといかにもゆるそうなサークルである。実際、先日聞いた古谷の人柄と相まってあまりアグレッシブな心象はない。
しかしこれなら自然な形で会話を切り出せそうだと片瀬も安心した。自身も尋ねるつもりだったのは旅先に関してだったのだ。今までどんなところに行ってきたのか、そして地元にはどんな名所があるのか、など。滝原はサークル活動については少し尋ねずらい境遇にあるようだが、片瀬がそれを引き継ぐように話を広げれば問題ないだろう。
場の雰囲気によっては片瀬自身旅行や件のサークルに関心がある風を装う必要があるかとも思っていたが、その心配はいらなそうだった。
また、調べものというのもどうやら大学の友人と連絡を取っていたようだ。彼女曰く「結衣のサークルについていろいろ聞いてみた」とのことだった。
「それで、何か分かったこととかあるのか?」
片瀬がそう問うと、滝原は「いやあ……」とどこか思案顔を浮かべながらいきさつを話し始めた。
「実際に入ってるって子は結衣以外いなかったけど、知人が所属してるって子は何人かいたんだ。先輩とか後輩とか、あとは卒業生もも含めて。それで話を聞いてみようかなって思ってたんだけど、どうも皆そのサークルに所属してる子のこと、最近の様子とか聞こうとすると口つぐんじゃって。話してくれる子もいないわけではなかったんだけど、大体卒業した人たちの話か、今ちょっと疎遠にしてるから詳しくは――ってね」
「あんまりよさそうな感じはしないな」
滝原はうん、と頷く。
「卒業組の話は、まあ普通のサークルの話だったよ。どこどこに行って何を体験してきたーとか、そういった感じの話を貰ったお土産と一緒に自慢されたとかそういうの。聞き手としては普通に楽しそうなサークルだったみたい。それで、疎遠にしてるって方の話なんだけどね、どうも勧誘が激しいみたい」
「勧誘?」
「そ、勧誘。自分たちのサークルに。最初は『外国行ったら価値観変わる』みたいな体験でもしてきたんだろうって軽くあしらってたみたいなんだけど、いつまでたってもやめる気配はないし、口を開くたびにその話。さらには変なアクセサリー握らせようとしてくるわでさすがに友達やめたんだってさ」
「なんだそりゃ」
まるで宗教かネズミ講のよう、そんな考えが頭をよぎった。事実そうなのかもしれない。
特に宗教、それもカルトと分類される類のものには洗脳や暗示が行われていた、という話もある。人が変わるレベルのものを。
それなら古谷の変化も洗脳によるものなのか? ありえなくもない話なのだろうが、どうも洗脳という言葉にはSFチックというか、フィクションじみた印象があるためいまいち信じきれない。
「古谷さんにはそういうのはなかったのか?」
「なかったなあ。誘われたことなんて一回もないし、話題自体あがらなかったよ、サークルのことは」
それは、からかいすぎたお前たちが悪いのだろう、と半目でにらむ。彼女はまるで堪えた様子を見せなかった。
しかし古谷自身からのアプローチもないとなれば、滝原が集めてきた話とはまた違いが出てくることになるのだが。そんなことを考えていると滝原は「ああそれと」と今までと話を区切るように。
「一番気がかりなヤツは、サークルやめちゃった子の話」
そして一段小さく、それでいて低い声音で切り出した。
「そのやめちゃった子の知り合いの話だとさ、丁度ゴールデンウィーク明けから大学にこなくなったんだって。それで心配になって家に訪ねても入れてくれなくて、なんとか電話越しに話しを聞いた限りだと――『あんなの天使なんかじゃない』って」
滝原の話は、そこで途切れた。
「天使ってなんだよ」片瀬がそう聞こうとちらと見た滝原の横顔は、眉根を寄せ、普段の鋭い眦は垂れ下がり、どこか落ち込み気味だった。彼女の表情には困惑や不安、そういった感情がうっすらと浮かんでいた。
滝原がすべてを話したかは片瀬には分らない。しかし、おそらくは端折ったものもあるだろう。でなければ、今の話だけで彼女がこれほどまでに気落ちするとは考え辛かった。
古谷結衣を取り巻く環境は、思ったよりも悪いようだ。
話しかけるのは少し躊躇われたが、黙るのも気まずく結局口を開いた。
「……それで、その引きこもった子は他になんか言ってなかったのか」
その問いに一度首を横に振り、顔を上げる。
視線はどこか上の空といった具合だ。
「その子、そのまま大学もやめちゃって、実家に帰っちゃったんだってさ。連絡もそれからとれてないって話」
「ああ、でも」
「最後に、『みんながこわい』って、言ってたんだってさ」
***
御川駅は簡素な駅だ。片瀬が住む御川町はは市内でも中心からはやや外れた郊外で、近くには小さな繁華街があるとはいえ都会とはほど遠い。そもそも市――天倉市というのだが――自体、関東圏に入るとはいえほぼその端に位置している。千葉県の中心よりやや南で、東京湾に面している。そんな田舎に一歩近い御川周辺は人も少なく、当然駅もそれ相応のものとなる。御川駅の橋上駅舎はデザインこそモダンでやや洗練されているが、サイズは小さく、建設当時は真っ白で奇麗だっただろう外装は今では風雨に晒されてかうっすらと黄ばみ、経年を感じさせる。階段を上り構内に入ると切符売り場と改札、駅員室のほかはトイレと基本的な設備しかないことがわかる。プラットホームは島式が1つで利用者はまばらだ。
御川駅に比べて、目的地であった東磯岩駅は割と大きい。磯岩自体、天倉市の中央の方で、東磯岩から少し南西へ向かうと港湾地帯となっている。この港湾地帯は、東京にもほど近いこともあって昔から海運業で発展してきた地域である。今でも原油やLNGなどのエネルギー資源、鉄鋼などの原材料、そして家電や衣料雑貨などの輸出入が行われており、また近場には工場を所有している企業もいくつかある。俗にいう臨海工業地帯を形成している。それらの中には造船を営んでいるところもあるようだが、磯岩では造船業はやや下火である。
東磯岩は最も発展した地域からはやや離れてるた内陸の地域とはいえ、かえって産業も臨海の第二次産業から第三次産業へと移り変わり、関連企業のビルがよく立ち並ぶ小都市である。そのため当然家賃もそれなりの値となるような地域なのだが、実家暮らしではない古谷が住んでいることを考えると、案外金持ちなのだろうかと勘ぐってしまう。
東磯岩駅周辺は繁華街というよりはオフィス街といったほうが正しい。立ち並ぶのはどこかの企業の背の高いビルがほとんどで、それらは皆示し合わせたかのように似たような外装をしているため非常に統率のとれた印象を与える。
商業施設がないわけではないが、都市計画での取り決めなのだろうか、人目を引くような派手で奇抜な看板などは見られない。
電光掲示板はおろか、赤や緑の原色看板は一つもない。飲食店の軒先テントなどが時折アクセントをつけているが、それも落ち着いた色合いだ。
歩行者含め、交通量はそこそこのようで、御川と違い日曜だというのにスーツ姿の人たちがちらほら往来を行き交っているのが見て取れる。
均整のとれた街並みはまるで雑念を与えない。オフィス街としてはこれ以上にないほど適しているのではないか。
一方、見るものすべて――風景を一かたまりとして見たところで――差異が少ないせいか、ランドマークになり得るものは周囲を一目見渡したところでは見当たらず、土地勘の無いものでは簡単に迷いそうだ。
実際オフィス街に用はないとでもいうように、片瀬が東磯岩を訪れたのは初めてであり、道案内が無ければ迷っていたかもしれない。
せいぜいが就職活動の一環で参入企業や地域一体の産業を調べただけの頭でっかちでああった。
一方で滝原は一度慣れぬ深酒で潰れかけた古谷を家まで送ったことがあり、土地勘はなくとも道順は覚えているのだという。
信じがたいことだが古谷の家はここから10分ほど北に歩いたところにあるというのが滝原の言だった。
時間にも若干余裕はありそうだということで、見慣れぬ景色をしげしげと眺めながら、気持ち歩調も緩めて歩く。メインストリート沿いの、白灰のタイル調に整えられた歩道をまっすぐと進み、少し歩くと小さな公園のようなスペースへとつながる。
柵のような囲いはなくオープンな空間で、強いて言うなら公園をぐるりと一周するように植えられた木々が遮蔽の役割を担っているのだろう。
一段低くなっている噴水広場を中心に、天然芝とそれを十字に横切るようにして整備された煉瓦ブロックの遊歩道。青々とした葉をつけた常緑樹に混じり、少し色づき始めた大きなケヤキの木はもうしばらく待てば美しい紅葉が見られるだろう。いくつかの樹木の根本にはベンチが用意されており、今では日も大分落ちるのが早くなってきたが夏場であればそれは丁度いい木陰となるだろう。
公園内は清掃も行き届いており、利用者もちらほらといる。曜日もあってか私服の人ばかりでペットの散歩、ベンチでの休憩、恋人と連れ歩いたりとそれぞれ思い思いの時間を過ごしているようだった。
公園を抜けたあたりで、景色がこれまでと全く違った様相を呈してくる。ガラス張りのビルは目に見えてぐっと減り、建物の背丈は一段も二段も低くなった。
さらに少し歩けば切妻や寄棟の屋根もぽつりぽつりと増え始め、住宅や個人の商店らしき建物が多くなってきた。オフィス街のスマートな印象は薄れ、やや雑多な感じとなってくる。
なるほどここらから住宅地へと変わっていくのだろう。
古谷の住居は住宅地の一角にあるマンションの一部屋のようだった。滝原に案内されて着いたのは4階立てのベージュ色のマンション。階数自体はそうでもないが、その代わりに横長で、正面からはわからないがおそらく奥行きもあるのだろう。部屋数、もしくは部屋の広さはそれなりのものとなることがうかがえる。また奇麗に刈り込まれたサザンカの生垣に囲まれた敷地内には駐車場もあり、どうにも単身者向けには見えなかった。
「結構でかいとこ住んでるんだな」
東磯岩と聞いてタワーマンションか何かかと予想していたため、少し想像と違ったのだがそれでも立派な建物だというのが素直な感想だった。
「私も初めて来たときはびっくりしたよ」
片瀬の呟きに、滝原も感嘆したように答えた。彼女の住居も片瀬と大差なく、安い賃貸マンションだ。
「それで、何階なんだ」
「3階。3階の302号室。まあついてきてよ」
滝原に先導されマンション内に入っていく。
手押しのガラス扉を開けた先。エントランスはシンプルに整えられており、天井から吊るされた傘付きのライトに照らされる暖色の光と、そして外装と同じく薄いベージュの壁が見るものに柔らかい雰囲気を与える。30㎝四方ほどの、人工大理石の白タイルの床も汚れなく掃除されており、フロアの隅のほうには大きな葉をつけたボダイジュが観葉植物として置かれていた。
そのまま1分ほど待つとエレベーターが到着し、3階へと向かう。
302号室の前。チャイムを鳴らすのはもちろん滝原だ。片瀬は滝原の斜め後ろに控えているが、ここにきてまた少し緊張がぶり返してきた。知らない人の家を訪ねる、それも同性ならまだしも異性とあっては、片瀬にとってなかなか勇気のいる行為だった。基本的にシャイなのだ。
ピンポーンという、ごく普通の短いチャイムの後。扉の向こうからは人の歩く音が聞こえてくる。
そして、出てきたのは古谷結衣――ではなく男性だった。
片瀬は横目で番号札を確認するも、302と間違いはない。ならそもそも覚え間違いだったんじゃないかとちらと滝原の横顔を盗み見ると、彼女もさすがに予想外だったのか、愛想笑いにも届かない微妙な表情で固まっていた。
もう一度視線を目の前の男性に戻す。男性は自分たちより少し年上といったところだろうか。上背があり、がっしりとした体つきから何かスポーツでもしていたのだろうことが想像できる。
部屋着であろう、ラフな服装をしているものの身だしなみは忘れず、だらしなさはない。
彫りが深く、やや白目がちな目。整った鼻筋に、そして頬から顎にかけてやや角ばった、精悍な顔立ちといった印象を受けるが、疲労がたまっているのか、目元に少し陰りのあるようにも見える。
また、こちらを認めてから、どこか申し訳なさそうな表情していた。
「どちらさまでしょうか」
「えっと、古谷さんのお宅でしょうか。私たちは古谷結衣さんという人を訪ねてきたんですけど……」
我に帰ったのだろう、男性の問いに滝原は応答するも、いつもの覇気は鳴りを潜め言葉は尻すぼみになっていく。
しかしそんな彼女の言葉に男性はやっぱり、といった顔をする。
「はい。古谷であっています。しかし、妹のほうは……今は出かけておりまして」
「出かけている、ですか。今日は結衣さんと会う約束をしていたはずなのですが」
と、滝原の代わりに片瀬が問う。自然と一歩前に出て、彼女と並ぶように立った。
「それも聞いてています。しかし……何か、連絡とかはいってないでしょうか。予定のキャンセルのようなものが」
隣の滝原に目線をよこすも、どうやらそれらしいものは届いていないようで、軽く首を横に振っていた。
やりとりから察してか男性ははあ、とため息をつく。疲労がたまっているように見えたが、もしかしたら彼は古谷結衣についてで苦労しているのかもしれない。
「申し訳ないが結衣は今出かけていて。それもおそらくすぐに戻ってくることはないような場所に行ってしまいました」
困ったように右手を後頭部に当て、男性はそう述べた。
「ああそうだ、僕は古谷正幸、結衣の兄です。どうぞよろしく」
「初めまして。結衣さんのお友達をさせていただいています滝原佳乃です」
「どうも、片瀬です」
兄との同居だからか、と古谷結衣がなぜこんなところに住んでいるのかの納得がいった。
それにしても――
「兄がいるとか、さすがに聞いてたんじゃないか」
「あはは、言ってたような……言ってなかったような……」
半目で問うも、曖昧な返事が返ってくる。
しかし、どうするべきか。
「どうする、結衣さんはいないみたいだし、帰るか? それともどっかで暇でもつぶして待つか」
「うーん、とりあえずちょっと連絡入れてみるわ」
そういうと滝原はハンドバッグから携帯電話を取り出そうとするが、それまでやりとりを見ていた正幸がある提案をした。
「もしよかったら、少し話をしていかないか。妹の学校での様子を少し聞いてみたいんだ。結衣と連絡がつけばそのまま帰ってくるまで待てばいい。もちろん、いやならいいんだが」
どうする、と滝原に目で問う。片瀬としては古谷正幸の提案を受けてもいいと考えていた。本人の話は聞けずとも、同居しているのならそれなりの話を聞けるだろうとにらんでいた。
むしろ客観的な意見を得られる分本人よりいいかもしれない。
滝原は少し悩んでいたが、結局彼の提案を受けることにしたようだった。
「それではお言葉に甘えさせていただきます」
そう返事を述べると、正幸はふっと相好を崩し「どうぞ、いらっしゃい」と一言告げ奥の方へ歩いて行った。
「なんていうか、あんた連れてきてよかったかも」
「何考えてるか知らないけど、失礼だぞ」
片瀬と滝原はその後正幸の後をついていった。
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