第2話

 

 9月最後の土曜日。もう数日もすれば長かった大学の夏休みも終わり、また学生の本分である学業に勤しむ毎日が始まる。特に片瀬の通う大学では3年の後期日程から研究室に配属されるようになるため、これまでとはまた違った毎日になる。もっとも片瀬が先輩から聞いた話によると、研究室に毎日詰めるようになるのは卒業研究で忙しくなる4年からがほとんどらしいが。

 夏休み最後の週を片瀬がどう過ごしているかというと、連日で自宅のパソコンに齧り付いていた。先日滝原から相談を受けた古谷結衣の性格の変化について、それと関係がありそうだと思われた三つの地名について、そして類似の事件がなかったりしないかと調べているのだ。

 手元のマグカップへと手を伸ばすが、手に取ったところで中身が空であったことに気づく。

 ようやくあらかたのことは調べ終えたのだ、少し休憩をとるのもいいだろうと、片瀬は椅子から重い腰を上げ、カップを片手にキッチンへ向かう。姿勢が悪く、猫背で画面と向き合っていたため、久しぶりに伸ばされた背中が軽く痛んだ。


 いつものサイト、その他のサイトでの情報収集した結果、阿洲湖、南野峠、秋戸町、これらの土地では期間こそバラバラだが共通して行方不明事件が起こっていたことがわかっている。

 一番古いものがおよそ3年ほど前に南野峠で起きた会社員男性の行方不明事件。他の2件の事件も1年以上前のものだ。滝原の話では古谷結衣の様子に変化が現れたのは今年のゴールデンウィーク辺りだと言っていたことから一見関係はないかのように思える。しかし片瀬にはどうも繋がりがあるような気がして仕方なかった。


〝探偵の勘〟というやつだろうか。


 そう思い至った片瀬は自嘲するように口元を歪める。なんてことはない、ただ『らしいもの』を見つけて舞い上がっているだけだろう。

 つまり古谷の性格の変化という事件と、その手掛かりである複数の行方不明事件を無理やりつなげようとしているようなものなのだ。

 実際のところは古谷の変化はただの心変わりかもしれないし、行方不明事件の方も単なる偶然かもしれない。なにしろ行方不明になった人は年間で8万人もいるのだ、たまたま古谷が訪れた土地と一致していても特別おかしいということはない。

 それでもやめられない。暇だというのもあるが好奇心がとまらないのだ。友人の友人というほとんど関係のないような相手だとしても、やはり自分の興味を晴らすためのネタにすることには若干の罪悪感を覚えるが、久しぶりの情熱はなかなかどうして収まらない。

 コーヒーを淹れようと、湯を沸かすためにヤカンを火にかける。コンロはボッと短く音を立て、青からオレンジ色の光が弾けた。火に照らされて、コンロのところどころにできた黒ずみがうっすらと浮き上がる。油汚れが目立つようになってきたようだ。普段は隠れていても、照らしてしまえばその形がよくわかる。


 古谷が訪れた場所のうちの一つ、南野峠。

 三か所で起きた、〝引っかかりを覚えた〟行方不明事件のうち最も早くに起こったもの。

 南野峠は初心者向けのハイキングコースとして知られる一方、玄人や本格的な登山家向けの山道もあることで有名らしかった。

 南野峠で行方不明となったのは『相馬浩之』、34歳の会社員男性だ。プライベート保護の関係上詳しいことまでは報道されなかったようだが、ある程度の登山経験があり会社のお盆休みを利用して友人らと南野峠を訪れていたらしい。

 また、この件に関しては行方不明事件というよりも遭難、つまり事故として処理されている。捜索隊による捜索も行われたようだが見つからなかったという。

 相馬は山登りの最中滑落し、山道を外れてしまったという。また、当時は霧が深く出ており捜索は困難だったともされている。

 山での遭難というのは珍しくない。実際南野峠でもこれまでそれなりの人数が遭難し、捜索隊が出動することが何度もあるらしかった。しかしいずれも遭難者は見つかっており、近年では相馬がほぼ唯一といっていい『生還どころか遺体も見つからなかった人物』として一部で話題になっていたようだ。

 これだけを見れば結局はただの事故に過ぎない。登山愛好家たちからすればちょっとした話題になるかもしれないが、その他大勢にはさして関心は持たれないだろう。それがなぜ取り上げられていたのか。

 行方不明事件というものは謎が多いものだ。

 事件背景が見えず未解決なものなどは特にそうだ。そしてそういった事件は――思考停止ともとれる――オカルトと絡めて語られることも多い。もっとも、面白がっているだけというのも否めないが。

 また、山や海などの自然も時にはそういった捉え方をされる。自然というのは簡単に言えば人の手には負えないものであって、山・海・川そのものが古くから信仰や崇拝の対象であったともされている。超常的な何かがあるのだと、そう思われてきたのだ。

 自然物や自然現象を崇拝する自然崇拝、または万物に宿るとされる精霊を信仰するアニミズムとか、そのあたりである。古くから人間は山や海なんかに神を見出し、日本では特に『悪いもの』を物の怪や妖怪などとして恐れたり、枠に落とし込んだりもした。

 南野峠での遭難はこちらに近い。どこかの他所のオカルト関係の掲示板から情報を引っ張ってきて話題にしていたのだ。

 相馬氏の遭難以降、南野峠では不可解な人物の目撃情報が相次いだという。複数の人間がハイキングコースも登山道も外れて、どこかに向かっていくのを見た、というのだ。その集団は登山着にしては軽装で、またどこか異様な雰囲気をまとっていたともされている。

 ログを辿れば、もしこれが男性一人であれば『行方不明になった相馬浩之がいまなお彷徨っている』とでも言いだしそうな雰囲気すらあった。

 しかし結局は異様な集団の目撃以上の情報はなく、またこういった類は話題にこそすれ推理も何もないのでそれほど盛り上がっていなかった。


 二つ目の事件。阿洲湖では19歳の男子大学生『深沢俊太郎』が行方不明になっている。

 深沢は周辺の住宅地に一人暮らしをしており、行方が掴めなくなった日の最後の目撃情報が阿洲湖付近のコンビニの防犯カメラらしかった。また、街頭防犯カメラにもその姿は映っていたようだ。

 深沢が消息を絶ったのは祝日の昼のことで、知人からの証言からは当日の深沢の予定を掴むことはできなかった。自宅付近での目撃情報もあり、その時点では同行している人は見当たらず、一人で出かけていたことが分かっている。しかし防犯カメラの映像からは八人の男女と行動を共にしていたことが明らかになっており、この男女の身元は判明していない。

 また当日は周辺でなにか騒ぎのようなものも起きておらず、当該地域は特別治安が悪いということもない。

 警察は事件事故の両方の線で調べていたらしいがこれといった手がかりが見つかることはなかったそうだ。報道も一週間もすればぱったりと鳴りを潜め、以降は続報もない。

 この事件に関して、有力な説だったのは集団自殺説だ。深沢含め九人の男女が阿洲湖で入水自殺を行ったのでは、というもの。しかし警察がその線を疑わないとは考えづらく、湖での捜索も行われたことだろう。しかし遺体は見つかっておらず、後に水死体が浮いていた、という話も出ていない。

 阿洲湖は小さな堰止湖であり、現在は自然公園の一部として組み込まれているらしかった。また、もともとの川の本流が程近くを流れている。程近く、とはいったものの周辺は整備されておらず、雑木林の中を掻き分けて進むことになるので公園の敷地からは外れている。

 より人目につかない、川のほうを選んだのではないか、とも言われている。どちらにせよ水死体のようなものは見つかっていない。

 論点に挙げられていたのは深沢が訪れたというコンビニ、そして身元不明の八人の男女だ。

 コンビニは深沢の自宅から歩いて40分程度の距離にあり、自宅のもっと近くに別のコンビニが存在している。もしただの買い物であるならばわざわざここを訪れたとは考え辛い。

 何かのついでか、もしくは待ち合わせが妥当だろうということだ。ここで何を購入したのかは公表されていない。大したものではなかったのだろう。

 身元不明の八人の男女というのはさらに奇妙である。まず年代がバラバラなのだ。深沢と同年代と思われるのは一人の青年しかおらず、他は彼らより年上、それも一回りも二回りも離れていそうなものもいた。

 深沢の家族や、彼をよく知る友人・周辺住民にも確認をとったらしいが、見覚えのない人たちらしい。近隣の住民ではないということだ。ネットで知り合った人たちなのかもしれないが、インターネット上ではそれらしい、同志を募るような書き込みは今のところ見つかっていない。

 誘拐事件という線もないことはないのだろうが、身代金の要求は今のところでていない。


 三つ目の事件。秋戸町で52歳無職女性が行方不明となった。行方不明となった『光山登美子』は事件直前まで友人とお茶をしていたところが確認されている。これには友人からの証言、そして利用していた飲食店の店員の証言がある。また、光山とその友人はしばらくの間疎遠で、久しぶりの交友だったらしいことが知られている。

 しかしその最中に、『ちょっと急用ができた』と言い、理由を聞いても取り付く島もなく店を出て行ったという。

 この時点で既に違和感を覚えるのだが、重要なのがやはり今回も奇妙な集団が目撃されていることだ。10人前後の集団で、光山もその中にいたという。町中を歩いているところを何人もの人が見ており、光山と知り合いだった人物が話しかけたところで要領を得た返事を得られなかったという。

 そしてその会話の中で、得られた一つのキーワードがある。


 『お祈りにいくのよ』


 光山はそう述べたという。



***



 淹れたてのコーヒーの香りに満足そうに頷き、デスクチェアに腰を下ろす。こだわりというほどのものもなく、安物のインスタントでしかない。それでもコーヒーが持つ独特の香ばしい匂い、片瀬はそれが好きだった。

 一口だけ口に含んでカップをソーサーに置く。お湯で延ばされた安っぽい苦みが舌を舐める。酸味のある後味が舌に残った。

 そういえば、と過去の事件を調べている際に少し気になることがあったのを思い出した。

 古谷結衣は新潟の生まれだという。そして件のサークルも旅行場所に新潟を選んだ。

 もしこれら3つの事件と、古谷の件に関りがあるというのなら、新潟のどこかでも行方不明事件が起きているかもしれない。

 当然ただの行方不明ではない。

 奇妙な集団が目撃されている事件だ。

 しかし新潟と一口に言っても県全体ではかなり範囲が広い。

 滝原が彼女の実家、そして旅行先を正確に知らなかったのは少し痛かった。結局三つの事件を調べ終えてからと後回しにしていたのだが、ちょうどそれも終わったのだ、手を出し始めてもいいかもしれない。


 そう考えていると、急に机の上で激しい振動音が響いた。意識外の出来事に片瀬は思わず腰を浮かせてしまう。ギイと椅子がきしんだ音を立てた。

 鳴っているのは手元に置いていた携帯電話のバイブレーションだ。何にもさえぎられることなく耳に届く振動音をまき散らし、ガタガタと机を小刻みに叩く、自己主張の激しいスマートフォンが目に入った。

 ディスプレイに表示されているのは見知った名前。

 ――滝原からの着信だった。


「よう、何か用か?」

「なにそれ、ダジャレ?」

「違うわ」

 自身から振った挙句に掘り下げる気はないらしく、あっそう、と滝原は話を進める。

 自由な奴だ。素直にそう思ってしまう。

「あんたたしかこの前結衣に会いたがってたじゃん?」

「まあ一回くらい会っては見たいと思ってたけど」

「だからさ、明日結衣の家に行くことにしたんだ」

 あんたも来なよ、と彼女はさらりとそう告げた。

「いや、急すぎるだろう! というか知らないやつ、それも男が家尋ねるとかいろいろと駄目だろ」

 予想もしていなかった内容に、思わず語調が荒くなる。電話の向こうで滝原が「うるさっ」と呟いたのが聞こえた。そして若干呆れを含んだような声で、「だいじょぶだいじょぶ、結衣もいいって言ってたし」とまるで何てことはないように口にした。

 いや、それにしてもだ、と片瀬はうろたえずにはいられない。この前とはいろいろと状況が違うのだ。確かにそのうち会ってみたいとは考えていたものの、それもせいぜいがそこらのファミレスや喫茶店、あるいは大学内で会うことを想定していたくらいだった。

 それが急に、しかも本人の家で会うなんて予想外もいいところだ。

「それとも、なんか予定でもあった? それなら私一人で行くからいいんだけど」

「……ないよ。というよりお友達は一緒じゃないのか?」

「まあね。大勢で押し掛けるのもあれだし」

 それに、と一息区切って彼女は続ける。ほんの少しだけ、そこには疲れた様子を感じた。

「他の子つれてってもあんまり話にならなそうだからねえ」

「……仲は悪くなってないんだろう」

「だからこそだよ」、と彼女はボソリと呟く。

「気を使って踏み込まないか、もしくは無理にいろいろ聞き出そうとして話にならないってのが目に見えてんの」

 ああ、だから外野が聞くのが一番だってことか。そう納得した。

「……本当に俺が行っても大丈夫なんだな?」

 念を押すような片瀬の心配も、滝原は「大丈夫だって」と笑いをこらえながらも保証してくれた。


「いやあ、ほんとに……」


「あの子の人見知りが治ったのは喜べばいいのか、それとも嘆けばいいのか」


 

***



 古谷正幸には古谷結衣という、四つ歳の離れた離れた妹がいる。正幸にとって可愛い妹であるのだが、同時に気がかりな子でもあった。

 幼い頃から結衣は内向的な性格だった。人に強く出ることができず、そのせいか友達作りにも苦労していた。誰にも声をかけることができずに砂場で一人遊びを始めるような結衣を見かねて、正幸は自分たちの遊びに混ぜていたのをよく覚えている。しかし年上の男子と一緒に遊ばせるのは結衣にとってどんな影響を与えたのだろうか、と思うことがよくあった。少しでも他人と触れ合う経験になってくれていたのであればいいのだが、もし当時から結衣が周りの少年たちに遠慮していたのであれば、そして結衣の遠慮がちな性格を助長してしまっていたのであれば、そう考えると悪いことをしてしまったのではと後ろ暗い考えになることも少なくない。


 小学校に入った頃にはいつの間にか同年代の友達もできていたようだった。それでも傍から見れば皆について回っている、もしくは周りに合わせている、いてもいなくても変わらないような立ち位置で、まだ幼かった正幸にとって何が面白いのかといいたくなるようなものだった。当然女の子の遊びというものを知らないからそう見えていたのかもしれないし、本人は満足していたのかもしれない。

 それでもやはり気がかりなことは変わりなかった。


 正幸が中学生になった頃、そして結衣が小学3年生になったあたりで結衣に新しい友達ができた。

 若狭麻美という結衣と同じクラスの女の子だった。クラス替えで一緒のクラスになってからの仲らしい。彼女と結衣はどうも馬が合うようで、結衣から聞かされる話の大半には彼女が登場するくらいには仲が良かったみたいだ。正幸が中学生になってしまったことで結衣の学校での様子を直接見ることはできなくなったが、話を聞いている分には――何より嬉しそうに、楽しそうに笑顔を咲かせていた結衣を見れば――うまくやれているのだと安心していた。

 麻美とは正幸も面識があった。彼女はよく家に遊びに来ていたため、正幸が学校終わりに早く家に帰った日には出くわすことも多かったのだ。正幸から見た麻美のイメージとしては利発そうな子という印象が強い。小学生もまだ中学年だというのに、年上の正幸にもしっかりとしたあいさつができ、初対面ではむしろ正幸の方が恐縮してしまったという恥ずかしい思い出すらあった。こう言っては何だが、結衣とはまるで正反対のような子に思えていた。

 兄としては妹に親友と呼べるものができたことに喜ぶ一方で、彼女以外の特別親しい――本音を晒せるような友人というものがいないことに少しばかりの心配もあった。社交性のある友人に影響されることで結衣の内気も治るかと期待したこともあったのだが、どちらかというと対人スキルの高い友人の陰に隠れてやり過ごすことを覚えてしまったようだった。


 正幸が中学で部活動を始めるようになってからは結衣と関わる時間も少なくなってしまった。思春期で距離を置いた、というわけではなく単純に時間と余裕がなかっただけである。人が足りないからと友人に請われて入った剣道部であったが、正幸自身が思っていたよりもやりがいがあり、また想像以上にきついものでもあった。妹と違い幼いころからアウトドアな遊びが好きだった正幸にとっても体力的についていけないことの方が多く、帰宅すれば夕食と風呂を済ませてさっさと寝てしまうような生活になったのだ。


 正幸は中学校を卒業し、高校生になってからも剣道を続けた。剣道を始めて1年も経つ頃には既に体力的にもある程度余裕ができていたのだが、生活サイクルは変わらず、また結衣との関係も変わらなかった。今になって思えば自覚がなかっただけで実は思春期というものが来ていたのかもしれない。正幸からすれば妹が心配なだけであったが、周りからは若干妹思いの枠を超えていたように見られていたのではないかと思う。そしてそれをどことなく感じ取っていたのではないか、とも。

 正幸が内心で言いようのない葛藤を抱えていた一方で、結衣の方も中学生になったのだが、友人関係は相変わらず若狭麻美にべったりらしかった。しかしたまに聞く結衣の学校生活から想像すると、以前に比べれば人付き合いは多少改善されていたように感じた。会話に出てくる名前も麻美一人ではなくなっていたのだ。中学生にもなったことで自己の確立ができた、というよりも自分の性格とうまく折り合いをつけられるようになってきたのだろうと正幸は考えていた。


 高校を卒業し、上京して大学生となってからは結衣との関わりもほとんどなくなっていた。年に数回新潟の実家に帰省して顔を合わせる程度だ。

 高校生になった結衣はもう十分大人びていて、内気だった性格も奥ゆかしいと言い表すことができるようになっていた。何度か会うことのあった若狭麻美もすっかり垢抜けて、こちらは理知的な美人、という言葉が似合っていた。

 ちょっとした騒ぎ――といっても正幸や家族の中だけでのことだが――があったのはこの後、結衣が大学進学を決めた時のことだ。

 結衣が選んだのは既に社会人になった正幸のいる都会の大学、そして麻美が選んだのは地元の大学だったのだ。つまり結衣は小学生の頃から10年間を共にしていた麻美と別れる選択をしたのだ。思わず喧嘩でもしてしまったのかと聞いてしまうほどの驚きだったが、理由を聞いてみればそんなことはなく学びたい分野のある学部が地元の大学にはないというだけだそうだった。そしてどうせ地元を離れるなら兄である正幸のいるところ、千葉県の方がいいのだ、とも。

 この言い分には両親も納得していた。一人暮らしさせるのは心配だったのだろう、正幸と二人暮らしであればと許可を出した。結衣の出した選択を応援したいと。

 本当に上京してしまって大丈夫かと、仲のいい友人のいない大学でまた一からやっていけるのか、と今思えばあまりにも子ども扱いが過ぎるような問いかけをしてしまったが、結衣は笑って大丈夫だと言った。


 二人暮らしをするからと新しく部屋を借りることになった。それまでは会社の単身寮で暮らしていたのだが、正幸が妹との同居の旨を上司に伝えると、気前よくファミリー向けの社宅を借してもらえることになった。

 引っ越しも終えてからしばらく経ち、結衣の大学生活もスタートした。はじめこそ心配していたが、結衣は大学でも無事友人を作ることができたようだった。

 結衣の手料理である夕食を食べながら聞く久々の学校生活の話は、どうにも充実しているようだった。楽しそうに話す結衣の様子から友人も皆いい人ばかりだとわかり、当初の不安も杞憂だったわけだと、正幸は安心した。それと同時にかつてはあれだけ内向的だった結衣が、少し見ないうちにずいぶんと成長したものだとしみじみとしたものだった。




 ――すべてがおかしくなったのは、結衣が大学3年生になってしばらくした頃からだろうか。

 友人関係も良好で、2年目の中頃に新しく始めたサークルも順調、そしてそろそろ研究室配属の選択が始まる頃だ。

 丁度ゴールデンウィークの最終日、結衣がサークル活動の旅行先から帰ってきた日のことだった。

 その日結衣は夕方に帰ってきた。「ただいまあ」と疲れたような声でリビングの扉を開け、フローリングの床に旅行鞄をどさりと重そうにと置く。そのままの恰好でソファ――正幸の座る対面に倒れこむようにして寝ころんだ。

 正幸が「しわになるぞ」と注意しても「わかってるー」と気の抜けた声が漏れてくるだけだ。結衣の旅行帰りの休日に見られるいつもの光景だった。

 特に見ているわけでもない、ただ点けられているだけのテレビ番組を結衣はうつぶせになりながら眺めていた。

 たしか芸能人の食べ歩き番組だったか。正幸もそれをぼうっと眺めていたのを覚えている。以前結衣の旅行話の中にでてきた地域だったはずだ。


 時間帯は夕方だったが、ゴールデンウィークということもあり社会人である正幸も家にいた。長旅で疲れただろうと、いつもは結衣が作ってくれていた夕食をその日は正幸が用意した。簡単なパスタとサラダ、そしてコンソメスープだ。正幸が作るとどうもシンプルになってしまう。レパートリーも少なく全部似たり寄ったりのだ。おそらく人によっては質素とすら言うだろう。そんな料理でも結衣はおいしそうに食べてくれるのだ。二人暮らしを始めた頃はにもっとちゃんとしたものを食べなさいと怒られたものだったが、結衣が夕食を作るようになってからはたまにはこういうのもいいよね、というようになった。

 自分の料理を誰かに食べてもらうというのはいい刺激になるらしい。一人のときは食べられればそれでいいと考えていた手持ちのレパートリーも、今では味だけは上達したと自信をもって言える。その日の出来も、悪くはなかった。

 慎ましい、しかし和やかな夕食を二人でとっている中、正幸は結衣に旅行はどうだったのかを尋ねた。お決まりというわけではないが、結衣の旅行帰りには大体いつも聞いていることでもある。旅先であったことを楽しそうに語る結衣を見るのは、正幸はとても好きだった。今回もきっといつもと同じだろう。


 ――そう考えていたのだが。

 結衣の口からは、耳を疑うような言葉が発せられた。

 今でも忘れられない。

 あの時の結衣の様子を思い出すだけで、背筋に冷たいものが走ってしまう。


「神様って、本当にいるんだね」

 

 心底感嘆したように、そう呟いたのだ。



***



「お兄ちゃん、ちょっと出かけてくるね」

 ソファに腰掛け、何となしに新聞を眺めていた正幸に向けて唐突に結衣が声をかける。

 無意識にピクリ、と右肩が上がった。

 結衣は肩に小さめのボストンバッグを掛けていた。出かける先は『ちょっと』で済むところではないのだろうことが一目で分かった。

「出かけてくるって、どこにだ? 今日は確か友人が家に来る日だっただろう?」

 正幸は努めて冷静に、突飛な行動を咎めるような口ぶりで答えた。

 しかし結衣は、まるで何てことでもないかのような笑顔でこたえる。

「うん。でも行きたくなっちゃったから」

 正幸の制止の声も無視し、結衣は玄関を後にした。

 とある休日の朝のことだった。



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