第1話

 チャイムが鳴った。

 間延びして、それでいて耳にいやに残る電子音。デスクチェアで微睡んでいた片瀬にとっては邪魔者以外の何者でもない。枕にしていた腕から起き抜けで若干不明瞭な頭をもたげ、訪問者の姿を想像してみる。しかし今日は特に宅配なども頼んでいないし、誰かと会う約束もしていない。誰が訪ねてきたのかまるで見当がつかなかった。

 そもそも自宅を教えた友人なんて数えるほどにしかいない上、その友人らも今頃はサークルの合宿やバイトなどで忙しかったはずだ。


 そうこうしているうちに、二度目が鳴り始めた。

 一度で諦めるようならばそれで良しと考えていたのだが、そううまくはいかないようだった。

 片瀬は記憶に抜けがないかともう一度今日の予定を振り返る。訪ねてきそうな友人の顔を一人一人思い浮かべていくのだが、該当するものはやはりない。

 他に考え付くとしたらセールスや宗教勧誘などだろうか。そうだとすれば面倒だ、と自然と眉根にしわが寄る。一人暮らしを始めてからそろそろ3年になるが今までその手の経験はなかった。そのためどう断るのがいいのか、また相手が強引な手合いだとして、追い返すにはどうしたらいいのかなど、そういったノウハウを持ち合わせてない。未知への対応にしばし逡巡したが、結局居留守を決め込めばいいのでは、と結論付けた。なにかと物騒な昨今アポなしの訪問に馬鹿正直に出る人も少ないというし問題ないだろう、と。

 そうと決まれば都合五度目になるいい加減煩わしい単調なリピートもヘッドホンで遮ってしまおう。正直なところ眠気も半ば冷めかけてしまっていたのだが、それでも『出る』という選択肢は最早なかった。半ばヤケである。訪問者との根競べだ。

 密閉性の高いヘッドホンをつけ、重くなった頭を今度は背もたれへと預ける。少し無理をして買った革張りのチェアに体重をかけると、沈み込むような柔らかさに上半身がゆったりと包まれていく。

 これなら二度寝もすぐのはずだ。

 適当にリラックスできそうな音楽でも掛けてもう一度眠ろうとしたところで――ドアを強く叩く音と聞きなれた声が聞こえてきた。



「や、邪魔するよ」

 片瀬が気怠そうな声で返事をしながらドアを開ければ、そこにはよく見知った顔があった。

 中学生の時からの付き合いで、現大学での同期生、滝原佳乃がビニール袋片手に立っていた。

「邪魔するよじゃない。何しに来たんだよこんな休日の真昼間から。非常識だと思わないの?」

「むしろ友人の家を訪ねるのにきわめて真っ当な配慮だと思うけどね、私は」

 まあ事前に連絡とかはしてないけど、と悪びれもなく呟きながら滝原はまさに勝手知ったる、といった顔でリビングへと向かっていった。

 片瀬はそんな彼女を呆れ顔で眺めながらも内心いつの間に靴を脱いだのだと感心とも驚嘆ともとれる感情を抱いていた。ふと目線を下げると、たたきには少し大きめのスーパーかホームセンターあたりで売っていそうな安物のサンダルが脱ぎ捨てられている。

 なるほどこれなら早いわけだ。


 リビングでは四つ足のセンターテーブルにビニール袋の中身を広げ、座布団の上にあぐらをかいて座る滝原の姿があった。袋の中身は野菜ジュースに安物の菓子パン、それとフルーツゼリー。これがもし酒につまみだったとしたら間違いなく彼女を女子大生だと信じなかっただろう。当てはまるのはくたびれた中年の男性か、もしくは女を捨ててしまった系のOLか何かだろうか。

 普段大学で見る『今時の女子大生』らしい恰好とはほぼ正反対の、軽く後ろまとめただけの髪や、皺のついたジーンズとダボついたパーカーという極めてラフな格好がだらしないというイメージを助長していた。外行きの恰好ではない、完全にオフの日の姿だ。

「化粧くらいしようとは思わないのか?」

「なんだよ、女は化粧するのが当たり前だって言いたいの? いやだね、女に夢見すぎの男とか」

 滝原はやれやれとでも言いたげな表情をしながら、こちらを見向きもしない。何をしているかと思えばコンビニ袋を漁り中からストローを取り出した。

 片瀬は自分だけ椅子に座るのもどうかと思い、同じく座布団を引っ張ってきてテーブルにつく。頬杖を突きながら、胡乱げにその様を眺める。

「俺だって外出するときは髪ぐらい整えるし髭だって剃るさ」

 身だしなみぐらい整えろ、暗にそう注意してもまるで気にした風もなく、鼻で笑う始末だった。

「いいじゃん、どうせ歩いて5分もしないんだ、誰も見やしないよ」

 言うや否や滝原は野菜ジュースのパックの口を開け、ストローを刺して飲み始める。500mlのゲーブルトップの紙パック。よく見ると開け口は反対側だ。

 滝原が言ったように、彼女の住むマンションもここから歩いて5分もしない。通う大学が同じせいか近所になってしまっていた。

 故に周辺の地理、というかどこに何があるかは当然把握しているし、利用する店なんかもよく被る。まあ、今回はそれ以前の問題だったのだが。

「コンビニ寄ってきたくせに何を言ってる」

 片瀬が放った追及の言葉に、ストローから透けていたオレンジ色が引っ込んでいく。滝原の視線もいつのまにかどこか明後日の方向を向いていた。

 彼女が持ってきた袋には青色のロゴマークがプリントされているが、これは近所のコンビニのものと同じものだ。ちょうど彼女のマンションから、ここにくるまでの途中にある。

 数瞬の間をおき、再び白い筒を上昇しだしたオレンジ色を見て、答える気はないのだと確信した片瀬はこれ以上の追及をやめた。これまで何度注意しても治らなかったのだ、言うだけ無駄だろうことは知っている。

 彼女の私生活改善は片瀬には荷が重いようだ。


「それで、結局何しに来たのさ」

 片瀬が話題を変えると、逸らされていた視線が戻り、滝原はストローから口を離した。

「どうせ暇だろうと思って」

 本当にそんな理由で来たのかと、胡乱げな眼差しを彼女へと向ける。用事もなく押し掛けられるほど気安い仲ではない、わけでもないが、気持ちの良い午睡を邪魔されたばかりの片瀬はそんな答えでは納得がいかない。今すぐ追い出して二度寝することも吝かではなかった。

 そんな片瀬の考えが伝わったのか、滝原も口元を若干引くつかせながら口を開く。

「まあ、ちょっと相談したいことがあってね。できれば直接話したいようなやつで」

「大学じゃダメだったのか」

「そうだね、あの子もいるし」

 彼女はやや伏し目がちにそう言った。紙パックがテーブルに置かれる。腕につぶされ、コンビニの袋がカサリと音を立てた。

 あの子とは誰だろうか。単純に考えれば、おそらく相談したいことがその『あの子』と関係しているのだろう。

「他人に聞かれるのは不味い内容なのか」

「他人に、ってより特定の人にかな。ちょっと友達のことが気がかりでね。古谷結衣っていう、眼鏡かけたショートボブの子のことなんだけど」

 片瀬はヘアスタイルの種類などわからなかい上、似たような特徴の人物など大学には腐るほどもいるわけだが、滝原とよく一緒にいるというフィルターをかけると思い当たるのは一人だけだ。なるほどあの子のことか、と納得する。

 件の古谷という人物は他数名の女子と合わせて滝原がよく行動を共にしている、いわゆる仲良しグループの一人だ。確かに大学内で会おうものならもれなく彼女もついてくるため都合が悪いのだろう。しかし事前に用事があると言えば問題ないように思えるのだが。それも何かあるのだろうか。

 それにしても女子の交友関係について相談されても片瀬にはアドバイスできるようなことは何もないし、最悪恋愛沙汰だったとしたらそれこそ間違いなく人選ミスだろうと思う。

 その旨を滝原に告げると彼女は「あんたにそんなことは期待していないよ」と苦笑した。

 ならばなぜ自分に相談するのかと問えば、「あんたはほら、変なことばかり知ってるじゃん」と、にやにやとした顔でそう告げた。

 趣味なんだ、別にいいだろうと言いたくなるが、ムキになって掘り下げられてもたまらない。

 ともかく、相談の内容はその古谷結衣についてらしい。片瀬は乱れた場の空気を正すため続きを促した。

「結衣ってば結構おとなしい子でさ、知らない人と会うときなんて大体私か里穂の後ろに隠れちゃうような感じ。身内の間でもちょっと一歩下がって自分の意見を強く言えないタイプなんだよ」

 話の流れからすると里穂というのは別の友人のことだろう。

「でも、少し前からちょっと変わってきてね。なんていうかな……あんまり人に対して物怖じしなくなってきてさ」

 これだけ聞くと、何もおかしくは感じない。

 それよりもむしろ――

「なんだ、いいことじゃないか。まさかとは思うが可愛がってた妹分がーとか、そういうのじゃないだろうな」

 茶化したわけではなかったのだが、片瀬は思わずといった風に彼女の話に水を差してしまった。案の定最後まで聞けよと滝原は軽く流す。当然だ、これで話の内容が終了だとしたらそれは相談ではなく単なる愚痴かそれ以下だ。

「そんな簡単な話だったら私だって嬉しいさ。でも、本当うまく言えないんだけど、自分に自信を持ったとか、そういったものじゃなくて……相手のことを考えていないというか、無遠慮というか」

 うまく言葉が思いつかないのか、滝原は「なんていうかな……」と何度か繰り返しつぶやき、うんうん唸っている。

 片瀬は彼女が考えをまとめているうちに、自分なりにも古谷の変わりようとやらを想像してみることにした。滝原が言うには古谷は人に物怖じしなくなった、そして相手のことを考えていないようなことを口にするようになったらしい。ぱっと思いつくのは口が悪くなったとか、相手を見下すようになったとか、そういったものだろうか。しかし内向的な人物が急に悪口を言えるようになるだろうか。

 元々心の中では、といったタイプの人ならばそれもあり得るのかもしれないが、それは片瀬にも滝原にもわからない。心の内は本人にしかわからないのだから。

 いまだ言葉が出てこない様子の滝原を見かねて、片瀬はとりあえず確認のためにと思いついたことを口にした。

「今までいい子だったのに急に悪い子になったってことか? 悪口言ったり他人を見下したり」

 片瀬の問いかけに滝原は唸るのをやめ、手をひらひらと振って否定する。

「いや、悪口のわの字もでてこないほど素直でいい子だよ。そう、素直なんだ」

 片瀬の考えは外れたようだが、どうやら彼女の助けにはなったらしい。滝原は神妙な面持ちを作る。

「最近の結衣はなんだか素直すぎるんだ。言葉にフィルターが掛かってないというか、相手の話すことに興味がないというか。ストレートに話すことも多くなったし、あとはまるで『それがどうしたの』とでも言わんばかりにほかの人の話題をぶった切ることが増えたんだ。前までの自分の意見が言えなかったってのも問題だとは思ってたんだけど、最近は話を合わせる気がさらさらないというか、話が続かない分、まあコミュニケーション能力的には前よりも下がったね」

 別に相手を嫌ってるとか下に見てるわけじゃないんだろうけど、と滝原は締めくくった。

 そして神妙な面持ちが続いたのもここまでだ。

 言うことは全て言い切ったのか、彼女は持ってきた菓子パンを頬張りだす。後はそっちで考えろとでも言わんばかりの様子に片瀬は軽くため息を吐く。大事な話をしているかと思えばすぐにこれである。彼女にはいつも真剣さが足りていない。長続きしないといってもいい。片瀬にとっては慣れたことであったし、場を硬くしすぎないのはいいことでもある。が、空気を読めと言いたくなることには変わりない。


 言っても治らぬそれはさておき、それにしても素直すぎるときたか、と片瀬は腕組みをしながら古谷の変化とやらに思考を向ける。

 正直なところ片瀬にとってこれは予想外だった。初めに考えていた、それこそ他人の悪口を言うようになった、など小さな変化であれば色々と鬱憤が溜まっていたんだろうとかちょっとやさぐれてるんだろう、とそれらしい答えも簡単に思いつく。

 もし相手を見下すようになったのであれば、実はもともと嫌いな人物だったのかもしれないし、もしくは何か嫌なことでもされて嫌いになったのかもしれない。しかし今まで通りの〝いい子〟を保ちつつ、一方で天然の毒を放ち、そして相手の言葉に興味を持たなくなった――簡単に言い換えるならば究極的な自分本位になったということだろうか――というのはどうも腑に落ちない。

 それはもはや人格改変の域ではないか?

 おそらく古谷自身も無自覚にそのような態度をとっているのではないかと片瀬は思う。 滝原も古谷を素直すぎると評した。

 もしこれが故意による変化、例えば悪気があってのことならば、はじめに片瀬が考えていたものと大した変わりはないし、自身の引っ込み思案な性格を嫌って直そうとしている、などの理由であれば努力の方向性を間違えていると笑って指摘できるようなものであるのだが。

 なるほど滝原も誰かに相談しようと思うわけだと片瀬は納得した。

 元々そういうタイプの人間というのは探せばよくいるだろう。程度の差こそあれ、さして珍しいほどでもない。空気が読めなかったり、自己中心的だったり、あるいは天然だったりとかそういう言葉でひとくくりにされている人達が近いだろうか。しかし急に性格――この場合人格だろうか――が変わってしまったとなれば話は別だ。性格だとか人格だとか呼ばれているものは一定以上の人生経験によって形成されていくものであると片瀬は考えている。この人生経験とは家庭環境や交友関係、またどういった教育を受けてきたかなども含めての長年培ってきたものを指し、それらは後にどれだけ衝撃的な出来事を経験したとしても容易に突き崩されるものではないだろう。それが急に変わったともなれば周囲の人間はそれは驚くことだろうなと思う。その様は、実に簡単に思い描ける。

 そしてこれは医学部ですらない一介の大学生である片瀬には手に負えない相談であることもわかった。あまりひどいようであれば精神科か心療内科のカウンセラーあたりに相談すべきことだろう。片瀬にはそれらしいアドバイスすら思いつかない。

「それで仲間内でギスギスしてきたとか」

 片瀬の言葉に「そういうのはないな」と滝原は首を横に振った。

「まあ初めのうちは確かにひと悶着あったりもしたけどねえ。でもあの子、喧嘩してることにも気付いてないみたいで」

「それは……どういうことだよ」

「いくら仲良しだからといっても何度も話ぶった切られてるとそりゃ怒るでしょ? 別の子、七海って言うんだけど、七海がそれでキレちゃってね、ちょっと喧嘩になったの。でも七海が結衣に対して喧嘩腰だってのにあの子、まるで気にした風でもない上に、七海にだって普通に話しかけてるし、周りの私たちが結衣のこと咎めたりしても意図が通じてないみたいでさ。さすがにこれはちょっとおかしいんじゃないかってね。当の七海まで心配し始めて、喧嘩どころじゃなくなったってわけ」

 その時の様子を思い返しているのだろうか、滝原は遠い目をしていた。それも止んだかと思えば、深いため息で締めくくった。

 手にしていた菓子パンはいつの間にかテーブルの上だ。

 

 話を最後まで聞いた片瀬は、これまた困惑する羽目になった。今度は喧嘩に気づかないときた。それもおそらく鈍い、では済まされないレベルなのだろう。

「それはまあ、なんというか」

 今度は片瀬が言葉に詰まる番であった。アドバイスどころか、滝原にかける言葉すら見当たらない。せいぜいが『お疲れ様』ぐらいだ。先ほどからまともなことを言えていないことがひどく情けなく感じた。

「七海が一番心配してるくらいだよ、あの子なんだかんだでかなり優しいし。今のところは仲間内だけで済んでるけど、もしこれが直らなかったらって考えると……結衣の将来が心配だわ」

 そういうと滝原は疲れたように肩を落とした。ため息は幸せを逃がすというが、先ほどの大きなソレで、今まさに彼女から幸せが逃げていったのではないかと感じてしまう。普段見せる不遜とも取れるほど自信に満ちた彼女の姿はそこにはなかった。


 気まずい沈黙が室内に流れる。片瀬はいまだ言うべきことが見当たらず、滝原もとりあえず思いつくことはすべて言ったのか、頬杖を突き視線は部屋の隅へと向いている。人差し指だけがどことなく所在なさげに頬の上で動いていた。

 片瀬はどうしたものかと内心頭を抱えた。

 自分の部屋で気まずい空気を味わうことになるとは一時間も前には想像もついていなかった。殺風景なほどにものが少ないはずの自室が、やけに圧迫感を与えてくる。

 どうも落ち着かないと片瀬はおもむろに立ち上がり部屋の窓を開けた。外の新鮮な空気がこの陰気なムードを洗い去ってくれることを期待したのだ。

 滝原はそんな片瀬の行動をなんとなしに眺めていた。

 それも飽きたのか、ゼリーのふたをぺりぺりと剥がし始める。

「げ、スプーン入ってない」

 そんな声が背後から聞こえた気がした。

 昼も過ぎ、日も西に傾き始めたこの時間帯はちょうど西に面した部屋を明るく、そして暑くさせる。そんな室内に流れ込む秋風は寒いというほどではないが肌を刺激するような冷たさを持ち、心なしか思考をすっきりとさせてくれるように感じた。

 いつの間にか日が傾くのが早くなり、夏の暑さも鳴りを潜めた。最近は五月蠅かったセミの声も随分と遠くなってしまった。


 そういえば、と片瀬は少し気になることが思い浮かんだ。

「なあ、その古谷って子の態度が変わったのっていつからなのか?」

 風を頬に感じながら片瀬は尋ねた。

 片瀬がたそがれている間にキッチンからスプーンを持ってきていた滝原は「そうだなあ」と、いつのことだったかと過去に思いを馳せる。

「ひどくなったと思うのは割と最近かな。それこそ喧嘩になりかけたのも夏休み入る少し前くらいだし。おかげで折角の夏休みなのに遊ぶ計画も満足に立てられなかったし……予定が穴だらけだよ」

 滝原は片瀬の方を見ながらくつくつと笑う。

 別に暇人というわけではない。そんな反論は飲み込んだ。

「でも、結構前からちょっと変だなーって感じることは多くなってたな」

 記憶を更に思い起こすように、彼女は切れ長な目をそっと閉じる。

「そうだな、ちょうどゴールデンウィークが明けた頃からかな。連休に出された地球科学の課題のレポート、あの真面目な結衣が忘れてきたんだ。それで大変だ大変だって皆してからかったんだよ。いつもの結衣ならどうしようどうしようって可愛く慌てるところだし、実際私たちもそれを期待してからかったんだけどね」

 もちろん遊んだあとは手助けしてあげるつもりだったよ? と彼女は続ける。

「でもそうだな、結衣のリアクションは思ってたのと違って、『あーそんなのもあったねえ』くらいの返答だったんだ。それ聞いてもうびっくりしてね、結衣が悪い子になった! とか一皮むけた! とか皆して騒いだんだったなあ」

 今では悩みの種でしかないが、当時の彼女にとって楽しい出来事だったのだろう。語る滝原は複雑そうな笑みを浮かべていた。

「ゴールデンウィーク中になんか心境の変化でもあったんじゃないのか? 何か、価値観が揺さぶられるような事とか」

 人格が変わることはそんなに簡単なことではないはずだ。しかしそれが変化するほどの経験をしたか、もしくはきっかけを得て少しずつ変容していくというのであればあり得ることなのかもしれない。

「ゴールデンウィークか、何してたっけ」

 滝原は顎に手を当てる。しばらくじっとそのままでいた。少しして記憶がよみがえってきたのだろう、ポツリポツリと口を開く。

「そういえば、あの時も何もなかったんだっけ。七海は実家に帰るっていうし、里穂はバイト。結衣はサークルの活動があるとかで」

 サークル活動、ならば人間関係だろうかと片瀬は推測した。

「サークルって、何のサークルだ?」

「旅行サークルだよ。結衣が勇気を出して一人で入ったサークル。まあ、食われそうなところじゃなさそうだったから安心してたんだけど……そうか、サークルか」

 滝原は何か納得したようにつぶやいた。顎に当てていた手はいつの間にか口元を覆うように添えられている。

「……男ができたようには見えなかった」

「あ、そう……」

 一番最初に疑うのはそこなのか。予想外の言葉に脱力する羽目になる。

 そしてそれ以降、彼女はなかなか口を開かず、難しそうな顔で目を閉じている。

「他には?」

 焦れた片瀬が問うと、滝原は半目を開けきっぱりと「ない」と告げた。期待はずれもいいところだった。先の態度は一体なんなのかと問いたくなる。

「いや、そういえば結衣ってばサークルのこと全然話題にしなくてさ」

 片瀬の内心を察してか滝原は取り繕うように笑った。

 古谷が所属している旅行サークル。名前は『マタ旅』らしい。名前はアレだが、特に猫は関係ないらしい。名付け親が猫好きだったのか、それとも『また旅に行く』ということなのか。

 サークルで何をやったとか、何が楽しかったとか、どんな人がいるのとか、そういった話もないのかと尋ねるが、回答はやはり「ない」のワンパターンだった。滝原自身も件のサークルが気になるのか、それとも期待させておいて申し訳ないとでも思っているのか、「こればっかりは後で聞いてみるしかないね」と苦笑いを浮かべた。

「どうせ休みなんだし、明日にでも聞いてみればいいんじゃないか? 向こうがいいって言うなら俺も会ってみたいし」

 初めは面倒に思っていた片瀬だが、今となっては関わる気満々だった。どうせ残りの夏休みも暇なのだ。それに滝原が自分に相談しにくるほどの問題を抱えた古谷という女性を見てみたかった、というのもある。野次馬と言われればそれまでだが、どうもここで手を引いてしまっては収まりがつかない。迷惑だと言われれば、やめる気ではいるが。

 しかしそんな片瀬の興味は思わぬことに阻まれることになった。

「ああ、それ無理だわ。結衣ってば今旅行中だし」

 サークルのね、と素気なく告げた。

「ここでそれか。どこに行ってるんだ?」

 片瀬は内心肩を落として聞いた。聞き方が悪かったのか、まさか押しかける気? とでも言いたげな目が向けられていたが、当然そんなつもりはない。

「どこだったかな……ああ地元っていってたっけ」

「地元? 古谷さんの地元って観光地なんだ」

「さあ」

「さあって……どこ出身とか知らないのか」

「新潟ってことくらしか知らない」

「それじゃ結局どこに行ったのかわからないじゃないか」

 普通はそんなものかと思いながらも、知りたいという欲求が激しく主張している。大事な情報が激しく足りていない。ピースの欠けたパズルから完成図を想像しようとしているような気分になる。

 悶々とした気分の片瀬を知ってか知らずか、滝原は話を続ける。

「んー、さっきも言ったと思うけど結衣ってばサークルのことあんまり話したがらないんだ。どこに行くとかも。昔はそれなりに教えてくれてたんだけどなあ。京都とか、紀伊とか」

「せっかく話題になりそうなもんなのに」

 片瀬の疑問に、「いやあそれがね」、とバツが悪そうに事情を話し始めた。

「本当あの子、人見知りだったからさ、サークルに入った直後なんてちゃんと馴染めてるか心配になってねえ。皆して色々聞くから質問攻めみたいなことになって、それで拗ねちゃってさ。そんなに心配しなくても大丈夫だから、って」

「なんだよお前が悪いんじゃないか」

 隠しているわけではないのだろうか。サークルで、もしくは旅行先で何かあったのではと考えていた片瀬からしたら若干当てが外れてしまったことになる。

「どこ行くのかってのも、有名どころ以外だと聞いても『それどこ?』ってなるからかもね。実際、前聞いたのは全然知らないところだったな。結衣も初めていく場所だからよく知らないって言ってたし」

 それはどこか、と片瀬は目で訴えかける。

「『あすこ』ってとこ。印象に残ってたから間違ってはないと思うよ」


 『あすこ』。

 どこか聞き覚えのある地名だった。漢字に直すと『阿洲湖』だろううか。


「そういえばこの頃以降だったかな、聞いてもあんまり答えてくれなくなったのは」

 そうしみじみと呟く滝原を横目に片瀬はどこで知ったのか必死に記憶を掘り返してみるが、なかなかあたりが引けない。

「どしたの?」

「いや、どこかで聞いたことがあった気がして」

 それを聞いた滝原は感心したように声を上げる。

「へえ。やっぱり私たちが知らなかっただけで普通に観光名所だったりするのかもね。旅行サークルが選ぶくらいなんだし」

 疑問が解消されたような滝原とは対照的に、片瀬は首をかしげたままだ。マイナーな地名をふとしたことがきっかけで目にしたのだとしても、それが観光スポットかと問われると素直に首を振れない。腰が重いタイプの片瀬は旅行なんかしないため、観光地に詳しくなんてない。それこそ歴史的に有名だったり、代表的な名所だったりでもしないかぎり知らないと言ってもいい。興味がないのだから当然旅行雑誌なんて読まないし、ネットで調べることもないのだ、必然的にそういった情報を目にすることも少なくなる。

 ならば一体どこで知ったのだろうか。覚えているほど気掛かりなものだったのだろうか。

「他にはどこいったとかは知らないのか」

「いや、うーん、ちょっと待ってね」

 少しの空白を挟む。思い出したのだろう、彼女はああ、と呟く。

「あとは『なんのとうげ』とか『あきどちょう』とかなんとかってところだった気がする。知ってるのは多分これだけ」

 そう告げた彼女は、心当たりでもあった? と視線を向ける。

 そしてそれを受ける片瀬の心情は困惑でもあり、やはりそうか、と得心のいったものでもあった。

 『南野峠』に『秋戸町』。

 どこかで聞いた覚えのある地名である。ならばこれは偶然知ったものではなく片瀬が意図して調べたことのある場所なのだろう。そして、この三つの場所には何かの繋がりがあるとも。もちろん観光地なんてものではないだろう、そんなものは調べない。

 片瀬が興味を持って調べるようなものといえば――




 滝原が帰った後、片瀬は一人パソコンに向かっていた。先の会話で得られた『阿洲湖』『南野峠』『秋戸町』という三つの地名。

 これらをもう一度調べるためだ。どこで知ったか、どうして調べたのか、そしてどういった関係があるのか。思い出したわけではないが、既に想像はついていた。


 片瀬の趣味は〝探偵の真似事〟だった。とはいっても実際に何か活動したりするわけでもなく、とあるサイトで行方不明事件や未解決事件などに関してネット上で有志と考察し合う。その程度だ。

 世の中には事件の風化を避けるため、凶悪事件や未解決事件を取り扱うサイトというものがいくらか存在している。しかし片瀬が利用していたのはそういった真っ当なお題目を持ったものとは少し逸れた、あまり趣味のいいとは言えないサイトだった。

 言ってしまえば少し拗らせた者たちが集まるようなところだ。

 そんなサイトに入り浸っていることからわかる通り、片瀬は探偵に憧れている。いや、正しくは憧れていたのだ。小説やドラマ、漫画などと違って颯爽と事件を解決することなんて滅多にないだろうことを知り、また稼ぎとしても現実的ではないと早い段階で諦めもついた。心の底にあるのは、かつて見た夢の残滓だけ。

 そんな片瀬にとっては、こういった集まりがあることに歓喜したものだった。一時期は特に熱中し、一日中画面に向かっていたりもした。今でも、暇なときなどはたまに覗いている。時間潰しとしても、よく利用していた。

 燻ぶった憧れを、欲求を、そのサイトで晴らす。今も昔も、それだけで十分満足できていた。

 未解決なものを扱うためか、本気かどうかは別として考察にオカルト染みたものが交じってくることも多く、必然的にそういった知識が増えるようになった。滝原が『変なこと』と指摘したのもそのことだった。


 件のサイトにアクセスし、自身のアカウントでログインする。会員制のサイトだ。もっともアカウントを取得しなくても閲覧はできるし、会員になっても特段利用料金が発生するということもない。ただ書き込みすることはできない、それだけだ。

 新着のページがいくつかあったが、タイトルを流し見するだけにとどめ、検索欄へと移動する。そして例の地名を一つずつ打ち込むと、片瀬の予想通りそれらのすべてにヒットするページがあった。古いものでは3年ほど前のものもあるが、これらには共通点すらあった。


『阿洲湖、19歳の男子大学生が行方不明』

『南野峠、34歳の会社員男性が行方不明』

『秋戸町、52歳無職女性が行方不明』


 やはり、観光スポットなどではなかった。

 すべて行方不明事件が起きた場所だったのだ。




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