錆色の天使

難点

第0話



 男は途方に暮れて空を見上げた。しかし、目の前に広がるのは真っ白い水蒸気の粒ばかりだ。頼りにしようとしていた太陽を目にすることもできない。周囲は冷たく深い霧に覆われ、視界の広さなど精々が男の周辺に疎らに生える樹木、その太い樹幹がちらほらと見える程度だ。少し歩いた感覚では、木々はシラビソやトウヒなど、針葉樹が多いようだった。それほど高くまで来ていなかったのだが、すぐ下のブナ帯までは、どうやら落ちなかったらしい。

真っ白という色を伴った空気が、頬を撫でながら吹き抜けた。

辺りではカサカサと葉が擦れる。

騒めく樹冠からは雨のように水滴が降り注ぐ。吹き付ける風と、露の冷たさに思わず身震いをした。先ほどまで暑いばかりだったはずが、吹き上る冷たい山風にかき回され、生ぬるくなったように感じる。汗をかいた体ではあまり好ましくない状況だった。


――これは一雨来るかもしれない。


 まとわりつく湿気がひどい。

 男の足元一面に群生しているシダやササもそれぞれの葉に水滴を纏い、いかにも重そうにだらんと首を下げている。そして、たった今そのシダに覆われた斜面を転がり落ちてきたばかりの男も、当然体中ずぶ濡れの有様であった。土のにおいが鼻につく。

 撥水・耐水性の高い登山服を着ているとはいえ、これだけ濡れるとさすがに効果も薄いようで、水のしみ込んだ衣服が体の熱を奪ってくる。この上雨にまで降られるといよいよもってよろしくない。夏場だから必要ないだろうとアウターを持ってこなかったことに、男は激しく後悔した。

 果たして自分はこれからどうするべきか。

 帰り道もわからないのに自力で山を下りようとするのは論外だ。男が今いるのは日帰りできる程度の山である。しかし天候が悪く、登山道を外れてしまって道もわからない。土地勘があっても危ないだろうに、ましてただの休日の登山客に過ぎない男がそんなことをすれば遭難すること間違いなしだった。同様の理由で元の山道に戻るというのも無理だろう。ならば雨風をしのげそうな岩陰でも探すか、それとも仲間が探しに来てくれるのをおとなしく待つか、その二択といったところだろうか。男はそう考えて、後者はないとすぐに断じた。男が滑落したのはかなりの急斜面だ。幸い飛び出た岩も少なく、頭をぶつけるようなことはなかったのだが、だからといってこの急斜面を意図的に降りようとするのもリスクが高い。もし落ちたのが自分ではなかったのなら、男は間違いなく追いかけるのではなく救助を要請することを選んだだろう。

 であるならばできるだけ遠くへ行かず、それでいてどこか休めるところを探すのが良いだろうか。

 男は痛む足を引きずりながら歩き始めた。

 真っ白い霧は音すら飲み込んでいるのか、虫の声も、鳥のさえずりも聞こえない。シンとした、耳が痛むほどの静寂の中、一歩一歩男が踏みしめるじゃり、じゃり、ざく、ざく、という地面の音、そして足とこすれてさざめく草の音しか耳に入らない。音も景色のない世界はこんなにも寂しいものだったか。見渡す限りの霧。埋めつくす白に気が狂いそうになる。この霧は一体どこまで広がっているのだろうか。もしかすると自分のことを覆うように漂っているのではないだろうか。

 馬鹿な考えだ。山を下りていけばいずれ霧は晴れるだろうということはわかる。こういった霧は下のほうから上ってきた風が姿を変えているだけだろう。このまま山頂のほうまで行って、雲になって雨が降るのだ。

 雨に降られてはかなわないと、男は歩み続ける。当てはないが、動かねば見つかりもしない。滑った際にぶつけたか捻ったのだろう、足を地に突くたびにジクリと痛みが走る。鋭い痛みが神経を走るたびに、男の体力と気力その両方が容赦なく奪われていく。

 座ってしまおうか。

 一度休んでしまおうか。

 そう、甘いささやきがどこかから聞こえてくる気がした。

 また、ズキリと足が痛んだ。

 触れてみなければわからないが、熱もあるように感じる。歩ける分、折れてはいないようだが長くはもつまい。最悪這って進むことになってしまいそうだった。

 しかし、崖上から転げまわったというのに折れてはいないだけ望外の幸運でもある。そもそも死んでない時点で奇跡である。そう考えると案外天には見放されていないのかもしれない。ポジティブに考えるだけで、ほんの少しとはいえ気が楽になった。信心深いたちではないが、神頼みでもしてみようか。30余年生きてきて、祈ったことなど一度もない。そんなを無神論者でも救ってくれれるような神様だといいな、と男は自重するように笑った。

 さくりさくりと歩を進める。降り積もった細かい枝葉を敷き詰めた腐葉土は柔らかく、そして沈む。

 しばらく歩くと、先の男の考えを肯定するかのように、あるいは神の施しのように、やや鬱蒼とした灌木の枝葉とシダの向こうに礫岩の黒みがかった崖が見えた。そして、ちょうど雨風をしのげそうな岩陰が、真っ白い霧の中でぽっかりとその黒い口を開けていた。

 それを認めると、男は目を輝かせて先を急いだ。びっこを引くように、ひょこひょこと小走りになる。一瞬とはいえ足の痛みも忘れるほどの歓喜だった。

 近くまで寄ってわかったことだが、初めは崖にできた窪みか何かだと思っていた岩陰は案外深そうな穴だった。横穴・洞窟といっていい規模だ。穴は入口ばかりがやや狭く、中に行くほど少しずつ下に伸び、そして広くなっていってるようだ。パッと見ただけでも人ひとりなど平気で収まることがわかる。バックパックからヘッドライトを取り出し、手で持って照らす。先がどうなっているかを確認すると、足場となる場所に目星がついた。少し足を延ばせば届きそうである。

 飛び出た礫岩の上はスギゴケで苔むし、赤や黄土色の地衣もへばりついている。迂闊に踏めばずるりと転げ落ちるだろう。そうでなくても湿気でてらてらと光る岩場はどうにも滑りそうではあるが、積みあがった岩というわけではないのだろう、崩れそうな様子はなくしっかりしている。おそらくは慎重に下りれば問題ない。

 ライトを奥のほうへ向けると、伸びる光は少し先の壁にぶつかったようだった。よく見ると突き当りに横道のように広がり、曲がった先に更に道が続いていることがわかる。思った以上に、かなり深い洞窟のようだ。男は次第に冒険心とでも呼べるものが胸の内に芽生え始めた。体調さえ万全であればここを探検してみるのも悪くなかっただろう、そう思う。冒険云々はともかくとして、少なくとも雨風は凌げるだろうと洞窟の中へと足を踏み入れた。

 今度はライトを頭につけて、空いた両手で体を支えながら岩の上に足をつける。いかにトレッキングシューズとはいえ、泥にまみれた靴底ではまた滑ってしまいかねない。滑らないかを何度か靴底を擦り付けることで確かめ、もう片方、痛むほうの足もおろす。岩にへばりついていたコケがはがれ、めくれ、落ちた。

 うっすらと赤い粉が、胞子のように舞った。


 二足をつくと、座り込むことなくもう少し深いところまで進む。入り口付近では最悪雨風が入ってきてしまう。折角奥まであるのだ、使わなければ勿体ない。足の具合も見たいが、それも落ち着いてからでいいだろう。

 ほんの少しでも歩くと、目に入る光景も変わってくる。どうやらコケが生えているのは入り口付近だけのようで、そこらの地面、壁は先ほどの地衣類だけしか残っていない。それも黄土色のものは減り、赤茶のものが多くなる。

 更に少し歩くと、すでに暗さが空間を満たし、ライトなしでは自身の手足すら目にすることはできなくなった。ここまで進む必要はなかったのだが。あまり暗いとケガの手当もできない。

 さらに言えば先ほどまで歩いていた柔らかな土の地面と違い、岩石でできた足場は疲労のたまった足にはやや痛い。そうでなくても片方は痛めているのだ、芽生えた冒険心はしまい込み、休むのがいいだろう。あまり先まで進むのはやめたほうがいいかもしれない。


 ――頭ではそう考えていた。


 いや、そう考えようとしていた。何か理由をつけたかったのかもしれない。しかし視線も、足も、洞窟の深い深いところへと向かっている。男は足を止めることはなかった。

 歩を進めるたびに、洞窟内に滞留した淀んだ空気が鼻孔へと流れ込んでくる。霧とはまた違った湿り気を持った空気は、顔に張り付くような粘り気がある。ぬるりとしたそれは息苦しく、不快以外の何物でもない。そのはずなのに、なぜだろうか、あまり気にならない。むしろ体は、または心のどこかで心地いいとすら感じている。

 無性に惹きつけられるもの、その正体は男にはわからない。

 白い霧も洞窟内まで届かず、ライトを使えば暗いとはいえ先の見える透明な世界。だというのに何かに体が包み込まれるような感覚を覚え、胸中では気味の悪さと誘いこまれてしまうような魅力の二つが鬩ぎ合っている。

 地面を踏みしめるごとにペキリパキリと罅が入る。もろくなっているのか赤茶色の岩肌がまるで薄皮がはがれるように剥けていく。

 ――粉が舞う。

 薄皮のような層の下もまた赤茶色の地面、岩肌であった。

 その様はどうにも、異質なものに見えてしまう。どこか違和感を覚えるのだ。

 先ほどから地面はこんな色をしていただろうか。赤茶色の地衣こそいたが、岩場までそうだったか。なぜ、痛くないのか。

 確かめるように四方をライトで照らせば、いつの間にか岩肌は外で見たような黒みがかった灰色ではなく、一面が赤茶色に、いや赤黒くなっていた。風化した岩だとか、――例えば赤鉄鉱のように――金属を含むだとかで赤くなった自然な岩石には見えず、どうも濁ったとでもいうべき色合い、そして泥状のものがへばり付いたかのような広がり方をしている。不自然極まりない。

 それでもやはり、一番近いのも、あり得るのも錆だ。

 まさに一面を錆が覆っているかのようだった。

 右手をそっと岩壁に伸ばし、壁に触れた指先を撫でるように動かす。鉄臭さは感じない。

 ざらざらとした質感のほか、脆い表面はぽろぽろと崩れ、剥がれ落ちた。

 現れるのはまた赤茶色の岩肌だ。

 ただそれだけなのに、男は酷い不安感を覚える。不安は想像を加速させ、次第に恐怖へと変化していく。たとえ突飛と思えるような考えでも、混乱し始めている頭では論理的に否定することができない。痛みと疲れで気が弱くなっている、ということもあったのだろう。

 ――どこか変なところに迷い込んでしまったのではないか。

 ――あのぽっかりと開いた入口は、迷い込んだものを捕らえる罠だったのではないか。

 ――どこか、普通ではない世界の入り口だったのではないか。

 背筋に冷たいものが伝うのを感じた。じっとりと肌にまとわりついていた湿気とは、また違ったものだ。体はいつのまにか冷えていた。ぶるりと身震いをする。

 先ほどまであった冒険心は既に萎え、いつの間にか得体のしれない薄気味悪さと入れ替わっていた。

 ここは、まるで異界だ。

 とんでもないところへ来てしまった、そう後悔の念にかられながらも男は足を止めることはなかった。

 ゆっくりと、ゆっくりと歩を進める。

 片足をつき、反対の足を引きずるようにして進む。

 ずっずっ、と足を引きずる音と、岩石の薄い表面が割れ、崩れる音だけが辺りに響く。

 ――赤黒い粉が舞う。

 感じているのは恐怖だろうか。いや、間違いなく恐怖のはずだった。

 いつしか単調な音しか響かなかった静寂の中、高く唸る心臓の音がやけにうるさく感じるようになった。

 恐れるのなら、なぜ歩むのだろうか。

 疲れはどこへいったのか。

 痛みはどこへいったのか。

 男はただ静かに、洞窟の中を歩きながらそう考えていた。考えるだけだ。答えは出ないし、おそらく求めてもいない。

 恐怖していたはずだったのに、今は半ば無心だった。無心と何かの間。

 何かは、何だ。

 悪いものではない。

 満たされていく感じ。遭難の不安と、怪我の苦痛がだんだんと遠のいていく。

 ――赤黒い粉が舞った。

 ライトが照らす岩肌が、とても美しいもののようにも思えてきた。まるで希少鉱石のように魅力的だ。指先に残った砂礫の感覚を確かめる。

 ――足りない。

 壁に触れ、剥がれた薄層、岩の欠片を痛いほどに握りしめる。

 ――足りない。

 こんなものでは満たされない。もどかしさはいら立ちをも引き起こす。握った手に熱いものが走った。鉄の匂いがした。

 ――足りない。

 

 ふと、男は何かを差し出された。

 よくみるとそれは羽のようだった。

 羽だ。

 昆虫のような羽。

 黄土色と、うっすらと赤がマーブルのようにさす、羽。

 男はそれを受け取り、ゆっくりと握った。

 かすかに震える小指から親指までを順に折り、愛おしいもののように握った。

 手のひらからじんわりと熱が広がる。静脈を通じてゆっくりと、温かくドロッとした何かが体中に伝わっていくような感覚が全身を走る。それは胸のあたりまできたかと思うと、今度はもの凄い速さで全身へと広がっていく。

 冷え切っていた体に温度が戻っていくような快感だった。

 男はしばらくその場に立ち尽くしていたが、この先にあるものが何なのか、ひどく知りたくなった。彼はそれを教えてくれるという。

 ならばついていくべきだろう。

 ――ゆっくりと、ゆっくりと、洞窟の中を進んでいく。

 ――ゆっくりと、ゆっくりと、塔の中を下っていく。

 男はそれが見たくてしょうがないのだ。

 それに会いたくてしょうがないのだ。

 単なる好奇心でも、冒険心でも片付けられない。この止められぬほどに焦がれる興味は、本当に自分が望んだものなのか、最早わからない。だがこの先にあるものはきっととても素晴らしいものであることだけは、男は確信していた。

 手のひらの羽が鈍く胎動した。


 ――ぐじゅり、ぐじゅり。


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