第2話
出発の段になると、途端にライゼルは高揚した。それは、これまで待ち侘びた遠出という事ももちろんあったろうが、初めて駆動車に乗れる喜びもあったから余計に、であったのかもしれない。
駆動車。ベスティアの一般的な運搬手段であり、流通発展の功労者である。踏板による足漕ぎ式の乗用車で、これがまたすごい事に誰にでも運転できてしまうのだ。操縦そのものは、操縦桿を回転させて車輪軸を旋回させるだけだし、足漕ぎ踏板を交互に踏み込む事で車輪に連結した歯車を回転、駆動させ前進させるという優れた代物。
歴史的な傑作とも持てはやされ爆発的に生産された駆動車ではあるが、フィオーレの村でそれを所有する人間はいない。生産された駆動車のおよそ九割が、官吏と国営の運送業に移譲されており、個人での所有者はほとんどいない。いるとすれば、一部の富豪のみだろうか。故に、姉弟にとっては、単純に物珍しいものなのだ。ビアンにとっては乗り慣れた物ではあるが、こうも物珍しがられると鼻が高い。
早速、その駆動車に乗り込む三人であったが、さも当然のように運転席に座するライゼルに、ビアンが飛び蹴りを見舞わなければならないのは、これからの道中を暗示しているのだろうか。
「させろよ、運転!」
「させるかよ、クソガキ!」
渋々ながら運転の任をビアンに譲ったライゼルは、後部座席に先に乗り込んでいたベニューの隣に座る。
ライゼルが経験もない運転を買って出たのは、興味本位という面もあるが、素直に後部座席に座りに行くのが如何ばかりか躊躇われたからだ。その理由は同伴者にあった。ライゼルは心なしか姉の隣に座る事に抵抗がある様子で、居心地の悪さからぎこちなくなる。後部座席に座る姉弟の間には、奇妙な距離があった。
「よし、乗ったな。道中、大人しくしているように」
ライゼルが乗り込んだのを確認し、車は目的地クティノスに向かって走り出す。とはいえ、その道中にいくつもの集落を経由しなければならない。そのまず第一が隣村のボーネだ。
これから数日かけて、目的地まで旅する事となる。辺境の村から王都までの道程となると、それなりの覚悟を要する事となる。先を急ぐのであれば、陸路だけでなく水路も使う事になるだろう。天候に恵まれなければ、そのどちらもまともに機能しない事だって十分想定できる。生半可な心積もりで臨めば痛い目を見るだろう。
と、やや大袈裟に言ったものの、それがフィオーレ、ボーネ間であれば、そう複雑ではない。ほぼ一直線に伸びた道路をひたすら道なりに進むのみ。帰りも同じ道を歩くだけなので迷子のなり様がない。だだっ広い平原に通された道路を辿るだけだ。
交通網が単純化されているのは、何もここだけに限った事ではない。各地の都市や村を舗装された道路が結ぶ。これも国が施行した政策の一つである。十年前の戸籍作成が行われた年に、すぐ道路の整備が開始された。単に道路の整備と記したが、範囲はまるごとベスティア王国全土である。王は、各地に住まう臣民の居住状況を把握した途端に、交通網の整備を提言したのだ。
そして、これこそが前国王を賢王たらしめる手腕なのだが、この歴史的な大規模な工事に、認知したばかりの全国民をすぐさま雇用してしまったのだ。各自治体に道路工事の仕事を斡旋し、現在の制度を浸透させ始めた。王国が仕事を手配し、国民は労働力を提供した見返りに対価をいただく。国に奉仕する事で生活の糧を得るという概念が、道路の舗装が広がるに比例して、全国民の意識に浸透していったのだ。まさしく王の狙い通りで、強引にでもこの仕組みの中に各自治体を組み込む事で、各人に王国民である事の自覚を促したのだ。
王国全土に及ぶ道路整備は大成功し、物資の流れも人の流れも飛躍的に円滑になり、文化交流や技術革新に大きく貢献した。そのおかげでこうやって集落間の移動も容易く行えてしまう訳なのである。
中でもボーネ、フィオーレ間の往来は比較的に容易だ。普段のお使いでも半日歩けば着いてしまう距離であり、駆動車なら一時間と掛からない。目的地がボーネだったなら気楽なものだ。手ぶらで出掛ける事だってままある。
だが、昨日の時点で目的地は変更された。ボーネなんていう近場ではない。先も記した通り、道程は片道だけで数日を要するのだ。それなりの日数、村を離れる事になる。
だから、訊かずにいれなかった。ライゼルはそっと隣の姉の方を見やる。
「荷物少なくないか?」
普段見るより少しばかり高くなった車の視点からの景色が珍しいのだろうか、黙して車外を眺めているお目付け役。隣の位置からはその表情も窺えない。仕方なく、できるだけ当たり障りのないように声を掛けた。何故ライゼルがその話題に言及したかというと、ベニューの膝の上には手提げ袋が一つ抱えられているだけであったが為だ。袋の口が閉じているので、傍目では中身は分からない。が、小量なのは明らか。まるで本当に近所にお使いに行く程度の手荷物。
「行き先、分かってるだろ?」
「うん、王都クティノスでしょ?」
感情のこもらない淡々とした声で返される。というより、生返事に近い返事。だが、正しい返答であるが故に、これ以上は突っ込みづらい。ベニューが勘違いしていないという事は、その手荷物が相応しい量だと判断されたものだという意味を持つ。世間の事には、ライゼルよりよっぽど通じているベニューだ、準備を怠った訳ではないのだろう。
問うたライゼルの方はと言うと、昨日届いた支給品全部に加え、着替えの六花染めが数着と水筒、そして、昨日収穫した豆を非常食として巾着袋に詰め込められるだけいっぱい。おかげで、脇に置いた背嚢はパンパンに膨れている。それを脇目でちらりと見ながら、咎めるように指摘するベニュー。
「ライゼルの荷物が多すぎるだけでしょ。私達は聴取に出向くだけであって、そんな大荷物は必要ないの。旅に出る訳じゃないんだから」
「…う」
ベニューは頑としてライゼルの旅立ちを許す気はないらしい。今回の件は、単に出頭でしかなく、ライゼルの外出を許したのも飽くまでビアンの要請があったから。認識としては、ただの数日間の出張。姉弟に行動の自由はなく、ビアンの指示に従う腹積もりだ。
「王様に謁見が適ったら、すぐにフィオーレに帰らなきゃ。おじさん達にずっと畑任せてる訳にもいかないでしょ」
「それはそうだけどさ」
こうも正論をぶつけられると何も言い返せない。この姉を相手にしていると、どうしても自分が子供なのだと認識させられる。今日こうしてベニューが同伴していなければ、ライゼルは思う存分にはしゃぎ、それをビアンに叱られ、未だ出発できていなかった可能性も否めない。村の人間に迷惑をかけて、それを失念して自身の野心を優先させる自分は、やはり姉に至らないのだと思い知らされる。
いや、それは思い知らされるまでもなく、骨身に染みた事であった。ライゼルはこれまでの人生において、ベニューに優ったと思い上がった事など、只の一度としてない。どんなに言葉を尽くしても、彼女には勝てる気がしない。それは、彼女に二代目フロルという肩書があるからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。
ただ、劣る事は認めたとしても、服従している訳ではない。そうでなければ、とうの昔にベニューのような聞き分けの良い利発な子供になっている。言い負かせられないとしても、同じ倒れるのでも前のめり。一応は抵抗しておかないと気が済まない。理解はできても飲み込める程に大人ではないのだ。
「でも、元々畑もウチのじゃない、借りてるだけだ。返せば…」
「ライゼル!」
飽くまで食い下がる減らず口に、ようやくお目付け役がライゼルの方を向く。叱りつけられると覚悟したが、そうはならなかった。ベニューは何かを言い掛けて、飲み込んで、ライゼルを静かに睨みつける。
自身の反駁に言い負かされた訳ではないというのは、ライゼルも承知だった。呆れたり、愛想を尽かされたりというのもあっただろう。だが、今のベニューに普段のような、例えば昨日ライゼルを説教した時のような威厳はない。それが余計にライゼルを落ち着かせなくする。肩透かしというべきか、予想していた手応えがない。
ライゼルは、何も姉を困らせたいのではない。本心では、姉の普段と違う様子の理由を確かめたいだけなのだ。しかし、それを難なくこなせる程ライゼルは器用ではない。つい、喧嘩腰になってしまう。
「なんだよ」
ライゼルには窺い知れない。彼女が何を言おうとしたのか。ただ、自分が咎められる事柄なのだとは理解できる。考える、姉は自分に何と言い訊かすつもりだったのだろう。原因が自分の失言だったことは明白。失言の内容。畑に関連する事柄。土地。
「染物もどこでだってできるだろ」
それがライゼルのひねり出した答え。姉は畑だけでなく染物の工房の心配をしたのだろう。姉は染物で名を馳せた人物だ。知る人ぞ知る六花染めの先駆者。ならば、関心はそこに向くはずと考えた。事実、昨夜は簡単な片付け程度しか出来ていない。染料となる花も反物の生地も、管理を怠ればすぐに状態を損ね、商品として取り扱えなくなる。そういった点から、染料や反物を心配し、早く戻らんとするのも分かる話だ。
であれば、姉の気掛かりを減らしてやるのも弟の役割かもしれない。少しでもベニューの気の休まるようにと、言葉を選んで説得する。
「ベニューならどこでだって仕事できるよ。フィオーレにいる理由はないだろ」
ライゼルには知る由もない事だが、気休めにと思った言葉が、余計にベニューの気に障る。この場で訂正すればいいものを、ベニューも間違いを指摘しないので、知らないライゼルは、見当違いな提案を続ける。
「それに花じゃなくても染料はいくらだってあるだろうし。野菜や木も試してみたら?」
言葉を飲み込んだ彼女とは違ってライゼルはこうなのだ。続けてしまう。沈黙に耐えられず、言葉を紡いでしまう。頭に浮かんだ事を言わずにいれない。
「工房の話をしたいんじゃないの。ライゼルは」
そこまで言われて、ベニューもようやく言い返す。ベニューの表情には、我が弟ながら何故こうも分からず屋なのだろう、という呆れの色が見える。僅かに怒気も滲ませているだろうか。
だが、ベニューの関心はそこにはない。より適した言葉を選ぶなら、目に見えて分かる所に、ベニューの不安材料はない。ライゼルのこういう面を今更口酸っぱく言うつもりは更々ない。では、何を言わんとするのか?
「ライゼルは、もしかして」
ベニューの心には、とある疑念が渦巻いている。ここ数年のライゼルを見ていたら、沸き起こってきた疑惑。特に昨日のライゼルを見たら、疑念に確証が加えられた気もする。ライゼルの脇に置かれたパンパンの背嚢が、その疑惑をより決定づけている。
しかし、それを本当に言葉にしていいものかと戸惑ってしまう。もし、疑問を口にして、ライゼルがそれを否定しなかったら。ベニューは心を穏やかに保っていられる自信がない。姉弟喧嘩などでは済まない深い溝が出来上がるのではないかと、強烈な恐怖心に駆られてしまう。姉弟喧嘩は幾度となく繰り返してきたが、それを超えた先を二人は知らない。極端な例だが、母との別れを経験しているが故に、その一線を越える事が恐ろしい。
で、あればこそ、
「…やっぱりいい」
この期に及んでも、やはり普段のように説き伏せるような事はせず、言葉を噤む。それを口にするだけの勇気をベニューは持ち合わせていなかった。
ライゼルには分からない。姉が胸に秘めた想いと、その秘めなければならなかった理由を。少し遡って加えるなら、何故ベニューが窓の外に顔を向けていたのか、残念ながらライゼルには想像できていない。
そして、咎められるのは何も弟だけという事はない。顔色を窺われたベニューも分かっておらず、心得ていなかった。彼女は我慢するべきでなかった。ベニューもここで叱っておくべきだったのだ。弟同様に言葉を紡ぎ、思いの丈を伝えるべきだった。そうすれば、ライゼルも次の言葉を吐かなかっただろう。
姉の釈然としない態度にじれったくなったライゼルは、つい要らぬ事を口にしてしまう。
「だいたいベニューは構い過ぎなんだよ。畑や工房が気になるんなら一緒に来なきゃよかっただろ」
ぶっきらぼうを装い、そう言い捨てて、その直後、
―――パシン!
と、無言の平手打ちを頬に見舞われた。
「なにすんだよ」
「…そうだね。一緒になんて来なきゃよかったね」
ライゼルの左頬がじんわりと赤く腫れる。じんと痛む。姉がライゼルに手を挙げたのは初めてだったかもしれない。母からは何度も受けた仕打ちであるが、姉からは一度もない。徒手空拳を交える姉弟喧嘩でも、ベニューは手加減してライゼルに一撃を喰らわす事はなかった。姉からの始めてもらった一発。痛みと驚きと、そんな感想。
と、そう思ったが、痛むのより先に認識したもの、いや、痛みを忘れる程の印象を与えるものが目の前にあった。久しく見なくなっていたそれ。母を亡くしてからは、一度も記憶にない。
「ベニュー、泣いてるのか?」
見逃してしまいそうなくらい、思わず気付かない振りをしてしまいそうなくらいに僅かではあるが、ベニューの目尻には滴が認められた。それを涙だと認識した瞬間、ライゼルの息が詰まる。大失敗したと渋面を晒しているのが自分でも分かる。言うべきでなかったと後悔する。
ベニューもその問いには答えず、代わりに運転席のビアンを呼ぶのだから、余計に救われないのだ。
「ビアンさん、しばらくしたらボーネですよね。そこで降ろしてください」
突然の要求にビアンも戸惑う。戸惑いながら、大声を上げ後方に確認を取る。ベニューの大声をビアンは初めて聞いた。何と可愛げのない、大人びた声なのだろうと運転席で一人そう感想を抱く。
「それは構わないが。いいのか、俺が引率できるのはクティノスまでで、フィオーレまで送り届けられないんだぞ?」
それは、姉弟が昨夜ビアンから聞かされた事。王都で昨日の件を報告し、その後に解放されるのだと。ビアンの保護を受けられるのは王都に着くまで。つまり、ライゼルが王都という大都会で単独の自由行動になるという事。ベニューは、ライゼルを一人で自由にすると不安だから、とお目付け役として同伴しているのだ。
だが、その任を放棄するとベニューは言う。つまり、こういう事だ。
「構いません。ライゼルの、弟の好きにしたらいいんです」
ビアンがいる運転席からは、先程の後部座席の会話は聞こえていなかった。だから、ビアンにはこの姉弟に何があったのかは分からない。ただ、様子から察するに、姉は弟の言動に呆れ、愛想を尽かしたのだ。彼らの年頃なら、別段珍しいやり取りでもないか、と疑問も持たず納得した。
「そうか。もうボーネは目の前だ。村の入り口で降ろしてやろう」
この顛末から行くと、ビアンはただの足代わりに使われただけのような気がしないでもない。が、元々、用があるのは実際に戦闘を行ったライゼルだけだ。目撃情報は、ビアン本人がいるので事足りている。ベニューに出頭してもらう必要はない。もし、王への謁見が適ったとしても、ベニューを列席させるつもりはなかった。
数分後、後部座席は沈黙を保ったまま、フィオーレ村の隣村、ボーネ村に到着した。フィオーレと違い、柵に囲われたボーネの村。フィオーレと比べると幾分か大きく感じるのは、家屋のすぐ脇にも畑がある事とちらほら商店が並んでいるからだろう。
ライゼルの目の端に、勿体付ける事もなくあっさりと下車するベニューの後ろ姿が映る。いとも容易く帰宅を選んだベニューであったが、ライゼルにはそれを咎める事は出来ない。そうさせてしまったのは、自分の我儘と、思慮の浅さなのだから。
フィオーレとさほど変わらない田舎の景色を背景に、軽装のベニューがライゼルとビアンを見送る。こうして見ると、質素な貫頭衣を身に付けたベニューの姿は、この素朴な風景によく馴染んでいる。村の外へ出かけるのに、お気に入りの六花染めを着ていないのは、どういう了見かと疑問にも思ったが、この結果を思うと納得できる。ベニューには、初めからこうなる事が分かっていたのかもしれない。ベニューは住み慣れた村へ留まり、ライゼルは見知らぬ土地へ旅立っていく。田舎町に違和感を与えるのは、駆動車と大荷物を携えたライゼル。その土地に相応しくないのであれば、それに相応しい場所へ行けばいい。ここに長く留まるのも芳しくない。
ベニューを降ろし駆動車も次の目的地へ向き直る。あとは出発するだけだというのに、ライゼルの多すぎる荷物を決してベニューは預からない。ベニュー自身の言葉通り、ライゼルは飽くまで聴取に出向くだけだ。こんな荷物は不要であり、王都に着くまではビアンが面倒を見てくれる。食料も何も心配要らないのだ。であれば、取り上げて然るべき、加えて、叱るべきなのだ。だが、ベニューは先同様に行動の選択を間違える。為すべきことを為さない。今日のベニューは、彼女らしくない。
「じゃあね、いってらっしゃい」
「…うん、行ってくる」
弟のライゼルも、らしくない。勝手にしろと言われ、行動の制限を解除された上、自由を許されたのだ。ライゼルとしては願ってもない僥倖。これで存分に自身の野望を叶える事が出来る、十年来の野望を。王都までの御遣いを済ませば、ライゼルを縛るものは何もない。
では、何故少年の顔は浮かないのだろう? 少年がその胸に抱いた望みは、フィオーレの皆と天秤に掛けても叶えたい夢のはずなのだ。今更、喧嘩別れを悔やむ程、ライゼルの意志は弱くない。先日のテペキオンとの戦闘で、大怪我さえも顧みない程の野心家であるというのは既に証明済みだ。
とは言え、ビアンにとってそれは考慮する懸案ではない。ビアンは職務に忠実に、事態の報告をせねばならない。未知の能力を持った人物が国内で悪事を働くという事態は、看過する訳にはいかない。すぐにでも王国規模で対策を講じなければならない。それに比べ、姉弟喧嘩は無視しても構わない些事だ。役人は民事不介入が原則だと言わんばかりに、一切干渉しない。姉弟喧嘩の仲裁を買って出る程、ビアンも暇を持て余していない。
「では、帰り道には気を付けるように」
ベニューをボーネに残し、ライゼルを乗せた駆動車は次の経由地へ走り出す。徐々に小さくなっていく姉の姿。思えば、姉と離れて過ごすのは初めてかもしれない。これが何という感情なのかは分からないが、鳩尾の辺りがキュッと締め付けられた気がした。
「何も訊かないの?」
微かに呟いたライゼルの問いは、彼とは対照的に威勢良く鳴らされる車輪の音に掻き消される。ビアンは一刻も早く王都に辿り着かねばと車を飛ばす為、走行音は大きくなるし、ビアンもライゼルから意識が逸れる。大声を上げればビアンに届くのだろうが、それはそれで気恥ずかしさもあり、さすがに気が引けた。ただでさえ、ビアンには世話になっている。姉弟喧嘩の仲裁を頼むには、ライゼルはもう少し面の皮を厚くしなければならない。だが、そんな鉄面皮を持ち合わせているなら、仲違いする前に不和の原因を姉本人に問うている。
考えても出ない答えならば、こうやって思案を巡らすのは時間の無駄かもしれない。出来る事は、罪悪感と後悔に苛まれる事くらいである。ライゼルは独りになった後部座席で、一人深いため息をついた。
同じ頃、ライゼルを見送り、ベニューの口からふと溜息が漏れる。ちょっとした罪悪感と、それに対する後悔の念の混じった溜息。心の中にじくじくした膿が溜まっているような感覚。吐き気がするのに嘔吐できない感覚に似ているかもしれない。それなのに、吐瀉物は間違いなく自身の内にあると意識させられるのだから、非常に耐えがたい感覚だ。
「…行っちゃった」
ああは言ったが、特にボーネに用がある訳でもない。ここに来たくて降りたのではなく、ライゼルと一緒にいるのが精神衛生上よろしくないと判断された為だ。あれ以上一緒に居たら、泣き面を晒すだけでは済まなかっただろうから。これまで必死に装ってきたお姉さん然とした皮が、ボロボロと剥がれ落ちてしまっていた恐れだってあった。その危険性を孕んで同伴するくらいならと思い切って降りたものの、本当にここにいる理由はそれ以外にない。全く用事がない訳でもないが、晴れない心持のまま済ませたいと思う雑用はない。
「違うなぁ」
思わず口を吐く否定の言葉。本当はそうじゃない。これからどうしようだとか、急に変更してしまった予定の消化などに思う所はない。そんなものはいくらだって取り返しがつく事案だ。今日一日を無駄に費やしたからと言ってなんだというのだ。これまで家の事を一手に引き受けてきたベニューが、雑用程度で後れを取る事はない。例え、一週間家を空けたとしても、三日も本気を出せば、相応の仕事量を終わらせる事くらいできる。
ベニューが心を痛めているのは、そんな他愛のない事ではない。未だ実感の湧かない弟とのしばしの別れ。こればかりは、しっかり者のベニューであってもどうしようも出来ない。もし今、急いで追い掛ければ、間に合うだろうか。運よく停まっている事だってあるかもしれない。でも、
「間に合うって何だろう?」
例え、追い掛けたとして、追い付いたとして、ベニューはライゼルに何と言えばいいのだろう。
結局、ライゼルは王都へ出向かねばならないし、どうしても数日は村を離れなければならない。では、「自分が村に残り、家を守っているから、必ず帰って来るように」と念押しでもすればいいのか? その念押しに果たしてどんな意味があるのだろう? それが本当に自分の本意なのだろうか? 分からない事だらけだ。自分でも心の整理が出来てないと自覚できる。
「ライゼルに帰ってきてほしいのかな、私」
そう独り言ちて、村の入口の柵の脇に腰かけ、膝の上に置いた手提げ袋の口を開ける。中からふわっとした甘い花の匂いが広がり、優しく鼻孔をくすぐる。常温で香りを発する香料を入れた袋であり、どこへ行くにも手放した事のない匂袋。母から譲り受けた、『フロル』の肩書以上に大切な物。
手のひら大の匂袋を、やや乱暴なくらいに力を込めて抱きすくめる。同時に、押し付けた胸の辺りから、先より強い匂いが広がる。そのおかげで、少し心が安らいだ。この香りに包まれていると、いつもの自分に戻ってこられる気がするし、事実そうであってほしいとも思う。この匂袋は、亡き母フロルの忘れ形見なのだ。
弟はこういう物を一切持たない。幼くして母を亡くした子供なら、その思い出に縋りたいという気持ちは、ベニュー以上に強いはずだ。母が没したのが、ベニュー7歳、ライゼル6歳の時である。特にライゼルの場合、母を亡くした経緯を考えると、より顕著なはずなのだ。
だが、ライゼルは忘れ形見も持たず、更には思い出の詰まった家さえも飛び出そうとしている。姉弟はこれまでの生涯をあのフィオーレの家で過ごした。暑い日も寒い日も、季節が何度巡っても、二人が帰るのはあの家だった。言うなれば、あの家はベニュー達の全てなのだ。これまでの思い出もこれからの生活の糧も、全てはあそこにある。あの家を、あの土地を離れるという事は、それら全てを捨てる事と同義と考えられる。
「ライゼルは、そうなのかな」
これまで弟と一緒に過ごしてきた。早くに母を亡くした事で、一般より早く大人にならざるを得なかったベニューであったし、弟の母代わりとまではいかなくても面倒を見てきた。ライゼル自身も素直な性格であり、村のみんなの助けもあった事で、本当に自慢の弟に育ったと思う。言葉遣いは母に似てやや乱暴な所もあるが、心根はとても優しい男の子。
体が大きくなってからは、求められれば嫌な顔一つせず力を貸し、村の誰からも必要とされていた。夕食時にはその日の出来事や村民とのやり取りを嬉しそうに話す事もままあった。銀貨を大目にくれただの、野菜を分けてもらっただの。その時の弟は、決まって笑顔だったことを覚えている。ずっと同じ時間を過ごしてきた弟は、ベニュー同様にフィオーレの村が大好きなのだと思っていた。
しかし、知らない内にライゼルの興味は外に向き、都会で名を馳せる事を目指すようになっていた。その事自体は決して悪い事だとは思わない。だが、想像していなかった。弟が自分の元を離れ、家を、村を出ていくという事を。まだそういう点では、ベニュー自身も子供だったのかもしれない。昨日の姉弟喧嘩で打ち明けられるまで、弟の抱いている劣等感についぞ気付かなかったのだから。母や姉の存在が、弟を苦しめているという事を。
自身の想像力不足に気が滅入る。が、どれほど悔いた所で、結果として弟は王都へ向けて出立したのだし、もう手遅れなのだ。次にいつ会えるかも、彼が帰ってくるかどうかさえも分からない。連絡の取り様もないから、ベニューに出来る事は、ただ弟の行く末を祈る事ばかりである。この鬱屈した気持ちを解消する手立ては、今の所はない。
ただ、だからと言って、自分もいつまでもここにいても仕方ない。我が家のあるフィオーレの村に帰ろう。そう思った矢先の事であった。
「おい、『ライゼル』はどこにいる?」
立ち上がったベニューの目の前に、いつの間にか見知らぬ大男が仁王立ちしている。身の丈はベニューの倍以上あるだろうか、まるで巨木かと見紛うほどの体躯を有する男。膨れ上がった全身の筋肉がその男の強さを誇示している。見慣れぬ衣装の上からでも、その屈強な肉体は尚主張している。
(見慣れない装い、身分証もない。でも、つい最近どこかで見たような)
その大男は、顔は正面に向けたまま視線だけを下げて、自身の落とした影の中のベニューを見やる。その大きすぎる体格の影響もあるだろうが、ベニューがその見知らぬ男に畏怖したのはそれだけが理由ではない。男の顔に感情らしいそれが見当たらなかったから。路傍の草でも見るかのような無感動な様子。質問を投げかけているくせに、ベニューをまるで人として認識していないかのような無関心さ。話しかけられているのに、無視されているという矛盾を孕んだ違和感。
しばし、質問の意図を吟味するベニュー。ライセルはどこにいるのか。素直に文章を捉えれば、居場所を尋ねている事になる。だが恐らく、注目すべき点はそれでなく、本質はそこにはない。
この男は何故、ライゼルを探しているのか、いや、それ以前に何故知っているのか。村の人間以外に名前を知られているというのは怪しい。ライゼルは、フィオーレでこそ誰からも手伝いを請われるが、隣村にまで名の知れた有名人ではない。ベニューさえ、二代目フロルと呼ばれる事はあっても、本名で呼ばれる事はほとんどない。
それを踏まえると、この素性の知れぬ巨漢に対し、なんと答えていいのか分からない。反面、素直に答えるべきでないという事は、何となく察する事が出来た。この男は善意や厚意を持ってライゼルを探している訳ではなさそうだ。返答には細心の注意を払わなければならない。
「すみませんが、わかりません」
虚言だと悟られぬよう、出来るだけ丁寧に存ぜぬ旨を伝える。人は嘘を吐く際に余計に語りすぎるものだ、という事をベニューは心得ている。相手に納得してもらおうと言葉を尽くしてしまう心理が働くのだそうだが、知らぬというなら知らぬのだ。伝える言葉はそれだけでいい。
男はその返答をどう捉えたのか、相変わらずの無感情の視線をベニューに向ける。その射殺さんばかりの注視は、ベニューに身じろぎ一つ許さない。迂闊な挙動を見せれば、心を見透かされそうな気がした。
そして、ベニューの返答後、たっぷり間を取ってようやく言葉を紡ぐ。
「何故だ? お前はライゼルを知っているだろう?」
この問いに、ベニューの直感が危険信号を感知する。男はライゼルとベニューの関係を知っている。あるいは、一緒に居るところを見た事がある。おそらくは後者。しかも、ごく最近。今回、ライゼルと一緒に村の外へ出たのは、久方振りであった。という事は、この男はつい先程までライゼルを尾行して来ていたのではないだろうか? 可能性は十分にある。
どうしたものかと思案し沈黙を守るベニュー。虚言が見透かされたとなると、相手もどんな対応を取ってくるか知れたものではない。こちらに恭順の意がない事を知れば、大男の取る行動はおそらく…
「どうした? 何故答えない?」
男はベニューの予想通り、その大きすぎる腕を伸ばし掴み掛ろうとする。が、元々その男に対して警戒を抱いていたベニューは、咄嗟にその動きを察知し回避する。もう問答の余地はない。男は得たい情報の為に実力行使に及んだのだ。
(逃げなきゃ)
身の危険を感じたベニューは、柵を迂回し村の中に向かって駆け出す。頼れる人間がいる訳でもないが、ベニューを見知った人間くらいは居るだろう。ベニューが二代目フロルだという事は、ボーネの大半の人間が知っている。きっと匿ってもらえる。そう期待して逃げ続ける。ベニューが逃げ出したのを見て、男も村の中へ進入してくる。
「助けてください。追われてるんです」
そう大声を上げながら、豆の特産地ボーネを駆け回る。
村の景観はフィオーレのそれとさして変わらない。家屋も同様の建築様式であるし、生活の水準もほとんど差がない。隣村のフィオーレで買い求めたダンデリオン染めを着回す習慣も同じくである。
ただ、両者の差異について特筆するなら、その最たるものとして豆の木が挙げられる。この地に人々が住み着く以前の大昔から生えていると言われる、村の外からも見える大きな豆の木。ボーネを訪れる人は、この巨大な豆の木を目印にしてボーネを目指すと迷わずに済む。このように、異様な成長を見せる植物は各地にいくつか存在し、土壌の豊かな証と信じられている。そのどれもが縁起物として扱われ、その地へ人々が集まってくる要因とも言われている。
そして、その豆の木の膝下には、フィオーレの花畑に代わり、豆の木を中心にした広大な豆畑を望む。豆の村に相応しく、ボーネの生活は特産品である豆に根差している。豆がボーネの経済を回しているのだ。
加えて、大きな違いは、フィオーレにはない商店がある事。近隣の村々からも頻繁に来客がある。それもあって、この周辺では比較的に人口の多い村と言える。人通りは多いので、ベニューの期待するように作用してくれるかもしれない。
ボーネの人間達は、慌てて走ってくるベニューを見つけて、初めは困惑顔を浮かべる。が、その少女の後ろを追って来る巨漢の男の姿を認めて、ベニューを案じてくれる。何か騒動が起きているのだとすぐに察してくれた。
「こっちへいらっしゃい」
普段贔屓にしている反物屋のおばさんが家に招いてくれる。この商店は近隣の村に多くの顧客を抱える村一番の大きな商店で、店主であるおばさんも気風のよく、面倒見のいい人物だ。ベニューが暴漢に襲われているとあれば、理由も聞かず匿ってくれる。ありがたい話だ。
おばさんは、我が身でベニューを庇うようにして目隠しになる。ベニューを引き寄せる力強さが、ベニューに安心感をもたらす。我が子同然に助けてくれる店主に、感謝の念が絶えない。
おばさんも咄嗟の事でベニューを匿ったものの、事態が分からないでは手助けのしようがない。緊迫した様子は見せつつも、ベニューに優しく尋ねる。
「二代目、あいつは誰だい?」
その問いにベニューも何と答えていいか。身分証(ナンバリングリング)も身に着けておらず、一切の素性が知れない。ただ、はっきりしているのは目的がライゼルという事だけ。
「私にもよく分からないんですけど、その」
おばさんの厚意に甘え、客を迎える為の店舗に飛び込み、一安心と安堵したのも束の間。天井が軋み、細かい木片がぱらぱらと二人の頭に降ってくる。気付けば、男の大きな体が間口を塞いでいた。男は止まらない。まるで暖簾を手で避けるような気安さで、商店の軒先をぶち壊す。大きな音を立てて壁が割れたかと思うと、掴んだ先程まで軒先だったものを、ベニュー目掛けて投げつける。
「止してください」
身軽に躱すベニューに当たらなかったが、壁に架けられた飾り棚に激突し、瓦解。商品棚に並べられたきめ細かい鮮やかな柄の反物が、棚から落ちて地面の泥にまみれる。
「なんて罰当たりな真似をするんだい!」
おばさんの大声での叱責も耳に届いていないのか、ひたすらベニューだけに迫る。この巨漢には、一般的な良識や罪の意識など備わっていない。ベニュー以外は目に入らないと言わんばかりに、追従の妨げとなる家屋を次々に破壊しながらベニューを追いかける。
「ねぇアンタ。ふざけた真似も大概にしな」
おばさんがベニューを付け狙う男を引き留めようと腕を引っ張るが、男の猛進は一切緩まない。どころか、歩く際の腕振りだけで、おばさんの制止をいとも容易く振り解く。そうして、巨漢の腕力に引っ張られたおばさんは、体勢を崩し、俯せの状態で地面にその身を打ち付けてしまう。
「あいたっ」
これではまずい。このままでは、ご厄介になった先が全て倒壊してしまう。それに、親切心で庇ってくれた人達が大怪我を負う羽目になる。それはベニューも望まない事。この異様に大柄な男は、同じく異様な感覚の持ち主なのだ。常識が一切通用しない。止まらない。止まらない。ならば、このままここに身を置くのは得策ではない。
「こっちです」
せっかく身を隠せた家屋であったが、迷惑を撒き散らす訳にはいかない。店舗奥の居間にいるベニューは、敢えて男を挑発する。正直、何故自分がこのような目に遭うのかは分からない。巨漢がライゼルの所在を調べている以外に情報がない。でも、教えればライゼルに危険が及ぶのは容易に想像できる。それだけは何としてでも回避しなければならない。
「あなたをライゼルに会わせる訳にはいかないんです!」
面と向かってきっぱりと宣言する。ライゼルを守るのは姉である自分なのだ。望んで旅に出た弟に、災いの火の粉が降りかかってはいけない。
「どこだ、牙使い(タランテム)のライゼル?」
「教えないと言ってます。諦めてください」
ベニューは反物屋の中を突っ切って、勝手口を出て裏路地まで向かう。男も逃すまいと、先程の商店の勝手口まで追いかけ五指を伸ばすが、ベニューはそれを寸でのところで回避する。狭い戸口であろうが、男は煩わしさを感ずる程度で、その勢いは全く衰えない。ベニューを捉えんと振るわれる腕は、お構いなしに家屋の外壁を貫通する。
路地裏に出たベニューは、すぐさま村の外に向かって走り出す。店舗と隣の民家との間はそう広くなく、ベニューの体格なら有利に立ち回れる。間仕切りを無視して店舗から一直線に突進してきた男だったが、ここに来てその動きに制限が掛かる。これまで存分に振るってきた怪力であったが、暴れようにも予備動作を取れるだけの空間を確保できない。怪力を生かす為には、密集する家屋を全壊させればいいだろうが、そうしてる間にベニューに逃げられるという事は、男にも理解できているようだ。男は辺り一帯を破壊する事はせず、移動の妨げとなる物だけ押し退けていく。
狭い中でも男は執拗にベニューを捉えようとする。男の腕はどこまでも伸びてきそうなほどに長いが、ベニューの目は裕に見切る事が出来る。ライゼルの俊敏な動きをいなす事が出来るベニューだ、そう簡単に掴まったりはしない。男にとって身動きの取りづらい路地裏であれば尚更だ。
裏路地に積み上げられた木箱の陰に身を潜めたりしながら男の追撃を凌いでいく。その程度の運動能力を有しているという自負がベニューにはある。
だが、問題はどの程度の期間を逃げ続けなければならないのか、という事。常に相手の行動に注意を払い、神経を張り詰めていれば、これまで通りに逃げ遂せる事は出来るだろう。しかし、その大男を連れてフィオーレに帰る事は出来ない。男は間違いなく、ライゼルの行方を訊き出すまでベニューを追い続ける。先のように形振り構わずに家屋を破壊しながら。
一旦はボーネで姿を眩ませる事が出来たとしても、フィオーレまでは身を潜める事の適わない開けた一本道。であれば、大男が諦めてボーネを離れるまで帰れない。いや、大男はきっとベニューを見つけるまで、ベニューが潜んでいそうな建物を、居る居ないに関わらず破壊し尽すだろう。それは、最悪の事態に違いない。
それを踏まえて、ベニューはボーネの村を離れ、外へ逃げる事を決意した。ここに留まる事は決して得策とは思えない。あの男がもたらすであろう被害を考えるといたたまれず、これ以上迷惑を掛けられない。
と言っても、逃げるばかりという訳でもない。ベニューには、防衛手段の当てがある。国内においての暴力事件は、各地に駐屯している治安維持部隊アードゥルが取り締まっている。平時において国内唯一の武力行使を許された組織であり、こういう事態に備えて訓練を積んでいる。過去の内戦終結を契機に解体された軍隊の代わりに、国家の治安維持を一手に担っている組織、それが治安維持部隊アードゥルである。
最寄りの駐在所は、このボーネから東へ進み、ソトネ林道、オライザ村を越えたミールの街にある。だから、ベニューは、早く部隊と遭遇できるように、ミールのある東へ向かってひた走る。彼らが駆け付ければ、あの大男も法に基づき、身柄を取り押さえられるだろう。そうなれば、一安心だ。フィオーレに残るベニューも、旅立つライゼルの身も。
ボーネ村の誰かが上げたのだろう、村に設置された高台から烽火(のろし)が先程から天高く昇っている。ベスティアでは、有事の際に[[rb:烽火 > のろし]]を上げ、それを認めた最寄りの治安維持部隊が駆けつけてくれる事になっている。同国最速の連絡手段は、おそらく駐屯地にも届いただろう。あとは、それまで自分の身を何とかして守らなければならない。
だが、ボーネやフィオーレのような辺境の地には、派遣されるのにも時間が掛かる。辺境の地である故に、比較的に治安も良く、普段からこういった事態にならないのが裏目に出てしまった形だ。ベニューの戦いは、すぐには終わりそうになく、先は長そうだ。
ボーネの人達が男の怪力に慄き、何もできずに注目している中、ベニューは出来るだけ大男の目に触れるように開けた箇所を走り抜ける。そうすれば、おそらく大男はベニューを追い掛けて、村の外までやってくる。村の外まで誘導できれば、もう人的被害は出ないはず。
村民の妨害もない為、無表情の男はベニューを見失わず、村の外まで追走する。男も特別に足が速いという事はないが、振り切れるだけの走力がベニューにないのも事実。見渡す限り、ボーネ村と他の集落とを行き来する人もおらず、ボーネ村からしばらく二人だけの追いかけっこが続く。
村を出てからは、想像通りの開けた平坦路が続く。ここまで来てしまえば、もう策も何もあったものではない。ただひたすらに走り続けて、治安維持部隊の到着を待つのみ。ボーネから先の土地勘に明るい方ではないが、近所同様の一本道の街道を辿る事は承知だ。この道の先できっと治安部隊と遭遇できるはず。
肩に下げた手提げ袋を揺らしながら、懸命に走り続けるベニュー。数十[[rb:間 > けん]]後方を着かず離れず男が追う。
安全圏を確保している事を確認し、手荷物が少なくて助かったと自嘲気味に息を漏らす。これから治安部隊と鉢合わせるまでどれくらい時間が掛かるか分からない。まだしばらくは走れそうだが、それも比較的に身軽な格好だったからと言える。こういう事態を憂慮しての事ではなかったが、軽装はベニューに有利に作用した。
(お守りのおかげかな)
だが、時として運命は、人を悪戯に翻弄する。先の打算が安心以上に慢心を生んだのは拭えず、僅かに生じた心の隙が、言葉通りにベニューの脇を甘くさせた。
「あっ」
ベニューの肩に抱えられていた手提げ袋の口が知らぬ間に開いており、そこから母フロルの形見の匂袋が転げ落ちる。落下に気付き目では追うものの、必死に走り続ける脚はそう簡単に止まってくれない。疾走を止め、後方に落としてしまった匂袋へ振り向いた時には、既に男が随分と距離を詰めていた。元々、走り続けていればこそ逃げ遂せたであろう安全圏である。取りに戻れば掴まる事は瞬時に理解できた。
が、判断は追い付かない。取りに戻るか、匂袋を諦めて逃げ去るか。
もちろんベニューにも分かっている。今、自分が天秤に架けているのは、形見の匂袋と自分の命である。悩むような問題ではない。世の中は命あっての物種。ここでもし、あの大男の怪力の前にその身を晒せば、絶命もあり得る。それは先程の男の突進振りを見ているから十分に理解できている。
それに、今は諦めたとしても後から回収する事だって十分可能だ。開けた土地で何の目印もない為に捜索は困難かもしれないが、それでも再発見が不可能という事はないだろう。
そんな事は分かっている。分かっているのだ。
「分かってるよ。だけど!」
ベニューにとって、家族の思い出が占める比重はあまりにも大きかった。これまで片時も肌身離さずにいた事が仇になったと言うのは大袈裟かもしれないが、それを手放すという事は、ベニューをこの上なく心許無くさせる行為となってしまっていた。彼女にとっての家族とは、彼女の全てと言っても過言ではない。この匂袋以上に、空虚な心を埋められるものをベニューは知らない。これ以外の心の支えを持ち合わせていない。唯一の肉親のライゼルが村を離れ、亡き母の忘れ形見まで手放してしまえば、最後に彼女に残ったものは…
「もう、なくしたくないの! これ以上、家族がいなくなるのは嫌なの!」
すぐさま匂袋の元へ駆け寄り、拾い上げ土埃を叩き落とす。地面に落として少し汚れてしまったが、それでもなお、お気に入りの花の香りを仄かに放つ。花の香りが、彼女の鼻孔を優しくくすぐり、記憶の彼方へと誘う。瞬間、少女の頭から迫りくる現状への関心が消えた。もはや、男の脅威は心の中にない。
「…ごめん、なさい。母さん、ごめんね。わたし、ライゼルをひとりぼっちにしちゃった」
少女はその場に頽れ、母の忘れ形見を抱きすくめ、謝罪の言葉を繰り返す。それは約束を違えてしまった事への謝罪。在りし日の親子のやり取りを思い出しながら。
その約束は、少女がその匂袋を母から譲り受ける時に交わしたものである。
ベニューが6歳の時分、ちょうど母が他界する一年前のある日。ライゼルが母の言い付けを破り、外へ遊びに出掛けた。母はその日、ダンデリオン染めの出荷に追われており、忙しそうにしていた。というのも、ちょうど市場が賑わう繁忙期であった事に加え、当時はまだ交通網が整備されておらず、その日偶然フィオーレを訪れていた行商への納品をし損じると、一家は路頭に迷う事になってしまう状況だった。その為、母は手が離せなかったのだ。
故に、母はその事を姉弟に言い含めて、家の中で大人しくしているよう厳命した。姉弟が外出すると、出荷の妨げになるし、運搬作業に巻き込まれる事故の危険性もあったからだ。
だが、ライゼルは言い付けを守らず、外へ出掛けた。近所の花畑に出掛けたので事故の危険はなかったが、結果的に母の言い付けを守らなかった。母にこっぴどく叱られるだろう事は想像に難くない。
一方、ベニューはと言うと、しっかり言い付けを守り、家で大人しく留守番をしていた。何なら、その間に土間の掃き掃除も率先してやった。我儘なライゼルと違い、ベニューは幼い頃から自身を律する事ができる利発な子供だった。
しかし、母の鉄拳制裁が真っ先に向けられたのは、他でもないベニューだった。ベニューは当初、自分が叱られる理由に覚えがなかった。ライゼルが躾けられるというのなら充分納得できる。ライゼルは自分の欲求に従い、約束を反故にし、外へ遊びに出た。しかし、ベニューは母の言う通りにしていたのだ。ベニューはこの理不尽に耐えかねて、大声で泣きじゃくった。
結局、ライゼルは出荷を終えた母に連れ戻され、もう二度と自分勝手はしまいと猛省する程に説教を受け意気消沈したが、それでもベニューは泣き止まなかった。大好きな母の言う通りにしていたのに、その母から怒られた。それが、ベニューにはどうしても納得できず、悔しかったのだ。
ライゼルに教育的指導という名の体罰を念入りに施し終えた母は、泣き止まないベニューの元へやってくると、もう一発平手打ちを見舞った。容赦のない乾いた音が響く。
理解できない仕打ちにベニューの眼は見開かれた。何故、自分が咎められているのか、ベニューには何が何だか、頭がぐちゃぐちゃになった。だが、そんな状態の娘相手にも、母は躾の手を緩めず甘やかさない。
母曰く、ライゼルは独りぼっちだった、と。母は、その一点を咎めているのだと諭す。運搬作業をしていた広場に居なかったとか、怪我するような遊びではなかったとか、そういう問題ではなく、ライゼルを、加えてベニュー自身を独りぼっちにしたのがいけなかったのだという。
ベニューとライゼルはお互いが無二の姉弟である。母は女手一つで家計を切り盛りせねばならず、そうなると姉弟は子ども二人だけになる。母としては、二人でいる事は問題視していない。言い換えれば、二人きりの状態を不安視していない。一番いけない事は、姉弟が離れてお互いが独りぼっちになる事だと考えていた。
『誰に似てしまったやら、あのスカタンは何にでも興味を示して、どんどんいろんな所に行っちゃうだろうさ。そうなったらお姉ちゃんのあんたが付いていてあげなきゃ。独りぼっちになるってのは一番いけない事なんだ。あんた達が独りぼっちで寂しい思いしてるのが、母ちゃんは一番悲しいんだよ』
幼いベニューには、この言葉の真意が伝わらない。それでも、母を悲しませまいとする心は確かに芽生えた。
それを悟ってか、母は更に力強くベニューを叱咤激励する。
『二人一緒なら何も怖い事なんてない。どんなに大変な事だって、あんた達二人なら乗り越えて行けるんだよ。だからさ』
そして、つい先程まであれほど厳しく叱り付けたかと思えば、今度はいつもの、ベニューの大好きな優しい笑顔で、ベニューをぎゅっと抱きしめる。
『あんたがライゼルの傍に居てあげて。あの子はどうしようもないワルガキだけど、アタシ達の大事な家族なんだからさ。お姉ちゃんならできるだろ?』
そう言って、首に下げていた匂袋をベニューに手渡した。フロルがいつも身に付けていた匂袋で、ベニューが何度おねだりしても煙に巻いて与えなかった代物だ。だが、この日を境にフロルからベニューに譲り渡された。
あれから十余年以来、匂袋はベニューが挫けそうな時に励ましてくれる心の支えであり続けた。この香りを纏っていれば、普段通りの、いつも通りの自分でいられると思っていた。ライゼルのお姉さんでいられると。弟からは悪態を吐かれながらも、心の奥では信頼され尊敬される母フロルのような強い女性でいられると、そう思っていた。
しかし、本当は違った。心の拠り所にすると言えば聞こえは良いが、実際は縋っていたのだ。母に、そしてずっと傍にいてくれた弟に。母が亡くなってからも、ベニューの傍らにはずっとライゼルがいた。ライゼルがいたから、ここまで頑張り続けてこられた。背伸びをし、強がり、虚勢を張ってこられた。自分より弱く頼りないライゼルこそが、ベニューの心の支えだったのだ。守るべき家族がいたから、姉は自らを律し、強く保とうとしてこられた。
だが、今のベニューは独りぼっちだ。傍らには誰もいない。母との約束の意味が、永い時を経てようやく理解できた気がする。独りぼっちのベニューは無力だ。もう独力で立ち上がる事すら適わない。
彼女はただ感情のままに、二代目と言う立場もなく、ありのままに嗚咽を漏らし涙を流す。先日の襲撃事件が弟を奪い、その事実により湛えた涙が光を奪う。これからの展望どころか目の前の景色すら見えない。光の乱反射で景色が歪む。加えて、自分の吃音がうるさくて、自分の周りの状況が一切分からない。無防備極まりない。
そう彼女が感知していないだけであって、乱暴者は確実に距離を詰めて来ている。男に動揺はなく、彼女の様子が急変した事などお構いなく、その豪腕でベニューの細腰を掴まんとする。
もし、彼女が大男の姿を視認し続けていたら、迫りくる恐怖に押し潰されそうになりながら、その最期の瞬間を覚悟する事になっていたかもしれない。だが、実際にその覚悟は不要だった。先の、視認していたら、という『もし』があったなら。もう少し早くに、余計に涙を流す事になっただろう。
しかしながら、そうなる理由をまだ彼女は知らない。既に感情が思考を支配し、敵との距離の概算が不可能になっており、いつ自分が危険な目に晒されるか、推測すらできないのだ。知る由もない。
だが、推測は不要。結果から言おう、彼女の捕縛は未然に防がれた。彼女の傍らに立つ、【牙】を携えた弟の手によって。
「ベニュー、大丈夫か?」
「…え?」
弟の声がする。もう会えないかもしれないと思っていた弟の声。声が聞こえる程の距離に、その人物が確かにいるのだ。
「ライゼル? ライゼルが、いるの?」
涙を拭い、面を上げて声のする正面を見やると、見慣れたような、懐かしいような、弟の後ろ姿があった。光の乱反射で視界がぼやけるが、自分を庇うようにして立つのは間違いなく、ライゼルだ。
「おう、助けに来たぞ!」
どこか奇を衒ったような、ぎこちない返答。まだ先の姉弟喧嘩の件を引きずっているのだろう。しかし、ベニューもそこまでは気が回らない。違う、そんな事はもうとっくに忘れてしまった。彼女の心にあるのは、歓喜。またこうして姉弟が再会できた事が、何より嬉しいのだ。
「ライゼ…」
「見つけた。幅広剣の【牙】、『巨人の足(アルゲバル)』!」
姉弟の再会を喜んでいたのも束の間、大男は目的のライゼルの姿を認めると、標的をそちらに移し、攻撃を仕掛けてくる。そうなのだ、そもそもこの大男はライゼルを探していたのだ。ライゼルとは問答もなく、すぐに戦闘が開始される。
ライゼルは状況を全く呑み込めていないが、気に障るのはその自身に対する呼称。
「だからなんだよ、そのアルなんとかって。昨日のテペキオンといい、お前といい」
それを聞いたベニューは、ようやく大男の素性に見当が付く。何故、見知らぬ男がライゼルに執着しているのか。それは、昨日のテペキオンなる人物から聞き及んでいたから。つまり、この常識知らずの乱暴者は、先日の襲撃者の知り合いなのだ。思えば、昨日のテペキオンもこの男も身分を示す首飾りを付けていない。そう考えると合点がいく。
ライゼルをここまで同乗させ連れてきたビアンは、車から降りるとベニューの傍らに駆け寄り、動けないベニューを抱え起こす。
「無事で何よりだ。にしても、あの桁違いにデカい男は誰だ?」
ビアンに抱えられたベニューは、小さく会釈して礼を伝えると、すぐさまライゼルについさっき気付いた事を伝える。
「ライゼル、気を付けて。その人、昨日のテペキオンって人の仲間だよ。ライゼルを付け狙ってるみたい」
姉は、謎の人物をライゼルに会わせたくないと思っていた。だが、それはある意味、勝手な我儘だったのかもしれない。ライゼルの身を案じ、危険な目に遭わせたくないとし、我が身を楯にしようとした事。
だが、それは間違いだった。真に弟の事を思うなら、彼と共にあり、共に困難に立ち向かう事こそが家族として正しい在り方なのだと。そうだ、母フロルは言っていたではないか、二人一緒なら怖いものは何もないと。
ならば、ベニューが為す事はただ一つ。ライゼルと協力し、降りかかる災いを祓う事。
「ライゼル、その人はものすごく力が強いの。だから、真っ向から立ち向かっちゃダメだよ」
「おう」
肩越しにそう応えるや否や、もう直前にまで迫っていた大男の突き出した拳を、幅広剣の両端を両手で支えた構えで受け止める。攻撃に備えたものの、大男が発揮する怪力は、ライゼルを剣の防御ごと吹き飛ばす。衝撃をいなし切れなかったライゼルの体は、宙に浮かんだ。
「うわっ」
空中で逆上がりの形に一回転し、体制を整え足元から着地する。身軽さを披露したライゼルだが、大男は拳を放った直後にまた右腕を振り回し、ライゼルに迫っていた。直撃すれば、ライゼルも無事では済まない。
だが、その攻撃力を有しているのは敵だけではない。ライゼルも【牙】の能力を有している。直撃を避けたいのは向こうも変わりない。ならば、勝敗を決するのは何か。
「ライゼル、撃ち逃げだよ」
「あいよ!」
ライゼル目掛けて大男は拳を振り下ろすが、これは当たらない。回避後、隙だらけの男の側面に回り込み、剣を打ち込む。渾身の一撃。大男は体勢こそ崩さないが、激痛の所為か一瞬だけ眉根が寄せる。回避も危なげなくやれたし、この一発も間違いなく効いている。動作の大きい巨漢相手に、身軽なライゼルの撃ち逃げ戦法は有効だ。
男は拳を振り下ろしたままで、次の動作に移ろうとしない。それをライゼルは好機と見た。
「遅い、先手を取る!」
次は先んじて攻撃を仕掛けるライゼル。頭越しに大きく剣を振りかぶって斬りかかる。俊敏な全身の運びは天賦の才の為せる業か、振り上げた剣は体の芯を軸に一直線を模る。重力に乗せて真っ直ぐに振り下ろせば、その切れ味は最大威力を発揮するはずだった。だが、振り掛かる寸前の刃渡りを大男に掴まれる。
「おバカ! 調子に乗るんじゃないの」
ベニューの叱責通り、ライゼルは失態を犯していた。相手の攻撃以上に先んじてしまえば、相手はもちろん防御に回る。おそらくは、この巨漢もテペキオンに負けず劣らずの戦闘経験を持っているのだろう。巨漢はライゼルの攻撃に的確に対応して見せた。正攻法の正面の打ち合いで、ライゼルが大男を圧倒できる道理はない。飽くまでも、順守すべきは撃ち逃げだ。
「ッなろっ。放せ」
掴まれてしまった剣を支点に、振り子のように身を投げて跳び蹴りを決める。これは、身軽なライゼルだからこその芸当で、下手をすれば蹴りを放つ前に振り解かれていたかもしれない。
得物を掴まれたものの瞬時に攻撃に転じて見せ、見事に大男のこめかみに蹴りを直撃させる。その頭部への衝撃で男は掴んだ剣を放し、俄かによろめく。咄嗟に振り子の回転のままに身を翻し着地を決め、真横に一回転し、予備動作に入る。
予備動作と記したが、動作が始動して終結するまでに、時間は然程要さない。敵との力量差を見極めたライゼルは、とっておきの一撃で勝負を決するつもりでいる。巨漢がよろめいたこの一瞬間を逃す手はない。
「喰らえ!」
攻撃動作は淀みなく順を追って続く。姿勢制御、着地から、右足を折り曲げて回転の軸、左足を伸脚し回転に勢いを与える為の補助、両手は【牙】へ星脈全開。大男が立ち眩んでいる間に、ライゼルは独楽のようにくるくる回り、その運動は急速に遠心力を帯びていく。
地面すれすれまでに姿勢を低くし、霊気を吸い上げようとしているライゼルの発光現象を、この大男は知覚できていただろうか?
牙使いは、【牙】を発現させる時、身体中の星脈(プラネットパス)を解放し、地面から霊気を吸い上げる。霊気には、牙使いの望む武器の形を再現しようと、固有の星脈の特徴に同調しようとする性質がある。地殻に存在する[[rb:霊気 > ムスヒアニマ]]は全て同質だが、星脈に取り込まれた段階で、その者の制御下に置かれる。言ってしまえば、その者が自在に扱える新たな予備動力となる。牙使いは、固有の『設計図』を頭に描く事が出来、それを【牙】として発現できるのだ。
そして、霊気は変質された際に、激しい発光現象を伴う。一般的にこの輝きが、【牙】を持たぬ者に畏怖を与えていると言われている。発光現象の理由は依然不明だが、本能的には理解できるかもしれない。この輝きは、目を逸らせない。魅入ってしまう。魅せられてしまう。
ならば、このライゼルを眼前にして目を逸らせる者などいない。当然、真っ直ぐに敵意を向けられているこの大男の瞳には、ライゼルがしかと映っている。
「うおおおぉぉぉぉおおおおお!」
男は瞬きすら出来ない程に、咆哮すら耳に届かぬほどに、この少年に目を奪われている。
体格差から見れば、ライゼルがこの大男に勝てる道理はない。体重もおそらく倍以上に違う。一発一発の威力は桁違いだ。あの体躯から繰り出される一撃は、ライゼルを魂諸共に吹き飛ばすだろう。
だが、違った。ライゼルには【牙】がある。身体能力も十二分に高いが、真に頼みとするのは、母親譲りのこの【牙】なのだ。この力が、ライゼルの夢をぐっと現実まで手繰り寄せる。
「どぉおおおりゃぁあああ!」
低姿勢からの一回転の後、両腕で掴んだ剣を真上に振り抜き、男の前面部を斬り上げる。
「ぐはっ」
強烈な迫力を前に身動き出来ない男に、超至近距離の足元から、全力全開の切り上げを見舞う。剣には大量のムスヒアニマが凝縮されており、それが斬撃と共に大男に襲い掛かった。霊気を帯びた衝撃が、太刀筋の軌道をなぞるようにして下から順に男の内部を犯し、徐々に全身を廻り、最後には頭部付近で一気に周囲へ発散される。ライゼルの星脈によって青白い輝きに変質されていた霊気(ムスヒアニマ)であったが、男の体を通り頭部から爆散される頃には、淡く白い光の粒子に変化していた。その放出された霊気の霧散する様は、まるで蒲公英(たんぽぽ)の綿毛が吹き散らされたかのようだった。この瞬間の巨漢の姿は、根を張り身動き出来ずに、風に種子を散らされる蒲公英そのものに見えたようにも感じられる。
「今のは?」
これまでの生涯を共にしたベニューさえも初見の剣技。訊ねられたライゼルは自信満々にこう答える。
「へへっ、とっておきの技。さっき思いついた」
温存していたのか、即席なのか判断に困る言い方だが、物凄い剣技だという事は、既に証明済みだった。
再度吸い上げたムスヒアニマを剣戟に乗せ、回転の遠心力が内部への突破力を高め、剣戟の威力を何倍にも増幅させてそれを体内に注入、そして体の内側から破壊する。それがライゼルの編み出した技、剣技『蒲公英(ロゼット)』。母のダンデリオン染めと由来を同じくする絆の力だ。
今まで身じろぎ一つしなかった男が、体内への耐えがたい激痛に、初めて上体を仰け反らせた。変質した霊気によって、体の内側から攻撃されたのだから無理もない。そもそも、霊気を体内に直接流し込まれるなど、前代未聞の出来事である。予想外の攻撃手段に、痛みも余計に感じられたのかもしれない。
「決まったか?」
皆の視線が大男に向けられる。ビアンが勝ちを焦ったのも分かる。ライゼルの一撃は、間違いなく大男に痛手を負わせてやった。効いてない訳がない。
だが、大男は一度よろけただけで、またライゼルの前に仁王立ちしてみせた。怪我の箇所こそ確認できるが、男の様子から察するに、戦闘を継続できない程の痛手にはならなかったようだ。
「こいつ、化け物かよ!」
昨日の襲撃者もそうだが、ライゼルの攻撃は致命傷に至らない。確かにライゼルに殺意はないが、それでも戦闘不能に陥らせるには十分なはずなのだ。なのに、この大男を下す事が出来ない。そもそものライゼルの力量が悪漢連中に劣るというのだろうか。
「だったら、あと何発か、ぶちかましてやる」
再度、戦闘姿勢に入ったライゼルであったが、対する大男は短く息を吐き、呼吸を整え、そしてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「お前の実力は分かった、アルゲバル」
巨漢の穏やかな口調にライゼルの気勢が削がれ、つい論点のズレた指摘を口にしてしまう。
「だから、その変な呼び名やめろ。俺の名前はライゼルだっつってんだろ!」
ライゼルの反駁も意に介さない様子の大男は、更に続ける。
「地上の環境と、牙使い(タランテム)と呼ばれる者の様子を確かめに来たが」
そこで一旦言葉を切る。視線は相変わらずライゼルを射竦めている。この視線に込められた感情に、ライゼルは覚えがある。テペキオンと同じ、復讐に燃える強かな意志。その鋭い眼光を向けられては、ライゼルも視線を逸らせない。
「…いや。次はないと思え、アルゲバル」
「だから、ライゼルだー!」
「…ふん」
ライゼルの指摘に巨漢は鼻を鳴らしたが、それが何を意味しているのかは、その鉄面皮からは予想できない。表情も何も語らず、事実それ以上は言及せず背を向ける。そして、大男のその背に『とあるもの』が出現していた。
「おい、あれってまさか昨日の」
驚愕の色を見せるビアン。悪い予感がした。自分達は、ただの暴力事件に巻き込まれたのではない。昨日はただの偶然だったかもしれないが、今日の目的は、他の誰でもないライゼルその人。それを確信させるものが、男の背中にその存在を主張していた。
「おいお前、それは【翼】か!」
抱きかかえているベニューをそっと地面に降ろし、躊躇いつつも数歩歩み寄るビアン。その間にも飛び去ろうとする男に、ビアンは僅かに上擦った声で問い掛ける。
「それは、テペキオンが持つ物と同じ物か?」
テペキオンへの畏怖が思い出されたが、今は怖気づいている場合ではない。問わねばならない事はいくらでもある。巨漢が維持する無言が、余計にビアンに恐怖心を抱かせたとしても、ここは退く訳にはいかない。
「お前はテペキオンの仲間なのか?」
いくつも質問を浴びせるビアンだったが、昨日のテペキオンのように返答を拒まれるだろうか。テペキオンは、戦闘したライゼル以外は眼中にないといった様子だった。そのテペキオンの仲間と目されるこの男はどうだ? テペキオン程に粗暴な様子は見受けられない。蛮行こそ目に余るが、会話が全く成立しないとは思わない。この男から話を伺えるなら、ビアンとしても聴取に協力願いたい。
「【牙】を持たぬ男よ」
唐突に巨漢が口を開き、ビアンの緊張感が一気に高まる。名指しされたのは自身だとビアンも自覚している。
「なんだ」
巨漢は何と言葉を紡ぐだろう? 固唾を飲んで、大男が語るのを待つ。
「先から連呼しているその名、随分気安く口にするが、我らにとってどれ程重いものか知っているのか?」
初めて感情と呼べる色を見せる巨漢。その凄味に思わずビアンは気圧されてしまう。
「我らにとって、名とは【翼】と並ぶ自身の誉れだ。命と比して尚重い」
「名前が、命より重い、だと?」
どのような理由からそう認識しているかは窺えない。だが、言外に、それ程犯しがたい名をテペキオンが告げたという事は、ライゼルをそれ相応の対象と見込んだという事を示唆している。
「ゆめゆめ忘れるな。お前達と我らとでは、そもそもの格が違うという事を」
そう言い残し、背中の【翼】をはためかせる。ひとたびそれが空気を捉えると、大きな風圧を生じさせ、男の巨体を浮かび上がらせる。その大重量を持ちあげる程の浮力、そして、それを可能足らしめる一対の【翼】。もし、その能力が戦闘において行使されていたらと思うと、一同身震いせずにはいられない。空中浮遊の状態で男があの怪力を発揮すれば、制空権は奪われ勝ち筋を封じられ、羽搏きによる煽りで空気圧に押さえ付けられ、行動を大幅に制限されていたに違いなく、圧殺されていただろう。それは、実際に戦ったライゼルには、思考せずとも理解できた。何故、そうしなかったのかまでは推理が及ばないが、そうならずに済んで本当に命拾いしたとも思う。
ライゼルの戦慄を余所に、男は幾度か宙空で【翼】を羽搏かせ、次の瞬間には、一気に空高く上昇していってしまった。地面から仰ぐと礫ほどの大きさに見える位置まで巨漢が昇ると、男の周囲が急速に明るくなる。かと思えば、眩い光が環を形取り、そのまま男を飲み込んでしまった。
「なっ!?」
男の行く末を目で追っていた三人だったが、強烈な閃光に視界を奪われ、気が付いた時には、男の姿はどこにもなかった。咄嗟に目を庇って腕で光を遮ったが、程無くして眩い光は収束し、いつも通りの平原の風景が眼前に広がっている。
追いかける術がないのも事実だが、そもそも追い掛ける理由もない。今回相対して理由も、降り掛かった火の粉を払っただけの事。王都への進度を遅らせてまで、あの男に執着する理由はない。【翼】を所有する脅威をなんとか退け、ビアンは姉弟に悟られぬよう人知れず安堵する。
しばらく男の姿を消した方角を見つめていたが、突然ライゼルははっと我に帰る。危機も去り、立ち上がれずにいるベニューに駆け寄り、手を差し伸べる。
「ベニュー、無事か?」
ベニューはその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。この頃には、泣き腫らした目元もそう目立たなくなっていた。服のお尻の部分に付いた土埃を叩き、改めて礼を述べるベニュー。
「うん、どこも怪我してないよ。ライゼルが来てくれたからだね。ありがとう、ライゼル」
その感謝を受けて、先の勇姿はどこへやら。ベニューが起き上がったのを確認して、気取られぬよう視線を逸らしたライゼルは、そっと繋いだ手を離す。ライゼルとしては素直に謝辞を受け取れない。この姉弟は先程、喧嘩別れしたばかりで、まだ仲直りできていないのだ。ライゼルは姉の身を案じて駆けつけたものの、改めてどう接していいか分からない。
「ボーネの方角から烽火(のろし)が見えた。だから、ビアンに頼んで戻ってもらったんだ」
淡々と事実を述べるライゼル。やはり、その様子はどこかぎこちない。ベニューも特別それを指摘せず、聞き手に徹する。
「そうなんだ。ビアンさんもありがとうございます」
大男が去ってから顔色が優れず、緊張の面持ちで思案し続けていたビアンも、ベニューに水を向けられ、我に返る。ビアンの思考は、姉弟達とは関わりのない所での心配事に捉われていたのだ。
「緊急信号が上げられては、確認しない訳にはいかないからな。ボーネに戻って聴取をしなければ」
「…そう、ですよね」
言って表情が暗くなってしまうベニュー。そうなのだ、ライゼルは一時的に引き返しただけに過ぎず、また王都クティノスへ向けて出立してしまうのだ。そうなれば、また姉弟は離れ離れになってしまう。それが頭を過(よ)ぎったベニューは、これ以上先を続けられない。きゅうと胸が締め付けられ、言葉を紡げない。どうしても言いたい事が、言えずにいてしまう。
姉の様子を受けて、ライゼルも察する。ここで何かを言わなければ、このぎくしゃくした状態のまま王都へ発たねばならない。伝えるべき言葉がある。ライゼルの胸の中には、それがある。だが、どう言っていいか分からない。ただただ、時間が過ぎてしまう。
「さて、行くか」
それだけ言うと、ビアンは先に車に乗り込んでしまう。飽くまでビアンの職務は、今回の件も含めた一連の事件の調書を上役に上げる事。姉弟の仲直りは業務の管轄にない。姉弟が抱える問題は、飽くまで姉弟で解決せねばならない。
「待ってビアン」
「早く乗れ。ただでさえ、引き返した分遅れているんだ。先を急ぐぞ」
ビアンの言う事はもっともだ。報告が遅れれば、その分対策も遅れ、更に被害が出る恐れがある。今日みたいな事件が別のどこかで起こる危険性も皆無ではない。そのような事はライゼルも望まない。もっともな正論であるが故に、子供であるライゼルは二の句が継げない。生真面目なベニューなら尚の事。
言われるがままに後部座席に乗り込むライゼル。そして、同じく引き留める事も出来ず、無事を祈って見送るしかないベニュー。幼い二人には、これ以上どうする事も出来なかった。
そして、それは、姉弟が別れを覚悟した瞬間だった。運転席の、比較的に人生経験のあるビアンはこう告げる。
「ベニュー。お前もいつまでそこに突っ立てるんだ? 早く乗ってくれ」
「「えっ?」」
姉弟の疑問符が重なる。つい、間の抜けた声が異口同音で漏れる。
「えっ、じゃないだろ。さっきの男の事を、俺は一切知らないんだぞ。今日のボーネの件は、どうやらベニューに聞いた方が手っ取り早そうだしな。王都まで姉弟で同行してもらうが構わないか?」
見兼ねたビアンは回りくどい言い方こそすれど、恩着せがましい言い回しはしない。飽くまで、任務の態は崩さない。
「はっ、はい!」
お役人からの急な要請に呆気を取られながらも即答する。ベニューにも、お目付け役以外の気兼ねなく同伴する理由が出来た。また姉弟で一緒に居る事が出来るのだ。
すぐさまベニューも駆動車の後部座席に乗り込む。心なしか、弾むような足運びで飛び乗った。身軽な格好とは言え、女の子としては、少しはしたなく見られるかもしれない仕草。そこには、今朝黙して外を眺めていた少女と同一人物とは思えない程の陽気さが見受けられる。ベニュー本人も気付かない内に、笑顔がこぼれていたかもしれない。今朝のように外に顔を向け、不安な面持ちを隠す必要ももうなくなった。
「ほら、ライゼル。もうちょっとそっちに詰めて」
「お、おう」
座席の真ん中に陣取っていたライゼルは、半身ほど体を奥に移動させ、ベニューが座る空間を確保する。お互いに両端へ離れすぎない程よい位置関係。今のベニューからは、今朝の喧嘩別れを気にしている様子は見受けられない。この『距離感』は日常(いつも)のものだ。
車も走り出し、ライゼルの視点からは、景色も姉の様子も今朝とは真逆に映る。
とはいえ、移り行くのは見慣れた野原。それを背景に佇むベニューを意識しながら、ライゼルはしばし思案する。そんなライゼルを知ってか知らずか、ベニューが話を切り出す。
「さっきはごめんね。痛かったでしょ?」
そう言って、ライゼルの頬を摩る。とっくに痛みなどなかったが、そうされている事がライゼルを懐かしくさせる。幼き頃、怪我をこさえて帰ると、いつも手当てをしてくれていた、自分より少しだけ大人びた女の子。思えば、母のゲンコツの後には、いつもベニューの手の平があった気がする。
「俺もごめん、勝手なことばっかり言って」
「いいよ、私もわがままだったかも、だし」
「どゆこと?」
「ううん、なんでもないよ」
ライゼルに謝られるまでもなく、ベニューにとって、それはもう解決済みなのだ。ならば、これ以上、拘る必要はない。少しだけ臆病風に吹かれ、不安に駆られただけの事なのだ。それをわざわざライゼルに聞かすつもりはない。
ベニューがこれ以上何かを言うつもりがないのだと悟り、決心したようにおもむろに口を開くライゼル。
「あのさ、ベニュー」
不安だった事をそっとしまい込んだベニューと違って、ライゼルには、まだ発散しておかなければならない事案、つまり言っておかなければならない事があった。多分、ライゼルも姉と離れた少しの間に、何か思う事があったのだろう。余裕を取り戻したベニューには、弟の声音からそれが窺い知れた。
「俺、やっぱり村を出たい」
「そっか」
きっと弟はいろいろ考えて、探して、迷って、やっぱり気持ちが変わらなかった。夢への憧れが揺らがなかった。それを察し、首肯で先を促す。それを受けて、ライゼルもぽつりぽつりと思いの丈を漏らしていく。
「ベニューは母さんから染物を教わったじゃんか?」
「…うん」
厳密に言えば、ライゼルがそう思っているだけで、ベニューは母フロルから一切の知識も技術も教わっていない。何故なら母は、娘がもっと成長してから教えるつもりであったから。教わったと言えば、精々がライゼルと同じ読み書きくらい。ライゼルが抱く『二代目フロルを継承したベニュー』という認識は、実を言えば、ライゼルの一方的な勘違いなのだ。
だが今は野暮な事は言わず、その件を伏せて、ライゼルの話に耳を傾ける。
「言い訳かもしれないけど、俺はまだ子供だったからそういうのがない。もう母さんがいないからどうしようもないけど、俺もそういうのが欲しかった」
「そうなんだ」
これは十数年一緒だったベニューも初耳だった。ライゼルも母との繋がりを望んでいなかった訳ではなかった。
「最近になってようやく畑仕事をやれるようになって、多少は人の為に何かできるようになって。でも、それはなんか違う気がする」
「違うって?」
「そこには『俺』がないんだ。俺じゃなくても出来る―――そうじゃなくて。なんていうか、やりたい事だとかやらなければならない事だとか、そういうんじゃなくて…」
上手く言葉に出来ず、もどかしい様子のライゼル。でも、そこにある気持ちは本物なのだろう。不器用ながらも、手探りで、気持ちのままに言葉を吐き出す。
「俺だってベニューみたいに、母さんからもらった何かで活躍したいんだ。俺は母さんから【牙】をもらったから、【牙】を使って母さんみたいにみんなを笑顔にしたいんだよ」
怒気さえ見えそうな口調でそこまで捲し立ててから、一転、ぽつりと溢す。
「俺、間違ってるかな…」
きっと弟は、肯定して欲しいのだ。胸の中に芽生えた気持ちを口にしたものの、自信が持てない。今までそれの善し悪しなど気にした事はなかっただろうが、姉から間接的に否定されてしまった。それ故に、気持ちが揺れ動いてしまった。
ならば、姉の役割があるとするなら、そっと背中を押してあげる事に違いない。
そして、もし、ベニューが姉として掛けてあげられる言葉があるとするなら、例えば、こういう言葉かもしれない。
「ライゼルには、ライゼルのやろうとしてる事が似合ってるのかもしれないなぁって。昨日と今日の事で、少し、そう思ったよ?」
「似合ってる?」
そう評されたライゼルは、その表現が腑に落ちない。それを察するベニューは更に言葉を続ける。
「うん。昨日はカトレアさんが、今日は私が困っていたら、駆けつけて助けてくれたでしょ?」
「昨日は悲鳴が聞こえたし、今日は烽火(のろし)が見えたから」
「うん、ライゼルは困ってる人がいたら放っておかない。私は、あんまり危ない事はしてほしくないんだけど。ライゼルが誰かの助けになってるのは、誇らしいんだよ」
これはお世辞でも何でもない。心の底からそう思える。ライゼルが自慢の弟である事に違いない。これまでもそうであったように、これからもきっと。
「だから、私はライゼルがやりたい事を応援する。お遣いが終わって、その後どうするか。王都に着くまで少し時間があるから一緒に考えよ?」
姉からの提案を咀嚼(そしゃく)するように吟味し、しばらくの後、首肯を以ってゆっくり合意を示す。
「うん、わかった。ベニューの言う通りにする」
弟の承服に満足しふと車外に目をやると、先程まで遠くに見えていた烽火(のろし)の煙が、すぐそこまで近付いてきていた。風に乗ってけぶる臭いが鼻に届く。もうじきボーネに到着する。迷惑をかけた商店や民家は大丈夫だろうかと考えながら、ベニューは平原の景色を眺める。
思わず知る事となった弟の胸の内。なんだか、少し意外だった。ライゼルはそういうものに拘らないのだとばかり思っていた。ライゼルには、家族よりも優先する夢があると思っていたから。
でも、本当は違った。それはベニューの勘違いだった。ライゼルも、ベニューと変わらないくらい、もしかしたらそれ以上に、家族を大事にしているのだ。ベニューにとっての匂袋が、ライゼルにとっての【牙】なのだ。母さんからもらった、かけがえのない大切なもの。自分だけの心の支え。
そう思えばこそ、真に想像力が足りなかった事案がもう一つある。先の家族に対する想い以上に、ライゼルの夢に対しての想いに想像が及んでなかったのではないだろうか。ベニューは、ライゼルの夢と家族とは、正反対の位置にあるものだと思っていた。例えるなら天秤に架けられた二つの皿。どちらかにしか針は傾かない。家族を選べば夢が、夢を選べば家族が、彼から失われるものだとばかり思っていた。
「みんなを笑顔に、か」
ベニューが染物を覚え始めた動機に、ライゼルが考えるような大仰な、別の言葉を用いるなら崇高な、そんなお題目はない。母に甘えたかったとか、精々が食い扶持を稼ぐ程度、生活の糧などである。
それをライゼルから見れば、ベニューの六花染めや母のダンデリオン染めは、みんなを笑顔にする事が出来ていたと言う。そう感じて、ライゼルは二人の家族に憧れた。言うなれば、二人の背中がライゼルに夢を与えた。
(まったく、ライゼルってば嬉しいこと言ってくれるなぁ)
ならば、姉であるベニューが応援しない訳にはいかないではないか。皆の笑顔の護り手たらんと宣言した弟の夢。ライゼル本人が拙い言葉ではあるが、衒いもせずにそれを教えてくれたのだ。ならば、そのきっかけとなったベニューとしても、弟の憧れであり続けたい。
とするなら、こう考える事も出来る。ベニューもライゼルに夢をもらった。ライゼルの自慢の姉であり続ける為に、今以上に六花染めを広めたい。一世を風靡した、かのダンデリオン染めのように。弟の夢に負けないくらいのでっかい夢。
「さぁ、ボーネに着いたぞ」
運転席からビアンの声がした。駆動車は緩やかな制動の後、ぴたりと村の入り口に止まる。奇しくも先程と同じ場所に反対向きで。
先に車を降りたベニューが振り返り、ライゼルを見上げる。
「ねぇ、ライゼル」
少し気取った風に、ライゼルに呼び掛ける。ライゼルのぎこちなさが伝染したのかもしれない。
「なに?」
そう呼び掛けて、手提げ袋から匂袋を取り出し、手のひらに載せたそれを差し出す。
「この香り、覚えてる?」
車を降り、ライゼルは差し出された手に鼻先を近付ける。そうして、香りを確認した後、不思議そうな顔をベニューに向ける。
「母さんの好きな南天(なんてん)の花だろ? なんだ、ベニューもその花好きなのか」
不思議そうな表情の理由は、共通認識である事柄を、改めて確認されたから。
元々、この花は火災除けのまじないとして、フロルによって家の傍に植えられた木である。
が、フロルも特別にこの花を好んでいた訳ではない。ただ、フロルが家族を思ってこの南天の木を世話する姿を幾度となく目にしたベニューが、母はこの花が好きなのだと勝手に勘違いしていたのだ。
フロルはお守りとしての意味合いで、この匂袋を身に付けていた。家族の安全を願って、自身が家族を守れるようにと。
だが、ベニューを叱り付けたあの日、母はこれを愛娘に譲り渡した。母に代わり、弟を守ってくれるようにと願いを込めて。そんな強い女性に育つよう、祈りを込めて。
ベニューさえ知らないこの事実を、やんちゃ盛りだったライゼルが知っている訳もない。であるが、匂袋の存在を知らぬライゼルも、母の思い入れの深い花をちゃんと覚えていたのだ。母がこの花を部屋に飾らなくなって久しいというのに。
ライゼルもベニューと同じ場面を見ていたのだろうか? 同じ勘違いをしているという事は、そうなのかもしれない。ライゼルにとっては、思い出の中にしかなかったはずの花。それでも、南天の白い花は、まだライゼルの中で咲き続けている。
だから、ライゼルの質問に、ベニューは笑顔でこう答えるのだ。
「うん、私もだいすきなんだ」
ベニューのはにかみ交じりの微笑みを見て、ライゼルも俄かに脱力し、吊られて笑みを溢す。許しをもらったと判断してもいいのか、まだ釈然とはしない。が、姉の笑顔はただそれだけでライゼルの心を穏やかにさせる。
「先に村の被害の確認をしてくる。お前達は周りに注意しながら、ここで待ってろ」
車輪に位置止めを噛まし終えたビアンにそう言われて、車の脇でお留守番をする二人。村の中は何やら騒がしい様子だったが、村の入り口に佇む二人の周りは幾分静かだ。
ベニューが先の件に拘ってないと悟ったライゼルは、気が楽になったからか、ぽつりと溢す。
「ベニューも大変だったな」
「何を他人事みたいに」
そう言って、ライゼルの肩に軽く握った拳を当てるベニュー。
今の言葉は、今日の事を指すのか、それとも母を亡くしてからのこれまでの事を指すのか。ライゼルの言葉足らずのせいで判別が難しい。ただ、分からないからと言って、もう変に不安に駆られる事はない。手を伸ばすと届く距離にライゼルがいるのだと改めて認識すると、心が楽になった。肩の力が抜け、いつも通りの調子でライゼルに話しかける。
「ねぇ、ライゼル?」
「ん?」
お互いに目を合わせる事なく、車に背もたれて同じ風景を視界に収めている。おんなじ場所で、おんなじ方向。割と見慣れている隣村の入り口から見える、馴染の風景。
だが、今日でこういう景色も見納めなのかもしれない。そう思うと、二人言葉にせずとも哀愁が漂う。
「一人じゃ大変だよ」
「…うん」
正直、ライゼルにもベニューが何を言わんとしているのか分からなかったが、その言葉には首肯を以って応じた。ベニューの指す一人とは、ライゼル一人では、なのか、ベニュー一人ではなのか。多分、どっちもなのだろう。どちらとも、一人では大変なのだ。
ベニューを置いていって後部座席に独りでいた時の、あの何とも言えない喪失感は、もうしばらくはごめんだと思う。あれが喧嘩別れでなければ抱かない感情だったかと問われれば、きっとそういう事でもないのだと思う。どういう形であれ、姉弟が離れ離れになるのは辛い事だ。今回の事で、初めてそれをライゼルは学んだ。ベニューが母から教わった事を、ライゼルは我が身を持って体験する事で学んだのだ。
「だからね、その荷物。半分、私が持つよ」
「荷物?」
訝るライゼルに、ベニューは手提げ袋の口を開いて見せた。中を覗き込むと、先程の匂い袋以外何も入っていない。ただ、ほんのりと香る南天の花の匂いが籠っていただけ。その虚空を見せられても、いまいちピンと来ない。
「どういうこと?」
「きっとライゼルは途中で、重いよ~って弱音を吐くだろうから、私のは空っぽにして持ってきたの」
今この場で母との約束を素直に伝えるのは、なんだか気恥ずかしくて気が引けた。そんな理由で、ベニューが少し悪戯っぽく笑って見せるばかりだから、やはりライゼルは合点がいかない。
「なにそれ?」
「だから、半分持ってあげるよ」
ライゼルの腰に下げられていた銀貨の詰まった麻袋や、着替えの六花染めを取り上げると、自分の手提げ袋に仕舞い込むベニュー。改めて受け取ると、ライゼルの荷物が言葉通りに重かったのだと認識する。自身の野望の為とはいえ、苦労して貯めたお金と、それと外套布と非常食と他にもいろいろ。これは、ライゼル一人には荷が勝ちすぎる。でも、二人ならなんとか出来るかもしれない。
「ありがとう」
ライゼルは何と返してよいか分からず、一応はお礼を述べる。多分、それは間違っていない事。少なくとも、今朝のような失態は侵していないはず。
「ううん、いいよ。それより、これからもきっと大変だろうけど。よろしくね、ライゼル」
姉から改めて告げられると、なんだか照れくさい。だから、ライゼルはつい奇を衒ってしまう。
「おう、任せろってんだ~だぜ」
「ふふっ、何それ」
姉弟が笑う空の下、ボーネの村に風が吹く。その風に乗って、少し離れた故郷フィオーレから小さく鐘の音が響くのが聞こえた。
ふたりの耳には鐘の音が届き、目には最愛の家族が映り、そして、鼻には南天の匂いが薫る。お互いの思い違いを解消できた姉弟。言葉を交わせば、想いは伝わるのだという事を知る事ができた。なればいつかは、母がこの南天の木を丹念に育てていた本当の理由を知る事ができるかもしれない。南天の花言葉は、『家族愛』、そして、『私の愛は増すばかり』。
今はまだ焦らずとも良いのだ。彼らの旅路はまだまだ始まったばかりなのだから。
to be continued…
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