第3話

 ああいうのを見た後、どうしてもビアンは拗ねたような心持になってしまうのだが、そればかりは自覚していても治らない。生まれついての性分なのだ。

 ビアンが自分の矮小さを見せつけられたのは、三人で出向いたボーネ村の住人への聴取の際。ベニューが迷惑をかけた人達にお詫びをしたいと言ったので連れて行った訳だ。三人で訪問すると、事件の当事者であるベニューは、反物屋のおばさんから手厚く迎え入れられ、大層心配された。聞けば、その店主は普段ベニューが懇意にしている店で、今回も匿ってもらった店なのだという。

 ダンデリオン染めの手拭いを頭に巻き、小柄な身長に似付かわしくない大きな声。名をデイジーと言うそうだが、名が体を見事に表しており、雛菊(デイジー)の花言葉通りに無邪気でお人好しな様子が見て取れる。ボーネ村一の商売人とあって、話芸巧者という印象を受ける。現にベニューが割って入れない程、のべつ幕無しに喋っている。

「あの乱暴者は追い払えたんだね。そうかい、二代目が無事でよかったよ。あれから心配で心配で。そうだ、あたしが烽火を揚げてくれるようお願いしたんだよ。アードゥルが助けに来たのかい?」

「えと、お役人さんと弟が…」

「そうかい、弟が助けてくれたのかい。それはよかったねぇ」

「おう、俺は【牙】使いだからね」

 姉弟とデイジーおばさんの会話を、半壊した商店を調査している背中越しにビアンは聞いていた。自分でも仏頂面を晒してしまっている事はよく分かっている。役人であるビアンが現場検証している隣で、デイジーおばさんがビアンの問いかけに答えるよりもベニューの心配ばかりするものだから、少し気が立ってきているのだ。この、他を憚らない姿は誰かを思い出す。というより、彷彿される印象の持ち主は、デイジーおばさんのすぐ隣に並んでいる。

(そうか、この反物屋はクソガキライゼルに似ているのか)

 人の話を碌に聞かない所がまさしくライゼルそっくりだ。それがビアンに苦手意識を抱かせ、苛立たせてしまうのだ。公的な規則に従わない者を、ビアンはあまり好ましくは思っていない。

「なぁ、先にこっちの捜査に協力してくれないか?」

 語調の強くなるビアンの要請に、デイジーは不機嫌な様子で応じる。自分の調子を乱されるとあからさまに不服そうにする辺りも、ライゼルに似ているかもしれない。

「役人さんも冷たい人だねぇ。この子は怖い思いをしたんだ。慰めてやろうってのが人の情ってもんじゃないかい」

 感情的な言い方ではあるが、言っている事はもっともだ。だからこそ、ビアンは余計に腹が立つ。役人としての矜持が、言い負かされそうになる事実を認めたがらなくさせる。

「それはそうだが。ベニュー、もう平気だろう?」

 水を向けられたベニューも畏まった様子で返事をする。事実、特に怪我をしている訳でもなく、ベニューの状態は健康そのものだ。

「はい。おばさんにも本当にご迷惑おかけしました」

 とベニューは、デイジーの厚意を失礼のないように遠慮するが、おばさんはそんな事などお構いなしだ。ビアンどころか、ベニューの言葉も遮って、世話を焼く。

「そうだ、二代目。これから王都へ出向くんだろう? まさかその格好で行くなんて言わないだろう?」

 デイジーが訝るのも無理はない。ベニューは、巨漢の【翼】使いの追跡を逃がれるのに、随分な大立ち回りを演じた。その際に、土埃を被ったり、泥に塗れたりと、どう取り繕っても見栄えのいい格好とは言えない。畑仕事を終えてこれから帰ると言うなら納得の出で立ちだが、王都クティノスへ遠出をすると言うのではあまりにも憚られる。

「そうですね、さすがにこの格好では…」

 と、そこまで言い掛けたものの、ベニューはビアンの顔色を窺い、言い淀む。先程からビアンの気が立っており、急いているのは、きっとベニューの気のせいではない。ここで、一旦フィオーレまで戻って着替えたいと申し出るのは、機嫌の優れないビアン相手にはさすがに躊躇われる。

 ビアンも、ベニューがそう感じている事は雰囲気から察したが、先程から無碍に扱われる事もあってか、つい大人げない態度を取ってしまう。

「悪いが、聴取とアードゥルへの引継ぎが終了し次第、直ちに王都へ出立する。着替えは立ち寄った先で都合しよう」

「はい、よろしくお願いします」

 ベニューも急を要する事態だという事はちゃんと理解している。自身の都合で、事を遅らせる訳にはいかない。近隣への警鐘が滞れば、異国人がまた害を為すかもしれない。それは絶対に避けねばならない事だ。物分かりの良いベニューは、ビアンの案に同意を示す。

「何言ってんだい。ここから先の集落にウチより上等な服なんてありゃしないんだよ」

 ベニュー本人が納得し承服したというのに、それでもおばさんは食い下がる。おばさんも防犯対策や注意喚起を軽んじている訳ではないだろうが、飽くまでベニューの事が心配なのだ。

「ちょっと待ってな」

 ベニューの全身をじっくり眺めたかと思うと、半壊した店の奥へ入り、そこから卸すはずであった六花染めを持ってくる。商品棚に並べていた物は、先の件で泥まみれになったが、奥に仕舞っていた分は無事だったようだ。デイジーの手に握られたそれは、彼女の豪語を裏打ちする程に見事な逸品だった。多くの客がこの染物を求めてやってくるであろうに、箪笥の中に隠しておくなど相当の食わせ者だ。

「二代目フロルとあろう者が、そんなみすぼらしい格好で出歩けないだろう? これに着替えて行きな」

 そう言って、一押し商品であるはずの六花染めをベニューに合わせる。途端にどうだ、地味な印象の村娘が瞬く間に、今を時めく洗練されたクティノス女子めいた見た目に変貌する。ライゼルの輝く金髪とは違い、黒髪のそれ程目立たない容姿だが、落ち着いた雰囲気が却って煌びやかな六花染めと調和を取っている。

(そうだよな、六花染めを作ってる本人なんだもんなぁ)

 つい忘れがちになるが、この美しい衣装を仕立てているのは、このベニューなのだ。それを思うと、この少女の内に六花染めを作り得るだけの美的感覚が内包されているという事を改めて思い知らされる。そう感じた直後、ビアンの胸は僅かにチクリと痛んだ。

「そんな。ご迷惑をおかけした上に、これ以上ご厚意に甘える訳にはいきません。それに、お代も持ち合わせがありませんし」

「少しなら俺が貸してあげよっか?」

「そういう事じゃないの」

 ベニューの言う通り、金銭の問題ではない。こうも親切を尽くされては、ベニューとしては気後れするばかりなのだ。おばさんの厚意は嬉しいが、正直に言えば、そこまでしてもらう理由が見当たらない。今回の場合、あまりにも世話焼きが過ぎると、ビアンだけでなくベニューも感じている。

 だが、自分の行いが正しいと信じて疑わないおばさんは、ベニューの謙遜を事もなげに一蹴する。

「遠慮しなさんな、人ってのは助け合って生きていくもんなんだよ。困った時はお互いさまってね。それとも何かい、もう金輪際ウチとは付き合わないのかい?」

 おばさんのそれは意地悪な言い方だが、飽くまでベニューが遠慮しないようにとの気遣いだと分かる。向けられたベニューも、その支え合いを尊いものだと思う。ならば、ありがたく頂戴するのが筋なのだろう。

「本当に感謝の念に堪えません。この御恩は必ずお返しします」

 それはつまり、王都までの遣いを終えたら、再びここに戻ってくることを意味している。おばさんはそれを理解し、満足げに頷いた。

「いいんだよ、二代目。またなんかあったら頼ってくれていいんだからね」

「はい、ありがとうございます」

 ベニューは受け取った六花染めを持って、店の奥へ着替えに向かう。店舗部分は倒壊しているが居住空間はなんとか無事のようで、ベニューはそこを借りて譲ってもらった六花染めに着替える事となった。

 その嬉しそうに屋内へ入っていく後姿を横目で見やりながら、ビアンは舌打ちするのを我慢できなかった。なんだろう、端的に言い表す事は出来ないが、ビアンはこういう、他人とのやり取りが苦手だ。他人が友好関係や信頼関係を示し合っているのを見ていると、あまり気分が優れない。自分に縁遠いものを見せられているからだろうか、自分がそれを持たぬと知っているからこそ、ひどく疎外感を覚えるのだ。多分、子供の頃の環境の影響が大きいのだろう。

 手早く着替えを済ませ、戻ってきたベニューは、色鮮やかな六花染めを見事に着こなしている。その隣に、フィオーレを出立する日を境にダンデリオン染めを脱ぎ、新しく六花染めを着るようになったライゼルがいる。二枚の六花染めが並び立つと、随分と様になって見える。ライゼルの僅かに日焼けした小麦色の肌にも、ベニューの瑞々しい白い肌にもよく映える。六の花から染液を抽出して色を染め上げるから六花染め。他の染物と比べると、色の濃淡だけでなく、六種の色が彩りを魅せる。その艶やかさは、様々な色合いに限らず、ベニューが織りなす絞り染め等の技法によって付けられる模様も相俟って、今代において洒脱の極みとも言える。

 それに比べて、今の自分の姿はどうだ。ビアンは視線を落とし、自分の姿を見ると、支給された制服は日頃の作業で汚れており、例え新品であったとしてもお洒落な身形とは言えない。服飾文化の最先端であるこの地方に勤務していると、服に無頓着なビアンは余計に浮いた存在に感じられる。清潔さを欠く、見た目にさほど気を遣わない男として。

 そんなもんだから、これ以上、姉弟達のやり取りを眺めていると、居た堪れなくなり、結果的にそんな矮小な自分に愛想を尽かしてしまうのだ。

「もう思う存分、お節介を焼いただろう。被害状況の確認に協力してもらうぞ」

「あぁ、そうさね。お次はお役人さんの面倒を見てあげようかね」

 おばさんの無遠慮な言い回しに、ビアンは言い返す気力を失っていた。この人は冗談でもなく、本心からそう思っているのだろう。役人の立場だとか関係なしに、このおばさんにとっては、年若い男でしかないのだ。お役所仕事もデイジーおばさんにとっては、世話焼きの一つに過ぎない。

(何が面倒を見る、だ…)

 管轄外の仕事を請け負ってあげているのだと、ビアンは反駁したい気持ちに駆られる。とはいえ、仕事はしっかりこなさなければならない。他人との関わりを好まざるとも、雑務をこなすのは苦手ではない。しっかりと聴取や事後処理をビアンはこなしてみせた。男手は瓦礫の撤去等を行い、またしてもビアンの制服は汚れていった。ひと仕事を終え、ライゼルは持参した六花染めに着替えるが、ビアンは先日から着続けている制服のまま。

 結局ビアンの目算に反して、アードゥル隊員三十人の増員があったにもかかわらず、終日その作業に追われる事となった。夜も更けて、隊員達は村の周辺で野営し、ライゼル達はボーネ住民の厚意で一宿一飯にも預かる事となった。奇しくもおばさんの宣言通り、ビアンは見事に面倒を見てもらう事となってしまった。


 そして翌日、ボーネを出立し、次の経由地を目指す道中。ビアンが運転する駆動車は、順調に平原を走り抜け、王都を目指している。

 開けた高原を過ぎれば、次はソトネ林道を通る事になる。ソトネ林道は、木を伐採し雑木林を開拓し、車が通れる道路を整備した要衝である。突貫工事である為、路面を整地にするには至ってない。平坦な箇所を選りすぐって道を通している所為か、道は決して直線ではなく、湾曲した箇所も多く見通しが芳しくない。細い木、太い樹木、蔓延る蔓と様々な種類の植物が、人の手も加えられないまま勝手に生えているこの林道。特性も用途も違う木々であるが為に、材木の利用としての伐採は今のところ計画されていない。精々、燃料としての利用用途しかなく、長年放置されている現状だ。お世辞にも景観に優れているとは言えず、見通しも悪い為、木陰から人が飛び出してくる可能性も無きにしも非ず。速度は控えて行かなければならない。

 もちろん迂回する事も可能だが、そうなると数日は余計に掛かってしまう。ただでさえ、フィオーレとボーネに二日間も足止めを喰らっているビアンだ。本来であれば、駐在所に戻り、定期連絡を入れていなければならない。下手をすると、ビアンは職務放棄していると同僚から疑われていても仕方がない。そんな不名誉な疑惑は甚だ不愉快だが、駐在所への連絡手段がない今、ただ急ぐしかない。

 しかも、ビアンの仕事はそればかりでない。定時連絡よりなお優先度の高い任務を帯びてしまっている為に、オライザで情報共有した後に、王都クティノスまでの遠征となっている。

 先が長いというのも憂鬱の種だが、役人ビアンは、前日の苦労を想うとそれと変わらぬくらい頭が痛かった。改めて思えば、治安維持部隊が到着するまでの苦労と到着してからの苦労と、どちらがより大変だったろうか。

 到着するまでは管轄外のボーネ村民の安否確認。フィオーレと違い、ビアンはここの住民録を持たない。加えて、声の大きな反物屋のご婦人が気を利かせて仲介役を請け負ってくれた訳だが、余計に気を回すものだから、その分余計に時間も掛かってしまった。被害報告だけで十分だったものを、他地方からの納品連絡が滞っているだの、巨漢の暴れっぷりを見て腰を抜かした老人が「あれはアネクスの民が祀る英霊に違いない」と戯言を宣っているだの話すものだから、聴取が全然進まなかったのだ。

 かと思えば、ミールから部隊が到着した以降は、村人と部隊の間に入り、復旧工事を指揮したりと忙しかった。

 治安維持部隊アードゥル、国軍『牙の旗』が解体されて以降の国内の警察機構としての役割を担う組織だ。有事の際に出動要請が掛かり、今回は小隊規模の人員が先遣隊として派遣された。国内最速の連絡手段である烽火が昇った事を受けての対応としては、駐屯地ミールを正午に出発し夕刻にはボーネに到着するのだから、その名に恥じぬ迅速ぶりと言える。隊員の全てが屈強な体格をしており、いざ【翼】持ちの異国人相手に戦闘となったとしても、防衛任務を全うしてくれるであろうという頼もしさすら感じる。

 ただ、その頼もしさは今回に限り発揮されなかった。というのも、命令系統の異なる部署との作業と言うのは、何かと面倒事も多い。王国の徴税制のおかげで物資の手配や入手は容易いのだが、その申請手続きとなると、役人のビアンですら辟易する程に手間が掛かる。

 事務仕事を苦手とするアードゥルの連中は、役人であるビアンにその業務を押し付けようとする。が、ビアンも一刻も早く王都へ馳せ参じなければならない理由を伝え、逆に代行を願い出る。何故なら、命令系統の頂点が王都クティノスにあるアードゥルでは、命令以外の任務を独自に判断する事ができず、ビアンの代わりに姉弟を保護し連れていく事は出来ないからだ。飽くまで彼らは割り当てられた地域を守るのが任務であって、ビアンと違い、勝手に持ち場を離れる事は適わない。アードゥル隊員は、本部にお伺いを立てようにも結局王都まで出向かなければならない。だから、王都への報告を急ぐビアンは、彼らに代わって雑務に時間を割かれている場合ではないのだ。

 隊員達もビアンが帯びた使命の重要性を理解したものの、アードゥルの隊員は肉体労働を得意とするがお役所仕事は苦手らしく、快諾には至らなかった。結局、オライザからの応援が到着してから改めて、ビアンの同僚であるオライザの役人に委託する、という事に落としどころを見つけるまで、業務の押し付け合いは続いた。ビアン達が妥協案を見つけた時には、辺りは暗くなっており、もう既に隊員は撤去作業から撤収し、野営準備をしている頃だった。

 その為、当事者である姉弟からは何も訊き出せていない。そんな状況で、順調に草原を越えたからと言って、この鬱蒼とした雑木林に進入を果たす気にはなれなかったのだ。

 ソトネ林道に進入する直前、ビアンは車を林道入り口の脇に停める。一旦、車から降りて、三人顔を突き合わせている。ビアンは改めてフィオーレ出身の姉弟にいくつかの質問を浴びせる。先日のボーネでの一件は、容疑者を撃退した場面しか満足に見届けていない。ボーネ村でも聴取をしたが、分かった事と言えば、大男が暴れ回った事とその男による家屋の被害状況くらいのものだ。公人の働きとして、それは芳しくない。

「つまり、あの大男はライゼルの事を、フィオーレに現れたテペキオンとかいう男に訊いて探していたという訳だな」

「はい、そうだと思います。フィオーレ以外でライゼルの名前を知る人は、そう多くはありません」

「それに、あのデカ男も俺を『アルゲバル』って呼んでた」

 姉弟の証言から、どうやら連日の襲撃事件は無関係ではなさそうだ。というより、一昨日の件を発端に連続して起こっていると見ていいかもしれない。そうなると、だ。

「…まずいな」

「何が?」

「あいつらの素性や目的も訊き出したいが、それ以上にあいつらの総数が分からん」

「だから、なんでまずいんだよ?」

 ビアンとしては合点のいく話をしているつもりだが、ライゼルは得心が行かない。

「いいか、今までの事を総合するとだな」

 テペキオンの言を信ずるなら、目的は『狩り』と呼ばれる行為を為す事。現状、この言葉がどういう行為を指すものなのかは分からないが、連日の状況を鑑みて、村の人間に危害を加える行為に違いないだろう。しかも、テペキオン本人がライゼルの命を狙うと宣言している。巨漢もライゼルを探していたとなると、三度一行に危険が及ぶ可能性は十分に考えられる。

 次に、彼らが何者かという疑問には、そう多くの推測を持てない。

 まず、ビアンが着目したのは、首飾り(ナンバリングリング)の有無。このベスティアの民は、須らく首飾りを身に着けている。現にライゼル、ベニュー、もちろんビアンも装着している。装着の目的は、首輪の材質や色により、身に着けている人間の身分や職業を明確化させる事だ。よって、その者が王国民であれば、一目でその者の素性が分かる。言ってみれば、身分証明の役割を果たす。配給物資を受け取る際もこれがないと受け取れないし、主要都市への出入りも制限される。王国民の生活に深く根差した制度だ。

 しかし、そのような重要な装具を、あの二人は身に着けていなかった。格好や言動の異様さばかりに気を取られていたが、思ってみれば何よりも[[rb:身分証 > ナンバリングリング]]に着目すべきだった。彼らは王国に戸籍を持たない者達なのだろう、故にテペキオンは【牙】を冒涜する発言をしていたのだ。と、考えれば、彼らはウォメィナ教とは異なる教義の集団かもしれない。確かに王国東部には合併された部族の集落がある。おそらく、そこの出身者だと推測できる。

 そして、これこそがビアンを悩ます最大の懸案事項なのだが、彼らは揃って、武器具現化能力【牙】に優るとも劣らぬ戦闘能力を有していた。確か、テペキオンはそれを【翼】と称していただろうか。テペキオンのそれは高速移動を可能とし、大男のそれは怪力を発揮させた。一つの推測として、物質的な戦力として顕現するのが【牙】であるなら、身体能力を向上させるのが【翼】なのかもしれない。どちらにせよ、それが戦力として振るわれれば脅威であることに違いはない。

 ウォメィナ教の教義で暴力行為は禁止されており、その事は全国民が心得ている。もちろん法治国家であるが故に法律も制定されているが、何も教義を重く見ての法整備ではない。そもそも地上に住む命達は、過去の愚かな争いを潜在的に、本能的に嫌悪している。故に、法で縛る以前から、取り締まらなければならない程の戦闘は確認されていない。この国に住む彼らの遺伝子に、大昔の厄災に対する恐怖心が植え付けられているのだ。

 が、件の二人がそうなのかは分からない。彼らは法にも道徳心にも縛られていない。実際、二件に及んで、人的被害と物的被害が起こっている。これまで国内で【翼】なる物の報告例が上がってなかったのは、最近発現した能力であるか、あるいは最近になって【翼】を持つ者が国内に侵入してきたからか。おそらく、後者なのだろう。どうも、能力の扱いに長けており、長い期間それを行使しているのだろうと推測できる。

 いや、正直、ビアンにとって彼らの主義主張はどうだっていい、彼らが法の下に照らされさえすれば。ただ、どう見ても国家に恭順の意を示すような人物には到底見えなかった。ならば、武力を以って応じなければならないのだろう。法を守る為の暴力は容認されるとビアンは考える。

 最後にこれが一番の危惧している点なのだが、相手の総数が不明という事。敵が先の二名だけだと断定できれば、今程頭を抱える事態にはなっていない。しかし、もしそれ以上の規模の集団であったなら、今後遭遇する身分証(ナンバリングリング)を持たぬ者は、全て敵という可能性もある。全人口の割合から見て、身分証の非装着者はそう多くないが、全くいない訳ではない。危険の恐れがあるのなら、疑って掛かるべきだ。

 しかし、もし本当に敵が相当数いたとして、こちらの現状の戦力は、参考人のライゼルのみ。とはいえ、参考人のライゼルに危険な目に遭わせる訳にはいかない。元々、保護の名目で姉弟の身柄を預かっている。それなのに、ライゼルの【牙】を充てにすると言うのはおかしな話だ。筋が通らない。ならば、実質戦闘要員はおらず、逃げに徹するしかない。

 これらの事を事細かに姉弟に伝え、そして最後にこの言葉で締めた。

「つまり、だ。お前達は今後ああいう輩に出会っても、一切手出しはするな。分かったな?」

「分かんないやい!」

 間髪入れず異議を申し立てたのはライゼルだ。隣で大人しく話を聞いていたベニューも、口答えこそしないが納得していないのは同様のようだ。不服とまでは言わないが、疑念の色は見せている。ビアンの指示に賛同していない。

「あの、どうしてでしょう?」

「どうしてもこうしてもあるか。暴力行為は法律違反で、加えてアナタガタは参考人、ワタクシに身柄を保護されている身なんだ。アナタガタを無事王都に送り届けられなきゃ、ワタクシの責任問題なんだですよ!」

「言葉遣いがおかしいよ、ビアン」

 ライゼルの指摘も、興奮気味のビアンは意に介さない。体裁を取り繕っていられない程に、状況は逼迫しているのだ。目下の者から間違いを指摘される事は、ビアンにとって耐えがたい事であるが、それに拘る事を状況が許さず、その為に無視してしまえる。

「先の二人が通じている事はほぼ確実だ。であれば、あのテペキオンと大男が同時に襲い掛かってくる可能性も無きにしも非ずだ。もしそうなれば、どうする事も出来ない」

 ビアンがいう事はもっともだった。テペキオンも昨日の大男もかろうじて退ける事の出来た強敵だ。複数の【翼】なる脅威への対抗策は今の所ない。ライゼルの【牙】も、流石にあの二人を同時に相手取る事は出来ないだろう。それに、思わぬ伏兵が潜んでいるとも知れないのだ。戦闘は避ける事は最優先事項だ。

「こっちは三人いるよ?」

 ライゼルはあろう事か、【牙】を持たぬベニューとビアンを戦力として勘定している。その考えそのものに説教をしたいが、今はとにかく先を急ぎたい。これ以上の無駄な議論に時間を割かれるのをビアンは望まない。

「とにかく、お前達は事件に巻き込まれた被害者で、重要参考人なんだよ。これ以上、そんな民間人を騒動に巻き込む訳にはいかないんだよ、わかったか!」

「さっぱり!」

「分かれよ!」

 ビアンの言う事はもっともかもしれない。そもそも、ライゼル達が同伴しているのは、非常事態に遭遇してしまったが故の緊急の措置なのだ。決して善意や任意同行などではない。ビアンは法律に則り、姉弟を保護している。ましてや、戦力として同行を要請しているのではない。姉弟が状況をどう捉えているかは知らないが、ビアンにとって、姉弟の心持などは斟酌の対象にならない。状況に対する法的な対処に関しては、間違いなくビアンの言う通りなのだ。

「いいか、これ以上の口答えは許さない。ライゼルは今後一切の【牙】の使用、及び戦闘行為を禁ずる。いいな?」

「なっ!?」

 ライゼルにとって【牙】とは、最も頼みとする個性で、自己同一性である。それを封じられてしまえば、ライゼルの野望は一切叶わない。確かに、元々道中は大人しく保護下にいるつもりではいたが、二件に渡り戦闘行為に発展したというこれまでの経緯を鑑みると、無意識の内に、今後も【牙】を以って難敵を退けるつもりになっていた。だから、不意にそう抑圧されても素直に従う気にはなれないのだ。

 ビアンにもライゼルの不服な様子が見て取れる。だから、ビアンは更に大きな声で、抑止する。

「いいな!」

 その怒鳴り声にも似た言い付けは、ライゼル本人でなく、そのお目付け役であるベニューに向けられる。突然の事に、思わずベニューの身が竦む。そして、仕方なく大人しく引き下がる。

「…はい」

 ビアンの厳格な言い付けは、一切の隙を見せない態度も相まって、ベニューには効果覿面だった。静かに畏まる姉を横目で見て、ライゼルも鳴りを潜める。

「ぐぬぬ」

 ベニューに効果があったという事は、例えビアンの制止がライゼルに対して強制力を持たなくても、ベニューという抑止力が誕生したのだから、結果的に上手くいった事となる。いざとなればベニューがライゼルを、説き伏せるかあるいは物理的に組み伏せるかしてくれるだろうと期待できる。ビアンもここ数日でライゼルの御し方を心得ている。

「敵の総数が分かってないのだから、用心するに越した事はない。それに」

 ここは、見通しの悪い雑木林の中だ。物陰から襲撃される可能性は十分に考えられる。事件の参考人が実行犯に狙われているのだ。否応がなしに、ビアンからどんどん余裕が失われていく。

 その逼迫した様子を察して、ライゼルもビアンの言葉の続きを取る。それ以上は、言われなくても既に心得ている。

「見通しが悪いから気を付けろって言うんだろ。分かったよ」

 渋々ながらも承服したライゼルの態度を確認したビアンは、それ以上は何も言わず車に乗り込む。

「ライゼル、ビアンさんの言い方は厳しいけど、私達の事を想ってなんだよ。ね?」

「それは分かる。でも、納得できない」

 ライゼルの顔は、いまだにぐぬぬと言い続けている。一応は、理解を示して見せたものの、素直にそれを飲み込む事は出来ていない。

「どうして?」

 ベニューも、ライゼルの余りに意固地な様子から、我を通したいが為に反抗的な態度を取っているのではないと察する。ライゼルは単に人を困らせるだけの我儘を言う子供ではない。結果的に迷惑をかける事はあるかもしれないが、それでも何か譲れない理由を持って行動している。今のライゼルの様子からは、それが窺える。おそらく、ライゼルには何か別の言い分があるのだ。

「だって、ビアンが見てるのは」

 ベニューの睨んだ通り、ライゼルも姉の説得を聞かないつもりではない。ただ、それでもライゼルには引っ掛かる何かがあった。それも結局、ビアンによって言葉に出来ずじまいになるのだが。

「おい、早く乗れ。今日の内に林道を抜けたいんだ」

「…わかってるよ」

 渋々、姉弟は後部座席へと速やかに乗り込む。不穏な空気を帯びたまま、三人を乗せた車は林道の中へと突き進んでいく。

 林道に入った途端に、辺りはしんと静かになり薄暗くなる。普段はここを通る者も少ないから、保全の優先度は低く、整備も開発時以降は一切行われていない。薪木の需要が増える冬場ならもう少し視界が開けていただろうが、今の季節は柴刈りする者もほとんどいない為、だいぶ木々が密集している。倒木や通行の邪魔になる枝木以外は撤去されない為、木々は伸び放題の荒れ放題で、ほとんど日も差し込まない。ただでさえ視界が狭いのに、暗がりの中では周囲も路面も更に見えづらい。木の根が道路へはみ出している時は、それを乗り越えなければならない事もしばしばだ。その時の衝撃は、特にお尻に響く。

 この中を、路面状況を見極め選んで走らなければならないビアンを想うと、その辛労は如何ばかりであろうか。加えて、姿なき襲撃者の警戒も怠る訳にはいかない。もちろんいない事を望むが、楽観視している時こそ不測の事態が起こると、ビアンは経験則で知っている。この苦境を一手に担わなければならないビアンに、余裕など一切なかった。

 むしろ、今の彼は極限状態にあった。もし誰かがビアンの傍らにいてその表情を見ていたら、神経をすり減らし鬼気迫るビアンの形相に気付けたかもしれない。しかし、ビアンが努めてその様子を見せようとしなかったのだから、気付けないとしても仕方のない事なのではある。

 ましてや、姉弟にとって、林道より先は未知の世界。他人を慮る余裕のないのは、二人も同じだったろう。初めての景色に、初めての体感。初めて尽くしの姉弟は、心身共に堪えている。

 ビアンも極力揺れの少ない路面を選ぶが、やはり快適な乗り心地ではない。地面の凹凸を車輪が乗り越える度に、車内の一行は振動を受ける。体の丈夫なライゼルでも気分を悪くするのだ、身体の細いベニューは眩暈を起こしかけていた。

「ベニュー、大丈夫か?」

「うん、平気だよ。ライゼルこそ平気?」

 自分が苦しいだろうに弟の心配をするベニュー。ライゼルはそれを見ていられなかった。ベニューは気位こそ強いが、身体はそれほど丈夫ではない。ライゼルがベニューに対して我を通し切れない理由はここにある。

「ねぇ、ビアン。もっとゆっくり走ってよ」

 この姉想いの要請はもちろんビアンのいる運転席まで届いていたが、それに応じる余裕は今のビアンにない。横転しないよう、脱輪しないよう、この悪路を越えねばならないビアンには、姉弟の言葉が煩わしく思えてしまう。職務を遺憾なく全うしたいビアンにとって、必要最低限の配慮以外は度外視できてしまうものだ。

「ビアン、聞こえないの~? ビアン?」

(うるせぇ、静かにしてろ。俺の仕事の邪魔をすんな。俺一人なら、ソトネ林道もなんて事はないんだよ)

 ビアンも、普段は決して他人を疎かにして顧みない人間ではない。ただ、『仕事』となると、それを頭から切り離してしまえる。彼にとっての仕事は、大きな意味がある。ライゼルにとっての夢と同様に、本人の中で大きな割合を占める。職務に忠実である事は、彼の第一義なのだ。

「お~い、ビアン~」

「いいよ、ライゼル。私は大丈夫だから」

 いまだデコボコ道が続き、その段差を越える度に車は大きく揺れるが、ベニューも同乗させてもらっているという負い目があって、あまりビアンに負担を掛けたくない。乗り心地は最悪だが、我慢するしかない。

 運転者の神経をすり減らす林道ももう半分は過ぎた頃だろうか、ビアンはようやく悪路の運転にも慣れてきた。林の中は風の流れさえ感じられず、音のない空間と言うのは何とも気味が悪い。早くこの場を立ち去りたい気持ちは山々だが、急いては事を仕損じる。残りの道程がいよいよ残り半分となった所でふと溜息が漏れるが、それに気付き、また気を引き締める。慣れただけでまだ任務を終えた訳ではないのだ。

 荷を積んでいた往路は迂回していたからよかったものの、最短距離を急がねばならない復路の現在は一時も気が休まらない。普段であれば、荷物の減った復路ほど気が楽な事はない。仕事も終えて、後は帰るばかりだという状況は実に心地よいものだ。達成感は人に幸福感をもたらす。だが、今日は勤務地オライザに戻っても、その更に先の王都まで行かなければならない事が既に決定している。本当の意味での道程はまだまだ長い。今回のような件も、せめて数日前から準備が出来れば、少しは負担も軽減できたろうに。

(予定にない仕事は、苦手だ…)

 どちらかといえば、ビアンは要領のいい方ではない。同時に複数の事を進行させる為に、事前に作業工程を洗い出し、反復して脳と体に叩き込み、心構えを整えていく事を常に心掛けている。能力的に周囲に劣る自分の弱点を工夫で補い、努力に努力を重ねた結果、士官学校を優秀な成績で卒業できた。突発的な事態に弱い自身を自覚していたし、それをおざなりにしたつもりはない。常に万全に対策を立てるのが彼のやり方だ。

「なのに、いつも運が悪いんだよなーッ!」

 彼の身の回りには、常に不測の事態が付いて回る。どんなに注意し、警戒し、対策を講じても、運はビアンの味方をしない。今回もいつも通り、フィオーレ村に配給物資を届けるだけのはずだった。それが謎の異国民の襲撃を受けたり、参考人を匿わなければならなかったり、こんな悪路を大急ぎで飛ばさなければなくなったりと、本当にツイていない。そんな自分にほとほと愛想が尽きる。-

 それでも、自分がやらねばならない。使命を帯びた公人としての自分が。どんな苦境に追い込まれようと、それだけは決して見失わない。ライゼルが【牙】をそう思っているように、ビアンも仕事に対する自身の姿勢を、自己同一性だと自負している。

「ビアン、道路の脇に人影が見えた気がするんだけど、気のせいかな?」

 不意に後ろからライゼルの指摘が伝えられる。実は、運転席にいるビアンの目の端にも、それと思しき人影が映っていた。だが、こちらに何かを仕掛ける様子もなかったので、見咎めなかった。

 というのも、もうこれ以上誰とも関わり合いになりたくないと、本能的に感じたからだ。今回の配給は、何から何までツイてない事尽くしだ。フィオーレでは、代理人が荷物を受け取りに来たり、その事がきっかけで身内同士が喧嘩を始めたり、村長宅に招かれるはずが急遽変更されたり、異能の力を持った異国人による傷害事件は起こる。その事件から芋蔓式に、ボーネでは烽火が上がる緊急事態に元の道を引き返す羽目になったり、デイジーおばさんから矜持を傷つけられたりと、他人と関わる事で余計な仕事が増えてきた。その蓄積された不満がここに来て臨界点を突破し、完全無視という回答を出すに至らせた。事件に巻き込まれた訳でもない人間に手を煩わされては、ビアンの頭の血管が切れるかもしれない。

「付近の住民だろ。無視しとけ」

 そう言い捨てた瞬間、予想以上の不幸がビアンを襲う。走行する車の目前に、先の見ない振りをした者とは違う人影が、突然飛び出してきたのだ。

「ふっざけん、なっぁああああーーー!」

 操縦桿を咄嗟に急旋回させると、車は大きく左に曲がり、道路脇の樹木に衝突し、ようやく止まる。その衝撃で三人は車外に放り出されてしまう。側面はほぼ剥き出しの駆動車であるから、ふとした事で落下するというのはしばしばある事だ。

「いてて、だから言ったじゃん。誰かいるって」

「向こうが突然、跳び出して…」

 地面に打ち付けた腕を庇いながら上体を起こすと、一行の行く手を遮るようにして、五、六人の少女達が道路上に現れているのに気付く。先程の人影は、この内の一人なのだろう。

 目深に笠を被り、全身を硬そうな麻の外套で包んでいる複数人の女の子達。素顔もほとんど窺えない。砂漠越えして来たかのような出で立ちで、明らかにこの鬱蒼とした密林に相応しくない。まるで、肌を晒す事を厳格に咎められているような印象を受ける。

「旅商人かな?」

「女の子ばかりだよ?」

 ベニューがそう呟くと、一様に三人とも同じ疑問を持った。何故、女だけの行商人が、荷物も持たずにいるのか、と。

 女だけの行商事態はさほど珍しくもない。先のボーネ村にも、女性のみで編成された旅商人が訪れる事はままある。女にも駆動車は扱えるし、それ程物騒な土地柄でもない。女だけという事に関しての不具合はあまりない。

 だが、その女だけの集団が荷物を持ってないとなると話は別になる。

 交通網の整備されたベスティア王国において、都市間の移動は非常に容易だ。身分証という首飾りが一目で戸籍の照会をしてくれるので、国は行き来を制限していない。臣民は望む土地に自由に移動する事が出来る。人々は好きな土地で店を構えたり、生活を営んだりする事が出来る。

 ただ、何をするにしても先立つ物が必要なのだ。それは貨幣であったり、交易品であったり、他者と経済活動ができる価値あるものを持っていなければならない。

 例えば、出先で食事をするにしても、寝泊りする部屋を借りるにしても、どこで何をするにしても、対価は必要なのだ。ライゼルには旅をする為に貯めた貨幣があるし、ベニューにも、いざとなれば『六花染め』という価値ある商品を生み出す技術がある。

 だが、目の前の少女達は何かを持っているようには見えない。もしかしたら、技術を持っているのかもしれないが、それで納得したくない不気味さが彼女達の静寂さから滲み出ている。そもそも、余所の集落で商売をしようと張り切るような調子でもない。

(いくら何でも不自然だ。こいつらもまさか【翼】を持って…)

 一応警戒して少女達を子細に観察する。したはいいものの、暑苦しい服装以外には、特筆すべき点はない。首に身分証が付けられていたし、背に【翼】が確認されている訳でもない。身分証は平民女性を表しており、一般人の可能性も十分にある。ならば、ビアンは仕事を、彼女らへの指導をしなければならない。

「おいおい、駆動車の接近は分かっていたはずだ。公務執行妨害として厳重注意を…」

「………」

 表情も見えない少女達に一喝し説教を試みたが反応はなく、ビアンの言葉は尻すぼみに小さくなっていく。この距離で聞こえていない訳はないし、どんな胆力の人間でも間近で大声を出されれば、反射するはずだ。

 だが、少女達の様子は、まるで本当に何も聞こえていないように映る。ビアンの大声も彼女らの心を動かさない。意図的にライゼル達の行く手を遮っただろうに、そのライゼル達にすら興味を持っていない。ただ、そこに静かに佇むだけ。醸し出す雰囲気は、ただただ不気味。

「黙っていては何も分からんぞ。説明しないか」

 痺れを切らしたビアンが、そう言って少女たちの一人に詰め寄り、肩を掴もうとした瞬間、

「いってぇえええええ」

 伸ばし掛けていたビアンの右腕部に、ひりつくような痺れが走る。咄嗟に少女達から距離を取り、思いきり尻餅をつくビアン。

 彼女らの中の一人が、ビアンに向かってなにか『液体』らしきものを霧状にして吹き掛けたらしい。それがビアンの腕部の皮膚に塗布され、痛みをもたらした。吹き掛けられたそれは、白色不透明で乳臭い匂いがするもの。ビアンはその匂いに覚えがある。

「この臭い、母乳か?」

「どうしたの、ビアン?」

 苦痛に悲鳴を上げたビアンの様子を心配し、傍に駆け寄るライゼルとベニュー。患部には直接触れず、引き千切った制服の切れ端で、その液体を拭き取る。

「何か母乳らしきものを掛けられた。その掛けられた部分が痺れる。おそらく毒性を持った何かなんだろう」

 拭き取った布切れを道端に投げ捨て、立ち上がろうとする。が、右腕の痺れが激しく、上手く立ち上がれない。ヒリヒリする感覚は、徐々に熱を帯びるような痛みに変化する。

(この神経に障る感覚。まさか、致死性はないだろうな…)

 塗布するだけでこれ程の痛みが走る液体。年の頃を見てもまさか本物の母乳ではあるまいが、もしかしたら先程の液体は、臭いだけ母乳に似た猛毒なのかもしれない。護衛手段にしては比較的に随分物騒なものを持ち歩いているものだ。そう推測してみたものの、残念ながら医学の知識はなく、近くに水辺もないし、現時点で処置の施しようがない。素人が下手に触らない方がいい。

 先程から神経を張り詰め通しのビアンだったが、努めて冷静に分析して見せ、痛みに耐えながら姉弟に現状の危険性を伝える。その間、彼女達からは視線を外さず、注意深く観察する。少女達の挙動を微に入り細に入り見張る。この不気味な少女達が何を仕掛けてくるか知れたものではない。

「今のは明らかな敵対行為だ。こんな人体に悪影響を及ぼすものを躊躇なく使いやがって。しかも、かなりの即効性のある代物だ」

 奇妙な事に、彼女達の様子は先程とほとんど変わってない。用いた自衛手段を構えている様子も見受けられず、相も変わらず棒立ちで佇むだけ。ビアンに何か液体を吹き掛けたのだから、それらしきものを持っていてもおかしくないのだが、それがどこにも見当たらない。すぐさま外套の中へ忍ばせたのだろうか? どんな形状の何を潜ませているのか、ライゼル達には定かではない。

「おい、どういうつもりだよ! 何を掛けたんだ?」

「………」

 ライゼルの問いに対しても、また少女達は無言を貫く。その所為か、先の行為が自衛行為なのか敵意からの行為なのか、判断しづらくなる。とはいえ、ライゼル達一行に何かの意図があって、仕掛けてきているのは間違いない。現に先を急いでいた一行は足止めを喰らっている。

 幸い、先の噴射以降は何も仕掛けて来ず、またその場を佇んでいる。ビアンにとって、姉弟を逃がすなら、今を於いて他にない。

「こいつらは自発的に何かを仕掛けて来ない。おそらく、足止めが目的なんだろう」

「足止め? なんで?」

 危機感がないとは言わないが、自覚が薄いライゼルの物分かりの悪さにビアンは青筋を立てる。それもあって、ライゼルがビアンに肩を貸そうと気を遣うが、ビアンはそれを左手で制し、拒否する。

「ビアン?」

「分からないのか、この子達も【翼】使いの仲間なんだよ。狙いはライゼル、お前だ」

「えっ!?」

「さっきの話を聞いてなかったのか? 見知らぬ男がお前に復讐を宣言していて、現に大男や行商娘が襲撃して来てんだろうが! この間の悪い時に仕掛けてきたって事はそういう事なんだろうが!」

 先日の異国人が手下として放ったのが、この少女達だとしたら、テペキオンや巨漢も近くにいる可能性がある。外部の助けを望めないこの僻地において、それは非常に危険な状況だ。故に、ビアンは姉弟に向けて警鐘を鳴らす。

 だが、ライゼルは一向に指示に理解を示さない。

「じゃあ、俺が戦うよ」

「だから、お前が目当てだって言ってるだろ! この場は俺に任せて、お前は早く逃げろ!」

 そうなのだ、少女達は先程から身動き一つしないのに、どこか離れた場所から物音がするのだ。加えて、その物音はゆっくりではあるが、確実にこちらに迫ってきている。段々と音ははっきりと知覚できるようになり、それが後方からの足音だと判明する。おそらく足音の主は、この一派の一味。このままだと挟み撃ちに遭う事は容易に想像できる。ここに来て、挟撃体制を取る為に、少女達は道を塞いだのだと発覚する。

「林道を抜けて東にずっと行けば、オライザって集落に着く。そこには駐在所があるから、匿ってもらえる。立派な橋とデカい屋敷があるからすぐ分かる」

「ビアンだけ残して行けないだろ」

 上手く立ち上がれないビアンではあるが、無傷の左手でライゼルを押し退けようとする。しかし、筋力に優れたライゼルを片手で突き飛ばす事は適わない。ビアンにとって、それが余計に腹立たしい。

「いい加減にしろ。俺の言うこと聞けよ」

「いやだ、俺もここで戦うよ」

 遂にビアンの我慢に限界が来る。ライゼルの頬に、ビアンの左手による、力の乗らない平手打ちが見舞われる。

「俺にはお前達を守る義務がある。この命に代えても」

 ビアンにこれ程の啖呵を切らせたのは、役人である事からの矜持である。

 ただ、静かにそう言い放つビアンだったが、ライゼルも引く様子は見せず、抵抗を繰り返す。

「義務とかなんだとか難しい言葉で誤魔化すなよ。守るってどっちのことを言ってるんだよ?」

「お前こそ、何を言ってるんだ?」

 この期に及んで、突拍子もない返事を返すライゼルに、これ以上は何を説いても時間を浪費するだけと判断したビアンは、ベニューに向き直ってこう告げる。

「ベニュー、これは命令だ。ライゼルを連れてオライザを目指せ。お前がライゼルを守るんだ」

 ベニューは事の重大さを、身をもって承知している。このまま居座り続ければ、間違いなく昨日のような事になる。ライゼルが危険な目に遭う。ビアンの身も心配だが、共倒れするよりかは、弟を連れて逃げる方が賢明な判断だ。弟の身の安全の為なら、ベニューは判断を過たない。

「わかりました。行くよ、ライゼル!」

 首肯で承服の意を示すと、ライゼルに逃走を促し、脇道に逸れ木々の中に姿を眩ませる。

「わかったよ。ビアンの分からず屋!」

 精一杯の捨て台詞を吐きながら、ライゼルも渋々応じてベニューに追従し、二枚の六花染めは深い緑の中へ溶け込んでいく。彼らの無事が約束されれば、ビアンの肩の荷が一つ降りる。姉弟が無事逃げ遂せた事を見届けると、ふと息が漏れる。

「どっちがだよ、手ぇ焼かせやがって」

 右手の痛覚が許容範囲を越えたのか、感覚がほぼ無くなってきてしまっている。痛みに耐えずに済むのはありがたいが、その分、動かす事もままならない。逃走を諦め、その場にへたり込むビアン。独力での抵抗や逃走は見込めない。

が、少女達はビアンを拘束するでもない。かと言って、ライゼル達を追い掛けるでもない。先程から微動だにせず、ただその場に居残り続ける。狙いはほぼ確定的というのに、この現状との噛み合わなさは何なのだろう。

(こいつら、状況判断が出来ないのか?)

 ビアンはここで一つ、仮想を立てる。この少女達には意志がない。厳密に言えば、目的に対する積極性がない。

 根拠はいくつかあった。まず、この少女達はこちらの言動に対し、ほとんど反応を見せなかった事。唯一、反応を示したのが、ビアンが体に触れようとした瞬間のみ。おそらく、自衛は自然と働くのだろう。ただ、動き自体は、フィオーレの姉弟やアードゥル隊員のように特別優れた運動神経を有しているようには見受けられなかった。集団という単位で行動しているものの連携しているようには見えず、特殊な訓練を積んでいる訳ではなさそうだ。

 威力偵察を仕掛けておいて、自らの防衛だけは徹底するというのは、情報を持ち帰る事を優先させているからだろうか? 戦闘や作戦行動における技能は皆無と考えても良さそうだ。なんにせよ、この少女達だけで見れば、これまでの【翼】使いと比して脅威度は圧倒的に落ちる。

 次の根拠として、ライゼルとベニューの逃走を易々と許した事があげられる。狙いは間違いなくライゼルのはずなのだ。むしろ、他に心当たりがない。だが、その対象が逃げたというのに何の対応もしない。やはり、この少女達は、あの異国人により放たれた手下なのだろう。密偵として、あるいは尖兵としてこちらの動きを探る為に派遣されたものと考えられる。ただ、現場での独自判断ができる程は訓練されていないのだろう。

 もう一度、彼女達に近付き、彼女達が先と同様に自衛行動を見せれば仮説が立証できるだろうが、もう二度と浴びたくないという本音もある。それに、

(後方の追手もお出ましのようだ)

 徐々に近付いていた足跡は止み、代わりに女の声が聞こえる。

「あら、『あの子』はここにいないのね。逃がしちゃったかしら」

 ビアンが首を擡げそちらを見やると、一人の女がいる。物憂げな瞳で妖しい魅力を帯びた女が、長い黒髪の三つ編みを揺らしながら、ゆったりとした歩調でじわじわとビアンに接近する。

(身分証はない。という事は、この女もあの異国人の…)

 少女達と違い、後から遅れてやってきた女は、首飾りを装着していない。代わりに艶やかな長髪を三つ編みに束ねる、宝石細工をあしらった髪留めが認められる。先の二件では確認できなかったが、異国人にもベスティア王国民同様に装身具を付ける習慣があるのだと、ビアンはふと思った。ただ、それ以外はテペキオンや巨漢と同じ、無垢なる者を想起させる純白の衣装。本当に同じ道を通って来たのかと疑わしいくらいに、滲み一つ付いていない。地に伏し泥汚れを付けているビアンと比較すると、その見た目の印象には随分な差がある。

 姿を見せた追撃者の女は、辺りを一瞥し、落胆の声を漏らす。それに呼応したかのように、不動だった少女達は三つ編み女の周りに群がる。親の帰りを待ち詫びた子供のような姿とでも言えば適当だろうか。隠密行動を命じられた刺客と睨んでいたビアンだが、この様子を見ていると、お遣いを命ぜられた子どものようにも見える。

 その内の一人の少女がひしと三つ編み女に縋りつく。見分けがつく訳ではないが、おそらく位置から推測するに、先程ビアンに対して毒液を吹き掛けた少女だ。女は自分に身を預ける少女の頭を撫でつけ、慈愛の目を向ける。少女は何も発さなかったが、女には何かしら伝わったようで、何やら一人で納得している様子だ。その触れ合いが、まるで何らかの意思伝達手段だったかのように。

「…そう。そうね、私の『愛娘』達に怪我がなくてよかったわ。じゃあ、また『あの子』を追いかけてちょうだい」

 そう言い含めると、少女達は、表情こそは虚ろな目の与える印象通りに不気味だが、どこか弾むような軽やかさで、ライゼル達が去った方向へ走り出す。これによって、指示を受けて改めて行動開始するという推測が正しかった事は確認できた。だが、状況が変わった今、その成果はそれほど大きくない。手下を放っていたのは、面の割れている男二人でなく、この妙齢の女だったのだ。新たな情報を得たと言っても、余計に対策が後手に回ったに過ぎない。未だ、ライゼル達は敵の脅威に晒されている。

「おい、待て」

 少女達の追跡を妨害しようとも、ビアンは上手く動けない。女の命令を遂行せんとする少女達の行動を許してしまう。迂闊な行動で手傷を負ってしまう自分が不甲斐ない。唇を嚙みしめながら、少女達の背中を睨み付ける。

 と、少女達を追っていた視線は途端に遮られる。緩やかな足取りでその間に入ったのは、件の女だ。ライゼル達を追わず、倒れ伏すビアンしかいないこの場に残った三つ編みおさげの女。目的はなんだ? 利用か口封じか、それとも…

 抵抗する術のないビアンは、無防備に寝転がった状態のまま、女に向かって疑問を投げかける。

「お前があの子達の親玉か?」

 問いを向けられた女は、不敵な笑みを浮かべた後、凍てつくような冷たい視線をビアンに向ける。女が纏う妖艶な雰囲気も相俟って、より一層恐怖心を煽られる。安全地帯に居れば免れられた恐怖であるかといえば、そうではない。この女から発せられる迫力は、ビアンの背に汗を滴らせ、やはり先日の異国人を彷彿とさせる。

「ふぅん、アンタが『あの子』を逃がしてくれたってワケかい? 余計な事をしてくれたもんだね」

 問いを投げてもまともに返答がないのは、これまでにも経験がある。テペキオンとの会話がまさしくそうだった。と、いう事は、だ。

「お前、【翼】持ち(ギフテッド)だな。テペキオンや大男と同じ」

 そこまで言い掛けたところで、無慈悲にも頭を蹴り飛ばされる。女はまるで躊躇する様子は見せず、三つ編みという髪型から受ける大人しい印象とは、随分落差があるように思われる。その見た目との差異による衝撃に不意を突かれ、咄嗟に防御姿勢を取れなかったビアンは、蹴りの勢いのまま身を転がせるしかできない。三つ編みの女は、血を吐くビアンを慮る素振りもなく、更に詰る。

「あの単細胞、天から与えられた名を地上の土埃に塗れさすとはねぇ」

 この反応は予想以上だった。カマを掛けて、テペキオン達との関係性や素性を口走らせる算段だったが、『ギフテッド』という言葉が、想像以上に女の琴線に触れてしまったらしい。この女も先の二人同様に【翼】の存在を知っている。同等の力を持つが故に、その扱いを軽んじた事が気に障ったのか、それとも、【翼】を持たない事による劣等感から来る苛立ちか。どちらにせよ、『有資格者(ギフテッド)』という言葉の扱いの難しさは、この異国人達と接する時には、念頭に置いておいた方がいいかもしれない。もう少し情報を訊き出したい所だが、口内を切ってしまったらしく、ビアンは上手く話せない。代わりに三つ編みの女が続ける。

「単細胞からどこまで訊いているのかしら?」

(やはり、奴らの同胞。という事は)

 次に予想されるのは口止め。つまり、ビアンや姉弟の抹殺である。これまで影や形やその噂さえも見聞きしたことのない【翼】なるものの存在は、所持者達からすると隠匿したいものなのか。保有者が厳に秘匿していたからこそ、これまでその存在が明るみに出なかったのか。あるいは、目撃者を悉く抹殺していたからか。先の様子を見るに、危害を加える事に躊躇った様子はなかった。おそらく、殺害する事も同様なのだろう。

(知らぬ存ぜぬで通るとは思わないが)

「アイツの能力は見たのかしら?」

「あの高速移動の事か」

 能力という単語を聞いて、まず最初に連想されたのがそれだ。一番の驚きは、重力を無視して空中浮遊してみせた事だが、それは後日の巨漢の男も同じ芸当を披露した。もしかしたら、【翼】を有する者は、皆が浮遊能力を有しているのかもしれないというのが、現状のビアンの推測だ。

「高速移動、ね。『疾風』の通り名に違わぬ能力ってところかしら。それで、他に知っている事は?」

 女は、脅迫し情報を吐くよう強要するばかりで、ビアンを亡き者にしようとする素振りを見せない。どころか、ビアンがこれまでに知り得た情報を訊き出そうとしている。これはどういう事か?

(そういう事なのか?)

 確信は持てないが、ビアンには思う所がある。疑惑の段階を突破し、その解消を試みる。出来るだけ抵抗する素振りは見せず、素直に質問に答えているフリをする。そうすれば、突破口が見出せるかもしれない。

「…見た訳じゃないが、まだ何か隠しているようにも見受けられた」

 抵抗する素振りもなく、淀みなく答えるビアンの態度に満足したのか、先よりかは幾分か形相が和らぐ。それでも自身が上位だとする態度に変化はなく、次を急かす度にビアンの頭部や背中を足蹴にする。

「アンタの推察で構わないわ。話しなさい」

 かなり屈辱的な状況だが、ここで女の機嫌を損ねて作戦が破綻しても面白くない。頭部を土足で踏みつけられる恥辱に耐えながら、女の言葉に応じる。

「あぁ。どうも姿を消す能力を持っているようだ。空中で突然姿を消したんだ」

 証言通りに、テペキオンは空中の一定の高さまで背の【翼】をはためかせると、途端に眩い光に包まれ、瞬き一つの間に行方を眩ませていた。これは、あの大男にも言える事だから、先の浮遊と同様で共通の能力なのかもしれない。

「…そう」

 少し逡巡する素振りを見せたが、この証言にはそれほど興味を示さない。多分、これは、

(既に知っている情報か)

 反応が薄いという事は、既知の情報であると予想される。おそらく、テペキオンと巨漢に共通する事項には関心がない。女が既知の情報に興味がないという事は、ビアンの予想通りだった。導き出される結論として、女はテペキオン個人の情報を訊き出したいのだ。情報漏洩や機密保持の確認がしたいのではなく、女自身がテペキオンの秘密を暴き利用するのが目的なのかもしれない。であれば、口封じに抹殺される事は回避できるかもしれない。

 この目撃者に利用価値があるのだと誤解させるように、ビアンは策謀を巡らす。女が全てを把握している訳ではないのであれば、幾らかやり様はある。例えば、こうだ。

「あとは、手から雷を発生させる事が出来るようだ」

「イカヅチ?」

 虚言を伝えて様子を見る。あからさまに訝し気にビアンの目を見る妙齢の女。山彦のように返したその反応には、どう意味が込められているのだろう? なにか問題があったか。例えば、天候に干渉する特異能力はあり得ないだとか、そもそも能力の数には制限があるだとか、ビアンが口から出任せに言った虚言が、そういった【翼】の制約に触れていただろうか? これだけの要素では分からない。だから、もう少し続けてみる。

「あぁ、雨雲から見える稲光だ。一瞬間で視認はできなかったが、あれに酷似した発光現象を自在に操っていたんだ。光と共に音も轟かせていたから、間違いない」

 作り話だと、どうも変に饒舌になってしまう。怪しまれてしまっただろうか? 妙齢の女の表情は、先と変化がない。ビアンの証言を慎重に吟味しているようだ。

「イカヅチ…そう、雷ね」

 腑に落ちない様子だが、頭の片隅に留めておくように、その虚偽の能力を重ねて口にした。ビアンの吐いた嘘を見抜いていないのであれば、ビアンも策を講じる事ができる。

「もし、テペキオンを出し抜こうと考えているのなら、俺が力になれるかもしれない」

 予想だにしなかったのだろう、突然のビアンからの提案に、これまでと違った反応を見せる三つ編みの女。

「地上の人間風情が?」

 怪訝そうな表情に変化はなかったが、先以上に関心を持ったらしく耳を傾け始めたようだ。女は視線でビアンに先を促す。相手が誘いに乗ってきた事を確認したビアンも、それに素直に従う。

「例えば、俺はヤツの狙いである人物と通じている。そいつと共謀すればテペキオンを出し抜く事が出来るはずだ」

 これは大きな博打だ。そもそも、女の狙いが判明しない内に、両者が対立関係にあるという前提でテペキオン達を相手取る作戦を提案しているのだ。もし、女とテペキオン達が協力関係にあれば、この時点でビアンの負けは確定している。負けという生温い言葉では済まない、ビアンを待つのは死だ。

 だが、ビアンも無策で賭けに出たのではない。これまでのやり取りで確証こそ至らないものの、そう思えるだけの根拠は得た。この女は、テペキオン達と同胞かもしれないが、第一義は同一ではない。テペキオンが口走った『狩り』なるものが狙いでなく、別の個人的な企みがあって行動している。そうビアンは、推理する。

 それに、この三つ編みの女からは、テペキオンに対する対抗意識が見て取れる。そういう他者に対する負い目を感じる感覚に、ビアンは自身の経験則もあって敏い。

 急に下手に出るビアンに、流石に全幅の信頼を寄せる事はないだろうが、それでも利用できる駒という認識は持ったかもしれない。妙齢の女は、身動きできないビアンに対して油断し始めていたし、都合よく踊らんとしている彼に払う警戒を忘れかけていた。

「何が目的だい?」

 自らに恭順の意を示す存在は、女としても面白くない訳ではない。自分の意に添うのであれば、無碍にするつもりもないのだろう。相変わらず見下したままだが、それでも交渉相手として認め始めている。

「何か目的があるとしたら、命乞いかな。ご覧の通り、俺は動けない」

 無事な左手を挙げて、お手上げの格好を見せ、降参の意を示す。無慈悲な人間であっても、無抵抗な者にわざわざ手は挙げまい。口止めの必要がなければ、尚更。

「命乞い? 妙な事を言うのね」

「そうか?」

 相変わらず会話が上手く噛み合わない。この女にとって情報提供と命乞いは斟酌する事ではないのだろうか。どうやら互いの間に、決定的な認識のズレがあるようだ。読み違いの恐れもある、慎重に進めねばならない。

「じゃあ、三下の手並み見せてもらおうじゃないか。天空の疾風をどう料理するのか」

 これで疑惑が確信に変わる。妙齢の女は、テペキオンの存在を知っているが、決して協力関係にある訳ではない。むしろ、相手の内情を探っている。この事から、仲間であるとは考え難く、連絡を取り合っているとも思えない。であれば、女の要望を引き出す事を目的に策を労すのも悪くない考えだ。

(上手くすれば逃げ出せるか?)

「まず、ライゼルを連れ戻したい。あいつがいなくては、テペキオンをおびき寄せる事が出来ない」

「『ライゼル』…それが『あの子』の名前かい?」

 ビアンは肩透かしを食らった思いだ。意外な事に三つ編みの女は、ライゼルの名前を知らなかったのだ。標的の名前を聞かずに追撃していたのか? 容姿の特徴だけを伝え聞いて、ライゼルを追いかけて来たのだろうか。可能性はあるが、腑に落ちない。昨日の巨漢の男は、ライゼルの名前も特徴も知っていたようだった。この三者の間で情報共有が十分になされていないという事なのか。それとも、ビアンが何かを読み誤ったか?

 判断しあぐねるも、こちらの狙いが知られては不都合だ。あまりその点を追求すると、こちらの目論見が明るみになり、機嫌を損ねるかもしれない。特に気に掛けた様子も見せず、策謀を続ける。

「そうだ、テペキオンに痛手を負わせた者はライゼルという」

「…痛手をねぇ。なるほど、単細胞が『あの子』に執心するのはそういう事かい」

 どうやら合点のいった様子の女。女は何やら疑問を解消したようだが、それとは対照的にビアンは先程から抱いている違和感を拭えない。何かが噛み合っておらず、上滑りしているようにも感じる。三つ編みの女が発する重圧からは解放されたが、未だにビアンは額や背中から冷や汗が流れ出ている。一昨日の詳細も聞き及んでいないのに、ライゼルを追い掛けていたのか? というより、そもそも何の狙いがあって、ライゼルを追う? 同胞の仇討ちにしては余りにも悠長であるし、それ以前にテペキオンに対して友好的な態度は一切見せていない点から、テペキオンの為に奔走しているとも考えにくい。まさか、テペキオンへの単なる当て擦りの為の行動か? 様々な可能性を吟味するが、不確定要素が多すぎてやはり不自然だ。

 不審がるビアンをさして気にするようでもなく、更に続ける三つ編みの女。節の長い五指が、女の頬を厭らしく這う。

「だけど、あの単細胞に持って行かれるのは癪だねぇ。アタシも『あの子』を気に入ってるんだ」

 目にする事の適わなかったライゼルに想いを馳せているのだろうか、視線を遠くに向け、恍惚の表情を見せる。先程の少女達へ向けた慈愛の表情そのもの。何を妄想したのだろう、女の口元が僅かに緩む。

 その様子を見て、ビアンは自らの行いが過ちであった事に気付く。

(しまった! この女自身もライゼルが目的だったのか)

 これは痛い失敗だ、ビアン痛恨の失態。何故なら、そもそもの前提を履き違えて、計略を練っていたのだから。女の目的が、テペキオンに対する当てつけと思ったからこそ、ライゼルを囮にするような言い方をしたのだ。

 だが、これではビアンが望む条件での取引にならない。却ってあの姉弟を余計に危険な目に遭わせてしまう事になってしまった。もちろん、連れてくる事を要求したのは欺瞞作戦の内ではあったが、それは隙を見て逃げ出す為の口実。最初からそんな事は望んでいない。それでは、自分を犠牲にし、姉弟を逃がした意味がないではないか。

 慌てて事態の収拾に乗り出す。まだ行動に移っていないのだから、取り返しがつかない事もないだろう。ビアンはそう考えて、作戦の軌道修正に掛かる。

「もちろんテペキオンに引き渡すのは、見せかけだ。テペキオンがライゼルに気を取られた隙に、アンタの手下にでも奇襲を掛けさせれば…」

 そこまで言い掛けて言葉を飲むビアン。これ以上言葉を紡ぐ事は憚られる。何故か? それは、とてもこの世のものとは思えない、怒りに満ちた形相がビアンに向けられていたからである。

「手下? それはまさかアタシの『愛娘』達を指しているんじゃないだろうね?」

 不意に問いを投げられ、言葉に詰まる。どう答えていいか戸惑っていると、妙齢の女は動けないビアンの頬に連続して蹴りを繰り出す。

「臭く汚い男の分際で、アタシの『愛娘』に指図するんじゃないわよ。この土埃が」

 無抵抗なビアンはされるがままに蹴られ続けるしかない。蹴られた目元は腫れあがり、その膨れによって押し上げられた頬肉が視界を遮る。口の中には血の味が広がる。血が喉に絡んで呼吸が苦しく、加えて女が集中的に頭部ばかりを責めるので、痛みと衝撃で気を失いかけていた。

(ふたりとも、ちゃんと逃げきれただろうな)

 嬲られ続け、意識が朦朧とし始めた時、フィオーレの姉弟の顔が頭に浮かんだ。出会って数日しかないが、ビアンにとっては印象深い存在。無遠慮に年長者を呼び捨てにするライゼルと、年齢以上に大人ぶろうとするベニュー。

 思えば、ビアンには友人と呼べる存在がいなかった。それは故郷コトン村の時からそうであった。人口もそう多い集落ではなかったからか、同年代の人間も少なかった。両親は共働きで、暇を持て余す少年期のビアンはいつも本に夢中になっていた。その当時から始まった生活物資配給により各地に広まっていた学習制度。元々、物覚えの良かったビアン少年はどんどん勉学にのめり込んでいった。村一番の秀才と持て囃され、王国が誇る高等学習機関スキエンティアに入学、卒業後は平民初の官吏任官という偉業を成し遂げた。自身の努力の成果を生かすには仕官する事に於いて他にないと考えていたし、平民初の任官された誇りもあった。彼の人生は、とても充実していた。仕官して以降も、職務を全うする事に喜びすら感じていた。

 が、いつの間にかそれは、自身の劣等感を隠す都合のいい言い訳に成り替わっていたのかもしれない。

 幼い頃はそれほどではなかったと思う。大人が構ってくれないのは仕事が忙しいからなのだと理解していたし、聞き分けのない我儘を言った事もない。自分の周りに人がいないのは、状況の所為なのだと、そう思っていた。だが、その環境は劣等感を持ち始めるきっかけにはなっていただろう。

 スキエンティアに入学してからは、自身程度の人間は腐るほどいるのだと思い知らされた。優秀な学生の集まる学園には、本人の資質、家柄共に、ビアンより優れた者ばかりがいた。それまで思い上がっていたつもりもなかったが、あまりの格の違いに打ちのめされてしまった。ビアンは人生で初めての挫折を味わったのだ。

 そんな後ろめたさもあってか、学園ではあまり人付き合いをしなかった。他の学生全てを打倒すべき相手と看做し、距離を置き、ただひたすらに勉学にのめり込んでいった。自身の居場所を勝ち取る術はそれしかないと、ただ盲目的に取り組んだ。

 結果、先述の通り、王国に仕官する誇り高い役職に就けたし、ビアン自身も誰にも恥じる事のない自分になれた。役人の制服は、彼にとって誇りを背負うようなものだったかもしれない。だが、とうとう彼は独りのままだった。辛酸を舐めさせられる事を恐れ続けた彼が一人で勝ち取った成功は彼一人のものでしかなく、喜びを分かつ者も誰もいなかった。

 独りでいる事に慣れてしまったビアンは、職務も単独作業の多い地方監査官に就いていた。確認作業も、搬入作業も、配達作業もいつも独り。思えば、同僚と最後に口を利いたのもいつの事だったろう。

(独りぼっちで、賊に捕えられて嬲られて・・・情けないなぁ、俺は)

 自分の孤独な在り方に失望し、抵抗する気力も失くしかけていく。ビアンはもう生き残る事を諦めかけている。自分を過大評価して、一人で責任を抱え込んだ挙句、その負荷に押し潰される。これまでの人生を思えば、似合いの最期かもしれないと自嘲気味にビアンは笑う。顔は痣だらけ、服は泥まみれ。これ程無様な事はない。

 そう力ない笑いが込みあげると同時に、姉弟の姿が目に浮かぶ。

(六花染めを着たあいつらは、かっこいいんだよなぁ…)

 孤独を受け入れ、誰に取り繕うでもなくなったビアンは、ふとそんなことを思う。

 あの姉弟は、ビアンにないものを持っている。夢に対する直向きさや前向きさ。謙虚さや思い遣り。そんな人から好かれるような個性を持ち合わせているからこそ、きっとあの鮮やかな六花染めがよく似合うのだ。姉弟のように、すぐに他人と打ち解け、心を通わせる事ができたら、どれ程嬉しい事だろう、幸せな事だろう。

 ただ、ビアンにはそれが終ぞ出来なかった。ビアンには、姉弟のように『六花染め』を着こなす自分を、想像する事ができないのだ。

(あれは誰にでも似合うもんじゃない。眩しい奴が着るもんなんだよ・・・)

 混濁する意識の中、姉弟への素直な想いを馳せるビアンだが、地べたに寝転がる彼の眼前に女の爪先が迫っている。次の一撃が、意識と生命を同時に奪うのだろうな、とぼんやり考えていたが、不意にその足の運動を遮るものがあったらしい。虚を突かれた女は、怒気の含まれる口調で問い掛ける。

「誰だい?」

 女は蹴り出した脚を止めた正体に視線を向ける。と同時に、正体不明の何者かは、止めた脚を押しやり、女自身をも押し退ける…のだが、瞼の腫れたビアンはそれを視認できていない。複数人による足音があると判るばかりで、自分の傍で何が起きているのかビアンには分からない。

「ビアン、助けに来たぞ」

 すぐには事態が呑み込めなかった。見舞われるはずの蹴りが未遂に終わり、代わりに第三者に声を掛けられる。そして、そのまま女から引き離され、自身と女の間にその第三者が立ち塞がる。第三者とは誰だ?

「ビアンさん、掴まってください」

 左側面から腕を取り、肩を貸す者がいる。ビアンを背に庇う少年とは別に、ビアンを手助けする少女がいる。第三者は二人連れだった。この声をビアンは知っている。

「はぁぁああああああ?!」

 瀕死の状態でも、情けない声が出てしまうのだから、人間とはつくづく変われない生き物なのだと悟るしかない。そして、変わらないのはビアンに限った事ではない。この姉弟も、だ。

「ライゼル、ベニュー。なぜ戻ってきた?」

 ビアン自身を犠牲にして逃がしたはずの姉弟が、今度はビアンを救出しに舞い戻ってしまったのだ。これでは、骨折り損のくたびれ儲けだ。

「ライゼル。お前がここまで物分かりが悪いとは思わなかった。ベニュー、お前もだ」

 元々、口内が痛くて上手く喋れないが、それ以上に呆れてしまって物が言えない。ぼやけていた視界が、輪郭を捉えられる程度に晴れてくると、ビアンの視線の先にライゼルの不敵な笑みがある。

「そうかな、上等な作戦を考えてきたんだぜ」

「上等な作戦?」

 背中越しにそう言って見せるライゼルは、何故か自信満々な様子。

 押し飛ばされた三つ編みの女は、立ち上がり、尻餅をついた際に付着した服の土埃を払う。無垢なる衣服に泥汚れを擦り付けられたのがそれ程気に食わないのか、女のこめかみが何度も疼く。怒りの形相は先から微塵も和らいでいない。それどころか、更に険しくなっている。

「このクソガキ、アンタはお呼びでないんだよ。失せな」

 その怒号と共に、先の少女達が持っていたような乳白色の液体をライゼルに振りかける。先の少女達の時と同様に、どこから、いつ取り出したのか知覚出来なかったが、女が手を大きく振るとそれは飛び出していた。まるで、女の手に乳白液が既に塗りたくられていたかのように。加えて、先の少女達と比べ物にならない程に、女の動作は素早い。予備動作もほとんど確認できず、ライゼルは完全に後手を踏まされたのだ。

 突如として現れたそれが、ライゼルの前面部を捉える、かに見えた。が、実際にはそうならなかった。

「どうだ、ビアン。いい作戦だろ?」

「大きな葉の外套か」

 ライゼルに掛かるかに見えた乳白色の液体は、ライゼルが戻った時に纏っていた桐の葉で編んだ外套に付着していた。その編まれた葉は、見事にライゼルの体を覆いつくしている。ぼやけた眼で見てみれば、ベニューも同様に大きな葉っぱでその身を包んでいる。素肌を隠し、謎の液体への対策は万全だ。

「ビアンさんもこれを」

 ベニューの手にはもう一枚、二人の外套より一回り大きく編まれたそれがあった。染物屋の本領発揮とばかりにこの短時間でそれを制作してみせたベニューは、ビアン用の外套を彼の肩に掛け、全身を覆い隠す。これなら、これ以上の液体による刺激を負わずに済む。今、三人が身に纏うのは、制服でもなく、六花染めでもなく、三人揃いのこの桐の葉の外套なのだ。

「賢しいガキだね」

「まぁね」

「私の案でしょ!」

 ビアンにしてみれば、姉弟の普段と変わらない様子が頼もしくもあり、苛立たしくもあり。敵を前にしてこの気の抜けた通常仕様振りは何なのだ。危機感に欠けると、ビアンは憂慮せずにいられない。

「まぁ、そっちから出てきたのなら都合がいい。さぁ、早くこちらへいらっしゃい。そんなみすぼらしい物は脱いで、さぁっ」

 一行に向けて手招きする三つ編みの女。それを受け、ライゼルはきっと睨み付け、相対する。

「オバサンこそなんで俺達を付け狙うんだよ。テペキオンに命令されたのか?」

「アタシが? あの単細胞に命令される? ハッ、冗談じゃない。ルクならともかく、アタシはあんな若造と組む気はないね。なにせ、アタシには…」

 そこまで言い掛けて、三つ編みの女はこの状況に違和感を覚える。女としては、失念していたというより、状況を鑑みれば自ずと予定通りになるものと思っていて、さほど危惧していなかった。

 が、実際は思い通りになっていない。ライゼル達が戻れば自然と一緒に戻ってくると思っていた存在、女の言うところの『愛娘』達が戻ってきていないのだ。少女達は、ライゼル達の後を追って脇道の雑木林に入ったきり。

 途端に女の顔が青褪める。それは女が初めて見せた動揺だった。少女達の身を案じたのだろうか、開いた瞳孔を剥き出しにし、癇癪を起こした女は絶叫する。

「アタシの『愛娘』達はどうしたんだい?!」

 女の声は先と比べはっきりと分かるほどに凄みがない。対照的にライゼルは自信に満ちた表情で言い返す。

「あの女の子達、オバサンの娘なの? だったら、早く迎えに行ってあげなよ。今頃、木の幹に括り付けられて身動きできずにいるから」

 そう言って先程ライゼル達が行方を眩ませた方角を指し示す。思えば、ライゼル達は逃げた時と同じ方向から帰ってきた。そんな事をすれば、追手の少女達に遭遇してしまう。彼女達には、ビアンを無力化した謎の毒液があるというのに。

「乳液が厄介だったので、対策を用意しました。林の奥には桐の葉があったので、人数分用意するのにそれ程苦労はしませんでした」

 桐の木は、このソトネ林道の中でもとりわけ大きな葉っぱを有する植物だ。その大きな葉を編んで外套を作り、追いかけてきた少女達相手に、その効力を実践したというのだ。ベニューの狙い通り、葉の外套は防衛手段として機能し、彼女達が頼みとする毒液を無力化せしめた。

 その得物さえ封殺できれば、人数の劣勢はあれど、身体能力に優れる姉弟が、少女達に後れを取る事はない。先日の姉弟喧嘩で披露したような体術で少女達を組み伏せ、付近にあった植物の蔓で手足を縛り、大きな木に全身ごと括り付け、放置し舞い戻ってきたのだ。

「自力じゃ抜け出せないように結構きつく縛ったから、オバサンが助けに行ってあげないとね」

「そんな!」

 してやったりのライゼルの指摘を受け、血相を変えて林の中へ形振り構わず駆けていく妙齢の女。道なき道を抜け、枝木がその肌を切り付けるのも厭わず、行方知れずとなった少女達を探す。標的であるライゼルを差し置いて、娘達を優先させる辺り、意外と情が深いのかもしれない。ただ、一度横道に逸れれば目印になる物はなく、土地勘のない者では再びここへ戻ってくるまでに相当の時間を要するだろう。状況を鑑みれば、三つ編みの女の情の深さに救われたとも言える。

 その後ろ姿を見送り、安堵の溜息を漏らす一行。こうして一旦は、危険からは免れる事が出来た。

「まさか、ソトネ林道に桐の木は生えてるなんて思わなかったよ。確か、桐の木材って高級品なんでしょ? ここも捨てたもんじゃないね」

 逃げた先に、大きな葉を茂らせる桐の木があったのは、ライゼル達にとって僥倖とも言える。運はライゼル達に味方した。咄嗟に思いついた対策であったが、思いの外に上出来でライゼルは俄かに機嫌を良くしている。

 だが、ライゼルは忘れていた。ビアンの堪忍袋の緒が既にぶち切れていた事を。

「ライゼル! どういうつもりなんだよ。何度も同じ事を言わせるな、状況を的確に判断しろ!」

 非常に痛々しい程に痛めつけられたという風体の変化はあるが、心情は先と変わりなく、ライゼルの聞き分けの無さに怒れるビアン。が、それを見ても物怖じせず、ライゼルは面と向かって言い返す。

「俺だって何度だって言うよ。わかんないものは、わかんない!」

「言って分からんなら、体で覚えろ」

 そう言って満足に動かせない右腕を振り上げる。ベニューは乾いた音が響くのだろうと覚悟し、堅く目を閉じた。一方、ライゼルはビアンの目を見据えたまま、視線を逸らさない。強い意志をその目に宿し、一切たじろがない。その真摯な眼差しでライゼルは問う。

「ビアンは何と戦ってるんだよ?」

「な、に?」

 ライゼルの言葉に、振り上げた腕から力が抜けるビアン。平手を見舞うでも降ろすでもなく、そのまま固まってしまう。行き場を失くした拳をどうする事も出来ず、ライゼルの言葉に聞き入ってしまう。

「ビアンはすごい人だよ。頭もいいし、大人だし、運転も出来るし、国の仕事もしてる。それに、今日だって俺達を庇って逃がしてくれたし、昨日烽火を見つけた時はベニューを心配して戻ってくれた」

 堰が決壊したように捲し立てる。これほどの勢いを前にして、ビアンに割って入る隙間はない。だから、まだライゼルの言い分は続くのだ。傷だらけの成人男性は、少年の真っ直ぐな思いの丈をぶつけられる。

「だけど、テペキオンやデカ男と戦ったりするのはビアンには出来ないよ。だって、ビアンには【牙】がないんだもん」

 言わずにいられなかった事を、思いっきりぶちまけるライゼル。

 きっとビアンも言われるまでもなく承知していた事であった。だが、それでも実際にライゼルに指摘されるまで、目を逸らしてきた事実。もっと言えば、ビアンは【牙】に限らず、ベニューの六花染め等のような突出した技能を持っていない。普通の人間と比べても、その平均を逸する事はない。

 ビアンにとっては目にも耳にもしたくない事実だが、ライゼルは容赦なく浴びせる。

「逃げろってなんだよ。あの人数を相手にどうにかできる訳ないじゃん。しかも、追手が来てたんだぞ。どんどん苦しくなるだけじゃん」

 年下の子供に言われ続け、ようやくビアンも己を取り戻す。振り上げた右手でライゼルの胸倉に掴み掛る。

「他に手段がなかったろうが。あのまま、三人で残ってたら全員捕まってた。あの時はあれが最善の方法だったんだよ!」

「三人で知恵を絞れば」

「一番危険性が低い手段を選択したんだ。いいか、ガキが大人の仕事に口出しするんじゃねぇ。お前達国民を守るのは俺の職務だ」

 思わず言葉と同時に手が出てしまう。感情のままに繰り出された拳が、ライゼルの頬に炸裂する。この時既に、ビアンの感覚の中から、右腕の痺れは消えている。ビアンを突き動かしたのは、感覚じゃない、感情だ。右腕以上に、心が疼いていたのだ。

「俺は官吏で大人なんだ。お前達子供を守る義務があるんだよ! 守らなきゃいけないんだよ!」

 ライゼルに負けじと、年甲斐もなく思いの丈をぶちまける。が、それすらライゼルの気持ちを収める事は、越える事は適わない。

「だからさ!」

 先の御返しだと言わんばかりに、ライゼルもビアンの頬に拳を放つ。既に腫れ上がったビアンの顔面であったが、ライゼルの拳に躊躇はなかった。少年の想いは、それ程までに大きかった。

「俺は何度だって言うぞ。ビアンは何と戦ってて、何を守るって言ってるんだよ! 守るってどっちをさ? 俺達? それとも、規則?」

 ライゼルの拳がビアンを殴り飛ばし、咄嗟に手を付けない彼は背中から地面と激突する事になる。顔の腫れも、腕の痺れも、直前に受けた背中の痛みすら、何もかもがビアンの意識から吹っ飛んで、ライゼルの言葉がビアンの頭の中で反響している。

(そうなのか? 俺は、知らない内に、目的と手段を履き違えていたのか?)

「…もちろん、お前達に決まってるだろ」

 態度の割に返す言葉は弱々しかった。これではライゼルを言い含める事など到底適わない。

「ビアンはもう俺達の事を守ってくれてるじゃん。俺、村の外ってすごい不安だったけど、ビアンがいてくれたからすごい心強かったよ」

 その主張にはベニューも静かに首肯で肯定する。

「ライゼル、ビアンさんの事ものすごく慕ってるんですよ。ビアンさんが手加減せずちゃんと叱ってくれるから」

「俺を? ライゼルが?」

 不意にそう告げられても理解が追い付かない。感情が高ぶっているから余計にかもしれない。大声を荒げた為か肩で大きく息を整えるビアンは、ベニューの言葉を努めて冷静に処理しようとするが、やはり激しい動機がそれを邪魔する。ビアンにはベニューの言っている事の意味が分からない。

 山彦のようにしか返せないビアンに、ベニューは僅かにはにかんだように答えて見せる。

「はい。私も、もしお父さんがいたらこんな感じなのかなって」

 そう言われて思い出す。姉弟の父親はライゼルが産まれる前に蒸発し、母親も十年前に亡くなっている。父親代わりをしていたつもりはなかったが、ビアンの叱りは、姉弟にとっては父親のそれと感じられたのかもしれない。もし、自分達姉弟に父親があれば、こんな風だったのだろうか、と。

「いつものビアンはカッコいいよ。何をしたらいいのかを知ってるし、訊けばその理由も答えてくれる。ビアンはカッコいい兄貴だよ」

 ライゼルの言うそれらは、昨日の事後処理の事であったり、外の世界の一般常識であったり。ビアンがこれまで当然としてきたものばかりであったが、ライゼルにとっては知らない事、適わない事なのだ。ライゼルに出来ない事を、ビアンは当然のようにこなす。それがライゼルからすると『カッコいい兄貴』に見えるのだ。

「俺が、兄貴?」

 もはや、ビアンの脳はちっとも働いていなかった。まるで、自分に関係のない話をされているような違和感。でも間違いなく、少年の瞳は、目の前の『兄貴』の目を見ていた。

「でも、今日のビアンは余裕なさすぎでカッコ悪い。まるで俺達の事が目に入ってないみたいだ」

 言われて、ようやく自分が話の当事者なのだと分かる。ずっとライゼルはビアンに語り掛けていた。しかし、当のビアンはと言うと、別のものを見ていた。ライゼルに気付かされるまで、ライゼルを見ていなかった。

(そっか、俺が必死こいて守ろうとしてたのは、コイツらや、ましてや規則じゃなくて…)

「…自分、だったのか」

 悟ってしまった。長い間ずっと気付かないフリをし続けてきた事を。壊れないように、流されないように、大事に大事に秘め隠し、守ってきたもの。それが、他でもない弱い自分自身だという事。

 だが、今なら言える。その気付きは大きな一歩なのだと。新たなる自分に、誰に怖じるでもない誇れる自分に変わるきっかけを、この小生意気な少年に与えられた。であれば、ビアンのやる事はただ一つ。

「まさか、こんなクソガキに図星を突かれるとは」

 絶体絶命に陥っても悟らなかった真実を、子ども扱いしていた少年に突き付けられたとあっては、これ以上大人ぶって格好つける事はビアンには出来ない。むしろ、弱い自分を自覚できた今だからこそ、自分に信を預けてくれるこの姉弟に真っ直ぐに向き合える。変に斜に構えて拗ねるのはもう止めだ。

「ハハハ、俺はどうしようもないヤツだな、まったく」

 そう思い直す自分が妙に感じられて、ビアンは笑いが込みあげるのを我慢できなかった。

「どうしたの、ビアン? まさかさっきの一発でおかしくなった?」

 先程までの剣幕はどこへやら、突然様子の変わったビアンを心配しだす始末。殴ったのはライゼル自身であるから仕方もないかもしれないが。ベニューも身内がやらかした事に、僅かに動揺したが、ビアンの口元が上がっているのを確認すると、安堵の息を漏らす。どうやら、ライゼルが心配している事は、見当違いであるらしい。

「そうだよ、お前の一発をもらって吹っ切れたんだよ」

「吹っ切れたってどういう事?」

 察しの悪いライゼルが理解できなくても仕方あるまい。どうしても知りたければ、傍らで嬉しそうに微笑むベニューに訊ねればいいのだ。彼女が素直に教えてくれるかは別として。

「うるせぇ。そんだけの口を利いたんだ。お前にもしっかり役目を振るからな」

「お、おう! 任せろ」

 突然、本調子を取り戻したビアンに追いつけないライゼル。まさか、自分の言葉がビアン復活のきっかけになったとは夢にも思わない。もちろん、そんなライゼルだから言えた事なのかもしれない。

 だから、それが誇らしいベニューはつい弟に言葉を掛けずにいられない。

「よかったね、ライゼル」

 何が良くてそう言われたのか、すぐには理解できないライゼル。こういう場合、ライゼルは他者に説明を求める。もし、その事を追及されると、ビアンは気恥ずかしくて仕方ない。戒めの意味を込めて、ベニューにも水を向ける。

「何を他人事みたいに。もちろん、ベニューもな」

「あっ、はい」

 ライゼルだけでなく、しっかりベニューにも釘を刺す。何故ならば、

「俺達は三人で一組の仲間だ。連携は密にしていくぞ」

「おう」「はい」


 こうして、三人は協力し、現状を打破する事となった。打破すべき現状とは、追撃者の女を退け、逃げ遂せる事。時間を食えば、数で劣るこちらは圧倒的に不利だ。必要最低限の接触でこの場を乗り切らなければならない。

 思いの外、ライゼルとビアンの言い争いに時間を食ってしまい、三つ編みの女達が近くまで及んでいるか知れたものではない。すぐにでもこの場を離れて、安全圏に離脱しなければならない。

幸い、車は前部に損傷が見られたものの、走行自体に差し支えはない。運転を担当するビアンも多少の負傷はあったものの、無理をすれば不可能な程ではない。その無理も、虚栄から来るものではない。姉弟の信頼に応えたいという、仲間意識から生まれる原動力に支えられている。弱さを知る事は、強くなる為の最低条件。己と向き合い始めたビアンは、これまで以上に駆動車を快速に飛ばす事ができる。全身の痛みさえも、今のビアンを止める事は適わない。ビアンの駆る駆動車は、順調に雑木林を抜けていく。

「で、あの女の子達はどの辺で撒いたんだ?」

「そうですね、脇道に入って四、五分といったところでしょうか」

 となれば、先回りをされる心配はないはずだ。この林道は、途中多少は曲がりくねっているとはいえ、大まかに言えば東へ一直線に延びている一本道だ。脇道に逸れた徒歩の一派が、乗用車で先行するライゼル一行に追いつけるとは到底思えない。彼女達による危機は脱したはずだ。

「一安心といったところか」

 運転席で独り言ちたビアンは、ようやく肩の力を抜く事が出来た。林道ももうじき出口に差し掛かる。林道を抜ければ、緩やかではあるが下り坂が続く。坂道の力を借りて、一気に速度を増し、距離を空かす事ができるだろう。苦境がようやく改善され、先の劣等感の解消もあって、随分楽になれた気がした。

「ビアン、手の痺れや顔の腫れは大丈夫? なんなら俺が運転しよっか~?」

 前言撤回、こめかみに青筋が走り、思わず操縦桿を握る手に力が入る。

「ふざけろ、お前みたいなクソガキに任せたら車が大破するわ」

「なんだよ、さっきは俺にも役目を振るって言ったじゃんか」

 運転席と後部座席とを跨いで言い合いを続けるライゼルとビアンを余所に、辺りを注意深く監視していたベニュー。鬱蒼と茂る木の枝の隙間から見える上空に、何者かの姿を認めていた。

「空を移動してるのってさっきの」

 それを聞いたビアンも、ベニューが指した上空を腫れぼったい目で見やる。長い黒髪を靡かせ、微かに汚れて見える先程までは純白だった衣服を纏っている女。

「人がいる。テペキオンやデカ男じゃなさそうだけど」

 確かに先の女が宙空を滑空し、その影を駆動車の上に落としている。どうやら既にこちらの駆動車を発見しているらしく、車の真上をぴたりと付けて飛翔している。

「違いない、さっきの女だ。あいつも【翼】持ちとは思ったが」

 その背には、テペキオンやルクと呼ばれた巨漢同様の【翼】が確認できる。先程までは発現させていなかったが、ここに来て三つ編みの【翼】持ちは、本気を出してきた。大きく素早く羽搏かせるそれは、先の二人の異国人との戦闘を経験している一行にとって、脅威の対象なのである。【翼】の能力がこちらに向けられるとなると、ライゼル達もそれ相応の戦力を以って応じなければならない。女の姿を視認したその一瞬の内に、一気に緊張感が高まる。

「すげぇ早い。もう追いついたのかよ」

 ライゼルの言う通り、空を移動する手段があるというのは、想像以上に便利なのかもしれない。陸路を行くライゼル達は悪路に足を取られる為に、どうしても時間が掛かってしまう。しかし、【翼】を有する彼女はお構いなしに障害物のない空を軽々と突き抜けてくる。加えて、切り拓かれた一本道であるので、上空から丸見えで発見しやすいのだ。少女達は撒く事が出来ても、三つ編みの女の追跡は防ぎようがなかった。

「まぁ、それも想定の範囲内だ。あの女一人なら」

「『俺達三人』でなんとかなる、だろ?」

 ビアンの意志を汲み取ってライゼルが先を続ける。

「そうだ、それぞれの役割は分かってるな?」

 役割。その言葉にライゼルは不敵な笑みを浮かべる。この一行の中での彼に与えられた役割、それはしっかりとそれぞれの頭の中に刻み込まれている。

「もちろん!」

 そう言って、後部座席の右側から身を乗り出し、手にムスヒアニマを集中させる。地面からライゼルの体に流れてくる[[rb:霊気 > ムスヒアニマ]]が発光し、車が光の線を引いているようだ。それは上空の女からもはっきりと知覚できる。

 そして、いよいよ林道を抜け、開けた野原に出る。坂道を転がるように駆ける一行と上空を舞う女、お互いにその位置を明確に視認できるようになる。走行に制限はなくなったが、先日のベニューの時同様、身を隠せる場所は辺りにない。ならば、直接対決するしかない。

「逃がしゃしないよ」

 女は車の遥か上空から、先の乳白色の液体を振り掛ける。が、その予備動作を見ているベニューがその瞬間を伝え、ビアンが操縦桿を捌き、これを回避する。落下させてからの時間差がある為、回避は容易く行えた。

「ちょこまかと」

 空中を追走する三つ編みの女は、その長い髪を揺らしながら、幾度もその乳白色の液体を振り掛ける。そして、それに応じてベニューは運転席のビアンに合図を送る。ビアンもその指示に合わせ、左右に操縦桿をぶん回す。ビアンの日頃の成果もあり、勢いよく坂道を下っていく中、車を横転させる事なく敵の液体を回避する。

「上手くいきました」

 見事な連携に、ベニューが感嘆の声を上げる。繰り返される敵の攻撃を連続して危なげなく避けたのだ。ビアンの采配は正しかった。

「当然だ。充分な間合いさえ取れば、そう簡単に当たるもんじゃない」

 それは頭上の女も分かっていた事。駆動車の仕組みに気付いた女は、高度を下げ、車と同じ速度で一行に近付いてくる。

「そうかい。前の男を潰せば、車輪は止まるって事だね」

 彼女の考察は正しかった。車全体を狙うより、ビアンを行動不能にすれば、一行の足止めをする事が出来る。女は風を切りながら徐々に車に近付き、運転席の真横に位置付ける。

「愛しい娘達が待ってるんでね。ここらで終わらせてもらうよ」

 運転席のビアンと女を遮るものはなく、女が腕を振るえば、またしてもビアンの体は痙攣に苛まれる事となる。先の麻痺毒の脅威がすぐ傍らに迫ってきているとあって、ビアンの額には汗が噴き出ている。

「あぁ、そうだな。追いかけっこはここで終わりだ」

そう息巻く運転席のビアンは、前方を注視するばかりで、真横を飛んで肉薄する女を一切見ない。もちろん、運転を誤れば事故は免れないが、側面の防御を怠れば、敵の思う壺である事もまた事実。

 それを好機と見た女は、気流に乗りビアンへ急接近し、腕を振りかざす。が、その反対に、【翼】持ちの女の行動を好機と見た者が、ビアンの背後に潜んでいた。

「ビアン、今だ!」

「おう」

 その合図と共にビアンは操縦桿を女の方に切り、幅寄せする。大きな車体をぶつける事ができれば、一発で【翼】持ちの女を無力化できるかもしれない。もちろん、側面方向への引力は搭乗者全員に係る。三人も車から振り落とされないように踏ん張りながらの奇襲。少しでも気を抜けば、地面への落下は免れない。

 決死の反撃を行うも、【翼】を持つ女はその程度で怯みはせず、攻撃の動作を止めない。不意の反撃にも動じない強心臓を発揮し肉薄、一行の頭脳であるビアンを仕留めに掛かる。が、それが三つ編みの女の犯した失敗だとは、この時はまだ本人は気付いていない。

「もらったよ、くたばりな!」

 女の迸らせた液体がビアンに掛かる直前、その攻撃は、またしても桐の葉の外套によって防がれてしまう。大きな手の平形の葉を女にぶつけんばかりの勢いで、前面に押し出す。広い範囲を外套が補う事で、女の謎の液体はビアンに届かない。

「させないさ」

「クソガキ、一度ならず二度までも」

 高速で走り続ける駆動車の側面に身を乗り出し、葉で作った外套でビアンの身を守ったライゼル。このような足場の悪い場所で、不安定な離れ業をやってのけるなど、ライゼルでしか為しえない芸当だ。これは、ライゼルに与えられた役割。ライゼルはその役割をしっかとこなす。

 そして、先の離れ業から間髪入れず、外套を女に被せて目晦ましに使う。

「小癪な」

 もちろん、この程度の事では女は怯みもしない。名を誇りとし隠匿する女は、ライゼル達がどんな策を労そうとも万難を排し、自ら頼みとする乳液で事を為さんとす。それは、ライゼルも予測済みであり、ライゼルも同じ戦法を貫く。

「本命はこっちだ!」

 本命とされたそれ、ライゼルが発現させていた【牙】である。車での激突、外套での目晦ましに次ぐ第三の秘策。前の二つは、この【牙】での攻撃をより確実に成功させる為の布石、いわば、囮だったのだ。本命を悟られぬよう、それぞれの役割を繋ぎ、ついにこの瞬間を迎える。ライゼルの振り抜いた幅広剣が、外套越しに女の脇腹を切り裂くようにして霊気を流し込む。ライゼルの星脈に染められたムスヒアニマは、女の体内に干渉し、身体機能に悪影響を及ぼす。

「がはっ」

 女は、その体内に流し込まれた激痛に【翼】を制御する力を失い、地面にその身を叩きつける事となる。

「やった、決まった」

 女はその場に倒れ伏し、立ち上がり追いかけてくる様子もない。坂道を転がる車の速度を落とす事なくひたすらに走り続けると、女の姿はどんどん小さくなって、終いには地平線の彼方に消えて行った。これだけの距離を離せば、いくら【翼】を以ってしても追いつけまい。秘策に次ぐ秘策を以ってして、ライゼル達はなんとか逃げ遂せる事に成功したのだ。

「ちゃんと出来たね、ライゼル」

「おう、集団連携の勝利ってヤツさ」

 得意げに剣を掲げるライゼル。そうなのだ、ライゼルの言う通り、今回の勝利は三人の連携なくしては勝ち取る事が出来なかった。三人が協力する事が必要不可欠だったのだ。

 無事を見届けたライゼルは、後部座席に戻らず、運転席の外枠を掴みビアンの傍らに居座る。何か言わなければと思っての行動だが、どう切り出していいか分からない。【翼】持ちの三つ編みの女の話題で先の言い争いをお茶を濁すのは、なんだか違う気もする。

 そうこうしていると、代わりにビアンが口を開く。

「ライゼル、悪かったな」

「俺も…ごめん」

 ビアンがそう切り出したのを聞いて、俄かに萎らしくなるライゼル。ライゼルもさすがに顔面に拳を見舞った事には引け目を感じていたのだ。そして、ビアンは暴力行為に関してもだが、もう一つ言及したい事があった。

「あぁ、それはお互い様だ。そうじゃなくて、な。俺もワケの分からん連中に付け狙われて、お手上げなんだ。【牙】も持たないし、ましてや【翼】がある訳でもない。王都に辿り着くまでにきっと襲撃も続くだろう。その時はまた、お前の力を頼りにしていいか?」

 ライゼルにしてみれば、これまで味わった事のない感覚。自分にないものを持っている人間から、対等と認められる喜び。大人であるビアンから一人前と認めてもらえたのだ。

「なんか気恥ずかしいな」

 別の側面から見れば、ライゼルを認めるという事は、ビアンの成長と言う意味合いもある。それを思うと、ビアンは自身の頬が熱を帯びるのを感じる。

「お前が照れたらこっちが余計に恥ずかしいだろうが」

 二人して初心みたいに照れてみせるものだから、後部座席で仲間外れにされているベニューも、つい意地悪したくなってしまうのだ。

「ライゼルもビアンさんも。それじゃあ、まるで友達みたいですよ」

 傍から見ると本当にそうなのだろうか、それともベニューに何かの意図があっての発言なのか。ただ、悪くない、と二人して思って、その直後に、そういえば、とも思った。先んじて口を開いたのは、ライゼルだ。

「俺、友達って初めてかも」

「へぇ、お前みたいなやつでも、これまで友達がいなかったのか」

 これはビアンからライゼルへの最高の褒め言葉でもあるのだが、ライゼルは気付いただろうか。ビアンの場合と違い、ライゼルの場合は、これまで身の回りにベニュー以外の同年代がいなかった事に起因する。同年代の人間が身近にいれば、間違いなくライゼルはその者と友情を育んだだろう。

 が、事実、これまでライゼルには友と呼べる者がいなかった。ずっと一緒に居たベニューは知っている、父の不在を嘆いた事のないライゼルだが、友達がいない事には寂しさのようなものを覚えていた事を。

「ビアン、俺、友達って初めてかも!」

「聞いたよ、何度も言うな!」

 どうして自分がこうも辱められているように感じるのか。ビアンは体温が上昇するのを二人に感付かれまいとする。が、二人の背後でベニューが吹き出してしまいそうになるのを堪えている辺り、ビアンの努力は実を結ばなさそうだ。

 ビアンを見つめるライゼルの目の輝きが、より一層眩さを増す。輝きの度合いが増す度に、ビアンはライゼルに対し、何か強制力を向けられている錯覚を覚える。ライゼルの視線に乗って期待のようなものがビアンに届く。この期待という感情が膨らみ続ければ、大爆発を起こしそうな予感がするのはビアンの気のせいではないはず。それはよくない。これを逃れるには、ビアンは何か言葉を以って応えねばならんのだろう。では、何と言うのか?

「奇遇だな、実は俺もこれまで友達を作ってこなかったんだ」

 斜に構えず、この少年の気持ちに素直に応えたい想いもあったが、今のビアンにはこれが精一杯。

「そうなの? それじゃあ」

「そうだな、俺がお前の」

 そこまで言い掛けて、ライゼルに続きを強引に引き継がれてしまう。

「なる! 俺、ビアンのはじめての友達になる!」

「こら、妙な言い方をするな。逆だ、俺がお前の初めての友達になってやるんだ!」

 ビアンはそう訂正するが、余程嬉しかったのか、感情の赴くままに駆動車の上を弾むように移動して回るライゼル。

「うへへ、友達だ、友達」

「ライゼル危ないでしょ。もう」

 もう既に聞く耳持たない状態になってしまったライゼルを余所に、思わずベニューは小さく微笑み苦笑する。

「ふふっ」

 その後部座席の少女の声を無視する事も出来たが、どちらにせよ負けた気がしそうで、結局声を掛けてしまうのがビアンという男だ。

「…何か言いたそうだな、ベニュー」

「言っていいんですか?」

 改めてそう言われると、ここでベニューの口を封じる選択肢もあるのか、と立ち止まりたくなる。だが、年下の女の子に見透かされている時点で負けたも同じ。言葉にしてもらっておいた方が、今後気が楽かもしれないと思うと、口が軽くなる。

「許そう。話してみろ」

「それでは。さっきライゼルは、自分から友達宣言していましたが、本当はビアンさん、何と言おうとしたんですか?」

 随分と含みのある問い方。ある意味、全てを承知だと宣言しているようなものだが、飽くまでベニューは質問の態を崩さない。

「ベニュー、もう少し遠回しな言い方の方が好ましいぞ?」

「自覚しています」

 この少女に、とりあえず今の所は勝てる気がしないビアンは、観念して告白する。と言っても、どう言っていいかは見つけられていない。自分が語るべき言葉を探していると、孤独な最期を迎える覚悟をした際の、あの時の脳裏に浮かんだ事を思い出す。

「フィオーレの人間は着こなしが上手いな」

 どうして突然姉弟を褒め始めたのか、言われたベニューもそうだが、ビアンも何を口走っているか分からない。

「そうですね、特に私とライゼルは自分達用に仕立てていますから」

 なるほど、と納得しつつ、専用という言葉に心惹かれつつある事を実感しているビアン。

「…そうか。それなんだがな」

 そこまで言うと、泥塗れになった貫頭衣を脱ぎ捨て、車の上面で未だ興奮冷めやらぬライゼルに向かって投げつける。

「うわっ、ばっちぃ」

 上半身の裸体を晒しながら運転に従事するビアンは、照れ隠しするように言い捨てる。陽が西に傾きつつあるこの時間帯、素肌に浴びる風はやや肌寒い。その為、無意識の内に急かすような口調になる。

「おい、ライゼル。お前の着替え余ってただろ。それを貸してくれ」

 ともすれば不躾な態度に取れなくもないが、これは気心の知れた『友人』然としたビアンの要望である。役人だとか、そういうお堅い立場ではなく、お互いに頼り頼られる関係であり、立ち位置という事を、ビアンの方から提示する。

「六花染め欲しいの?」

「あぁ、洒落ているよな、それ」

 自分の馴染み深い服を褒められ、もうライゼルは破顔するのを抑えられない。

「だってさ、ベニュー。あげてもいい?」

「うん、ライゼルのだとちょっと小さいかもですけど、今はそれを着ててください。どこかの街で道具を借りられれば、私がとびっきり格好いい六花染めを仕立てます」

 ベニューも職人然とした顔を覗かせ、意気込んでみせるものだから、ビアンは少し気恥しく思う。

「ありがとう、それは楽しみだ」

 その感謝を素直にベニューは受け取る。そして、ライゼルの荷物の中から着替えを取り出し、それを手渡すと、ベニューはライゼルには聞こえないように配慮しつつ、ビアンに問い掛ける。

「ビアンさん、さっきの続きですけど、私が六花染めを用意できたら聞かせてもらえるって捉えていいですか?」

 やや悪戯っぽく囁くベニューに、ビアンもやり返したい気持ちは山々だが、有耶無耶にしようとした事実は確かにある。非があるビアンは強く出られない。

「その件だが。その、なんだ…俺が、ライゼルみたいなヤツの初めての友達だっていうのは…」

 一旦そこで区切り、一呼吸おいて、

「…また今度だ」

「はい、わかりました」

 いつかは心のままに、この気持ちを言葉にする事が出来るのだろうか。そう、ぼんやりと考えながら、進路の向こうで風に揺れる稲の波を眺める。駐在所のあるオライザまでそう時間は掛からない。この景色を見ていると、穏やかな気持ちになり、焦る事が勿体ない事に思えた。しばらく、頬を撫でる風を感じながら、先の余韻に浸るのも悪くない。見慣れた景色に心を溶かしながら。

「友達、ね」

 こうして、旅の途中にて新たに友を得たライゼル。一行の車はビアンの駐在所のあるオライザを目指して走っていくのだった。




To be continued…


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