ライゼルの牙
吉原 昇世
第1話
これは、英雄譚でも冒険譚でもなく、ただ一人の少年の成長譚である。
今日が待ちに待った『その日』であるという事を、少年は予感していた。
「母ちゃん、俺、行ってくるよ」
丘の上にただ一本だけ立てられた墓柱(ヴァニタス)の前で少年はそう呟いた。亡き母の墓前で手を合わせ終わると、母が眠る丘から村の方へと踵を返す。
もう少し母に語りたい事もあったが、大人達がここへ訪れる事をあまり快く思わないのを知っている。久方振りに参った訳だが、これ以上は長居せず帰路へ着く。
母への別れの挨拶は済ませた。もう、しばらくはここに帰るつもりはない。眼前に広がるだだっ広い草原とこの吹き抜ける風。これらをいつか懐かしく思う事があるのだろうか、と漠然と思いながら、来た道を戻る。帰る足は如何ばかりか軽かった。いや、逸る心が止まらなかった。走り出した少年は、転がるように坂道を駆けていく。
少年が目指す村の方から鐘の音が聞こえた。
大勢の賑やかな声がする村の広場。各自の都合で無計画に家屋が建てられたが為に、狭かったり広かったりする路地とは違い、この広場は最初からその利用目的の為に設けられた空間だった。周囲を家屋で円形に縁取り、その中心には慎ましやかな釣鐘がある。村の内外を問わずあちこちに花畑があり、開けた広場は景観も映え、手透きの者は自然とここに集まってくる。
普段は年寄りや幼い子供の憩いの場として利用されている程度だが、今日は村中の人間が集まっていて、それなりの広さを有する場所ではあるが手狭となる。村のほぼ全員が集まるとなると、静かな片田舎も騒がしくなる。
「前の碾臼はもうボロボロでな。粗い粉しかひけなくて困ってたんだ」
「ウチの家にも、ようやく新品の筆が来るんだねぇ。お隣さんのお古じゃ書きづらくってね」
集まった人間は顔を合わせると、挨拶もそこそこに、嬉々とした様子で世間話を交わす。この村の誰もがこの日を指折り数えて待ち侘びていたのである。大人も子供も期待に胸を膨らませた表情を浮かべている。
それもそのはず。本日、半年に一度の支給の日。王都よりこのフィオーレ村に生活物資が運搬され、各々に配布されるのだ。
生活物資と言っても、農耕の盛んな土地であり自給自足が基本のこのフィオーレ村において、食料品や衣料品の類はそれに含まれない。王都からの使者の手によってもたらされるのは、農耕技術、律令制度、紙束、筆記具、そして貨幣である。
先代の王の政策により、教育、経済の普及、発展に必要なものは全て支給されるようになっている。国民が納めた物相応の物資に交換できるという仕組みだ。この王国全土にその施策が敷かれており、辺境に位置するこの村にもその王政は行き渡っていた。この制度が始まったのが、ちょうど十年前、『フロルの悲劇』と同じ年である。
十年に渡るその成果もあり、他地方に比べ遅れていたフィオーレ村の住人も、全ての人間が文字の読み書きができ、数の加減乗除を自在に操るようになっていた。この国の識字率は九割を超えるとも言われている。
今や、この村にも近代化の波が押し寄せてきていた。この村に資源がなかったり、産業が発展していなかったりした訳ではない。生産や人員確保が滞っていた為にここまで来るのに十年掛かったが、これから先、他地方の文化水準に追いつくのにさほど時間は掛からない。制度や環境は整った。単に、他の街と比べ王都から距離があったというだけの話だ。
それに、芸術文化という観点で言えば、この地は服飾文化発祥の地でもある。
元来、この国には綿花由来の素材しか一般に出回る生地がなく、市場に出回るのも簡易な拵えの衣服ばかりであった。だが、青天の霹靂、その目立った工夫のない物を着回す人々に衝撃が走る。普段着に意匠を凝らすという概念、草木染の誕生である。
この村の出身者、フロルが編み出したこの染色方法により、衣服の色彩や模様を楽しむ文化が生まれた。中でもフィオーレ産の蒲公英の根で染めるダンデリオン染めの一枚布は、王都を中心に大流行した。淡い黄色のダンデリオン染めは太陽を連想させるとして評判が良く、特に その当時のクティノス女子からは、ダンデリオン染めを着回すのが乙女の嗜み、とまで持て囃された。そして、その功績が見初められ、その染色技術を開発したフロルは、王国に登用された。
それからと言うもの、この村は単なる過疎地域などではなくなった。美しい花が見られる事を近場の者が知っていただけの頃とは、雲泥の差の知名度となったのだ。フロルのダンデリオン染めを求めフィオーレに訪れる者も増え、草木染が流行し出した事を機に、村人はこれまでに増して草花の生産にも力を入れるようになった。染物と染料となる花の出荷という二枚看板で、フィオーレはベスティア経済に参画していったのだ。おかげで、フィオーレの村は徐々に活気付いていった。
それもあってか、ダンデリオン染めと共にフロルは、フィオーレ中の皆から愛され続けた。それは彼女が没してからも変わらず、今尚ダンデリオン染めはフィオーレの産業の中心であり、村では彼女に対する尊敬と感謝の念が絶えない。王都では全土開通十周年記念祭も催されているのだが、フィオーレの村民にとっては亡きフロルを悼む十周忌の年でもあるのだ。
フロルが晩年を過ごした村、フィオーレ村。見渡す限りの鮮やかな色の花畑。家々の屋根に張り巡らされている縄に、この村の主な産業である染物の染料が干してあり、行き交う村人達も同じ淡い色の草木染の召物を身に付けているというのは、この村ならではの風景である。男女に関わらず、村民の多くが染物を着こなし、村を訪れた客に対して広告としての効果も高いのだとか。
王国中心部で主流である石造りの家屋など一切ない田舎の景色。それに似合わない、正午を知らせる鐘の音が村中に鳴り響く。普段なら付近へ畑仕事に出掛けている村人達に食事時を知らせるものだが、今日に限って違う意味合いを持つ。
その鐘の音は配給の開始を告げたのだ。広場中にまばらに散らばっていた人々も、物資が運ばれた荷車の方へと自然と足を向ける。
ここで各家庭に配られるそれらは、事前に役人に申請されている。品名、品数、受取人の名簿は役人が控えており、行儀よく列を作った村人が順序良くそれらを受け取っていく。我先にと列を乱すものは誰一人としていない。国民は与えられる喜びを素直に享受していた。王から与えられたものを有効に活用し、生活をより良くしていく。それがこの国に住む人々の在り方であった。
「氏名と『身分証(ナンバリングリング)』の確認が済み次第、順次配給物資を支給していく」
定例の文言が述べられた後、手渡し作業が始まる。この地区の担当は、今日来た役人一人である為、如何ばかりか作業には時間が掛かる。
ただ、それでも役人が手馴れている事と村の世帯数がそれほど多くない事を鑑みれば、適当と言えたかもしれない。お互いに勝手知ったる役人と村民は、次々に受け取りを済ませていく。
配給は滞りなく行われ、物資を受け取った者から各々の家へと帰っていく。自前の手押し車に麻袋いっぱいの肥料を載せて帰る者、家まで待ち切れず算術書を広げて読み耽りながら帰る者、他地方の特産品の綿がたくさん詰まった布団に包まりながら帰る者、どの顔にも笑みが見て取れた。
そして、あれだけ集まっていた人間も徐々に少なくなり、いよいよ列の最後の人間が受け取る段になる。だが、役人は、自らがしたためた名簿と、目の前の人物とを訝りながら交互に見やる。
「ライゼル、ではないな?」
そう問い掛けられた少女は首肯してみせた。
「はい。代わりの者です。同じ家に住むベニューと申します」
ベニューと名乗る少女。長く綺麗な黒髪を頭のてっぺんで団子の形に丸くまとめ、楚々とした印象を与える。役人を謀って、他人の配給物を横取りするような人間には見えない。
だが、少女の手に何もないのは不自然でもあった。ライゼル名義の物を受け取るつもりらしいが、本人名義の物を先に受け取らないのか。
「自分の物はいいのか? …いや、ベニューという名は、この帳簿にはないが?」
努めて落ち着いた声音で、少女の名乗る名がその住民録の中にない事を見咎めた役人。
「はい、私は今回、支給物の申請をしていませんから。今回いただいても、荷物が増えるだけかもしれませんし」
「荷物?」
何を意図した発言なのか役人には分からなかったが、少女は慎ましく礼儀正しく、それだけを伝えた。
だが、法を順守する役人としては弱り切ってしまう他なかった。というのも、当人以外に手渡す事は原則認められていなかったし、受取人が現れなかった物に関しては、一旦詰所に持ち帰る規則なのだ。世間には身分証を交付されていない者もいる。不正受給は見逃せない犯罪だ。
役人が判断しかねている時、役人と同じ年頃の村の女性が声を掛ける。女性もいくつかの書物を手に持っている。
「お役人さん、その子は人を謀るような子ではありませんよ。それに、ライゼルは今朝がた、丘の方に行ったきりだからいつ戻ってくるか」
そう言われて、先程村への道中に通り過ぎた丘の方を見やる。
役人の記憶が定かなら、あそこには墓柱(ヴァニタス)がある。しかも、王都近郊の霊園でなく集落の付近に墓柱を建てるなど、良識ある王国民であれば、嫌悪すべき行いである。
加えて、こんな真昼にそんな場所を訪れようと考える人間だ。あまり関わり合いにはなりたくない。
本音抜きで役人の立場としても、いつ戻るか分からない人間を待つよりかは、代理人に手渡しする方が手も煩わされずに済みそうなのは間違いない。少女の申し出は素直にありがたい。
(受取人の家人なら問題ないか)
そう判断し、帳簿の項目に目を通す。一応、形式だけの確認を行う。この役人、穢れを嫌悪はしても、仕事を疎かにする事は良しとしない。根っからの真面目なのだ。
「念の為に確認したい。今回ライゼルが申請した支給品を聞き及んでいるか?」
そう問われた少女は淀みなく、ライゼルの欄に記された品名をすべて読み上げる。それもそのはず、その物資を欲しているのはライゼルに違いないが、申請の手続きをやったのは少女本人である。少女らの家でのお役所仕事は、全て少女が担っている。少女はその家の家長であるのだ。
すべてを完全に言い当てられては疑いようもなく、ライゼルに割り当てられた備品を改めて確認し、荷台から降ろす。
少女の言動も不自然ではあったが、このライゼル宛とされる品々も不思議なものばかりだった。主要都市の書き込まれた大陸地図と、雨風をしのぐ為の高い撥水性の竹炭で編まれた外套、保存食の持ち歩きに便利な食料袋、そして大量の…
「同居人に伝えておけ、これ以上貯えるようなら申請を出すように、と」
そう言って役人が指したのは、一抱え以上ある麻袋いっぱいに詰められた大量の銀貨。これだけあれば、山小屋一軒を建てて尚余る。それだけの金額を、半年の内にこの「ライゼル」は溜め込んだのだ。
フィオーレを含めた地方の村では、労働の対価として支払われるのは、貨幣よりも現物の方が一般的だ。食料、衣料品、すぐ消費できる物が望ましい。それなのに、対価として受け取れる農作物さえも王国に納め、銀貨に替えたというのは、役人が着任して以来これまでに例がない。
というよりも、ベスティア王国全土に貨幣制度が浸透して久しいが、フィオーレ村では貨幣は、飽くまでも村の外とのやり取りで必要とするだけのものである。今回のように銀貨を支給する事は稀である。長距離の移動を予定している者か、商いを生業にしている者くらいしか大量の銀貨を必要としない。
だが、今回実際に支給されたのは、労働の対価を物資でなく貨幣で求め続け、この村全ての銀貨を集めても支払いきれなかったという経緯からの事である。百姓仕事でこれだけの財産を貯えたのだから相当な働き者に違いないが、同時に相当な変わり者でもある。狙いこそ判明しないものの、このライゼルという者は、村の外へ出て何かを為さんとする為の資金を必要としたのだ。
とはいえ、財貨を貯えるという事は、その使われない間、経済の活性化に貢献しないのと同義である。それに、銀の産出量も決して潤沢という訳ではない。絶対数が限られている。加えて、個人での大量の所有はあらぬ疑いを掛けられる事がある。その為、一定額以上を保有する場合は、行政への申請が求められる。台帳での管理をしさえすれば、駐在所の役人に預けた貨幣の一部または全部を受け取る事ができる。国としても、貨幣の流れを把握しておきたいのだ。
「はい、私からちゃんと言い聞かせます」
少女の笑顔には、なにか重要な任務をやり遂げたような達成感が見えた。年の頃は17、18くらいだろうか、その年ならこの程度の御遣いは大した事でもないだろうが。
「それでは、これで失礼します。お勤めご苦労様でした」
そう言って深々と頭を下げ、礼を告げると、早々と立ち去る少女。しかし、彼女が広場を離れようとした瞬間に、その背中に大きな呼び声が掛けられる。
「ベニュー!」
そう呼び止められた少女が振り返った先には、ここに来るまで走ってきたのだろう、肩で呼吸を整える少年の姿があった。稲穂のような眩しい黄金色の短髪に、少年と呼ぶには躊躇われる程の精悍な体格。その体躯を包む、片田舎に似つかわしくない上等なダンデリオン染めの衣装。フロル手製の召物に包まれた彼こそが本来の受取人、ライゼルであった。
一台の荷車を挟んでちょうど広場の入り口の反対から現れた少年は、彼女の手の中に収まるそれらを発見し、鼻息荒くベニューに詰め寄る。それを彼女は笑顔で迎え入れる。
「母さんの所に行ってたんだね。もうお昼だよ、お腹空いたでしょ。ライゼル、何が食べたい?」
「返せ、それは俺が今日の日の為に準備した物だ。ベニューには関係のないものだろ」
その問いを意に介さず、本来であれば自分が受け取るはずだったそれらを取り返そうとライゼルは腕を伸ばす。
しかし、ベニューが身を翻した為に、その五指は待ち望んだそれらを掴めなかった。
姉はライゼルの腕を躱した事を知ってか知らずか、無邪気な様子で振り向き様に献立を提示する。
「今朝ライゼルが大急ぎで収穫した豆があるから、汁物にする? それとも炒っちゃう? 麺包に入れても美味しいかも」
彼女の言う通り、今朝がたライゼルが大急ぎで収穫したのは事実である。彼には午後から『用事』があったのだ。
だが、ライゼルとしてもベニューが知っているのは予想外であった。彼が作業に出掛けたのは、まだ日が昇る前だったのだが。
「いやぁ、ライゼルがそんなに労働意欲に湧いてるなんて知らなかったなぁ。こんなに貯金して何を買うつもりなんだか」
そう白々しい芝居を続けながら少女が自宅へと歩みを進める度に、抱えた麻袋の中の銀貨が揺れ、微かな金属音が聞こえる。その音がライゼルに、(まだ自分が手にした訳ではないが)待ち焦がれた物がようやく届いたのだ、と実感させた。実際に手に持っていたら、顔が綻んでいただろう。俄かに高揚感を覚えつつ、逸る気持ちが彼を突き動かす。
「ふざけてる場合か。早く渡せよ」
背後で我関せずと言わんばかりに片付けを始める役人をしきりに気にしながら、ベニューに返却を催促するライゼル。
ライゼルには思惑があり、このまま役人に帰られては困るのだ。企み通りに事は運んでいる。あとは、最後の障害のみ。
「ちゃんと返してあげる。家に帰ってお昼ご飯を食べ終えたらね」
飽くまでライゼルの主張は聞き入れられない。もしかしたら、ベニューはライゼルの思惑に気付いていたのかもしれない。頼んでもいないのにライゼルの代わりに受け取りをしているこの事実が、疑惑に確証を与える。
知らぬ存ぜぬ素振りではぐらかし続けるベニューの言動に焦れてくる。そもそも、ライゼルは気の長い方ではない。
「分かってて邪魔するんだな?」
両足を前後に開いて体制を低く構えるライゼル。
だが、それに対しても特に気にする様子はないベニュー。彼女にとっては、日常茶飯事、よくある事なのだ。身構える事も心構える事も必要ない。
「だったら、どうする?」
力を抜いた彼女の問いに、ライゼルは力強く答える。
「力づくで奪う!」
後ろに引いた右足で地面を強く蹴り出し、ライゼルはまるで『獣』のようにベニューに飛びかかる。引っ張った重さ秤の発条(ばね)を放したかのような跳躍で、瞬く間に対象との間合いを詰める。しかし、寸でのところで躱され、その勢いは霧散し、ライゼルは肩透かしを食らったような心持のまま着地する。
「もう聞き分けがないなぁ。仕方ない、お仕置きが必要だね。」
そう言って、両手で抱えていた没収物を近くにいた女性に預かってもらう。
「カトレアさん、持っててもらっていいですか?」
手渡された女性も苦笑しながら、ベニューの手からそれらを預かる。どうやらベニューが何をせんとするか察しているようだ。カトレア自身が持っていた書物を脇に挟み、ベニューの荷物を抱え直す。
「ほどほどにね」
「はい、ライゼルの事は私が一番よく分かってますから。怪我しないようにちゃんと手加減します」
ベニューの子ども扱いもそうだが、その付け加えられた一言に、ライゼルのこめかみが疼く。
「手加減とは随分余裕じゃんか!」
虚を突き、ベニューの肩を捉えようと目掛けて伸びる手刀。だが、ベニューは死角からの攻撃にも即座に反応。するだけでなく、その腕にベニューのか細い腕が絡まる。ライゼルの肘の外側を抑え込み可動範囲を制限し、手首を外側に捻り、腱を極める。純粋な力比べではライゼルに軍配が上がるであろうが、文字通りの搦手を以って、ベニューはライゼルの優勢を許さない。
「…今のも見えてんのかよ」
「まぁね。これくらい朝飯前、ううん、昼飯前だよ」
事もなげに軽口を叩くベニューではあるが、事実、この一連の動作を目で追えたのは当人同士だけである。傍から眺めている者達は、結果を把握するのみだ。どの部位がどう動いているのかは見極められないが、ベニューがライゼルを御しているという事は把握できる。
不意のライゼルの攻撃に反応したばかりか、その攻撃を利用してライゼルの右腕を極めるという離れ業をやってのける黒髪の少女。
突然始まった姉弟喧嘩を、何事かと思い眺めていた役人だったが、その卓越した挙動に目を見張った。学生時分に近接格闘を学んだ役人には、その少女の為した事が如何に凄い事か分かる。
「なんなんだ、この子は!?」
王都に登用されて早数年経つ役人だが、そんな驚嘆の声をつい漏らしてしまう。
例えば治安部隊の人間にも同じ事が出来る者がいるだろうが、彼らはそれを為し得る為に身体を鍛え上げている。だが、目の前の少女に、その兵士達と同じ筋力が備わっているとは考えにくい。故に、役人は立場上冷静を保たねばならないのだが適わず、驚嘆を禁じえない。
それに反して、先程ベニューからカトレアと呼ばれた女性の応える声は、まるで日常茶飯事と言わんばかりに一切動じない落ち着き払ったものだった。彼女にとっては、特別驚く事でもない。長年に渡り見慣れた風景なのだ。
「あの子はベニュー。名にし負うダンデリオン染め開祖フロルの唯一の後継者であり、六花染めの開発者ですよ」
「染物屋だって!?」
カトレアの言葉に反応し、役人は紹介された少女を改めて一瞥する。
六花染めの名は耳にしたことがある。最近王都でも話題の新作服飾だ。だが、だから何だというのだ。この強さを裏付ける理由にはならない。染物屋は総じて体術に優れるなど聞いた事はない。
確かに、目の前の少女は、糸を紡ぐようにライゼルの手を取り、機織り機を踏むような足捌きで攻撃を躱す。膝下の柔らかさと、地を踏む脚の安定感、無駄を省いた肢体の運び。その挙動は、布を断ち、糸を縫い、色を染め、出来上がりを干す動きにも見える。なるほど、確かに服飾の職人であるのは間違いなさそうだが、かと言って、こうもいとも容易くこの体格差を持つ相手をあしらえるものだろうか。
「この姉弟、すごいな…」
有利に立ち回っているのは少女の方に違いないが、だが、少女の凄さが際立つのは、相対している少年が優れた運動能力を有しているからである。少年の攻撃は未だに一度として少女を捉えていないが、身体能力には目を見張るものがある。攻撃を躱されたその直後にも反転し、少女に追撃を掛けている。まるで本能で反応しているかのように。外せども外せども次の攻撃を繰り出していく。
少年の挙動を目で追う限り、少年はベニューを視認してから攻撃に移っている訳ではなさそうだ。すれ違いざまに躱された場合は、振り向き様に腕が少女を追尾している。少女が少年の視界から姿を消した所で、少年にとってそれは不都合にならない。ベニューがライゼルの攻撃を予測できるのと同様に、ライゼルもベニューの位置を察知できるのだ。
その光景に、一つの仮定が役人の頭に浮かぶ。口にしながらも、未だ納得できない事象である事に変わりはない。この異様すぎる光景を異端視しない村の人間へ、答え合わせでも求めるかのように、言葉を紡ぎ出す。
「まさか、予測してるのか…?」
少年の大振りの攻撃には無駄な動作が多く、動きを予測しやすかった。とはいえ、仕組みに気付けたからと言って、それ自体が常人離れした技能である事には違いない。
まるで打合せ済みの演武をやっているようにも見えるが、本人は至って真剣だ。手心を加えている様子は一切見受けられない。そうでなければ、ああも激しく呼吸しない。
本当に素晴らしい素質だと、役人は感じる。惜しむらくは、少年の動きが直線的で、加えて、速度が単調である事。確かに、ただの素早い突進であれば、ある程度の反射神経を持っていれば、回避は適わぬ事ではなさそうだ。少女は、少年の予備動作が起こす風を読んで、回避行動を可能としている。
「少女も少女だが、ライゼルの瞬発力は真似できるものじゃないぞ!?」
この役人の驚愕も、村の女性には伝わらない。まさかこのカトレアも同じ事ができるのか、と疑ってしまう程に、カトレアは目の前の出来事に心を動かされていない。未知と既知には、これほどの違いがあるのだ。
そして、聞き流してしまいそうな気安い口調で、とんでもない事を言い放つ始末のカトレア。
「で、ベニューに噛みついてるのが弟のライゼル。この村唯一の【牙】使いなんですよ」
「なぁっ、にぃーーーー!!?」
聞き捨てならない言葉が耳に入った。役人の視線は、驚愕の声とともに【牙】使いと称されたライゼルに向けられる。視線を向けられたライゼルはと言えば、ベニューただ一人に注視している。
胴を大きく捻っての横薙ぎの三連撃までも空を斬り、ようやく怒涛の猛攻が止む。少年が肩で息を整えているとは対照的に、少女は至って涼しげな表情だ。あれだけの大立ち回りにも、息一つ、御髪さえも乱していない。
「しつこいぞ、ベニュー」
「ライゼルこそ分からず屋だよ。村を出て何をするの?」
「何度も話しただろ。俺は、誰よりも強くなる! その為に、修行の旅に出るんだ!」
「うん、それは何度も聞いた。だから、その理由を聞いてるの。なんで強くなりたいの?」
「俺が強くなきゃ、みんなを守れない。弱いままじゃ、誰も幸せにならないんだ」
少年の真に迫る宣言に、ベニューは冷静に切り返す。これまで何度もそうしてきたように、説き伏せる。
「強さって何? 守るって? そんなものはライゼルの『役割』じゃない。ごはんも住む所も仕事だって、全部王様が保証してくれる。誰もが不自由なく生活できる世界がある。これ以上に幸せな事ってある?」
ベニューが諭す事は正論である。反駁する意志はあれど、言い返す言葉をライゼルは持ち合わせていなかった。故にベニューの説教はまだ続く。
「それにね、この村にはライゼルを必要としてる人達がたくさんいるよ。収穫の手伝いや、屋根の修理を頼まれる事があるでしょ? 物は供給されても人の手はいつだって不足してるの。あなたがいる事で村のみんなは助かってるんだよ。あなたを必要としてるみんなを見捨てて、この村を出ていく事を良しとするの?」
そう言われて辺りを見回すと、姉弟の周りには野次馬が集まっている。円形の広場の外縁を村人の輪が取り囲んで、姉弟を見守っている。村中の誰もが見慣れた姉弟喧嘩ではあるが、今日はいつもと様子が違うと心配して、荷物を抱えたまま帰る途中で引き返してきていたのだ。
何人かの見知った顔が目に入る。屋根の修理のついでに煙突掃除をしたら銀貨を大目にくれたおじさん、多く獲れたからと野菜を分けてくれるおばさん、親のいない自分達を可愛がってくれた村のみんな。だが、それでもライゼルの気持ちは変わらない。いや、より意志が固まったと言える。何故なら、ライゼルの守りたいみんなの中に、この人達も含まれているからだ。
「それは誰でも出来る事だろ。そうじゃなくて、俺は、俺にしか出来ない事を見つけたいんだ」
「? ご近所さんの畑を耕して、ウチの庭の野菜を収穫して、染料の材料を集めて、染物を日陰干しして、それをたった一日でこなせるのはライゼルくらいだよ? えらい、すごい!」
「そうじゃない! 俺は【牙】持ちなんだよ。母さん譲りのこの力があるんだよ」
そう言うと、ライゼルは生まれ持っての『力』を発現させる。それは【牙】と呼ばれる、精神感応性武器具現化能力である。この世界には、この地上で生まれた新生児全員に備わる大地から霊気(ムスヒアニマ)を得る素養『星脈(プラネットパス)』なるものがある。そして、その星脈を持つ者のおよそ一割にしか発現しない能力が存在し、それが彼の持つ【牙】の能力である。
ライゼルの全身が青白く発光する。彼の皮膚の色が変色している訳でも、周辺の大気が光を屈折させている訳でもない。体内に取り込まれた霊気が、牙使いの求めに応じて変化しているのだ。【牙】発動時の固有の現象であり、特定の『星脈』が霊気を循環させると見られる現象だ。大地から吸い上げた霊気がライゼルの全身を廻り、そして彼の【牙】が、今まさに形取られようとする。その瞬間———
「待て待て、姉弟喧嘩に【牙】なんか持ち出すんじゃない。そもそも、闘技場以外での私闘はご法度なんだぞ。お前達もウォメィナの教えくらい知ってるだろう!」
二人の言い争いを見兼ねた役人が仲裁に入る。彼の言う通り、この国では暴力の行使は禁じられていたし、それに【牙】を用いるなど言語道断である。加えて、ベスティア王国民のほとんどが信仰するウォメイナ教において、万物を無闇に傷つける事は禁忌とされている。人であろうと物であろうと、理由なく傷つける事は道徳に反するのだ。
役人も口喧嘩の仲裁は経験があるが、【牙】を持つ者を取り押さえた経験などない。彼としても、自分の担当区域で、初の凡例を作るのは好ましくない。もし、そんな事になれば、自分の立場がどれだけ危うくなるか。
役人の制止に、姉弟も素直に従った。ベニューはライゼルが引き下がるなら狙い通りだし、ライゼルも『相談事』の前に役人の心証を悪くする事を望んでない。お互いに姉弟喧嘩に勝利する事が目的ではない。
これ以上続ける意思がないと見えて、勤務中の男は密かに安堵した。程度の差こそあれど、【牙】を持つ者を持たぬ者が御する事は、容易な事ではない。有事の際は治安部隊を派遣する事になっているが、それはなんとしても回避したい事態である。常人にとって牙使いはそれ程までの脅威なのだ。
「余計な仕事を増やしてくれるなよ。牙使いが関わる傷害事件なんて、国内随一の重要案件じゃないか」
不測の事態に不服を漏らしたものの、職務に忠実な男にとっての危機は去った。
役人の職務は、あとは定例である村長宅でのおもてなしを残すのみ。形式的な食事会ではあるが、村民の感謝の気持ちをしかと受け取るのも円満な関係を築くためには必要な事である。
昼食をご馳走になり、程よい満腹感で帰りたい。村での諸事を済ませ、早く帰路について、普段の平民に戻ろうと踵を返したその瞬間だった。
「ねぇ、おじさん!」
呼び止めたのは、ライゼルだった。呼び止められた役人も歩みを止め、肩越しにライゼルを見やる。少し見下ろす高さにライゼルの顔があった。彼にとっての神妙な面持ちなのだろうか、真っ直ぐにこちらを見やる。明るい印象が拭えないのは、少年の目が輝いているからであろうか。
「謝罪ならいいぞ。お姉ちゃんとはこれからも仲良く…」
呼び止められたビアンも、決しておじさん呼ばわりされる年齢ではないが、子供相手に腹を立てても仕方あるまい。大人の対応で、最後まで公人として務め、
「俺を王都まで連れてってよ」
これこそがライゼルが目論んでいた『相談事』の内容である。不意に発せられたライゼルの要求に、ベニューと役人のこめかみに青筋ができる。
「ライゼル、いい加減にしなさい!」
「そうだぞ、クソガキ。お姉ちゃんの言いつけは守るもんだ。それに、俺はオジサンなんかじゃねぇ。かのティグルー閣下と同い年の24歳、コトンの天童ビアンだ。覚えとけ」
役人と姉に咎められても、少年の意志は揺るがない。更に説得を開始するライゼル。
「わかったよビアン。じゃあ隣のボーネ村まで乗せてってよ。湖までなんて言わないからさ」
どこまでビアンの説教がライゼルの耳に入ったか、先程ベニューが代理で受け取った新品の地図をカトレアからいつの間にか受け取っていた。それを役人に見せながら、わざと狙いの目的地より遠い湖を引き合いに出し、如何に自分の要求が容易い事かを訴える。湖はここより遥か北東に位置し、王都クティノスに程近い。その遠い場所を比較対象にすれば、ビアンも頷きやすいと踏んだのだ。実を言えば、ライゼルの真の目的地はボーネではないのだが、小さい要求なら飲みやすいと誰かに聞いたことがあった。
「さん、をつけろよ、クソガキライゼル。ふぅん…ボーネか」
確かにボーネ村は、ビアンの勤務地であるオライザまでの通り道であるし、ここからそれ程離れた場所ではない。途中の湖、おそらくは王都の真南に位置する水上都市ヴェネーシアの事であろうが、そこまでだと最速でも四、五日は掛かる。公的な任務でない限り、そんな面倒な真似をビアンとしてもやりたくはない。ボーネで納得するというのであれば、ビアンも考えてやらないでもなかった。
ライゼルの押しに、ビアンもつい安請け合いしそうになる。ライゼルの思惑、成功なるか。
だが、初対面の男がそうだからと言って、弟の勝手をそう簡単に許すベニューではない。
「我侭言わないの。それに、ボーネに行って何するの?」
「何言ってんだよ、ベニュー。ボーネに用があると言ったら豆だろ?」
ベニューの詰問に、咄嗟の言い訳を口にするライゼル。そうなのだ、真に説得すべき相手はこちらだ。ビアンが親切心で承諾してくれたとしても、この姉が許可しなければ、それも適わない。
「豆なら家の蔵にもあるじゃない?」
「噂で聞いたんだ、ボーネで珍しい豆ができたんだって。それを分けてもらうんだよ。染料の材料になるかもしれないだろ?」
平素の考え足らずのライゼルとしては、なかなか上等な理由が口をついた。染料の素材と言えば、それで食い扶持を稼いでいるベニューは決して無碍にはしない。事実、それを聞いたベニューの態度が僅かに軟化したように見受けられる。ライゼルの提言は魅力的には違いない。
実はライゼルの方がベニューよりも噂話に敏いという事はない。もちろん口から出任せである。だが、実際に行ってみなければ、真実かどうか確かめようがない。この時点で、噂話を否定する材料はないのだ。
「確かに噂で聞いたことがあるな。ボーネの村に昔からある巨木から、不思議な豆が取れたとかなんとか。でも、食用にならなかったから相手にされなかったんじゃなかったか?」
別にライゼルの加勢をするつもりではなかったのだろうが、ビアンも記憶の片隅にあった噂話をぽつりと呟く。ボーネはビアンの管轄ではなかったが、同僚の担当者から世間話程度に新種の豆の話は聞いていた。
瓢箪から駒とはこの事だ。まさか、嘘から出た実となるとは。お役人様がいう事なら信憑性が高い。それもあってか、ベニューの反応も想像より悪くない。
「新しい染料かぁ」
口うるさい姉の顔ではなく、いつの間にか二代目フロルの顔を覗かせているベニューに、ライゼルが最後の一押しを掛ける。
「そうだよ、ベニューも一緒に来たらいい。染料だけじゃなくて、生地だって仕入れとかなきゃだろ」
ベニューにもライゼルの口車とは分かっていたが、なかなかに断りがたい提案だ。フィオーレは花笑う村であり染料の素材には事欠かないが、生地はとなると自前での生産は数が限られる。上等な布を生産するには専門の技能と設備が必要となる。さすがの染物発祥の地であっても、織物の設備まで充実している訳ではない。
それに、自分がお目付け役として同伴するのであれば、ライゼルを外出させる事は、それ程までに憂う事ではない。自分の目の届く範囲であれば、そこがどこであろうと関係ない。いや、元々ベニューは心の準備はできていた。こうなることは、時間の問題だったのかもしれない。
「わかった、じゃあそうしよっか。でも、その前に」
「なんだよ?」
「お腹が空いたでしょ? お昼ごはんにしよ」
ビアンの故郷コトンと比べると、このフィオーレは随分と田舎に感じられる。
まず、公共の教育機関がない事。ベスティア王国の各地には、王立の学問所を設立してある。そこでは、職業能力開発であったり、技術、歴史、文化の学習であったりを受ける事が出来る。かくいうビアンもそこの出身者だ。地元の南部学問所を首席で卒業し、史上初の地方出身者からの王国士官となったのだ。そのおかげも少しあったか、故郷コトンに錦を飾る事が出来た。しかし、このフィオーレにはそれがない。
(であれば、ライゼルの発言にも納得できるか)
次に田舎だと感じる要素として挙げるなら、食器類が全て木製である事。この村に来て数時間と経ってないが、陶器製の物を目にしていない気がする。家屋も家具も、農具に至るまで木製の製品ばかりなのである。この国において、陶器は新しい技術であるが故に、生産数も多くなく、物自体が希少だ。贅沢品の部類に入るそれが、日用品のほとんどを配給で賄っているフィオーレに出回っている訳もないか。木製以外の製品は、土鍋などの土器類もあるが、それも数があまり多くない。
となれば、ライゼルが『都会』に憧れるのは当然にも思えた。要はこの少年は、村の外を本の中でしか知らず、ただそれに憧れているだけなのだ。故郷を離れたいと思う若者の典型的な動機の一例だ。
そんな事に思いを巡らせながら、ビアンは先程の姉弟喧嘩に巻き込まれ、今は姉弟の家でご相伴に預かっていた。
本来であれば、村長宅に招かれる手筈だったが、「一緒に居なきゃ逃げられるかも」とビアンに対し信なきライゼルが、無理やりビアンを自宅に引き入れたのだ。村長も、ベニューの家ならと承諾し、準備していた料理を手土産にと持たせてくれた。この家の家長は、随分信に厚い人物のようだ。
ビアンが案内された居間には、古めかしい樫の食卓と椅子が三脚。部屋にこもった染料の独特な匂い以外は、割とどこででも見掛けるような一般的な家屋だ。どこか懐かしい土の匂いのする家。
こじんまりとしているものの、地方ではよくある木製の一軒家。漆喰塗りでも土壁でもない所を見ると、火災事故の危険のない家なのだろう。確かに、土間に少々使い勝手の悪そうな小さな釜土があるだけで、他に火の気があるようには見えない。
部屋の一角には、染物の工房が誂えられているようで、干してある綿や麻の衣類それ自体が調度品であるかのように、薄紅色や黄色、桃色に薄紫色に藍色と、部屋全体を鮮やかに彩っていた。色とりどりの天井は、生活感よりも芸術性の高さの方が窺えそうである。
陰干しされている染物は、どれも新しめで、つまりは六花染めだった。六花染めの六花とは、フィオーレ産の椿、芍薬、花菖蒲、朝顔、菊、山茶花の六種の事を差し、そのどれもが花芯が見事であり、花形が一重一文字咲きという特徴がある。鑑賞花としても染料としても評価の高いフィオーレ六花は、このフィオーレにしかない。
客人の品定めを余所に、六花染めのベニューとして名を馳せる少女が作り終えた料理を食卓に並べ始める。肩書や先の姉弟喧嘩が先行して、常軌から逸した印象を受けるが、こうやって配膳する姿はどこにでもいる少女だ。
本日の献立は、生地にすり潰した枝豆の練り込まれた麺包と、付け合わせに法蓮草の和え物、胡瓜のお浸し、大根の浅漬け。麺包生地は既に捏ねてあったので、昼食にありつくのにそう時間は掛からなかった。
待ち侘びたライゼルと席に着いたベニューが手を合わせ、ビアンもそれに倣い、手を合わせて唱和する。
「いただきます」
麺包を一口齧ると、ふわりと焼きたて麺包の香ばしさが口の中に広がる。馴染み深い小麦の甘みがビアンに故郷を懐かしくさせる。食料の豊富な方ではない王国南東のコトンでは、コトン最寄りの町ブレの小麦が主食となっている。離れた土地のフィオーレでそれが食せるようになったのも、交通網の整備のおかげか。
ふるまわれた手料理をいただきながら、ビアンはふと疑問に思った事を口にする。
「家族は二人だけか?」
椅子は三脚あったが、来客用に常備していたものではないだろう。姉弟とビアンが座って、三つの席は埋まっている。おそらく、この家は三人家族だと推測できる。
口いっぱいに料理を詰め込んだライゼルに代わって、ベニューがその質問に答える。
「母さんは十年前に亡くなりました。それ以来、ライゼルと二人暮らしなんです」
「…そうか、じゃあ」
「親父は俺が産まれる前に蒸発したって聞いた」
続けて問おうとしたビアンの問いに、先んじてライゼルが答える。姉弟ともに悲観の色が見えないので、ビアンも特に気を揉む事はなかった。両親が不在の家庭など、特に珍しい話でもない。病に倒れたり、事故で命を落とす者少なくないし、また幼子を捨てる者も決して珍しくないご時世だ。何もこの姉弟だけが特別なのではない。
「そういえば、母親はあのダンデリオン染めのフロルなんだってな。有名人じゃないか。」
先程、村の女性から仕入れた情報で会話を発展させようと試みる。思えば、一昔前の事とはいえ、フロルがフィオーレの出身者だという話をビアンは聞いた事がない。かの有名なダンデリオン染めの事であれば見知っていたが、その作り手となるとてんで知らなかった。ダンデリオン染めが流行ったのも十数年前の事であるし、フロルの死を悼むのは村民ばかりであるから、四年前に担当となったビアンが知らないのも無理からぬ事。
とは言え、馴染み深い者達から聞くフロルの話は、これまた印象と違う。
ライゼルは母の話題になった途端に、俄かに気落ちする。哀愁とは異なる、どちらかと言うなら悪戯を咎められる時の子供の表情。これだけで、ライゼルの母への印象が見て取れる。
「血祭フロルの間違いだろ」
頬張りながらの母への悪態に、ベニューの指弾がライゼルの額を強襲する。
「母さんの事をそんな風に言わないの」
母の事となると、普段はお姉さん振るベニューも黙っていられない。ベニューは母を尊敬していたし、敬愛もしていた。ライゼルも嫌っていた訳ではなかったが、ベニュー程には懐いていなかった。ベニューとライゼルの間には、幾ばくか感覚の差異があるようだ。
「ベニューは母ちゃんからボコボコにされた事ないから、そんな事言えるんだよ」
「ライゼルが母さんの仕事道具で遊ぶからでしょ」
個人の話題であっても、姉弟の雰囲気は暗くならない。十年前に亡くしたとなると、こうも感傷的とは言い難いものになるのかと、と感想を抱くビアン。両親が健在の自分には想像しづらい事ではあるかもしれない。
「ライゼルがボコボコか。この家の女性はみんな強いんだな」
二人の思い出話から先の姉弟喧嘩を思い出したビアン。弟と姉のやり取りから、母フロルを想像しようとすると、どうしても背筋が薄ら寒くなる。もちろん、当時ライゼルはまだ体の小さな子供ではあっただろうが、【牙】を有している事には違いない。そんな息子をどのように躾けていたのか、ビアンは興味がない訳でもない。もし、牙使いへの対抗策があるなら、ご教授願いたいくらいだ。
「確かに母ちゃんは強かった。なかなか読み書きが覚えられなくて、脱走しようとしたら反省するまで何度もぶん投げられた」
思い出したくない記憶なのか、ライゼルはそう漏らしながら渋い顔をした。先程まで淀みなく料理を口に運んでいた手が、ぎゅっと恐怖から耐えるように握りしめられている。嫌悪しているのではない、よく躾けられた事を忘れていないのだ。
「余所様の前で、変な事言わないの!」
「いやいや、さっきのベニューもなかなかだったぞ。まるでライゼルの行動を予知しているような動きだった」
ライゼルを咎めるベニューに、先程の素直な感想を漏らすビアン。だが、それを聞いた姉弟から不思議そうな顔を向けられる。二人に見つめられ、ビアンは気後れする。さも、この場にそぐわない冗談を放ってしまったかのような態度を取られるが、どう考えても心当たりはない。
「なんだよ?」
問い質すと、姉弟はほぼ同時に同じ答えをビアンに返す。同じ顔で、同じ調子で。
「予知じゃないよ?」「予知じゃないですよ?」
まるで、ビアンが一般常識から遠い認識をしているかのように錯覚してしまうほどの素っ頓狂な姉弟の顔。予知でなければ何だったのだろうと逡巡するが、あの挙動を可能にしたものの正体に気付けずにいるビアン。
続けて、問おうとした瞬間、ビアンの声を突然甲高い音が遮った。
「キャー!」
外の方から女性の絹を裂くような悲鳴が聞こえた。姉弟にはすぐに声の主が誰だか判別できる。
「カトレアさんだ!」
カトレア。先程姉弟喧嘩の際、ベニューから荷物を預かっていた女性だとビアンも思い出す。
「さっきの」
言った時には既にライゼルは外へ飛び出していた。ビアンも有事の際、真っ先に仕事をしなければならない立場であり、すぐライゼルの後を追い掛ける。
有事、と言ったものの、思い当たる事案はそう多くない。ビアンは大方事故であろうと見当を付けていた。大きな物が倒れてきただとか重い物が落ちてきただとか、そういう類の事故。教育政策が浸透してからは、落ちぶれて盗みを働いたり暴力沙汰を起こしたりする者も激減し、事件ではないだろうと高を括っていた。自分でも平和ボケしていると自覚してしまえる程に、この時代は天下泰平の世なのである。
ただ、違和感はあった。あれ程の姉弟喧嘩を目の当たりにして、一切動揺を見せない女性が、ビアン自身が想定できる範囲の事で、悲鳴を上げたりするだろうか、と。ライゼルとベニューの取っ組み合いを見慣れたカトレアにも許容できない程の突発的な事件が起こったとしたら、それこそ本当の非常事態に違いない。
そう思うと、落ち着かない。早く現場に到着し、事態を把握せねば。逸るビアンは、ライゼルを追い掛け、声の方へ急ぐ。
一方、先行するライゼルは、ビアンのような憶測は持たない。ただ、悲鳴があったという事は、カトレアが何か困っているかもしれない、とそう思っただけの事である。困っている人がいたら放っておけない性分、それがライゼルの在り方なのだ。
近隣の住人も、不穏な空気を感じ、表へ飛び出していた。その人波を掻き分け、ライゼルは声の方向へ一目散に駆けていく。何か良くない事が起きた。ライゼルはそう感じたのだ。
ライゼルがカトレアを発見したのは、先の広場であった。広場の脇にはビアンが乗ってきた車が止められている。それはフィオーレの人間からすると、非日常の象徴。だが、それ以上にフィオーレに違和感を添えるものが認められる。悲鳴の主カトレアは、見慣れない何者かによって腕を掴まれ拘束されているようだ。
鋭い目つきに華奢な体躯で、身の丈は大人のビアンよりもやや高い。カトレアを掴む五指は細く尖っている。纏う衣装は、まったく見覚えのない洒脱な格好で、無垢なる者を想起させるが、男自身から受ける印象とは真逆である。それは、国民の証である『身分証(ナンバリングリング)』と呼ばれる首輪を装着していないからかもしれない。身の上は明らかではないが、おそらく余所者だろうに太々しく粗暴な態度。
その男と現状を視認した瞬間、ライゼルは見慣れぬ男を倒すべき悪だと判断した。カトレアの表情から、好まざる状況を強いられている事は見て取れる。
「カトレアさんを放せ。痛い目見るぞ」
一体どういう状況なのかは分からない。普段良くしてもらっている女性が見知らぬ男に腕を掴まれている。そして、村の人間は男に怯えているのか、何人かは物陰に隠れ、何人かは腰を抜かして動けずにいる。
村のみんなが何に怯えているのかは分からない。男は強面の相貌だが、腕っぷしが強いようには見えない。どちらかと言えば、華奢な方だ。その男以上の力自慢は、この村にだって数人は居るはずなのだが。
ただ、声を掛ける距離に近付いて気付いた事がある。男が纏う雰囲気は、ライゼルがこれまでに感じた事のないそれだった。的確に表現する言葉を持ち合わせてはいないが、只者ではないと直感的に理解できた。村の外にはこういう人物も少なくないのだろうか? 未知とは本能的に恐れを抱かせるもの。ライゼルは男に対する警戒を一層強めた。
「あぁ? それオレに言ってんのか? 地上の屑が舐めた口利いてんじゃねぇぞ!」
見慣れぬ男もライゼルに悪態を吐きながら一瞥を向ける。言いながら握った手に力が入ったようで、カトレアの表情が苦痛に歪む。カトレアの柔肌に男の指が食い込み、その跡がくっきりと付けられる。それ程の強力な握力がか弱いカトレアを襲い、痛みから短い呻き声を漏らす。が、男は一切気に掛けていないようだ。ライゼルに対する苛立ちが増々膨れ上がり、余計に腕に力が入っていく。
「放せって言ってんだろ!」
それを見て、居ても立っても居られず、咄嗟に男に向かって駆け出すライゼル。カトレアは村の中では比較的年の近い方で、ベニュー共々世話になる事が多かった。そんな恩人に暴力が向けられて、黙っていられる程、ライゼルはお人好しではない。周りにいた人間の中から制止の声が聞こえた気がする。だが、それを無視し、男目掛けて突進する。
ライゼルには勝算があった。他の村人が何を及び腰になっているのか分からないが、ライゼルの経験則によると十分に組み伏せられる相手と見た。身長差こそあるものの、身体能力に優れているようには見受けられない。そもそも、成長して力仕事もこなすようになってからのライゼルが力づくでやり込められないのは、姉のベニューくらいのものだ。
自慢の脚力を生かし、男との距離を一気に詰める。力強く地を蹴ると、走破するよりも速く、男へ迫れた。男も回避する様子が見られず、この距離なら確実に男を捕える事ができるとライゼルは踏んだ。
「くらえ!」
と、言ったものの、ライゼルがぶつかり生じるはずだった衝撃は、誰に加えられるでもなく霧散した。物理的な衝撃が緩和されただとか吸収されただとか、そのような複雑な話ではない。ただ単純に当たらなかったのだ。体当たりは回避された。無我夢中に身体を当てに行ったライゼルは、最後の瞬間を見届けておらず、どうなったのかを把握できていない。
「やめろ、ライゼル! あの男は人間じゃない!」
傍らで見守っていた村人がそう言った。自分と激突するはずだった男の姿を探して前後左右を見渡すが、どこにもその姿はない。どころか、捕えられていたカトレアも同様にいない。この一瞬間の内にこの場を去る事なんて出来るはずがない。群衆の中に紛れた可能性も考えたが、時間の無さがやはりそれを否定する。
「どこだ、どこに隠れた?」
二人の行方を求めて視線をあちこちに巡らせていると気付く事があった。それは、周りのみんなが一様に固唾を飲んで、ライゼルの『頭上』を見上げていた事だ。ライゼルの死角であったその宙空に、皆の視線が注がれている。そう、探し損ねていた箇所が一ヵ所だけあったのだ。移動可能距離内でこそあるが、無意識の内に選択肢から外してしまっていた場所。
「へ?」
視線の先を追うと、そこには先の男がいる。より正確に言えば、浮いている。カトレアを片腕で掴んだまま空中に浮かんでいるのだ。
「オレは隠れちゃいねーよ、この地上の屑が」
宙空を漂う男は不敵な笑みを浮かべ、言葉通りにライゼルを見下した。
「なんじゃこりゃーーーー!」
遅れて到着したビアンとベニューも同じ光景を目の当たりにする。いや、少し離れた場所から見ていた分、客観的に事態を把握できた。遠目からだとこの異様な位置関係とそれを生じさせた動作を同時に視認できた。
「今、その人『浮いた』よ!?」
ベニューの言葉の通り、男はライゼルの突進を、空中に移動する事で回避したのだ。万物を縛るはずの重力を無視して、宙に浮遊して見せたのだ。もちろん、男の足元に目に移らない何かがあった訳ではない。
「手品か!」
ライゼルも本で読んだことがあった、摩訶不思議な奇術で不可思議な芸を見せて客を楽しませる芸人がいると。だが、目の前のそれはそういう類のものでなく、何の仕掛けもなく浮かんでいるのだ。
「おい、どんな手品か知らないが、カトレアさんが痛がってるだろ。放せよ」
男は人一人の体重を片腕だけで持ち上げていた。先程まで抵抗していたカトレアも、自重が肩に集中し、脱臼しているようだった。苦痛に顔を歪めながら、その痛みに耐えていた。その男が放さない限り、その痛みから解き放たれる事はない。
「さっきから吠えてばかりじゃねぇか。ここまで来てみな、地上の屑!」
原理は分からないが、相手が手の届かない所にいるのは事実である。このままカトレアをあの状態にしておくのは、非常に良くない。でも、どうしたらいいかライゼルには見当がつかない。
「跳んでみろライゼル。お前の脚力ならあるいは」
ビアンもそう助言してみたものの、それが有効でない事はすぐに判明した。実際に、ライゼルが屈伸し足を溜めて跳びかかってみたが、相手はそれを見て更に高く浮遊した。
「屑の割には、よく跳ねるじゃねぇか。だが、芸にしては退屈だな」
ライゼルの伸ばした腕がカトレアの足に触れようとした寸前で、予備動作もなく男は回避した。いくらライゼルが常人離れした身体能力を有していると言っても、身の丈三つ分の高位置を保持した相手には、ライゼルの跳躍力も脅威ではなかったのだ。
「これならどうだ」
突然、家屋に向かって走り出すライゼル。そして、壁伝いに屋根へ上り始める。跳躍で足りない高さを、家屋の屋根に上る事で補う作戦。お誂え向きに、民家同士は近くに位置し、屋根から屋根へと渡っていける。
しかし、その様子を見た男は、空中で水平移動し家屋から距離を取る。
「考え足らずか、ライゼル。奇襲でもない限り、その手は通用しないだろ」
ビアンの指摘を受け、更に一考し、また行動に移る。屋根の端の目一杯まで下がり、そこから男の方の端へ助走を付けて跳躍する。
「どりゃーーー」
「おいおい、地上の屑は脳みそねぇのかよ?」
カトレア目掛けて屋根の上から跳びかかるライゼル。が、男はカトレアを携えたままライゼルの側面へ迂回し、無謀な少年の背中を蹴り付け地上へ叩き落す。男は空中にあっても、その身に制限を受ける事なく、自由に移動できるようだ。言葉通りに制空権を有している男が、圧倒的に有利だった。
地に伏したライゼルは、背中の蹴られた痛みと地面に打ち付けた衝撃で、短い呻き声を漏らす。
「ぐっ」
「ニンゲンの癖に空を目指すか? お前ら屑は地を這ってる方が似合いだぜ」
高圧的な態度に腹を立てずにいられないが、為す術のないライゼルは男を睨んだまま黙り込んでしまう。
「どうした? 威勢がいいだけで何もできやしねぇじゃねぇか。もっと俺を楽しませてみろよ」
「くっそぉ…」
いろんな可能性を模索した結果、ひとつ可能性が残されていた。だが、それを実行するのは躊躇われた。
【牙】を使っての戦闘行為は、ご法度であり、役人ビアンの心証を著しく悪化させる恐れもあった。ライゼルの頭の中で、カトレアと、躊躇いの理由とが、天秤の皿に乗っている。針はどちらに傾くでもなく揺れ続けている。思案を続けるも、ただ時間だけが過ぎようとしていた。
が、その躊躇を吹き飛ばす一声がライゼルの耳に届く。
「ライゼル! 【牙】を使って!」
それを聞いた途端、ライゼルは無意識の内に『星脈』に霊気を循環させる。瞬間的に全身に熱を帯びていく。
その様子に、訝しむ宙空の男と、顔を引き攣らせるビアン。そして自信ありげに強かな様子のベニュー。
「はあぁぁぁぁああッ!」
発せられる雄叫び、腰元まで曲げた右腕、込められる霊気・・・そして、踏み出した左足と共に、力を溜めた掌底を相手に向かって突き出した。
瞬間、男は自身の体が硬直したように感じた。事実、動けなくなった。これまでに男が感じた事のない力の奔流が、男の体の自由を奪ったのだ。ライゼルが発した膨大な量のムスヒアニマが、男の体を飲み込んだ。
「なにっ?!」
十分な距離が保たれているはずだが、ライゼルの腕から生まれ出ずる『何か』が届いた。もちろん、ライゼルの掌底ではない。男に向けて放たれた『それ』は、男の頬を掠め、更に男から血を流れさせた。
「剣圧だと?」
男は、何故自分の頬を真っ赤な血が伝っているのか理解できなかった。何かが少年の手から投擲され、自分の頬を掠め、鋭い痛みを走らせた。咄嗟に剣圧と口走ったが、本当にそうだったのか? 【牙】の存在を知らぬ男には、何故虚空から武器が現れたのか、理解が及ばなかった。男は未開の土地にて、脅威と出会った。
男に脅威を与えた物、つまりライゼルが男に向かって放った物。それはライゼルの【牙】が具現化した両刃剣だった。地上の特殊な星脈を持つ者だけが有する刃向かう力、武器具現化能力、【牙】。ライゼルの場合は、両刃の幅広剣を具現化する事ができる。ライゼルは男目掛けて、この幅広剣を投擲し、足りない高さを補ったのだ。
「どうだ、これが俺の力だ」
「やってくれたな、屑野郎」
一矢報いたライゼルの勝ち誇った顔に、色を失った男の顔。男は怒りに戦慄いていた。先程までの軽口を叩く余裕は一瞬で失われた。
そして、余裕がないといえば、こちらの役人も然り。
「おいぃぃいいい、投げてどうすんだよーーー!」
ビアンの指摘は正しかった。そうする他になかったとは言え、唯一の戦力である武器を手放してしまった。これは、ライゼルにとって大きな損失である。
武器を失ったばかりか、男の慢心を打ち消し、本気を引き出しってしまったようだと、相対したライゼルは察した。男の顔に、先程の薄ら笑いはなかった。
「遊びは終いだ。本気で狩るぜ」
「きゃっ」
そう言って、掴んでいたカトレアを地面に投げつける。地面に衝突する瞬間に、挙動から察知したビアンが下敷きとなって大怪我は免れた。ビアンはすぐさまカトレアを抱きかかえ、広場の端へ避難する。
「アンタ、大丈夫か?」
「はい、それよりもライゼルが」
ビアンに抱きかかえられ、痛む肩を庇いながらも、ライゼルを心配するカトレア。ライゼルと相対する男の顔は、ライゼルに対する憎悪に染まっていた。
「屑。テメェはオレを怒らせたな」
「お前、さっきから俺を屑呼ばわりしやがって何なんだよ。カトレアさんに何の用だ?」
「女から『臭い』がすると思って降りてみたが、とびっきり『臭』ぇのはテメェじゃねぇか」
男の指摘に、ライゼルは困惑する。仕事終わりやお遣い帰りには毎度水浴びをする。体臭がきついとは、これまで指摘された事はなかったのだが。
「臭くないし。なんだよ、臭うからって文句を言いに来たのか?」
半ば見当違いの問いを投げるライゼルに、男も苛立ちながら返答する。
「俺は『狩り』をしに来た。それでテメェらは獲物。ただそれだけなんだよ」
行動もそうだが、ライゼルからすると、言っている事も出鱈目で理解が及ばない。ただ、ライゼルが知らない世界の話をしているという事は想像できた。異文化人なのかもしれない、とそう推測した。
「『かり』ってなんだよ? 」
ライゼルの最後の問いに、男は行動を以って応える。
「おうよ、教えてやらぁ!」
それまで空中に浮遊していた男は、ライゼル目掛けて滑空する。ライゼルもその動作に合わせて身構えたが、瞬きの間に見失った。敵の姿を。しっかりと目で追っていたはずなのに。
そして、見失ったと同時にライゼルの脇腹に激痛が走る。痛覚と視覚、どちらが先に機能しただろう、ほぼ同時に鮮血が風と共に舞うのが見えた。
「いてぇーッ!」
「ライゼル!」
悲鳴にも近いベニューの叫び声。傍から見ていたベニューにも、何が起きたのか分からない。敵が目にも止まらぬ速さでライゼルの横を通過したという事実を、現時点での位置情報から理解させられた。ライゼルが立ちすくんでいる背後の中空に得意げな表情で佇む、特異な能力を持つ男。
激しい痛みにライゼルの膝は折れる。どうやらすれ違いざまに、爪か何か鋭利な物で切り裂かれたようだ。
離れた所から見ていたビアンは、男の姿が先と異なる事に気付いた。
「背中に『何か』付いてるぞ?」
言われて皆が男の背に注目する。確かに、そこには見た事もない、どうやら体の一部分なのであろうものが認められた。だが、それが何であるのか、持ち主である男以外の者には皆目見当もつかない。
純白の綿を集めて作った旗のようにも見え、それでいて生命力を感じさせる躍動を伴うモノ。誰もこのようなものを目にした事がなかった。田舎村の者だからとかそういう事ではなく、王国に仕官しているビアンも同様だった。どの書物にもあのような特異物は記されていない。
ただ、ビアンにはなんとなく理解ができた。男の背中に出現したそれが、尋常な運動能力を生み出し、目にも止まらぬ高速移動を可能にせしめたのだろうと。ライゼルの先の一撃が、男を本気にさせた。そして、あの高速移動こそが謎の男の本領なのだろう。
「おい、ライゼル! 何をボサッとしてやがる。逃げろ、嬲り殺されるぞ」
そう促したものの、敵はそれを許すことなく、高速移動で往復を数度繰り返し、ライゼルを切り刻む。腕を、脚を、背中を、すれ違いざまに何度も何度も切り付けた。
目で追おうとするも、挑発的な男の笑みが見えたと思った次の瞬間には、男を見失い、代わりに傷を残されていく。目にも止まらぬ速さとは、まさにこの事だと言える。
「せーの、おりゃ」
ならばと、男を視認できなくなった瞬間に、後方へと飛び退いてみるが、男はしかとライゼルを捕捉し、攻撃を加える。男はその高速移動の能力を過不足なく自在に操っているのだ。加速減速も思いのままで、ライゼルの不意な行動にもすぐ対処して見せる。
能力を使いこなしている事も見て取れるが、それ以上に戦い慣れている印象を受ける。おそらく男の経験則には、対人戦闘があるのだろう。ライゼルが中途半端に抵抗して見せても物ともしない。自身のような高速移動能力を持たぬ者に対しての嬲る手段に長けているのだ。
男とライゼルとでは、戦闘能力に大きな開きがある。回避も防御もままならず、ライゼルは嬲られ続けるしかなかった。
「くそ、全然見えねぇ」
敵は常に高速で移動し続けており、いつ、どの方向から攻撃を仕掛けてくるのか見極める事が出来ない。無鉄砲に腕を伸ばして、移動しているのであろう見えない敵を捕まえようとすると、逆にその腕部を攻撃箇所とされてしまう。対抗策を見出せず、消耗していくしかないライゼル。
「…見てられん。おい、お前、もう許してくれ。頼むこの通りだ」
小生意気なクソガキだとは思ったが、こうも痛めつけられる姿をまざまざと見せられては、ライゼルに対する同情の方が大きくなる。そもそも、ライゼルにはこの事態に対処しなければならない責任はない。どちらかと言えば、この事態を収めなければならないのは、役人のビアンである。
傷付いていくライゼルの姿に心を痛め、ビアンが止めに入ろうとするが、歩み出そうとしたところでベニューに止められた。
「きっとライゼルなら。ライゼルなら、なんとかできるかもしれません」
ビアンはその言葉に正気を疑い、咄嗟に大声で叱りつけようとする。
「なっ、何を」
が、真っ直ぐにビアンの目を見据えるベニューの瞳には強い意志と、ライゼルへの確かな信頼が見えた瞬間、叱責の言葉を飲み込んだ。無慈悲にこの局面を託しているのではない。
であれば、ライゼルには、この姉弟には、何か状況を打開する策があるというのか?
半信半疑ではあったが、ビアンにも何か有効な策があった訳ではない為、従わざるを得ない。法に縛られない悪漢相手に、ビアンには為す術がない。この村唯一の【牙】使いの少年に、戦況を任せるしかないのだ。
「だが、このまま防戦一方ではライゼルがやられるぞ?」
ビアンの戦況分析は正しかった。時間が経過する毎にライゼルは不利な状況に追い込まれていく。
「ライゼルなら相手の行動が読めるはずです」
「どういうことだ?」
ベニューの真意をビアンは分からない。何故か肝の据わっている少女にもどかしい思いをさせられてしまう。
ベニューは大きく息を吸い込むと、ライゼルを一喝する。
「ライゼル、いつまでも中途半端な事しないの。母さんのお仕置きはこんなものじゃなかったでしょ?」
まるで、素行の悪さを咎めるかのような、この場にそぐわない調子でやるものだから、ビアンも肩透かしを喰らった気分になる。
しかし、檄を飛ばされたライゼルは、先の母との思い出を語っていた時のような渋面を下げている。この局面で、過去の恐怖が思い出されたのだから、ライゼルにとっては堪ったものではない。
「あぁ、思い出した。そっか、いつのもやつをやればいいのか」
傷だらけで圧倒的窮地に立たされているライゼルは、そう言って脱力して見せた。
「いつものやつ?」
傍らで見守るビアンは、姉弟が語る事の内容が分からない。が、ビアンの腕の中で抱えられているカトレアは何やら合点のいった様子だ。
「お役人さん、さっき見たじゃないですか。多分、姉弟喧嘩の事です」
「姉弟喧嘩、だと?」
ますます意味が分からなかった。これは先の姉弟喧嘩とは比較にならない程の危険を帯びたものである。現にライゼルの体中から出血が確認できる。この村の人間の認識はどうなってるのかと、ビアンは疑わしくなる。
「そろそろ飽いたな。テメェはもう死ね」
ビアンの理解が及ばぬまま、戦闘は再開される。そして、その真意はようやく披露される段となる。男の強襲に合わせ、ベニューがライゼルに助言を告げる。
「ライゼル、上に跳んで!」
それを聞いたライゼルは、ベニューの方を見る事もなく、その指示通りに従い、屈めていた上体を起こし、常人が届かないフィオーレの中空に体を投げる。
「愚か者が。逃げ場をなくしただけじゃねぇか!」
ライゼルが宙に逃げた事により、男の水平移動での攻撃は躱された。が、ライゼルは着地するまで重力に引かれ、落ちていくしかない。その無防備な状態は、謎の男にとって絶好の機会だった。
男は躊躇する事なく、瞬時に上空への攻撃に転じた。例え、この状況で闇雲に抵抗されても、ライゼルを瞬殺できる自負があった。事実、体を空に翻したライゼルは、男の居場所を知覚出来ていない。
「とどめだ、屑野郎!」
男は突風のように素早く中空のライゼルの背後に迫る。誰にも知覚する事は出来なかったが、まったく手加減のない、男が有する最高速度を発揮している。そして、殺意を帯びたその凶爪がライゼルの命を奪わんとする。その時、フィオーレの花が一斉に笑った。
「咲いたよ、ライゼル」
ベニューはその場で小さく呟く。離れた場所にいるライゼルにその言葉が届いたとも思えないが、ライゼルもそれが聞こえたかのように小さく応える。
「あぁ、風が吹いた」
その言葉の通り、ライゼルの背後から一陣の風が吹いた。その風は、幾度も攻撃に晒され、引き裂かれたダンデリオン染めの切れ端を吹き飛ばす。まるで、蒲公英(たんぽぽ)の綿毛がフィオーレの空を吹き渡るかのように。それは、姉弟がこの村で暖かな季節が巡る度に目にしてきた、当たり前の景色。言葉を尽くさずとも、ベニューの意図するところがライゼルには分かるのだ。
正午の姉弟喧嘩もそうだった。姉弟は、何もお互いの動きを予知して、攻め手を繰り出し、それを躱していたのではない。相手の動きから生じる風を感じて、相手の動きを察していたのだ。
昔から姉弟は、母親フロルにそれを仕込まれていた。ライゼルが悪戯をする度に、ひょっとしたら虐待とも解釈されかねない教育的指導が始まる。母はライゼルにお仕置きをする時、わざと大振りの動作でげんこつを見舞っていた。それが何度も続けば、その教育的指導から逃れんとするライゼルは、風圧を肌で察する感覚を研ぎ澄ましていった。ベニューも連帯責任と叱られる事があり、フロルの拳圧をその身に覚えさせていたのだ。母が亡くなってからも、討論で解決しない事案が発生した際は、先のように肉体言語で語り合う習慣が身に付き、よりその風を読む力を磨いていった。
故に、これだけの突風が巻き起これば、方位の特定に限らず、距離の概算も可能なのだ。
空に舞う綿毛は、ライゼルを狙う風の発生源の位置を、彼に知らしめた。今まで捉える事の出来なかった敵の居場所をようやく特定せしめたのだ。
「見つけた」
まもなくライゼルの体も重力に引かれ落下が始まる。その身を自由落下に任せ、ライゼル自身は星脈に大地の力を流し込む。地に足がついていない状態でも、しっかりと温かい霊気が伝わってくる。その霊気の奔流は手のひらから外界へ放出されていき、物質として顕現していく。それは、ライゼルが頼みとするライゼルの分身。
「その獲物はさっき放り投げたんじゃねぇのかよッ?!」
半ば怒気を込めた疑問が、高速移動中の男の口から放たれる。
その通り、先程カトレアを助ける為にライゼルが一投した後、回収してなどいない。だが、再び同じものが少年の手に握られている。何故か? 【牙】の力とは、ムスヒアニマの結晶化。発動者の制御下を離れた霊気の塊は、再び大地の中へと戻っており、ライゼルの呼び掛けに呼応し、再度具現化されたのだ。
その事実を知る由もない男は、驚愕と共に戦慄する。彼は完全に虚を突いたつもりでいたのだ。視認できない死角から、知覚できない亜高速で。
だが、それが仇となる。男が仕掛けた強襲は、隙だらけの相手にこそ有効な手段であって、待ち構える相手に対しては愚策の極み。何故なら、己の力を敵の助成として捧げ、自ら討ち取られに行くのだから。最高速度で敗北行き。
そして、ライゼルの牙が悪漢を待ち構える。ライゼルの全身から滲み出るムスヒアニマが、男の体に纏わりつき、捉えて離さない。
「くそっ、またこの『臭い』か!」
男が身動きの取れないのはごく僅かな時間であったが、ライゼルにとっては充分な時間だった。
「喰らえ、必殺(とっておき)の」
腰後方に溜めた幅広剣を横一文字に振り切る。大きく振り抜かれた刀身からは、青白い霊気が漏れ出し、残像のようにその軌道をなぞる。素早い一閃が男を捉えた。ライゼルにも確かな手応えがあった。
「ぐはぁっ!」
謎の襲撃者もライゼルの剣によって撃ち払われる。厳密に言うと『打』ち払われる。
ライゼルは空中での反撃後にも関わらず、姿勢制御を行い、着地もばっちりと決めて見せた。
「母ちゃん直伝、花吹(はなふ)「斬撃じゃなくて打撃なのかよーーー!!?」
思わずビアンも、ライゼルの決め台詞に被ってしまう絶叫を挙げてしまう。当然、斬り払うものであろうと想像されたライゼルの反撃は、刃ではなく刀身の広い面を鈍器として利用され、繰り出された。その為か、襲撃者も高速移動による上乗せで大きな痛手を負ったが、致命傷には程遠かった。これは実践経験のないライゼルの、異能を駆る男に対して大きく劣る弱点とも言える。好機をものにできる能力を持ちながら、出し惜しんでしまう。
打ち払われた男は、大きく後退し、背中の一対のそれで空中にて姿勢制御を行う。咄嗟に体を庇った右腕全体がひどく腫れていたが、地に伏す事もなく依然として空中にその身を漂わせている。
「地上の屑野郎が。そもそも、なんで武器なんて持ってやがるんだ」
誰に言うでもなく独り言ちて、男はライゼルを睨みつける。
ライゼル達が男の異能を初めて目の当たりにしたように、男も【牙】を目撃したのは初めてだった。予想外の戦力を有していたとはいえ、戦闘慣れした自身が、見下していた子供に後れを取るなど、男にとっては許しがたい事である。
そんな心中を察するでもなく、ライゼルは男に対し、説教する。
「おいお前、これに懲りたらもう二度と悪さなんかするんじゃないぞ? 【牙】使い(タランテム)なら、その力は人の為に使わなきゃだろ?」
命のやり取りをした相手に対してもライゼルの態度は柔らかい。姉であるベニューの躾の賜物か。いや、ライゼル自身の生まれ持つ『甘さ』だ。敵はまだ戦意も戦力もを失ってなどいないのに。
「『生まれ持つ者(タランテム)』だと? そうか、お前が噂に聞く【牙】使いか」
痛がる姿をライゼルに見せたくないのか、右腕を庇わずにいる。その姿から男の矜持が見えた。自身が侮辱の言葉を浴びせた相手に、弱みを見せたくないとする意地。
「お前もそうじゃないのか。浮いてるし、すげー早く動けるし」
害を為す相手を手放しに誉めるライゼル。それを見守るビアンとベニュー。二人は心配で仕方がない。結局、好機を逃し、相手を無力化できなかったのだ。ベニューの算段では、ライゼルは『勝って』いたというのに。
「あいつ、能天気というか、危機感がないというか…」
「あとで言い訊かせておきます」
本人の与り知らぬ所で呆れられているのを余所に、ライゼルは更に男に質問を浴びせる。
「その背中の、なんて言うんだ? それがお前の【牙】なのか?」
その疑問は、ビアンも抱いた謎だった。この国において異能を扱えるのは【牙】の能力を持つ者だが、【牙】の主な能力は武器の具現化である。あの男の背中から生えているアレは、武器とは思えない。あれはどう見ても体の一部だ。第三、第四の腕とでも呼べばいいのか、一対のそれ。
「『オレ達』は【牙】なんか野蛮な物持ってねぇ。この【翼】はオレ達が『有資格者(ギフテッド)』である証だ」
「ん?」
初めて耳にする【翼】という言葉。それが、男が称する【牙】に似た能力の名。
ライゼルは知らぬ事だが、国内には教義に背き、【牙】を咎とする者もいない訳ではない。【牙】の能力に対する認識は千差万別。だが、男の口ぶりは、そういうものでもないようだ。
「往来で【牙】を侮蔑し、悪事を働いても悪びれる様子も見せないお前は、このベスティアの人間ではないな?」
要領を得ない彼らの会話に割って入るビアン。国の役人である彼は、この度の件に対して聴取と取り締まりをしない訳にはいかない。今回の件をビアンは、上に報告するつもりだ。
だが、男はビアンを相手にしない。どころか、凄まじい形相で凄み、覇気で威圧する。
「訊いてんじゃねぇよ、分かりきった事を。それ以上、俺に問いを投げるなら、命を賭けろよ?」
「くっ」
その一睨みに身震いするビアン。これ以上は使命よりも恐れが上回り、口を挿めなかった。立場や役職など男には関係なかった。彼と言葉を交わせるのは、刃を交えたライゼルのみ。ここでの法は、あの男が決する。
「フィオーレには何の用だよ?」
「さっきも言ったろ。狩りだ。腕試しに地上の屑共を蹴散らしに来た」
そこまで言葉を紡いで、奥歯を噛みしめ、小さく息を吐く。動作はなかったが、右腕を気にしたように見えた。痛みと悔しさが傷口に疼いたようだ。蹴散らすつもりが、返り討ちにあったからか。
「まさか、地上の屑野郎に噛み付かれるとはな。【牙】使い、名前はなんだ?」
名前を問われる。実を言えば、ライゼルは初めての経験だ。これまで知り合ってきた村の人間は、幼い頃からライゼルを知っている人間ばかり。問うまでもなく、ライゼルの事を知っている。
だが、この目の前の男は違う。同郷の人間ばかりの狭い世界に、乱暴な形で現れた闖入者。とても好意的にはなれないが、人の頼みは積極的に応じてきたこの少年だ、答えを返そうと考える。
「俺は…」
ふと言葉に詰まる。名乗りを憚られた訳ではない。普通に名乗る事を憚られたのだ。母はダンデリオン染めのフロル、姉は六花染めのベニュー、ならば自分は? 自分にはそういう通り名がない。村では頼られるライゼルも、外に対しては無名なのだ。誇れるものと言えば【牙】だが… 【牙】使いのライゼル? いや、【牙】使いなら余所にもごまんといる。それはライゼルを指す二つ名ではない。
刹那、ライゼルは閃く、ないなら作ればよいではないか。この場で名乗ってしまえば、あとはそれを流布するのみ。それって、つまり、格好いい。言った者勝ちとはよく言ったものだ。
「…俺は!」
「確かライゼルと呼ばれてたな…『巨人の足(アルゲバル)』か」
「えっ、ちが、なにそれ?」
名乗る間もなく、先を続けられ動揺するライゼル。それを余所に、真っ直ぐにライゼルを見据える男。その瞳で射殺さんばかりに見つめ、改めてライゼルに宣戦布告する。
「その面はもう覚えた。名前も忘れない。どこに逃げようが必ず殺す。この右腕の怪我が癒えた時、その日がテメェの命日だ、覚悟しておけ」
先とは雰囲気の違う、余りの迫力に生唾を飲んでしまう。ライゼルも緊張した面持ちながら、機会を見計らう。
「『疾風のテペキオン』。それが、テメェの命を枯らし、天空に吹き荒ぶ嵐の名前だ」
そう言って、予備動作もなく【翼】と称したそれを作動させ、今いた空中よりも更に天高く飛翔していく。
「おい、待て!」
ライゼルの制止も聞かず、テペキオンと名乗った男は雲の彼方へ姿を消した。
疾風の二つ名の通り、突然村に現れ、事件を起こし、去っていったテペキオン。まさに台風一過という言葉が相応しい。テペキオンの去った広場に、湿度を帯びた生温い風が吹いていた。
昼の鐘から久しく訪れた束の間の静寂。そして、咆哮。
「あぁあぁぁぁぁああああ!」
大声を上げながら頭を抱え、膝を折るライゼル。心配したベニューが慌てて駆け寄る。
「怪我は大丈夫?」
全身の裂傷から血が流れ出ている。星脈を酷使した為、余計に血の巡りが激しい。すぐに止血しなくてはならない。怪我は穢れの元。早く処置せねば、ライゼルの命が穢れてしまう。
しかし、痛みを忘れる程にライゼルは悔やんでいる。
「くそぉ、逃した~」
「何怒ってるの。カトレアさん脱臼しただけで済んだって。ライゼルのおかげだよ。やったじゃん」
手持ちの布で傷口を縛り、手当てをしながら弟を宥めるベニューだが、こんなに勝負に執心した弟を見るのは初めてかもしれない。もっと言えば、こんな大立ち回りを演じたのも初めてだ。今日ほど弟の身を案じた事はない。こんな心臓に悪い事は今回限りにしてもらいたい。
「あぁ~、俺も二つ名言いたかった~」
「…ライゼルったら」
この期に及んで、名乗りを悔いるライゼル。全身怪我だらけでも泣き言を言わなくなったのは、大きな成長かもしれない。思わず呆れて言葉を失ってしまったが、密かに嬉しいベニューであった。
そこに、カトレアを村の人に任せ、手隙になったビアンがライゼルの傍に来る。
「無事か?」
その問いに全身怪我だらけのライゼルが明るく応じて見せる。
「うん、大丈夫。それよりさ」
「ん?」
「ビアンはいつ戻る? 今日とは言わないよね?」
この問いかけにどんな意味があるのだろうとビアンは思案を巡らす。こんなに痛い思いをして知人を救い、難敵を退けた直後のこの状況で、敢えてこの質問をぶつけてきた意図とは何だ?
答えあぐねているビアンに先んじて、ライゼルが続ける。
「俺、絶対連れて行ってもらうからね。出発はまた明日にしてよ」
両腕を広げて見せたライゼルにビアンは思った。この少年をこの村に残していく事は無責任な事だと。
少年の身を案じて、この村に留める事は容易い。結局、村を出たいというのは少年期特有の気の病だ。強くなりたいと語った英雄願望もそうなのだろう。
だが、論点はそこではない。注目すべきは、その行動原理から為す行いそのものだ。何故その願いを抱いたかは不明だが、今日の様子を見て非常に不安に駆られる。人を助けるという大義名分に嘘はないのだろう。だが、それ以上に戦いたい、強くなりたいという願望が内在する。その行いを他の何かと、例えば危険と天秤に秤る事もしない、どころか疑問にすら思わない。今日の事だって上手くいったからいいものを、下手をすれば命を落としていたかもしれない。彼の正義感は、あまりにも危うく儚すぎる。大人である自分が見守ってあげなければならない。少なくとも、少年を保護してくれる環境が整うまでは。
「あぁ、ちゃんと連れて行ってやる」
「本当? さっすがビアン、話が分かる」
ホッと胸を撫で下ろしている満身創痍のライゼルと改めて対峙すると、やはり自身の判断は間違いないとビアンは確信する。だから、ビアンはライゼルにこう告げる。
「だが、行き先はボーネじゃない」
「ん?」
「明日には出発する。行き先は王都クティノスだ」
「へ?」
to be continued・・・
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