第5話 なんというか、嬉しいな

暖かい。


図書館を出ると、湿った風が吹きつけた。しかし、そこには突き刺すような痛みはなくて、わずかに温感を含んでさえいる。

その温かみを感じた瞬間、言語化し難い幸福感が身体を包む。命の深いところから湧き出すこの悦びは、北国住まいの利点のひとつだ。


ひとつ深呼吸すると、奈波は、雪からわずかに顔を出したアスファルトを踏みしめた。


うん。滑らない。


ただ、雪が解けると、またひとつ困ったことがある。交差点という交差点が、すべて水たまりだらけになってしまうのだ。排水溝は降り積もった雪でふさがれてしまっていて、役目を果たしていない。


ロングスカートを少し摘み上げると、そっと歩みを進める。


春休み中に書いていた作品は、無事に新人賞に応募できた。紙に印刷して綴じて、封筒に入れて郵送する。そんな古風なやり方も良いものだ。

賞の名前を表に書いた、少し膨らんだ封筒を手渡したとき、郵便窓口の初老の男性は「小説ですか。良いですね」と柔和に微笑んでくれた。

少し気恥ずかしかったけれど、電子化されたら味わえなくなる気持ちなのかもしれない。


次は何を書こうかな。


書きたい世界のイメージはぼんやりと頭にあるけれど、それはまだ言葉の体をなしていない。

こんなとき、奈波は散歩をすることにしていた。歩いていると、不思議と言葉が流れ出てくる。そして、それを急いでスマホのメモ帳に書き留める。後でメモしようなんて思っていたら、次の水たまりを超えたころには忘れているから。


図書館を出て、アルバイト先に向かう。その間に、半ページ分くらい書けないかな。


思い浮かべた文章を勝手に打ち込んでくれる機械とか、早くできたら良いのに。みんな夢見てると思うんだけど。でも、こうやってごちゃごちゃ考えたことも全部文字にされちゃうのかな。


「あら、奈波ちゃん」


突然名前を呼ばれ、慌てて視線をあげる。


「あ、高森さん」


品の良いおばあさんにぺこりと頭を下げ、足元に連れられている小型犬にも挨拶をする。


「ポンちゃん、こんにちは」


ポンちゃんと呼ばれたチワワは、奈波を見上げて尻尾を振っている。

アルバイト先の小さなスーパーは、一人暮らしの大学生のほかに、長くこの町に住む常連客を抱えている。


その常連客の一人である高森さんもは、いつもこのポンちゃんを連れて買い物に来る。そして奈波は、掃除がてら、よく店先で主人を待つポンちゃんの相手をしていた。


「いまからお仕事かい?」


「はい。夜までシフトです」


「もうちょっと遅くに来れば会えたのにねぇ。ポンちゃんも寂しがってたわ。また行くわね」


大学に行っているだけでは出会えないような人と知り合えるのは、バイトをしていて良かったところだ。自分に見えていることだけが世界ではないことを思い出させてくれるし、何より小説のネタになる。ネタって言ってしまうと、なんだか良くない気がするけれど。


もうすぐ到着だ。今日も頑張ろう。


頭を切り替えて、奈波は慣れ親しんだ個人経営の小さなスーパーへと歩みを進めた。


*  *  *


春休みも終わるから酒を飲もう。


そんな適当な理由で決まった梨穂子との飲み会は、結局春休み明けにずれ込んでしまった。この前みんなで飲んだばっかりだし、バイトのシフト入れられてたし、4月だな。なんて具合である。


駅の南の飲み屋街。地下道出口の階段で待ち合わせた梨穂子は、今日も今日とてスーツ姿である。旅行代理店で連日のアルバイトをこなす彼女は、進路も旅行会社への就職を目指しているらしい。


お通しの牛スジ煮込みが届くなり、いやぁやっぱりこれですわ、なんて言いながらビールをあおる梨穂子は、ジョッキを置くと頬杖をついて訊ねた。


「いつも私ばっかり愚痴っちゃってるけどさ、ミツはイライラすることとかないの?」


身の回りの人々のことを思い浮かべる。

アルバイトはほとんどしていない。

サークルのみんなは、癖はあるけど良いやつだ。

ついこの前決まったばかりの指導教員は、新学期早々ちょっとパワハラ気味かな。


「教授がめっちゃメールしてくるくらいかなぁ」


「ミツってあれだよね、なんか世捨て人みたいな雰囲気あるよね」


「それって誉めてるの?貶してるの?」


通りがかった店員に梨穂子が声をかける。

すいませーん、ビールもう一杯。ミツは?

あ、僕もビールで。


「あ、だし巻き食べたい」


「ビール来たら絶対たのもう」


こんなとりとめもないことを話すため、僕らは酒を飲んでいる。

確かに、僕はあまり人に愚痴を吐くことがない。人並みにイライラしているときはあるつもりだが、人と会っているときに、それを話そうとは思わない。

なんでだろうな。別に共感が欲しいわけじゃないのか。それとも、共感してもらえると思っていないのかな。


「でも、ミツはそれで良いと思うよ」


すぐに届いた2杯目のビールに口をつけながら梨穂子は言った。


「そうかな」


「ちょっと距離をとられてる気がしちゃうけど」


「こんなにも心を開いてるのに?」


「ミツはそうなんだなってわかってきた」


「それは、なんというか、嬉しいな」


ミツネもビールをあおる。そして思い出す。


「あ、だし巻き頼み忘れた」


「ほんとだ」

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君のためのユートピア 新田カケル @kakerun

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