第4話 やばい。人が死ぬ。

図書館の2階、ずらりと並ぶ書棚の奥の、窓に面した机に向かって、彼女――佐伯奈波はパソコンを開いていた。傍らに開かれたノートには、些か崩れた字体で、しかしページに十分な余白をもって、メモ書きが並んでいる。


彼女は小説を書いていた。タイトルは――、まだつけていない。


すべて書き終えたら考えるつもりでいた。本文の一番短い要約。読者が最初に目にするもの。いろいろと考えていたら、いままで付けそびれてしまっていた。


あと少し。もうクライマックスだ。最後の山場は越えて、あとはどこかに着地するだけ。あとは彼らが、登場人物たちが、小さな幸せを感じてくれれば良い。


――よし。書けた。とりあえず。


最後に全部読み直してみよう。でも、読み直さない方が良いのかな。書き直したいところが山ほど出てきそう。何かの拍子に矛盾とかみつけてしまうかも。


ただ、もうちょっとすっきりさせた方が良いよね。

書きたいことをゴテゴテ書いていったから、少しもっさりしてしまったし。


ろくろに載せた粘土に手を当てて、綺麗な回転体にするイメージ。でこぼこした蛇足を、本筋に沿わせていく。書きすぎたところは殺風景にならない程度に削って。足りないところは肉付けして。

あとはきっとキャラクターたちが何とかしてくれる。たぶん。


ちょっとリフレッシュしよう。


奈波は席を立って、階段を下りる。1階にある書庫入り口をくぐって、地下に降りていく。

少し乾燥した空気に漂う、黄ばんだ紙と古くなった糊の香り。

書庫の空気を肺に満たすと、味わうように鼻腔をくぐらせる。

トイレに行きたくなると評される香りである。奈波は嫌いではなかった。


煙草を吸う人の気持ちって、こんな感じなのかな。

古書の香りも、吸いすぎると良くないのかしら。


少し離れたところで、書棚が動く音がする。

誰かいるんだ。見知らぬ誰かが友人のように思える。この時期の図書館にいるというだけで第一印象はばっちりである。


書庫は温度調節がしっかりされていて心地良い。暖かな空気を切って、思考を物語の世界に飛ばしながら廊下を進む。


「確かこの辺に……」


我に返って書棚の側面に示された資料番号を確認する。奈波は、ある小説を取りに書庫に来ていた。数か月前まで、この図書館で借りて何度も読んだ物語。しかし、自分の小説を書くために、しばらく読むのをやめていた。今日は、あの作品を書き終えるときに、そばに置いておきたかったのだ。


書庫は、過去しばらく貸し出しがなかった本が収められるらしい。ということは、私が好きな物語は、私が返してから、誰にも読まれていないのかもしれない。


まぁ確かに、少し悲しすぎるところがあるよね。


心当たりの書棚で立ち止まって、側面に備えられたボタンを押す。すると、電子音が鳴り響いて、駆動音と共に……人の声がした。


「え」


やばい。人が死ぬ。


慌てて停止ボタンを押して、今にも閉じようとしていた空間をのぞき込むと、一人の男子学生が天井を仰ぎ見ていた。どうして上を向いているのか。それは諦めの表情なのか。少しは生きるためにあがいたらどうなのか。


「ごめんなさい」


流れ出てきた感想を押し込めて謝ると、彼は言った。


「いや、すいません。こちらこそ。あの、開けてもらえると……」


*  *  *


危うく人生を二日酔いで締めくくるところだった。

まぁ、この書棚にはちゃんとセンサーがついていて、僕が挟まったってすぐに止まるはずだけれど。たぶん。


自分を潰しかけた女子学生に開けてもらって、ミツネは廊下に出た。彼女は再度の謝罪と共に頭を下げたあと、突然僕の右手を指さして言った。


「それ、面白いですよね!」


「え、何がですか?」


一瞬おいて、ミツネは自分が手に本を持っていたことを思い出した。

なるほど、この人はこの本を読んだことがあるんだ。


「えっと、まだ読んだことなくて」


「あっ、すごく面白いんです。読んでみてください!」


衝撃的な少女との出会いと唐突に変わる話題。脳の処理が追い付かないなか、ミツネは発するべき言葉を探した。

そして、何度か視線が交差して、数秒の沈黙の後、僕は何とか言葉をひねり出した。


「あ、はい」


否、言葉とは言えなかったかもしれない。

なんとなく気まずい空気の中、彼女はもう一度頭を下げて、小走りで書庫を出ていった。


ちょっと可愛かったな。

それが、アルコール漬けの脳がやっとのことで導き出した感想だった。



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