第2話 愛の伝道師を目指す者

田中がニヤついた表情で近づいてきた時点で、何か不穏なものは感じていた。申し訳なさ故の苦笑いだろうと好意的に捉えるのではなく、そこで先手を打つべきだったのかもしれない。


それにしたって男女ふたりずつの飲み仲間たちに向かってダブルデートという言葉を放り込むとはどういう了見をしているのか。


しかし凍り付いた場の空気を意にも介していない様子で、さぁ行こうか、と言って田中は目的地に足を向けた。少なくとも、デートと言う雰囲気ではない。


少し歩くと、彼は仕方なく後ろをついて行く三人を振り返って、頼まれてもいないのに話し始めた。もしかすると、彼なりに不穏さを感じ取って、この雰囲気をどうにかしようと試みたのかもしれない。いやそんなことないか。


「今日行く店、いま良いキャンペーンやってるんだよね」


そう言いながら、田中は意味深な笑みを浮かべた。三人分の不信の視線を受けて、彼は続けて口を開く。


「カップルでお越しの方は5%値引き」


「なんだ、5%なのか」


小声でそう呟いたのは、飲み仲間のひとり、森香奈枝である。彼女は一見静かなようでいて、笑顔で悪態をついてみたり、さらりと毒を吐いてみたりと個性的な一面が垣間見える。その実、案外自分が攻められると弱かったりと、趣の深い性格をしている。しかし森さん、反応すべきはそこではない。


「え、馬鹿、森さん5%だよ? ひとり3000円飲んだら150円引きだよ?!」


「……で、そのカップルって?」


熱弁する田中に、梨穂子がどすを利かせた声で尋ねる。といっても、彼女の声はふわりと高いソプラノである。詰問の声も特別怖くもなかったが、その目を細めた表情と相まって、田中をいくらか追い詰めたらしかった。


彼の視線が泳いで、僕を捉えた。そこで僕は、すかさず目をそらす。


「……いやまぁそれはね、じきにわかるよ。ほらもうすぐ着くから」


僕の知る限り、この中にカップルはいない。少なくとも、僕は誰ともお付き合いしていない。四対の視線が互いを捉え、四人の間に不穏な空気が流れる。


「ほら着いた」


先頭を行く田中がどこか救われたような声で、目の前の居酒屋を指さした。駅から伸びる地下道を5分ほど歩いただろうか、8番出口と書かれた階段を上がってすぐのところにその店はあった。


田中が、ここ読んでみてよ、と指さす立て看板に他の三人が顔を寄せる。ブラックボードに色とりどりのマーカーペンで、可愛らしいデザインセンスをもっておすすめメニューが並べられている。そしてその下には、田中の言うキャンペーンの説明が書かれていた。


「カップルでお越しの方は5%値引き!」


僕が読み上げた声に続いて、梨穂子がその下に記された、注意書きのわりにサイズの大きな文言を読み上げる。


「※カップルとは、互いを愛し合う二人一組のお客様を指します。性別は問いません」


「ええと……?」

「お前まさか」

「田中君さすがだね」


香奈枝だけはコロコロとした笑い声をあげている。田中もここぞとばかりに声を上げる。


「でしょ! 愛の伝道師を目指すものとしては捨て置けなくてね」



*  *  *



「かんぱ~い!」


4つのビールジョッキがぶつかって、細やかな泡が豊かに踊る。


「ミツネ君か田中君とくっ付けられるのかと思って心配したよ。特に田中君の彼女役だったらどうしようかと思った」

「うわ失礼」


香奈枝の吐いた毒に梨穂子が突っ込む。


「なんてこと言うんだ。僕たちだって傷つくんだぞ」


僕の嘆きに続いて、田中が声を震わせる


「愛の伝道師は……こんなことでは屈しない……」


女性陣ふたりは一口目から気分がよさそうである。それに対して我々男性陣には、すでに若干の疲労感が漂う。


それというのも、香奈枝が察した通り、田中はこの四人を、男同士のカップルと女同士のカップルに分けることを企んでいた。そして、その目論見は成功した。反対したのが僕ひとりだったからである。


このキャンペーンは言葉通り受け取れば、愛に満ちた素晴らしいものである。そこで我々が行おうとしているのは店側にあるべき覚悟を試し、また我々自身の糧ともできる実験である。学問の府にある者が、社会を批判的に見ることを、そして自身の経験を深めることを恐れてどうするか。大真面目な顔でそんな風に田中が説得するので、僕もそういうものかと折れた。いや、断じて納得したわけではないのだが。というか、なに言ってんだこいつ。


そして当然のごとく、カップル二組として入店した僕らは「互いを愛し合っている」ことの証明を求められたのである。当たり前だ。そうでないと偶数人での来店はすべて割引の対象になってしまう。


しかし、女性ふたりは楽しそうに抱き合うことで難なくクリア。「わーい、ノノちゃーん」、とはノノちゃんこと野々宮梨穂子に対する香奈枝の言である。


大学で経済学に触れたことで、世の中をモノとカネの通流としか見られないという悲しい感性を身に着けた僕は、このキャンペーンは結局ただの新規客を呼び込みたいが故の割引なのであって、カップルがどうとか関係ないのではないかと感じたものだ。


しかし、その考えはすぐに裏切られる。


店員が薄ら笑いを浮かべながら、僕と田中に、深い愛のを要求したのである。


一瞬でも、この黒髪を短く刈り上げた爽やかイケメンな居酒屋店員を神の見えざる手の傀儡くぐつであるなどと考えた自分をぶん殴りたい。違う。彼らは妙齢の女性たちがキャッキャウフフするのを見たいだけだ。


暖簾をくぐったレジの前。酔った若者たちの喧騒のなか、後ろを行き交う店員を避けながら、笑顔で見守る爽やかイケメンに前髪だけ異様な早さで伸びる呪いをかけながら、闇のゲーム、通称ポッキーゲームを田中と執り行うことで、僕らは「カップル」であると何とか認めてもらったのだった。


この瞬間ほど、自分が情けなかったときはない。不埒な実験に及んだばかりか、その結果として愛とは何か見失いかけたのである。なお、ポッキーをへし折ったのは田中である。


「そういえば、田中はまだ、その愛の伝道師を目指してるの? 前はあんなにコロコロ夢変わってたのに」


場も随分盛り上がった頃、思い出したように梨穂子が尋ねた。僕と香奈枝も田中の方に視線を向ける。田中は常に高邁な志を胸に夢を追っているのだが、なにぶん会う度に将来の夢が変わっていて、もう誰も彼の夢を真に受けないまでになっていた。


「コロコロとか言わないでよ。もうこれは変わらないから。目指すべきは愛の伝道師だってわかったのさ」


彼の言うことはよく変わるけれど、見ている方向はいつも一貫している。だからきっと悩んでいる中で具体的にやりたいことが変わっていくのだと思う。だが、それにしたって、「俺、愛の伝道師になるよ」と最初に言われた時には何事かと驚いたものである。


「なんで愛の伝道師なの?」


というか、そもそも愛の伝道師とは何なのか。その、当然誰もが持っているはずの疑問は、しかしその野暮さゆえに誰も尋ねない。僕も決して聞かない。聞いてはやらないと決めている。


僕らのそんな想いも知らないで、田中は芝居がかった様子で、手振りをつけて語り始めた。小恥ずかしいのを我慢して語るときの彼の癖である。


「神様が世界を創ったとき、そこには愛があったはずなんだよ。老若男女を問わない愛が。俺はそれを感じたいんだ。そして、渇いた人々に、その愛を与えたいんだよ」


一瞬の静寂を置いて、香奈枝が笑って言った。


「何様のつもりなのよ」


また今回も様々な疑問があってしかるべきだが、まずは香奈枝の質問から片付けよう。そう考え、僕と梨穂子は田中の答えを待つ。


尋ねられた田中は、しばし考え込んだ。そして、ゆっくりと顔を上げると、せつなげな瞳で語った。


「いまの俺は何者でもないよ。夏はパンティ、冬はパンティラインを求めて彷徨うしがない大学生さ」


女性陣は少し身じろぎし、僕は静かに、ジョッキを空けた。


そう、田中は変態である。

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