君のためのユートピア

新田カケル

第1話 俺たちは今日、ダブルデートをします

知恵とは書物を読むことによってではなく、人々を読むことによって得られるのだ。

という言葉があるらしい。


書物から得られる知識は、知恵が無ければ活かせない。その知恵というのは、書物の中ではなくて、そこに生きる人々からこそ学ぶことが出来る。

こんなところだろうか。わからなくはない。


しかし、書物を愛する気持ちをわずかばかりでも持っている僕としては、読書を人間観察の下位におかれるのはどうも我慢がならない。


人間観察なんて、個性をアピールしたい芸能人が、一昔前によく趣味として挙げていたようなものじゃないか。人間観察が趣味、というだけで人とは少し変わった面白みのある人物であると、少々のあざとさと共にアピールできる。結果、人間観察を趣味と宣う人のなんと多かったことか。まぁ別に、そういう人は嫌いではないけれども。


対して読書はどうだ。趣味が思いつかないときに取り敢えず言っておくものの代名詞。本当に読書が趣味な人間はどうすれば良いんだ。この現状は間違っている。大昔の偉い人には申し訳ないが、僕なぞはそう思うのである。


ここでもうひとつ、汝自身を知れ、という言葉がある。


自分を理解することは、すなわち他者を理解することにもつながるというわけだ。これなら僕も共感できる。いやはや少し考えれば、自分自身のことなんてわからないことだらけである。


どうして僕は卵焼きが好きなのか。どうして大学になんて進んだのか。どうして僕はこんな益体もないことをうだうだ考えるような人間に育ったのか。そして、どうして僕は寒風吹き荒ぶ雪道を、こうして当て所なく彷徨い歩いているのか。


行く当てがないというのは言い過ぎた。ただ、目的地がまだ決まっていないというだけだ。もっと言えば、待ち合わせの相手が、時間の連絡だけ寄越して消息を絶っただけのことだ。加えて、仕方ないからとりあえず駅に向かうという判断ミスを、僕が犯したというだけのことだ。


北国の春は遅い。もう4月になろうかというのに寒波が押し寄せ、今日は朝から湿った雪が降り続いている。眼鏡に付いてはすぐ解ける雪を煩わしく思いながら、ポケットからスマホを取り出し、SNSアプリを立ち上げて連絡がないか確かめる。


待ち合わせの相手というのは2か月に1度のペースで開かれている、定例の飲み会のメンバーたちで、彼らは皆サークルで知り合った仲間である。


今日は、そのうちのひとりが行きたい店があるというので皆に招集をかけたのだが、当の本人が店の場所も伝えないままにバイトに行ってしまった。それ以降、追加の連絡はない。


彼の最後の言葉は、以下のようなものである。


――バイト終わったら俺も行くから、なんなら先に入っといて!


どこにだよ。雪道で独りごちる。


そのとき、スマホの画面で解けた雪がタッチスクリーンを誤作動させ、ネットニュースを表示させた。

また芸能人がSNSでなにか言って賛否両論浴びている。好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。それで良いのにどうしてこんなことになるのだろう。どうして一々理屈をつけなければならないのだろう。


天候と足元の悪さが鬱陶しくて、このニュースのトップに顔写真まで貼られた芸能人や、彼に批判を浴びせる顔の見えない人々まで小憎たらしい存在に思えてくる。


ピンポン


そのとき画面に表示された通知は、今日の集合場所を告げるものではなかった。つまり期待していたものではなかったのだけれど、ある意味期待していた以上のものだった。

ズボンで画面を拭い、届いたばかりのメッセージを表示する。


――私とりあえず駅に来ちゃった。ミツどこにいる?


連絡は、今日の定例会の参加者の一人からである。僕のことをミツと呼ぶのは彼女くらいのものだ。


いつからか、名前を呼び捨てでミツネと呼ばれるようになり、気づいたらミツと渾名されていた。理由は何か呼びやすいからだそうで、初めは気恥ずかしかったが、いまは妙にしっくり来ている。


――駅に向かってたところ。すぐ行く


そう返信して、僕は駅への歩みを速めた。どうせ駅だろうと当たりをつけていた甲斐があったというものだ。



*  *  *



しかし、どうも待ち合わせというやつは苦手だ。


先に相手を見つけたときは、どんな顔をして近づけば良いのかわからない。相手に先に見つかるのは、もっと御免こうむりたい。自分の無防備な姿を見られるから。


周囲の人々がソワソワしているのもいけない。待ち合わせというのは、大抵わかりやすいところで行われるもので、そういう場所には同じく待ち合わせをする人々が集まっている。そして皆一様にソワついている。


黙ってスマホの画面を向きながら、視線だけ周囲を彷徨わせて、親しい者や愛する者、一緒にいたい誰かを探している。そんな人々に囲まれていると、そのうえ自分が待つ相手がいつ何時どこから現れるかわからないとなると、僕まで浮足立ってしまう。


理想を言えば、こちらが先に気づいた上で、先方の索敵範囲を回避しながら背後に回り込み、圧倒的に優位な状況で声をかけたいのだ。そうでなければ、何かしら不審な挙動をする羽目になる。具体的には、笑顔がぎこちなくなったり、適切な挨拶が思い浮かばなくて意味不明な擬音を棒読みで発したりすることになる。


そんなことを考えながら、駅の構内に入る。すると人だかりの中、しばしば待ち合わせの目印にされる謎のオブジェの近くに立って、こちらに向かって手を振る女性が視界に入った。しまった。一瞬で見つかった。


スーツにベージュのロングコートをひっかけて、彼女は小走りで向かってくる。軽くパーマのかかった、肩まで伸びた艶のある黒髪が一歩の度に揺れている。


慌てて一言目の挨拶を思案しながら、自分のいまの表情をセルフイメージしながら、彼女の方に歩き出す。すると、人好きのする笑顔で、彼女はまた手を振った。


まつげが長く整った顔立ちと、やせ過ぎず少しふっくらとした体形、そしてあの裏表の無さそうな笑顔である。モテそうだなと思う。事実モテているのだとも思う。そんな野々宮梨穂子は、僕のかけがえのない飲み仲間である。


「わ~、ミツ~! 会えてよかったよ!」

「ワー、野々宮ー、バイト終わり?」


頭の回転は悪くない方だと思うのだが、今回も脳は会敵までに自然な挙動を導き出せなかった。発した言葉はまだ良い。しかし顔面にはきっと表情が無かった。


梨穂子を見ると、どこかむくれた表情をしている。きっと僕の挨拶が気に食わなかったのだろう。何せワーである。

彼女はいつもこうした愛嬌に満ちていて、本人の飾らない性格と相まって心地よい雰囲気を醸していた。そんな梨穂子が相手でなければ、きっと僕だってもう少し見栄えの良い挨拶を心掛けていた。


「棒読みだなあ。そうだよ、近くでバイトだったから、とりあえず駅に来てみたんだけどね、ミツが近くにいてくれてよかった」


続けて、梨穂子は今日の主催者に対する正当な抗議を述べた。


「田中はまだバイト終わんないの? あいつ適当だよね。いつものことだけど」


そう言って笑う。僕も釣られて笑う。


田中のいい加減さには慣れている。そして、そんな友人の人となりを話題にして待ち合わせの時間を潰すのも、いつものことだった。今日も今日とてそうしながら、他の二人に言っとくね、と言って梨穂子は僕たちが駅で待っていることを、手早く連絡してくれた。


軽く周りを見渡して休むところを探すが、時間も時間である。どこも人でいっぱいだ。仕方なく、近くの柱の側に寄って世間話に興じる。幸いなことに、梨穂子からは無尽蔵に話題が湧いてくるから、話に困るということはない。


「そうだ聞いてよ。今日バイト先でさー」


そうやって唐突にバイトの愚痴が始まるのも、梨穂子と会うといつものことだった。上司がどうだとか、同期がどうだとか。だったらバイトなんてやめれば良いのにとも思うけれど、社会とか人とかいうものは、そんなに単純でもないのだろう。


それに、僕に向かって発散される不満と同じくらいの喜びも、それを敢えて人には――僕には言わないだけで、そこにはあるのだろうと思う。そうあって欲しいとも思う。


なにより、彼女は、愚痴でさえも笑顔で語る。それを聞いているのは、決して面倒などではなくて、むしろ心地良いものですらある。


そのうちに、またひとり合流して、最後に田中も現れた。

そして、大して急ぐそぶりも見せずにやって来た田中が、謝罪もそこそこに宣った言葉は、その場にいた三人を凍り付かせたのだった。


「俺たちは今日、ダブルデートをします」

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