受け流せたサイン

ギア

受け流せたサイン

 高校の昼休みが始まると同時に、僕は久しぶりに午後の授業を1時間だけサボって買い物と読書を楽しむことにした。

 教室を出て昼休みの準備にごった返す校内を抜けて、裏門から外に出る。最寄りの地下鉄の駅に向かうにはそっちが近道だからだ。


 学食へ向かう生徒や教室に留まる生徒とは異なる動きをする僕を、しかし不審に思う生徒はいなかった。

 学校に常時数百人の生徒がいようと、各々の生活空間で認識するのは決まりきった十数人かそこらの友人たちだけ。それ以外は互いに見慣れた背景に等しい。


 梅雨もすっかり明けて、強い日差しは素肌に痛みを感じるほどだ。足早に地下鉄の入り口を目指しながら、熱気から気を逸らせようと午後の予定をおさらいしてみた。


 まず学校の最寄駅から地下鉄に乗り、3駅先の古本屋街へと向かう。駅から5分ほど歩いたところにある大型書店で漫画と小説の新刊を合わせて3冊購入する。

 買い終えたら本屋の裏手にある地下1階の喫茶店で読書にふける。5限目はさぼって、6限目から学校に戻る。よし。


 目的の駅の改札をくぐり、地上へと出る。顔に吹き付ける熱気は、地下鉄車内の冷房で冷やされた体に一瞬だけ心地よい暖かさを提供してくれたが、すぐに真夏が蘇った。


 本屋では手早く目当ての漫画と小説を見つけ、急いで会計を済ませると時間を節約するためにお釣りをポケットにねじこんでまた外へ出た。本屋の寒さに体を冷やされる前に移動したかったからだ。

 そして今度は外の暑さに汗だくになる前に裏の喫茶店へと急ぐ。


 ビルの地下1階にある喫茶店の入り口は、味もそっけもないガラス戸で、店名はすでにかすれて読めない。

 外の明るさと対照的に暗い室内はそのガラス戸を鏡に変え、すぐ内側の下り階段もその手前の壁に貼られた簡素なメニューも隠していた。

 あらかじめここに店があると知らなければまず見つけられない、そんな隠れ家的な喫茶店だ。僕が見つけたのもほとんど偶然だった。

 店内はいつも適度にいてる上にまず同じ学校の生徒に出会わない。そんなこの店は授業をサボって読書を楽しむのに絶好のスポットだった。


 店内に入ると、手に買ったばかりの本の心地よい重みを感じつつ、奥へと向かった。そのまま2人がけのテーブルのソファ側に腰を下ろす。

 喫茶店はほとんどエアコンが効いていない。しかしそれにも関わらず、その地下という立地条件からいつもほどよい気温に保たれている。冬も妙な熱気に悩まされることもなく、飲み物の温かさだけで十分に心地よい時間が過ごせる。


 まだ平日の午後早い時間とあって、他には2人しか客がいなかった。

 1人は大学生とおぼしき女性で、薄手の赤いセーターを羽織り、飲み物と一緒に分厚い本と薄いノートを広げている。

 もう1人は、黒いスーツをきっちり着込んだサラリーマンだ。氷で満ちたアイスコーヒーを前に、そのコップと同じくらい汗をかいている。スーツと同じ色をした黒いケースをひざに乗せ、それを大事そうに抱えていた。

 ちなみに僕の服装は白い半そでのワイシャツに黒いスラックス。ようするに学生服だ。荷物はさっき購入した本が全て。もう一度、スーツ姿の男性を見やる。うん。サラリーマンは大変だな。


 1番安いアイスコーヒーを頼むと、さっそく買ってきた漫画を引っ張り出してビニールを破いた。

 そのまま1冊目を10分程度で読み終える。

 友人によく言われるが、僕はかなり速読な部類に入るらしい。もっとちゃんと楽しまないとばちが当たるぞ、などとからかい半分に叱られる。

 少なくともコストパフォーマンスは悪いよなあ、などと思いつつ2冊目の漫画を紙袋から引っ張り出そうとしたとき、視界の端に何かがちらついた。


 顔を上げると、それは、先ほどのサラリーマンらしき男性の奇妙な動作だった。


 彼はなみなみとがれたアイスコーヒーのグラスを前に、しきりに右手で鼻と耳に触れていた。最初、汗を拭いているのかと思ったがどうやら違うようだ。2人ほど客の入れ替わった店内を見回しながら、落ち着き無くそのしぐさを続けている。

 そのしぐさだが、なんとなく一定のパターンを繰り返しているような気がしてきた。


 まず鼻の頭を軽くもむように触れる。次に耳たぶを2回つまんでから、最後に額を軽く撫でる。そして店内を見渡す。ちょっと間が空いたりもするが、大体これの繰り返しだ。

 なんか野球のサインみたいだな、と思いつつ、なんとなくその仕草を真似してみた。鼻の頭、耳、耳、額の順に軽く触れてみる。ちょっとかゆいんだよね、という風にさりげなく2回ほどそれを繰り返した。


 そのしぐさが例の男性の目に留まった。次の瞬間、男性はそれまで続けていた動作をぴたりと止めた。


 こっちをまっすぐ見ると、短い呼吸を何度か繰り返した。そして安堵のため息をついた。まるで何かから解放されたかのように。

 不自然な笑みを僕に向けた彼は、ひざのケースを抱えて、ことさらゆっくりと席から立ち上がった。


 僕はそのとき初めて気がついた。

 彼の目の前においてあるアイスコーヒーは僕が最初に見てからまったく減っていないこと。そして、いくらスーツを着ているとはいえ、涼しい店内にずっといるにしてあきらかに異常な量の汗をその顔に浮かべていたこと。


 急いで店を出ようかとも考えたが、狭い店内の一番奥に座ったことがあだになった。僕は彼が近づいて来るのをただ見ているしかできなかった。

 何か気に障ることをしてしまったのか、謝ったほうがいいのか、など必死に考えつつも何も言えずにいると、近づいてきた彼は例の黒いケースを僕の向かいの席に置いた。

 2人がけの席のそこは当然空いていた。


 彼は明らかにほっとした様子で足早にレジへと向かうと、支払いする時間も惜しいとばかりに慌しく店を出て行ってしまった。

 我に返ると、店内のざわめきが戻って来た。他の客たちはこの一連の出来事にまったく気づいた様子もなく、スマホの画面や本などに没頭していた。


 僕は対面の椅子を陣取っている黒いケースを見た。それはいわゆるアタッシェケースと呼ばれるものに見えた。

 目の前で起きた一連の出来事をあらためて1つ1つ思い返す。

 そしてなんとなく事の次第がつかめた気がした。

 もし自分の想像が当たっているとすれば、おそらく午後の授業は2時間ともサボることになりそうだ。僕は誰にともなく頷くと、もう1杯アイスコーヒーを注文することにした。


 あれからもうすぐ40分が経とうとしていた。

 今、店内にいるのは、20分ほど前からいる女子高生2人組、それ以外はついさっき来たばかりの茶髪の若い男性だけだ。女子高生は会話に興じ、Tシャツに短パンのその男性はずっとスマホを見ている。

 僕は店内の時計を確認し、そろそろかな、と行動に移ることにした。鼻、耳、耳、額と触れてから、ちょっと間を置き、その間に軽く店内へと目を走らせる。

 そう。あれから僕はほぼ10分おきに先ほどの男性と同じ動作を繰り返していた。ただ先ほどの彼ほどひっきりなしにならないように、かつ新たな客が入店したときだけだ。


 可能性があるとしたらさっき来たばかりのあの若い男性だよなあ、という僕の予想は当たった。彼はスマホから目を離さないまま、鼻をなで、耳たぶを軽く2回つまみ、額を軽くこすった。まるで裏を感じさせない自然な動作で、しかし見間違いようもないほどはっきりと。


 意外と早く済んだな、

 僕は片手に本屋の紙袋と伝票を持ち立ち上がると、例の黒いケースをもう片手につかんだ。そしてレジへと向かいながら、歩く速度を変えずに黒いアタッシェケースを先ほどの男の向かいの席にそっと置いた。

 男性は顔を上げることもなく、ダルそうにスマホの画面を眺めていた。


 階段を上がり外に出る。午後に入ってさらに強さ増した熱気と日差しの下、僕は人込みを抜けながら地下鉄の入口へと歩を進めていた。

 あのケースの中身が何だったのかは分からない。違法なものなのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いずれにせよ、本来受け取るべき人に渡せたはずだ。

 いや、もちろんあの若い男性が僕と同じで無駄に好奇心が豊富で注意力が高く、他の人よりちょっとトラブルに巻き込まれやすい人間だったという可能性は無きにしも非ずだ。

 まあ、仮にそうだった場合、あとは任せたとしか言えない。

 当初の予定どおり6限目の授業には出席できそうだな、などと考えつつ、僕は地下鉄に乗り込んだ。

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