夏に降る雪

 その日は雪が降った。八月の真夏のある晩に、雪が降った。東北地方のごく一部の地域に、秋田や青森の一部地域にではあるが、真夏に雪が降ったのだ。夏の降雪は観測史上初めてであり、人々は季節はずれの“在り得ない現象”に歓喜した。そして大雪でもあった。その日とは、八月十七日。即ち、歓声が鳴り止まないこの大会決勝の前夜の出来事であった。



『残り59秒で、明島川のタイムアウトか。二十点以上あった差が今やこれだもんな。何だ、この躍動感。懐かしい感じだぜ』

『そういや、石上いしがみも一応はバスケ部だっけか。まぁ野球は時間はあんまり関係ねーもんな。一点は重いけど』

『そう、バスケは時間に左右される。残り時間が選手の負担になる時もある。とくにこの終盤じゃあな。選手を休ませる為にも絶好のタイミングだ』

『俺はよく分かんねーけど、それはお互いなんじゃねーの?』

『そう、お互い。でもタイムアウトはその名の通り、時間を止める。一方通行の流れを止めるには持って来いなんだよ。そして終盤の監督の言葉が、励みになったりするからなぁ』

『そうなん? まぁ、俺にはやっぱスポーツは分かんねーや。あ、でもこれはあいつ等にとっては、朗報なんじゃね? ほれ見ろ。見に行ってるツレからのメール』

『……はは、マジかよ。すげぇな、マジでよ』

『こっちに行っとけば良かったか? さて、あいつらはそれをこの試合中に知れるのか? 叫んで知らせるか?』

『やめとけ、間中まなか。恐らく、あのコート上の人間は、今誰よりも集中している』



「――64-70か。最早言うことは無い。お前達は最善を尽くしている。とくに“涼”。正直、驚いているよ……ここまでと、な。だが、同時に向こうの十番にも驚いている。お前達二人は将来良いライバルになるだろうよ。しかし、それはそれで、これはこれ。私達は勝たねばならん。残り一分を切った。いいか、タイムアウトはもう取らない。もう試合は止めない。それは向こうも一緒だろう。策は無い、故に言う事も無い。だから後は休め。そして全てをぶつけて来い。ここまで来たら精神力がモノを言うようになる」


「ふぅー。はい、行って来ます、星野監督」

「ってかさぁ、監督の子供、本当に監督の子供かよ! 監督の現役の頃より凄いんだけど」

「なぁ、リバウンド取り過ぎ。実際当たると、本当違うわ。監督が仲良かったら、今頃俺達チームメイトだったのかもしれねぇのに」

「そりゃあ、心強いな」

「……涼がいんだろ。それだけで十分だ」

「あら、祐一が珍しく涼を認めている。今日は歴史的な日かな」

「黙れ、敦之」

「そして涼が照れている。何だこれ気持ち悪い」

「だから、黙れよ敦之」


「仲が良いな、お前達は。いいか? 噛みしめてこいよ、最後の夏を!」


「――星野監督、少しいいですか」。その時、選手達と談笑している明島川のマネージャーが星野全一を呼び出した。マネージャーはどこか、少しバツの悪そうな顔をしていた。

「どうした、霧崎きりさき

「実は、いま会場にいる部員から連絡があって」

「連絡って、携帯は持ち込み禁止だろう。彼氏か?」

「す、すみません。でもその……――」

「――それは、本当か」

「はい、観客もざわついています」

「とにかく、携帯は暫く没収する。それから、あいつらには言うな。集中力を途切れさせたくはない」

「はい、すみませんでした。試合に、関係は……無いですよね」

「こちらにはないよ。でも向こうには分からない」


「何かありました? 監督」

「何も無い。いいか、何があっても私の言葉を忘れるなよ。覚えているか?」

『はい! 前だけを見ろと! あと東北魂と根性!』

「そうだ。その心決して忘れるな! 雪辱の果ての勝利を刻め、東北の桜は石を割って咲く。さぁ、勝って喝采を浴びて帰ろう!」

『はいっ!』



 残り五十九秒で再開する試合、最後の始まりの合図が鳴る。攻めるは点差を広げようとする、秋田明島川工業高校。そのチームのエースである秋永涼は試合再開すぐにフルスロットルで攻めた。絶対に死守せんとする京都洛連高校のオールコートディフェンスの網を掻い潜り、彼はそれを突破した。最後の防衛ラインでもある山岸洋介の完璧となったディフェンスをも突破して。そして――秋永は飛ぶ。そのフリースローラインから、彼は跳躍し、その手をリングに叩き込んだ。所謂、である。


『マジかよ』

『まじだよ……生で初めてみかも』

『やりやがった、あのレーンアップを、高校生がマジで』

『すげぇ! 化け物だ! 日本人がマジでやりやがった!』


 会場は大いに沸いた。この日この瞬間、歴史は塗り替えられた。日本人が決して不可能と言われていた、フリースローラインからのダンクシュート。彼は不可能を“いま”成し遂げてしまったのである。一気に追い上げムードであった洛連側は意気消沈――なはずがなかった。

 不撓不屈の魂は“今際の際”にこそ、その輝きを魅せる。抱く思いは一貫して勇猛果敢なり。そして、背負うは最速。間髪入れず、最速の申し子たちは果敢に攻めた。何があっても決して後には退かず、進むは前のみ。そう叩き込まれ、そうやって生きてきたのだから。

 一瞬の主役となったのは、鷹峰壮たかみねそう。洛連高校の五番を担う副キャプテンである。もし、山岸洋介と言う存在がいなければこのチームのエースは間違いなく鷹峰である。そしてそのポテンシャルはゾーンに入った山岸洋介に引けをとらない。


(ここで、俺を選ぶあたりがさすがだよ、お前は。俺も多分よ、皆と一緒でお前がいなかったらエースをしていたぜ。そう、自称だよ。本当……お前さえいなけりゃあなぁ、でもお前がいてくれたから今の俺がいる。バスケットを、雨を、海を好きになった俺がいる。でもよ、偶にはいいだろう? 俺が真にエースなってもいい瞬間が来ても、会場を巻き込む瞬間が来ても、俺がお前の横に立つ瞬間が来ても……)


 そのダンクは今大会中、誰がどう見ても圧巻に値するダンクシュートであった。鷹峰選手の長く綺麗でしなやかな腕からなるそれは、その力強い足腰の使い方は、何よりそのタイミングでのボールを見ない後ろから成るバックダンクシュートは、正に物語の主人公だ。


(ああ、横じゃねぇ。俺はお前の先を行きたかったんだ。とうの昔に追い越されちまったけど、俺はお前の先に行きたかった。羨望の眼差しで俺を見ていたお前を、俺は“一生”って、そう思っちまってんだ。今でもそう思っている。なぁ、俺は秋永涼を嫉妬しているよ。お前達はもう随分と前に行ってしまったっていうのによ。何だろうな、この感覚。きっと生まれて初めて“悔しい”って感じているのかもしれない。勝っちゃん以上に悔しいって、お前達によ。俺がそう思うのはおかしい事かよ、洋介よ? 並ばせろよなぁ、なぁ! 偶には昔みたいに先を行かせろよ!)



『洛連高校の五番、鷹峰壮。彼は入っていますか?』

『入っていなけりゃ、あんなシュートはできん』

『彼もまた、可能性が?』

『体格、身体能力からみても、秋永涼や山岸洋介よりも上だろうな。真に彼がバスケットを好きになればだが』

『何なんですかね、彼等は。山岡監督が現役の時も、あんな選手達はいましたか。こんな試合は見た事がないです。何かこう、心がドキドキします』

『それを私達は現役時代に【躍動】と言っていたよ。私達もゾーンに入る選手は何度か見た事があるし、私も星野も経験はしている。驚くべきは試合中にに感化されて変わっていく周囲、そしてその元凶』

『元凶、ですか』

『同時代に生きる彼等にとっては元凶だよ、あれは。ああいう存在は危険が過ぎる。だが、ああいった存在を評価するのは、何時だって後世でもある』

『なんか歴史の話になってませんか?』

『歴史の話をしているのだよ。恐らく私達は今、歴史の転換期を目の当たりにしている。その時代の中心が集まり次の時代を紡ごうとしている瞬間を』



 入れても入れ返されられ、バスケットボールの真髄はこの状況にきても変わる事はない。そして時間の終わりが近づく度に負けている方が不利になる。これもバスケットの真髄だ。強い方が勝ち、気力を出した方が勝つ。その曖昧な精神論や根性論に対してものをいうのがバスケットでもある。とくにこの終盤に於いて、切迫した状況ならば尚更である。

 残り四十秒を切った頃、鷹峰壮のダンクシュートを入れられて、すぐに明島川は容赦なく攻めた。点差は変わらずの六点差。電光掲示板の両校のスコアは66-72。そして繰り返される先程と同様の、秋永涼による一点突破。これを止めなければ、いよいよ洛連高校に逆転という未来は消えて果ててしまうだろう。しかし、頼みの綱の山岸洋介のディフェンスはここにきて機能していなかった。理由は彼がゾーンに入ってしまったが為のオフェンス一辺倒による、思考の変換。いいや、元来彼はオフェンスを得意としているのだ。出来るのが『ディフェンス』だと思い込んでいたという事実が正しい。唯の馬鹿である。


 しかし、その抜かれた馬鹿をカバーしたのが馬鹿の中のでもあった。

「今日一番の称号はわたさねぇ! “いっちゃん速い”のはこの俺だから! 上代翔様の推参だ、このあほ共が!」


 独走する秋永に追い付き、ブロックしたのは上代翔。最速を自負する男である。なんと彼はゾーン状態の秋永涼に追い付き、そして“止めた”のだ。すかさず戻る皆を尻目に、彼はまるで一人でシャトルランでもしているかのようにボールを持って自陣に戻った。


『いけよ、翔ッ! ここで決めなきゃ、お前じゃないだろう! わたしと結婚したいんだろうがよー!』

 ここで、観客席から声援が響く。ふと上を見ると、同級生で同じクラスの沙村沙也さむらさやの姿が見えた。横には望んでしょうがなかった、お袋と弟と、そして親父の姿。


(――沙村さむら! なんでお前がって、言われなくても分かってるよ! 必ず決めてやる! お袋ものぼるも親父もいるんだ! 俺を見ているんだ! 俺の、こんな俺の唯一の自慢のバスケットを見てくれているんだ! 勝たなきゃ、いま勝たなきゃよぉ、いつ勝つって言うんだよ上代翔!)


「俺は、泉先生にもう負けないって、あの時に言ったんだよ!」


 アリウープはもう散々決めた。というか、俺にはそれしかできねぇ。3Pもできねぇ。レイアップも洋介に次いで入らないしよ。だから、だ。これは苦渋の選択だ。お前に俺の活躍の場を譲るよ。それに残りの時間、どう考えても俺よりお前だよ。っていうか、お前はやっぱり其処にいるんだよな。左斜め四十五度、お前の黄金の位置ですか。どうよ、俺の渾身の“パス”はよ。実は案外、というか最初はガード希望だったんだぜ俺はよ。なぁ、あとは任せたぜあきら


「撃ち抜け! 明っ!」

「マジでか。抜かせよアホ! “必中”に決まってんだろうが!」



『――これは!』

『残り三十秒を切ろうとしている!』

『69-72ですよ! 桐村さん!』

『見りゃあ分かる!』

『ちょうちょう超範囲内ですよ! どうするんですか!』

『ちょっと、落ち着け矢部! 古藤先生ことうせんせい、お酒ありますか!』

『あ、ありますよ! トイレ行きたい!』

『あと三十秒です! 我慢しましょう!』

『ああ――! 明島川が、秋永涼が……』



 三点差となった洛連高校。正に執念の猛追である。だがしかし、同時に盛り上がりをピークにさせていた会場を黙らせ、そしてまた熱狂させたのは言わずもがな、日本のエースと今日この日に認識させた『秋永涼』。彼は、村川明の劇的な3Pシュートの後、同じ事を。それも、ここにきてオフェンスの時間にわざと無駄を入れ込んでの、3Pシュートであった。嫌がらせも何でもない、これは歴とした戦術である。つまり、止めを刺したのである。

 追い上げムードの観客も、さすがにこれには声を失った。非情なる現実、無情の未来。それを容赦なく明島川のエースはこの会場に差し出した。これには、さすがに洛連側も従うしかなかった。残り二十秒と少しで、また“繰り返す六点差”。心を折るには申し分ないプレーであった。すかさず“計算”に入る洛連選手だが、どう足掻いても“秒数”が足りなかった。そもそもと言う時間はバスケットの攻めの時間に許されているより少ない。単純に、こちらに“それ”を攻め削る時間はない。しかも、こちらは少なくともあとやらないといけない。あの、秋永涼を相手に。

 つまり向こうが、もう攻めずにその時間を一杯に使われたら、それでこちらは終わる。それを三回も繰り変えなさいといけない。耐えないといけない。それこそ三秒くらいで奪い返すしか方法は無い。勿論こちらのオフェンスは一秒たりとも余裕は用意されていない。“詰み”が背後に迫った瞬間だ。



「“時間調整”……ですか。制限時間があるスポーツに於いて、指揮官がよくやる手法です」

「俺達の、走るバスケットを読んで計算していたという事ですか、悠花ゆうか先生」

「ええ。で、こちらの変えの選手はもういない。島君も、玉木君も、滝沢君も、横井君も、もう満身創痍です。こちらの戦力を分析し、対策し、それを実行する。私が大嫌いな人間ですね、星野全一という男は。それをこの終盤に出してくるのも、性格が悪すぎます。私、嫌いです」

「それでも有名な東北出身の内閣総理大臣の子孫なんですよね。その血を、翔太しょうたも」

中島なかじま君は歴史が本当に好きなのですね。では、今の状況は何にあたりますか」

「悠花先生も数学の先生にしては、文学的ですよね。比喩表現が好きですし。俺は……“もし”が好きです。歴史にもしが許されるならばと、何時も思います。それに恋い焦がれます」

「病的な歴史好きね君は。じゃあ許します。“もし”を。そうしたら君は何になるの?」

「俺は――烈風れっぷうになりたい。烈風になってミッドウェー海戦に勝利を」

「中島君は本当に男の子なんだね。女の子の私には分からないわ。でも、それはきっと在り得ない事なのでしょう? なら行ってきなさい、君はきっとその“烈風”よ」

「はいっ! 行って参ります!」

「洋君に時間を止めるよう指示を出します。任せたわよ、歴史の“もしあの時”を私も信じます」



 残り二十秒を切った頃、山岸洋介はベンチからの指示の下、ボールを。理由は最早体力の底の限界を迎えていた上代翔と、中島敦なかじまあつしの交代の為である。無論、ボールは洛連から出したので、明島川ボールになる。だがこれは愚策ではない。上代翔はもう走れなかった。だから中島に代わった。それが大きい。中島敦、彼はキャプテンだ。その精神的支柱は終盤に於いて真価を発揮する。そして彼はエース達のキャプテンでもあるのだ。

 上代翔はここで試合から勇退した。正に死力を尽くした最後であった。観客席から彼の身内からの微笑ましい労いの言葉が贈られた。それを見て涙した者も多いだろう。

 時同じくして、攻撃の要である、山岸洋介はディフェンスを放棄した。残り二十秒の中島ゴリポンの出現。彼はそれをどういう事か理解し、自陣に一人佇んでいた。根拠のない信頼――ゴリポンなら必ず秋永を止める。そして自分にパスを出す。その為に出てきたのだから。だから自分はここにいる。そう信じた。

――しかし、秋田のエースは中島敦でも止められるものではなかった。ここにきて秋永の体力は衰える事はなく、そのプレーは更に磨きが掛かっていた。


(ああ、もう、こいつにはいい加減うんざりだ。あまりにもしつこ“過ぎる”。六点差、二十秒はとうに切っていて、十秒台。ゴリポンが悪いんじゃない、こいつが異常過ぎるんだ。そういや、深夜に見ていたF-1は確かにいつも最後まで速かったな。ああ……最後、迄か)


――いよいよ絶望が洛連高校を襲い、会場もその絶望を受け入れ、大いに盛り上がっていた時、喧しい観客席から、ひと際通る甲高い声が響いた。



 今日の私はあの人と言ったでしょうが! 負けたら容赦はしない! 約束を守れクソガキ共! この言葉には言霊が宿ると習わなかったのか! 残り十秒少しと六点差が何ぼのもんなんよ! 最後まで走りなさい、このクソガキ共が! 人生を舐めるな、輝き続けるのが君達の仕事でしょうがッ!」



『――おおっと! 観客席からここにあるマイクでも拾えるくらいの熱量ある声援が聞こえてきましたね!』

『いやぁ、熱いですよね。関係者かな? それでも熱い』

『さぁ、自称プロスポーツ解説者の河島かわしまさんと、私アナウンサーの富永とみながもこの試合を見ていますが、本当に凄いですよね、河島さん!』

『ええ、凄いですよ。これはきっと伝説になる。伝説と言えば、私も昔は伝説の山に登ったりしてましたね。何ていうのかな、岩を掴んで登るやつで、地元に伝説の山とかあったんですよ本当に。険しい山でして』

『ああっと! 盛り上がりが本当に最高潮になっている男子高校バスケットボール大会決勝ですが……ええ、これ本当ですか?』

『力点と支点ってあるじゃないですか。あれの応用なんですよね、山登り、いやロッククライミングというのは』


『なんと速報です。ええー、今入って来た情報ですが……。いま残り時間わずかの点差を追いかけている洛連高校ですが、皆様がご存知の通り……この洛連高校らくれんこうこう、同じ日に甲子園決勝とインターハイのその決勝を迎えておりましたが、只今その野球部が全国高等学校野球選手権大会を制したと、情報が入りました! これは奇跡であります。数多の強豪校を薙ぎ倒し、洛連高校の野球部が優勝旗を手にしたと、その速報が入りました!』


『ええ、それ本当なんですか。それって凄い事ですよ。試合が始まる前から言われてはいましたけどね、本当にダブル優勝が見えてきた』

『はい、甲子園も接戦で勝利したと入ってきています! しかも、ああ……どうやら逆転満塁ホームラン! 打ったのは習田録助しゅったろくすけ選手だと!』

『習田選手は、野球部のキャプテンですよね。しかも、山岸洋介選手のだとか。これはドラマですよ、富永さん』

『しかし、この状況。選手達は気付くのでしょうか? コートに入っている人間は、情報を遮断されています』

『遮断なんて……気付くでしょうに。会場のこのざわつきに気付かない方が可笑しいですよ』

『おおっと、ここで洛連高校のタイムアウトが入りました! 残り十六秒! 洛連高校がタイムアウトを取りました!』

『会場がざわめいて、運よく明島川がボールを外に出しちゃいましたね。これも運命ですよ』



「はぁはぁ、もう試合は止めないはずじゃ?」

「なんか、観客席がどよめいてるけど」

「なんだ、まだ負けてねぇ。十秒以上もあるじゃねーか」

「なんだ、悠花先生」

「とにかく水飲んで。飲みながら聞いて。止めるつもりはなかったの。それでも最初に聞く、このまま勝つ自信はあったかな?」

「おい悠花先生よぉ、疑ってんならマジで切れんぞ! まだまだこっからだろうがよ!」

「ちょおい! 落ち着けってミネ! らしくねーって!」

「なに、何があった?」

「会場の誰かに言われる前に言いますね。今日が甲子園決勝だという事は皆知ってるよね? 同じ洛連高校の野球部がその決勝に出ている事も」

「……まさか」

「そう、そのまさか。さっき速報が入りました。どうやら勝ったみたい」

「はは、マジか。習田とか勝ったのかよ……マジかよ」

「マジです」

「それでこの会場のざわつき?」

「そうです」


「“ロク”の野郎、やりやがった、マジで。なぁ洋介マジであいつあの時三人で決めた夢を――」

 俺がそう言って洋介を見ると、それはそれは、本当に心から無邪気に笑っていた。それは本当に嬉しそうで、久方振りに見るあいつの表情であった。そう、それはまるで小学生の頃のあいつの笑顔であった。それは俺を、この俺を、ドッジボールに誘った頃と、初めて会った時と変わらない笑顔と一緒だ。俺はその楽しそうな洋介を見て、こいつの“先”には立てないと悟った。俺は今思えば、こんな楽しそうにバスケをしていただろうか。そして俺はこの試合の勝利をより強固に確信した。


「そっか、勝ったんだロクスケのやつは。“ロク”のくせに。俺より足が遅いロクのくせに。俺より泣き虫なあいつのくせに、あいつ俺より……背が低いくせに。そうなんだよ、必ず勝つんだよあいつは。ロクが勝ったなミネ。夢を忘れて無かったんだなあいつは。そりゃあそうか、約束を決して破らない奴だもんな!」


「それがタイムアウトを取った理由です。言うも無粋、言わぬも無粋と思ったので」

「充分です悠花先生。ありがとう。行って来ます。それに

「思い出したって、何をかな?」

「バスケットボールは“楽しい”って事をです。いま、心が躍動しています」

「そうですか、それは何よりです。私にもそんな顔をしてくれればいいのに」

「帰ったらね」

「それは楽しみですね。それから最後にいいかな?」

「うん、なに?」

「“君の利己はいずれ利権を撃ち滅ぼします”」

「またよく分かんない事をいうなぁ、悠花先生は」

「勝利を信じているという事です。帰りを待ってるからね」

「うん、行ってくるよ」


『さぁタイムアウトも終わり、いよいよ最後の中の最後の時です! スコアは71-77! 残り時間は十六秒! 両チームとも後半に怒涛の勢いで点を重ねています! その差を追う洛連高校、果たして奇跡の逆転はあるのか、さぁ試合再開です!』




 残り時間“十六秒”からなる洛連高校の攻撃が始まった。スタート地点が彼等の自陣の付近だったのは単なる偶然か、奇跡か、それとも幸運か、しかしその距離の差が終盤ではモノを言う。パスを回しているいとまは最早ない。そして狙うは二点より三点である。パスをもらったのは村川明。説明不要の3Pシューターだ。


『おおっと、ここで早速、村川選手に鋭いパスが入っ――』


 最速でありつづける為に。それは彼等に課せられた呪いとも捉えられる言霊だ。そしてそれを愚直に遂行してきた結果が“いま”である。今この瞬間、村川明のシュートモーションは自己の限界を超える。いいや、もはや動作そのものを放棄した。ただ放り投げたのである。しかし、それは絶対に入るという確定した結果から逆算したシュートであった。


(ここに来てそんな嬉しそうな顔するのな、お前は。そんな笑顔するのだな、お前は。さっきの習田しゅったの事で全部吹っ切れて“思い出した”感じだな。まるで……まるで、初めてお前と会った時の事を思い出すよ。下手な癖に、誰よりもいつも楽しそうな顔してお前はバスケットをしていたよな。そう、お前は楽しんでいたんだ。誰よりもバスケットを楽しんでいた。なぁおい、俺は3Pしか出来ないから極めようとした。それはお前に勝つ為にだ。でも今お前にこうやって、このギリギリの瞬間にパスを貰って心底嬉しいよ。エースの座はお前にやるよ。だから、勝て洋介。“俺達のエースは何時だってお前だ”。その変わり生徒会長かすみさんは俺の嫁だけどよ!)


「“必中の村川”を舐めんじゃねーぞこら!」


『――ッ! 洛連村川が入れました! これは3Pです!』

『しかし明島川は動じない! 秋永選手がすぐに攻めてます、大変!』

『ハーフラインに山岸選手! エース同士最後の対決か!』


『十秒を切ります、監督!』

『74-77! ここで抜かれたら最早洛連に勝ち目はない――いやこれは……山岸洋介の勝ちだ』

『えっ?』


『おおっとー! 山岸選手スティール! スティールであります! からそのまま突き進む! レイアップ、入れた入った! 山岸選手決めました! 76-77です! 一点差、残り八秒! 残り八秒です! 両校ともタイムアウトはありません!』





――洋介。そっちはどうだ? もう優勝はしたか? 俺はしちまったぜ。甲子園のいただきに立ってしまった。どうだ、凄いだろう? 同じ時間くらいに決着はするだろうな。勿論、先に勝つのは俺だけどな。俺は夢を果たしたぞ。まぁ俺はプロ野球選手になるから、まだまだ入り口だけどな。お前はこの先どうするんだ?

 当時、お前がさ、家庭環境で変わってしまったのは俺も知っている。でもその環境に甘えて変わってしまってもいいんだと、甘えて妥協していたのも俺には分かっている。そんなお前を俺は許せなかったけど……お前、覚えてるか? 中学の卒業式前に校庭で話した事を。島が怪我してお前等がやり返すって言って、金属バット持ち出そうとしたよな? でもあの時、お前は踏み止まってくれたよな?

 実はあの時、すげー嬉しかったんだよ。お前は凄くいい“モノ”を持ってるんだよ。誰にも負けないを持っているんだよ。この

 もう、お前は自分が持っている“モノ”にとっくに気付いてるとは思う。それでもお前は昔から俺に追い付こうとして、俺の後ばかりを追いかけてきた。いつからか、何時だって俺とお前は比較されるようになってたよなぁ。でもある日、道が別れた。俺は野球でお前はバスケ。運命が、俺とお前の袂を分けちまったのかなぁ。


 なぁ洋介。“貴様と俺だけは”周囲とは違っていた。ミネでさえ、やはり入り込めない境地が俺達二人にはあった。それが何か分かるか? 俺も最近になって気付いたんだ。どうやら俺達は“楽しんでいる”らしい。どんな状況になっても好きなものを好きらしい。お前は“好きを好き”になった日を覚えているか? 俺は野球を好きになった日を鮮明に覚えている。お前はどうだ?

 土俵は違えど、俺達は永遠の【ライバル】だろう。そして心友だ。しかし、土俵が変わった事により、俺を見失ってしまったが為に、貴様は自分自身にまた何処か制御を掛けているのだろう。恐らく、小学生の時からずっと……。だから笑え、洋介。きっとミネもゴリポンも、タマやサトルも、お前のその好きなものに打ち込んで心から楽しそうにして、嬉しそうにして、はじゃぐお前の笑顔を。お前の笑う顔を待っている。それが、エースと呼ばれるお前を形成した原点なはずだ。

 おい洋介、秋永涼が今のお前の、そしてこれからの貴様のライバルだ。同じ土俵で“良い相手”見つけたじゃないか。だから俺はお前に心配している事なんざ、もう何一つねーよ。お前は秋永涼をもう随分と前からとっくに認めていて、そしてそれがどんな瞬間であろうとも、“その時”お前は昔みたいに笑っているはずだから。


 お前もようやく、を見つけたかぁ。だけどな、俺達は何時までも同期の桜だ。





『監督、山岸選手が勝つとは!』

『この状況に来ても前しか見ておらん! 心から競技を、バスケットボールを楽しんでいる! その境地に至る奴は古来から誰も勝てない! というより、自己完結だ! 強敵に挑むこの場の主人公だと思っている!』

『それじゃあ、ただの自己陶酔じゃないですか!』

『それが、それを周囲に納得させるのが、あいつの様なカリスマを持った奴なんだよ。生まれながらに王様なんだよ、あれは。我儘で不遜であり傲慢、それらが“あいつらの”【エース】たる所以だ!』


(それは俺が目指せなかった場所であり、広洋が盤上で目指した場所でもある)


『残り八秒にして、明島川はすぐにボールを出した!』

『でしょうね、下手に攻めればすぐに相手側のフィールドですから。恐らく最後のオフェンスプレーです、ボール回しに徹するはず』

『ああっと、やはり明島川は時間潰しか! それが最適でもありますが!』


 八秒は一秒が過ぎると七秒になる。当たり前の事象だ。時間の流れには誰にも逆らえない。明島川はすぐさまボールを出した。エンドラインで五秒以内にボールを出せずにオフェンスの権利を潰されてしまえば、洛連側のボールになってしまっては元も子もない。点差は一点差。ならば、ボールは前に出すのがバスケットの終盤のセオリーである。


『秋永選手にボールが渡る! そして突き進む! 前には誰もいないか!』

『いや、山岸選手がいます!』

『これはエース同士の正真正銘最後の対決――ああっと抜いた! とうとう秋永選手が山岸選手を抜きました! これは勝負あったか!』


 トップスピードに乗った秋永は山岸を抜いた。丁度フリースローライン辺りの一瞬の攻防であった。時間は残り四秒を切っている。

 このまま試合は決まるかと誰もが思っていたその時、後ろから追い付いた選手がいた。彼は決してスピード型の選手ではない。背も大きくポジションはセンターだ。顔は少し怖いが何処か愛嬌のある顔立ちをしている。名は中島敦――通称ゴリポン、洛連高校のバスケ部キャプテンである。


 ――同時に山岸洋介は前に走り出す。自陣のゴールに向かって一直線に。それはまるで、キャプテンが来る事を知っていたかのように。

だゴリポン! “前で”待ってかんよ!」

「任せろぉ! 最後の青春なんだから、俺がキャプテンなんだから!」

(泉先生から教えて貰った直伝のスティール方法……背後から前に周りボールだけをすくい上げる! ただのスティールだがそれを俺達は、“ヒコーキ”と名付けた!)


「俺は烈風だ、ばかやろう!」


『ああっと、です! 中島選手が秋永選手からボールを奪いました! そして前に!』


「当たれ! 絶対に通すな!」

「死守しろ! 必ず十番だ!」

「――いや、五番だ、鷹峰だ!」


中島敦はスティールしたボールを前に向かってロングパスした。その行く先には鷹峰壮の姿。そして鷹峰はそのまま“ゴールではなく、空中にボールを放った。


「アリウープ!」

「いや、ゴールまで遠すぎる!」

「まさか……」


(山岸洋介……お前は最後に俺にわざと抜かれたのか。四番の中島が俺に追い付き、奪う事を信じて。そう言えば、父はこんな事も言っていたか、楽しんだ方が“勝つ”と)


「決めろ、洋介。最後はやっぱりお前だ。エースはお前だ」

(分かってるよミネ。知ってるよみんな。さっきも言ったろ? エースは俺なんだ)


――一直線に走っていた山岸洋介はフリースローラインで跳躍した。空中でボールを鷹峰から受け取り、そのまま空を闊歩するかのように、ボールをゴールに叩き込んだ。そして、電光掲示板の得点版が78-77に切り替わった瞬間、試合終了のブザーが会場に鳴り響いた。



『ここで試合終了! 終了しました! 夏のインターハイ! 高校男子バスケットボール大会全国決勝、その接戦を制したのは京都洛連高校です! エースである山岸洋介選手が、離れ技とも言える“空中レーンアップ”を決めて逆転でございます! これは歴史的な試合だったと後世に語り継がれる、正にその言葉が相応しい試合内容でした! どうでしたか河島さん!』

『いやー熱い。とにかく熱い。私まで手が震えてますよ、ほら。いやー躍動感しかなかった。人生の躍動感、青春の躍動感、素晴らしいですよこれ。いやーしかし明島川高校も頑張った、素晴らしい。本当にその一言に尽きますね。もうロックですね、ロックンロールですよこれは、ノーライトセオリーですよ! 実は私も昔は――……』





「これで“約束”は果たしたつもりだ。しかし、本当にあんたの言った通りになったなぁ。あの日、俺はバスケを辞めちまったけど、あんたの教えは弟達にしっかりと叩き込んだつもりだ。止まらない人生スポーツを、“最速のバスケットボール”ってやつを。それを誇示した結果がこれだろ? これで俺もなれたか? 先生よう、これで俺も“立派な大人”になれたろう。言葉には言霊が宿るんだろう。じゃあ俺は行くわ。あいつらに焼肉を奢るって“約束”してるから。じゃあな泉先生。ありがとうな、先生」


 歓声と喝采が鳴り止まぬ会場で、一人それを見ていた村川創むらかわはじめは、一人呟き、憧憬の燈を目に残しながら、悔い無く清々しい顔をして会場を後にした。








《あわれ在る季節  章末》

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