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 「アーイー!」


 日が落ち東の空に満月がくっきりと昇る頃に、僕はアーイーの巣の真下までたどりつき、大声で呼ばわった。返事を待つのももどかしく、つる草をつかんで、巣までつながる木の幹を駆け上がった。「アーイー! たいへんだ!」


 「わかってるわよ、騒々しいなぁ。ウチの旦那が目を覚ましちゃうでしょ」アーイーはその大木の、村を見渡せる大きな枝の先に立って、村の広場にぼつぼつと灯り始めたいまつの群を見つめていた。満月はちょうどアーイーの向こう側にあって、シルエットがくっきりと浮かび上がる。月影を身にまとって振り向いたアーイーは、やけに神秘的に見えた。


 「いくらあたしが鳥目だからって、これだけ明るければ十分。何もかも見えてる」


 「……何もかも、って……」


 「カインに悪魔が取り憑こうとしてる。完全に意識が乗っ取られるのは時間の問題ね、間違いない」


 「悪魔……」


 僕はブフじーさんのいう悪魔だって信じちゃいなかったけれど、アーイーに言われてしまっては信じるしかない。カインのあの異変は、村人たちの話どおり本当に悪魔憑きのせいだったのか。


 悪魔……悪魔……いったいどういうものなんだろう、想像がつかない。ブフじーさんの語る悪魔はいつだって胡乱うろんで、血や苦痛を求め続けていた。心の奥底まで忍び入る恐怖であり、でも実体は見えなかった。実体が見えないからこそ恐ろしいのだった。


 アーイーは、動き出したたいまつを目で追いながら、難しいことを言った。


 「あの悪魔は、他の生き物が持ってる魔力を吸い取って糧にしているの。昔は人間がたくさん食われたらしいけど、今は人間が魔力を持たなくなったからね」アーイーは僕をちろりと下から上へ見上げた。それからまたぷいとそっぽを向いた。「あいつはあたしを獲物にしたくって、敵意を持ってるカインを利用してるのよ。たぶん、『アイツに勝テル/チカラをアゲル』とでも耳元でささやいたんじゃないかしら」


 じゃあ、「アーイーのせいじゃないんだ……よかった」僕はへたり込んだ。力が抜けて、危うく枝から滑り落ちるところだった。


 でも、だからといって悪魔が去るわけではない。「これはゆゆしき事態よ」アーイーは、口にする難しい言葉以上に、難しい表情をしていた。「打開は困難極まるわね」


 「そ……そうなの?」僕はごくりと息を呑んだ。魔法使いのアーイーがそこまで言うってことは、いったい、カインにとりついた悪魔はどんなものだっていうんだ。カインはイヤなヤツだけれど、だからって、いなくなるのもイヤだ。僕らは、一二年同じ村で暮らしてきたんだ。「もしかして、カインがずっとこのまんまだとか……悪魔をはらうためには、イケニエが必要だとか……」


 アーイーは、僕をじっと見た。「まさか。あたしが魔法を使えば、あんな低級ザコ悪魔、一瞬で闇に葬れるわ。もちろん、カインが傷つくこともない」あっさりと言ったものだ。


 「じゃあ、何が問題なのさ」


 「だって」アーイーは、とてつもなく真剣に言った。「魔法使ったら、目標が達成できないじゃないっ!」


 「は?」目標というのはつまり、尾羽が引っこ抜けるくらい仲間を驚かすための一年間変身しっぱなしの記録、のことか。どうしてそれが悪魔を放置しておくこととの比較になるのか、僕にはわからなかった。彼女には悪魔がどういうものかわかっているから、そりゃ怖くはないだろう。でも。


 「退魔の魔法って簡単なんだけどね、そっちに集中しなきゃならないから変身の魔法といっしょに使えないの。つまり、記録が途切れちゃうのよ」僕は開いた口がふさがらなかった。「ねぇガソくん、なんとかなんない?」


 「……僕に何ができるのさ」


 「ちょっと前までは人間にも魔法が使えたっていうわよ? 潜在能力とかヒミツのパワーとか、ガソくんそういうの持ってないかなぁ?」


 「ないよ、そんなの!」


 「つまんないの」


 「だいたい、新記録には届いたんだから、それでいいじゃんか! カインを放っておくのかよ!」


 「そのつもりよ? 家族でもないのに何を心配するの?」アーイーはさも当然と言った。「あたしには記録の方が大事だもの。でもあの悪魔、しつこく追ってくるだろうなーって思って。だから困ってる」頬に手をついて、思案顔をした。「なだめなきゃいけないのは、あの程度の悪魔を怖がる大人たちの方よね。それさえできたら、ガソくん、『医者に連れてく』とか言って、あいつをこの村から追い出してくれないかな?」


 「それじゃ、カインは……カインはどうなるんだよ!」


 「自業自得でしょ? 低級悪魔に取り憑かれるような弱虫、どうせ長生きしないわ」


 「アーイー!!」


 アーイーが目を丸くした。よっぽど大きな声だったらしい。なんで大きな声を出したのか、自分でもわからなかった。大きな声を出せば届くのかもしれないと思った。大きな声を出したって無駄なんだと、遠巻きに醒めて眺める自分もいた。アーイーは身勝手なんじゃない。本当にそう思っているんだ。弱い者は見捨てる、それが鷲のやり方なんだ。


 どうしても噛み合わない。僕が怖れているものをアーイーは怖れていない。僕につながっているものがアーイーにはつながっていない。


 アーイーはわかっちゃくれない。アーイーは何もわかっちゃくれないんだ。人間に変身しても、どれだけ長い間変身していても、心は鷲のままなんだ。


 ただ不快感が募った。イヤな何かを排斥したいという気持ちだけが高まった。カインも同じだったのかな。


 「だったらおまえが出てけよ! よそに行っちゃえよ! カインはあのまんまほったらかして、ひとりで勝手にいつまでも記録に挑戦してたらいいだろ!」


 アーイーの表情が突然硬くなった。


 「それは……できないの」


 「なんでだよ!」


 「できないの」


 「なんで?! 鷲なんだろ、空飛べるんだろ! どこか遠くに飛んでいっちゃえよ!」


 アーイーは、とても悲しそうな顔をした。「───それは、人間の、とても勝手な思い込みよ。なんでそう思うの? 人間て、とても、不思議」ぎゅっと、こぶしを固く握る。「だからあたしたちは、人間のことを知りたいと、強くそう願うの」


 彼女の立つ枝の向こうで、たいまつの群が不自然に揺れて乱れた。動き出したのだ。歩く速さじゃない。とても急いで、走っている。何が起きて急ぐことになったのかはわからないが、あのペースだと、大人の脚なら、ここまで登るのに二十分かからない。


 アーイーは、月に照らされながら、夜に寄り添う声で言った。


 「……鷲は、なわばりを捨てて生きることはできないから」

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