-7-

 次の日、カインは学校を休んだ。理由はわからなかったけれど、そうして彼が不在だったことで、アーイーがカインを一撃でやりこめたという事実あるいは誇張されたうわさは、いともたやすく学校中に広まった。


 アーイーはといえば、いつものように遅刻して、国語の授業中にけろっとした顔で窓枠を乗り越えてきた。ビビるロクシオ先生と対照に、クラス中でひそひそばなしが始まった。アーイーはその様子を見て、悪びれるどころかうれしそうにしていた。


 休み時間に、時計台から彼女の鳴き声が聞こえてきた。クラスメートの何人かは、いつものように耳をふさいだけれど、今日の鳴き声は少し調子が違った。なんていうか上機嫌で、いつもと比べると心地よく響いていた。


 僕はまた例によって、背を向けたままのロクシオ先生からアーイーに関する野暮用を仰せつかり、彼女に会うために屋根へ上らなくてはならなかった。


 初めのうちアーイーは、僕の存在にまるで気づかなかった。おかげで僕は人知れず棟板渡りに挑んだ。鳥にはこんなの何でもないことなんだ、って思ったら、気が楽になったというか、試練なんて思えなくなったというか、ともあれ僕はスムーズに棟板を渡りきった。制限時間は楽勝でクリアしたけど、達成感はあまりなかった。


 アーイーは時計台の丸屋根の端っこに腰掛けていた。僕がはしごを登っていくと、彼女は鳴くのをやめた。僕の方を向いて、開口一番こう言った。


 「楽しいね!」


 「何が?」


 「あいつやっつけちゃったからさ、クラスで一番強いの、あたし! あたしが王様!」


 僕は答えた。「そんなことはないよ」


 「なんで?」アーイーはきょとんとした。「あいつ、これから絶対にあたしに逆らわないわよ。それで、あいつより強いヤツ、いないじゃない? 人間としてのし上がるつもりはなかったけど、結果的にはあたしがいちばん強いってことになったんだから、あたしが王様でしょう?」


 「違うよ」僕は言った。「人間は、強いかどうかで王様を決めないんだ」


 「人間って、ふしぎ」アーイーは流れる雲を見上げて言った。「じゃあ、あのクラスの王様は、いったい誰なの?」


 「うーんと」クラス委員は僕だ。「僕、ってことに、なると思うんだけど」


 「まさかぁ」アーイーは笑った。笑われることなんだ、やっぱり。「それだけは、絶対に、ないっ。だってガソくんはあたしより弱いもん」グサグサ刺さるセリフだなぁ。


 ともあれ彼女には、強いか弱いかでないと話が通らないらしい。


 「それならさ、アーイー」


 「なに?」


 「町なら、もっと強い奴もいるよ、きっと」


 するとアーイーは、目をぱちぱちと幾度かしばたたかせただけだった。何も答えず、ただ黙って僕を見つめた。


 話を急ぎ過ぎたかな、と思って、僕は先生からことづかった話を続けた。「町の中学どうすんのかって、先生が。……この村からふたつ山を越えた向こうに、中学っていう別の学校があって、この学校からひとりだけ推薦で入れるんだ」


 もともと一年限りの予定の人間生活だし、彼女が喜んで行く行くと答えることはないだろうというのは、わかっていた。でも、中学に行けば記録は一年以上に伸びるし、強い人間がいいというのなら、こんな田舎より町のほうがいいに決まっている。あながち悪い選択でもないように僕には思えた。


 「……山ふたつ向こう……」


 ところが、良い悪い以前に、アーイーは全然関心を示さなかった。そうつぶやいたっきり、また黙り込んで、何度かまばたきして、僕を見るばかりだ。


 「……気にならない?」


 「しぃらなぁい。あたしはここがいい」


 彼女は気のない声でそう言って、狭い時計台の上でごろりと横になった。じーっとまた空を見上げる。雲が形を変えながら流れていく。それからぽつりと言った。「人間って、ふしぎね……」不思議なのはこっちだ。どうしてそういう返事になるんだか、さっぱりワケわかんない。取りつく島がなくって、僕も座り込んだ。


 ふたりして、抜けるように青い初夏の空を見上げた。


 しばらくの沈黙の後、僕は話題を変えた。


 「アーイー」


 「なに?」


 「昨日のは、まずかったよ」


 アーイーは、またきょとんとした。「なんで?」


 「カインとこは、親も相当性格悪いんだ。いまに学校に怒鳴りこんでくるよ」


 アーイーはいけしゃあしゃあと答えた。


 「ふぅん。じゃ、返り討ちにする」


 「困るよ」


 「なんで?」


 「なんでって……」僕にも、血脈とか、理性とか、友情とか、よくわからなかった。彼女にうまく説明する言葉を持ち合わせなかった。「とにかく、誰が強いか、じゃないんだ」


 「勝手なこと言うのね」アーイーは急に起き上がって、ぷいと顔を背けた。「人間が、いちばん強いくせにさ」


 アーイーは振り向きもせず、時計台から軽々と飛び降りて教室に戻った。その日、校内では二度と口をきいてくれなかった。怒らせちゃったのかな、と、僕は思った。ぷいと背けた鼻の高さが、ひどくまぶしかったのを覚えている。

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