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僕が躊躇しているうちに、事態は動いた。
アーイーが一足飛びにカインの懐に入ったかと思うや、その右手が一閃した。
反射的にのけぞったカインの鼻っつらを爪がかすめ、脂ぎった肉が五ミリほどそぎ落とされた。幅がわかってしまうのは、すぐにそこに血が浮き出してきたからだ。
続けざまに、アーイーはくわぁと口を大きく開いて、カインに飛びかかろうとした。やばい、アーイーのヤツ、噛みつくつもりだ。本気のアーイーはかじるじゃすまない、耳くらい容赦なく噛み切ってしまうに違いない。
「やめろ、アーイー!」
これ以上野性にまかせるわけにはいかない。僕は夢中で間に割って入った。アーイーの手をつかんで、肩を押さえて、必死になだめた。
ここで逆にカインに仕掛けられてはたいへんだ。同時にカインもなだめようと思った。「カイン、おまえも……」手を引け、と言いかけて、けれど、カインは顔を押さえたままうずくまっていた。
血が、押さえた手と顔の間から、あるいは指の隙間からとろとろと流れ落ち、後から後から出てきて止まらなかった。口元から顎へ伝わり、とろりぽたりと床にしたたり落ちていた。
「いーてぇぇぇぇぇっ!」カインは絶叫した。「あー、あー、アァ、いぃ、いて、いてぇぇぇぇぇっ!」
カインは後ずさった。力は緩んだものの、アーイーは未だ猛禽類そのものの形相で、カインをにらみつけていた。カインは、その凝視と一瞬目を合わせて、すぐに背けて、身を翻した。教室から逃げ出して、戻ってこなかった。
彼のプライドはひどく傷ついたに違いなかった。血を見たことと、アーイーに負けたこと。そして、僕が止めたのがアーイーだったこと。僕はカインを守ったのだ。僕は、暴力を前になすがままにされようとしていた弱くみじめなカインを救った。カインは自分で自分に敗者の烙印を押し、そして逃げた。
アーイーは、長い爪の間に入ったカインの鼻の肉をぺろりとなめて、「まずい」と言って吐き出した。つまらぬ狩をした、ということなのだろうか、ふん、と鼻を鳴らし、ぷいとそっぽを向いて、窓枠を乗り越えて教室を出ていった。彼女もそのまま帰ってしまい、その日は結局戻ってこなかった。
居合わせたクラスメートは、数瞬の顛末を目の当たりにして緊張し、みな言葉もなかった。
「掃除、しよう」僕はそう言って、雑巾を絞った。
床に滴ったカインの血を拭った。生ぬるかったんだろうか。鉄の味だったんだろうか。自分の体にも血が流れていて、血と肉の分の重さがあることを、普段の僕は忘れていることに気づいた。
アーイーは、やっぱりスズメを生でかじっているのだろうか。唇の端から、血を滴らせて。
三年前に奥さんと死に別れて独り身のブフじーさんの世話は、近所の住人の持ち回りで、その日は僕んちの当番だった。ことにこないだっからじーさんは腰痛で歩くのもままならないから、世話は一仕事だった。
その日の学校の帰り、僕は、ブフじーさんの家に寄った。母さんはもう来ていて、炊事洗濯だの下の世話だのを片づけていた。僕はここでも掃除当番だった。もっとも学校と違い、ブフじーさんの家は、古い雑多な道具がぼろぼろ並んでいておもしろい。
あまり埃を飛ばさないように、タンスの上を雑巾で拭いながら、僕はベッドの上のブフじーさんに尋ねた。
「ねぇ、じーさんってさ、今年いくつになる?」
「七二になるわな」
「じーさんがよく言う、昔の言い伝えって、ホントなのかな。ほら、悪魔が来るとか、火山が爆発するとか」
「ホントじゃ。子供の頃、わしのばーさんがいつも言っておった。ばーさんは祈祷師でな。村人みなから頼りにされておった。わしはばーさんが大好きでな……」年寄りの昔話は脈絡なく、あっちに話題が飛び、こっちに話がずれ、やたらと長かった。「まぁ、ばーさんの言うことはいつも正しいのじゃ。ばーさんが祈祷をすればぴたりと当たる。祈ることが肝心じゃ。信じることが肝心じゃ」
「じゃあさ」じーさんのばーさんの話を聞きたいんじゃないやい。どうにか僕は本題を持ち込んだ。「動物も魔法を使えるって、ホントかな」
ベッドの上のブフじーさんは、うーんとうなって───考えをまとめようとしたのか、腰が痛かっただけなのかはよくわからない───こう言った。
「おぬし、今年いくつになる?」
「一二だけど」
「一二にもなって、魔法を信じておるのか」
「じーさん、悪魔信じてるじゃん」
「わしは、魔法は、よぅ知らん」
役に立たないじじぃだ。
だけど、思えばこのブフじーさんの見解が、村を代表する言葉だったのかもしれない。
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