第3話 後編
――パキッ。
不意に聞こえてきたその音に、私は目を覚ました。
音の出処を辿れば、どうやら燃料にしていた木が崩れた音のようだった。
火はまだついているものの、随分と勢いが弱まっており、あと何分か経った頃には消えてしまいそうだ。
火を強めようかとも思ったが、白み始める空を見て、やめた。
まだ起きるには早いが、火を強めても起きてから消すのに苦労しそうだと思ったからだ。
しかし、また寝ようとしても、どうにも寝付けない。
私は仕方なく寝袋から上体を出し、起き上がる。
目元から流れ出た液体が、目じりから横に流れてこめかみ辺りを濡らしていた。
今日のは量が多かったらしく、私は手近にあったタオルで顔を拭く。
……あの日からずっと、こんな夢ばかりを見ている。
もっと幼い頃の彼との思い出だったり、果ては彼と結婚した後の生活を妄想したものだったりとバリエーション豊かだけど、いつも決まって彼が登場する。
もう二度と、会えない彼が。
「……アオ、遅いわね」
私は今までの思考を振り払うように、そう呟いた。
普段ならもう帰ってきていてもおかしくはない時間だと思うのだが。
それだけ感染者が多いということだろうか。
それとも――。
「……いえ、それはないわね。アオは強いもの」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
でも、アオは本当に強い。
多くの感染者に囲まれていても、彼は一人でそれらを全て叩きのめすことができる。
同じ感染者であるはずなのに感染者を食らい、人と会話することができる彼は、異端中の異端だ。
……そうだ、彼は感染者なんだ。
もし、見回り中に他の生存者に見つかれば、殺されてしまうかもしれない。
彼には人を傷つけないように言ってあるから、自分の身が危なくてもその人達を殺したりはしないだろう。
だから、いくら強くても、彼はあっさり殺されてしまうかもしれない。
今までその可能性を思いつかなかった私に心底嫌気がする。
私が愚かだからあんな目に遭ったのに、私はまた失うつもりなのか。
大切な人を、二度も……。
――バキバキッ。
近くで木が割れる音がした。
だが、目の前の焚き火からではない。
一瞬、アオが帰ってきたのかと思った。
しかし、彼はこんなにハッキリと物音を立てたりしない。
不安になっていると、また近くで木が軋む音がした。
私は慌てて音がした方向を見る。
「……嘘、でしょう?」
「ウオオォ……」
そこには感染者がいた。
1人2人なんてものじゃない。見えるだけでも5~6人はいる。
遠くからも近づいてくる集団が見えて、私は舌打ちしそうになった。
どこかに隠れていたのか、それともバリケードに開いた穴から入ってきたのか。
どちらにしろ、今この状態はまずい。
「アオ、何やってるのよ……!」
声を押し殺して、そう呟く。
私は武器と呼べる物は何も持っていない。
所持していなくてもアオがどうにかしてくれていたからだ。
でも、今はそのアオもいない。
感染者達は確実に私に近づいてきている。
私はこの場を離れることを決意した。
素早く寝袋から抜け出し、何もかもを置いてその身一つで走り出す。
後で取りに来ることができれば良いのだけど、先ずは生き残らなければ。
走り出した私を見て、感染者達も走り始める。
もう後ろを振り返っている余裕は無いだろう。
私は全速力で、かつて町だった場所を走り回る。
ただ死にたくない一心で、手と足を振り上げる。
しかしながら、人間の女が身体強化されている感染者に敵うわけがない。
それに道はボコボコで、私はここの地理にも明るくないのだ。
気づいた時にはバリケードが目の前にあり、後ろから感染者達が迫ってきていた。
横は瓦礫の山で、逃げ場はどこにもない。
いわゆる、詰みというやつだろう。
「折角ここまで来たのに!」
悔しさと共に、死への恐怖が込み上げてくる。
バリケードを背にして、感染者達を見る。
どこかに抜け道がないか探すけど、一向に見つからない。
「……やだ、嫌だ。死にたくない」
視界が滲む。歯が勝手に動いてガチガチと鳴る。
脳裏に、今はもういない家族や友人の顔が浮かぶ。
きっと、走馬灯と言うやつだろう。
ふと、今があの日の出来事と重なった。
あの日――蒼太と想いが通じ合い、イルミネーションを再び見て回っていた時。
急に響き渡った悲鳴。
辺りが騒然となる中、「感染者だ!」という声が聞こえてきた。
最初は嘘だと思った。でも、感染者が目に見えるところに現れると、絶望感から足がすくんで動けなくなった。
そんな私を引っ張ってくれたのが蒼太だった。
彼が私の手を掴んで引っ張ってくれてなかったら、私は間違いなく感染者になっていた。
けれども、感染は他の人達に広がり、周囲には一気に感染者の集団が出来上がった。
統率が取れているわけではなかったけど、圧倒的な数で残った生存者達に襲いかかった。
逃げ回っていた私達も遂に追いつかれ、私は死を覚悟した。
「……ごめん、朱里」
彼はそう呟いた。
私が「えっ?」と声を上げると同時に、彼は感染者の群れに突っ込んでいく。
「蒼太!?」
「朱里、早く逃げろ! 俺が抑えてるから!」
「いや、蒼太を置いていけない!」
「バカ、何のために抑えてると思ってるんだよ! 少しはカッコつけさせろ!」
私を安心させるためか、彼はふざけるようにそう言った。
そのやり取りしている間にも、感染者達が蒼太へと近づいていた。
「……早く逃げてくれ、朱里。俺も後から朱里に追いつくから」
そんなことできるはずがないと、頭では理解していた。
彼が何としても私を逃がそうとしてくれているのがわかり、目から涙が溢れ出す。
「……絶対よ? 約束だからね!」
鼻声になりながらそう言って、私は彼に背を向けた。
そして、一切振り返ることなく、延々と走り続けた。
暴れ回る感染者や恐怖でおかしくなっていく生存者を後目に、ただ一心不乱に駆け抜ける。
でも、体力には限界があった。
どこかに隠れることができれば良かったのだけど、その前に感染者に見つかってしまった。
路地に追い詰められて、死を悟って……今みたいに「嫌だ」と泣き叫んだ。
それで、私は助けを求めたんだ。
急激に意識が現実に戻される。
私の目の前に、感染者達が蠢いていた。
あの日と同じように、ゆっくりと死が迫ってくる。
「――助けて」
あの日の私は、呼んでもこない人の名を呼んだ。
その名前の人物に、助けを求めた。
助けに来てくれるわけがないと思いながら、それでも縋ってしまった。
だから、きっと、彼は……。
「助けてよ……」
どんどんと近づいてくる感染者に全身が震え、まともに立ってはいられなくなる。
感染者が目と鼻の先に迫ったところで、私は絞り出すようにして叫んだ。
「――助けて、アオ!」
ギュッと目を瞑り、身を縮こまらせる。
迫り来る死を覚悟しての行為だった。
しかし、私の耳に聞こえてきたのは、断末魔の叫びだった。
何人もの悲鳴がすぐ近くから聞こえてきて、私は耳を塞ぐ。
それでも聞こえてきていたそれは、しばらくするとピタリと止んだ。
私は恐る恐る耳から手を離し、目を開く。
「……アカ!」
そこにはアオがいた。
夥しい量の血液を浴びて、全身を真っ赤に染めている。
その周囲には、肉塊と化した感染者達が散らばって血の海を作っていた。
「ゴメン、オレがおそくなっタばっかりに……」
アオは見たこともないような顔をしていた。
まるで、本当に私のことを心配しているようだった。
「アカ、ぶじ?」
やめて、そんな顔しないで。
何で私を心配するの?
あの日みたいに何でもない顔をして笑ってよ。
貴方にそんな顔されたら、私は貴方のことを化け物だと思えないじゃない。
「……アカ、どした? どこかイタい?」
黙り込む私を心配して、アオが顔を覗き込んでくる。
アオの顔と、彼の顔が重なる。
……重なって当然だ。アオは彼なんだから。
あの日、感染者に囲まれた私は彼の名前を呼んだ。
そして、現れたのがアオ――化け物になった彼だった。
顔立ちが変わっていて最初はわからなかったけど、身につけている物でわかった。
まだ血に濡れていなくて青色を呈していた、下手くそなマフラーを身につけていたから。
あの時の彼はこんなふうに私を心配なんてしなかった。
ただ無邪気に、私に向かって「ダレ?」と聞いてきた。
……彼は私のことを覚えていなかった。
だから、私は彼のことを「彼ではない化け物」だと思うことにした。
彼に新しい名前をつけて、自分の気持ちに蓋をした。
そうでもしないと、私は壊れてしまいそうだった。
でも、今の彼は、まるで人間のようだ。
そう。まるで、あの日の蒼太のよう――。
……駄目。それ以上は思ってはいけない。
それ以上考えると、また弱い
私は強くならなきゃいけないんだ。
また大切な人を失わないように。
だから、こんなことで惑わされてはいけない。
アオが人間だと思ってはいけない。
アオは化け物で、蒼太とは違う。
アオは私に従順な、私だけの武器。
アオは心配しているように見えるだけ。
アオに心の底から心配されているわけではない。
「……いいえ。大丈夫よ」
そう言って、笑う。
アカだったらきっとこうするはずだ。
アカは決して泣いたりしない。
アカはどんな状況でも悠然と構えていて、弱音なんて吐かない。
アカはそういう人間だから。
私はそういう人間にならなければいけない。
あの日のように、助けを求めるなんてしてはいけない。
彼が助けてくれただなんて、思ってはいけない。
「アオは怪我なんてしてないわよね?」
「う、ウン」
「そう、それなら良いわ。またどこかから感染者がやってきて襲われるのは御免だから、荷物を回収して早くここを離れましょう」
一人で立ち上がると、私は呆然と立ち尽くすアオの横を抜けた。
「何をしているの、アオ。早く着いてきなさい」
既に涙が乾いた目で、彼を見つめる。
彼の鋭い爪から血が滴っている。
荷物を回収したら、まずは彼の身体を拭くのが先のようだ。
普段と違い、口の周りが汚れていないことには目を瞑る。
拭く手間が省けて有難い、とだけ考えておこう。
「……ン、わかっタ」
アオは随分と間を置いてから頷いた。
その顔はいつもの笑顔ではなく、どこか憂いを帯びていて――いえ、そんなことはない。
そう見えるのは私の勘違いだ。
アオは何も変わらない。変わっていない。
昔のことを思い出していたから、記憶の中の蒼太と重なってしまっただけ。
ただ、それだけのこと。
「戻るまでの道のりにも感染者がいるかもしれないから、警戒して」
「わかっテる。オレ、もうアカをオソわせない」
そうして、私達は太陽が顔を出した空の下を歩き出した。
闇雲に走っていたけれど案外道のりを覚えていたようで、私達はすぐに荷物のある場所に戻ってくることができた。
その間に襲われることはなかったが、あんなことがあった以上、早々に移動するに越したことはないだろう。
私はバイクにまたがり、アオと共に全てが失われた町を後にした。
真っ赤な自分、血濡れた君 真兎颯也 @souya_mato
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