第2話 後編

「……お風呂、ありがとうございました」


 女の子――アカと名乗ったが、恐らく偽名だろう――が、風呂場の方からやってきた。

 アオの服を交換した後、彼らを俺の自宅であるマンションの一室に招いた。

 外では感染者達がうろついているが、このマンションの中にはいない。この地域は封鎖されてはいるものの電気や水道が止まっていないため、建物のオートロックが働いて侵入を防いでくれている。


「まさかお風呂に入れるとは思っていなかったので嬉しいです」


 彼女の表情にあまり変化はないが、それでも心なしか嬉しそうに見える。

 こういう所は女の子なんだと思うと、少しだけ安心した。


「喜んでもらえて良かったよ。寝る時は向こうの奥にある部屋を使って欲しい」


 俺はなつみが使っていた部屋を指さした。

 彼女がいつ帰ってきても良いように、部屋は常に綺麗な状態を保っていた。

 ……もっとも、なつみはもう二度と帰ってくることは無いのだけど。


「何から何までありがとうございます。貴重な食料まで分けていただけて有難いです」

「元々2人分の食料を確保していたから心配いらないさ。それに、ここは配給もあるし」


 ここは最近封鎖されたこともあり、未だに残っている人も多い。そのため、定期的にボランティアの方がやって来て、食料や日用品などを配っている。


「アオは……もう外に出たのですね」


 部屋を見回してアオがいないことに気づいたアカがそう呟いた。

 彼は彼女がお風呂に入りに行った直後に出かけていった。


「特に止めはしなかったけど、彼はいつも夜に見回りをしているのか?」


 彼は彼女に何かを言われたわけではないのに「みまわりスル」と言って出て行ったので、夜の見回りは普段から彼女に命じられてやっていることなのかと思った。


「はい、普段はこんなに安全な場所では寝られないので。ですが、ここは安全そうですし、見回りはいらないと伝えるのを忘れていました」

「そうだったんだ。まあ、すぐに帰ってくると思うし、あまり心配はしていないけど」


 アオは力が強いようだし、そう簡単には感染者達にやられたりしないだろう。

 それに、いくらなんでもよく知らない男とアカをいつまでも二人っきりにしておくとは思えない。


「どうでしょう。いつもは見回りをどの程度やっているのか知らないので。一応、朝までには帰ってくるはずですけど」

「いや、流石に君を俺といつまでも二人っきりにするとは思えないけど」

「……アオはどういう訳か貴方を信用しているみたいなので、本当に朝まで帰ってこないかもしれませんよ」


 その言葉に、俺は目を丸くする。


「彼がそう言っていたのか?」

「いいえ。でも、二人っきりにするということは信用しているということでしょう」


 アカ曰く、彼女が誰かと行動する時はアオが片時も離れず、相手を警戒しているらしい。

 そんな様子は微塵も見られなかったので、俺は更に驚いた。


「なんで信用されているんだろう……?」

「それは本人に聞いてみないとわかりません。でも、アオが信用しているのなら私も貴方のことを無闇に疑ったりしませんよ」


 アカはそう言うと、俺に背を向けた。


「すみませんが、もう眠いのでこれで失礼します。お部屋、お借りしますね」

「ああ、お休みなさい。部屋の内側から鍵をかけられるから、心配ならかけてくれて構わないよ」

「お気遣いありがとうございます。では、鍵をかけて眠らせていただきます」


 表情を変えずにそう言った彼女に、俺は苦笑する。

「無闇に疑ったりしない」とは言ったが、信用しているわけでは無いようだ。

 まあ、多少は疑われている方が楽かもしれない。

 アオみたいに理由もわからないまま簡単に信用されても、こっちが対応に困ってしまうからな。


「さてと。まだ帰ってくる様子はないし、俺も風呂に入るか」


 アオがいつ帰ってくるかわからないが、玄関の鍵を開けっ放しにしておくわけにもいかない。

 ある程度起きていて、それでも帰ってこなかったら鍵を開けて寝ることにしよう。


 ――――――――――――――――――――


 ――ピンポーン。

 不意に、チャイムが鳴った。

 どうやらうたた寝してしまっていたらしく、俺はソファの上でヨダレを垂らしていた。

 慌てて口元を拭い、玄関のインターホンを見ると、アオが立っている。

 鍵を開けて迎え入れると、錆びた鉄のような匂いが漂ってくる。彼の服を見れば、今日新しくしたばかりなのに既に赤い汚れが付いている。


「えっと……おかえりなさい」

「タだいま」


 ニカッと歯を見せて笑う彼は、無邪気な少年のようで可愛らしい。

 しかし、口元から覗く牙が、彼が人間では無いことを物語っていた。


「オきてて、クレた?」

「入れないと困るだろうと思って。でも、こんなに早く帰ってくるなんて。まだ外に出てから3時間も経ってないだろ?」


 時計を確認すると、深夜帯ではあるが夜明けまでにはまだかなり時間があった。

 朝まで帰ってこないかもしれないと言われた手前だったので、少々驚いてしまった。


「ココ、あんぜん。みまわり、スクなくてイイ」


 どうやら、彼自身で判断して早めに切り上げてきたらしい。

 アカに命令されないと動かないのかと思っていたが、ちゃんと彼なりに考えて行動しているみたいだ。

 ……そういえば、アカ達がここに泊まることになったのはアオがあっさりと了承したからだった。あれも、彼なりに理由があってのことだったのかもしれない。


「とりあえず、身体を拭くものを持ってくるから、少し待ってて」


 俺はタオルを持ってきてアオに渡した。

 彼はごく自然にそれを受け取り、自分で顔や手を拭いた。服を交換する時はアカに拭いてもらっていたので俺が拭かないといけないのかと思っていたが、ちゃんと自分で拭けるみたいでホッとした。


「アリガト。コレ、ドする?」

「あ……捨てるから、この袋の中に入れて」


 流石に血のついたタオルをまた使う気は無い。

 タオルをたまたま置いてあったレジ袋に入れてもらい、触らないようにしながら家庭ごみの袋へ入れる。

 アオは俺の後に続いて家の中に入ると、周囲をキョロキョロしだした。


「アカ、どこ?」

「ああ、彼女なら奥の部屋で寝ているよ。呼んでこようか?」

「ネてる、そのママしてオく」


 寝てるならそのままにしておいて、ということかな。


「アカ、ねむりアサい。ものオト、すぐオきる」

「……安全な場所で寝ていないようだから、そうだろうね。でも、ここなら安全だし、彼女もぐっすり眠れているんじゃないかな」


 俺の言葉に、アオの顔が曇った。

 ずっと笑顔のイメージしかなかったので、気分を害してしまったのかとドキッとする。


「それ、チガう」

「え?」

「ネてるアカ、ウーウーいってる。イヤなゆめ、ミてる」


 アカは嫌な夢を見てうなされている、と言いたいのだろう。

 だが、それも寝ている間に感染者に襲われる不安からじゃないのか?


「アカ、おなじ。おニイさんとおなじ」

「それは……どういう意味?」

「アカ、たいせつなヒト、なくしテル。みんな、アカおいて、イなくなっタ」


 ……皆ということは、彼女は親兄弟を亡くしているのだろうか。

 もしかすると、親しかった友人も亡くしているのかもしれない。

 俺がなつみを失ったように、アカも大切な人を失っていた。

 でも、それは高校生くらいの女の子には、あまりにも辛すぎるのではないだろうか。


「アカ、ひとりぼっち」


 ポツリと、アオが呟いた。


「彼女には君がいるじゃないか」

「チガう。オレじゃダメ」


 さっきまで幼く見えた彼の顔が、急に年相応に見えた。


「……俺が“アオ”のままでいる限り、彼女はひとりぼっちのままなんだ」


 まるで別人のような口調に、俺は何も言えなくなる。

 ――しかし、次の瞬間には、アオは人懐っこい笑顔を浮かべていた。


「でも、オレ、アカまもる。アカと、ズットいっしょ」

「……そ、そっか。それなら彼女も安心だ」


 あまりの変わりように、さっきのあれは気のせいだったのかと思ってしまう。

 アカもそうだが、アオも謎の多い少年だ。


「おニイさん、ドするの?」


 彼らについて考えていると、アオに声をかけられた。


「え、何の話?」

「これから、ドする?」


 彼らと別れた後のことを訊ねているのだろうか?

 そういえば、何も考えていなかった。

 なつみは死んだ。ここに留まっている理由はおろか、俺には生きている理由も無い。

 両親は既に亡くしているし、親しいと言える友人もいない。

 俺のことを心配してくれる人間は、もういない。


「おニイさん、コレ」


 唐突にアオがズボンのポケットから何かを取り出した。

 手を差し出すと、彼はそれを俺の手のひらに乗せる。


「これは……?」


 渡されたのは小さな袋だった。血で酷く汚れ、ぐしゃぐしゃになってしまっている。

 そっと開くと、中から光る何かが出てきた。


「……ネックレス?」


 それは、小さな十字架がついたネックレスだった。透明な袋で二重に包まれていたためか、ネックレスは綺麗な状態のままだった。

 しかし、こんなものを買った覚えはない。


「おネエさん、もってタ」

「お姉さんって……もしかして、なつみのことか?」


 アオが頷く。

 ということは、なつみがこれを買ったということだろうか。

 でも、彼女の趣味とは違う気がする。なつみは派手なアクセサリーをつけていることが多かったが、このネックレスはそれらと比べてかなり地味だ。

 もしかして、誰かにあげるために買ったのか?


「おニイさん。おネエさんと、なにがあったノ?」

「……あの日は、彼女に早く帰ってくるように言われてたんだ。でも、残業で遅くなって、それで彼女と喧嘩して。彼女は怒って家を飛び出したんだ。そして、そのまま彼女は帰ってこなかった。その後すぐにこの町に感染者が出て、あっという間に封鎖されることになったんだ」


 あの日のことを思い出すと、自分で自分を責めたくなる。

 何故、あの時早く帰らなかったのか。

 残業でかなり遅い時間になっても待っててくれた彼女に、どうして「ありがとう」と言えなかったのか。

 彼女が怒るのは当然なのに、何故俺までムキになって反論してしまったのだろう。

 どうして、彼女が家を飛び出す時に引き止めることができなかったのだろう。

 あの日……どうして彼女は早く帰って来てと俺に言ったのか。何かの記念日だったのだろうか?

 不意に、袋の中にまだ硬い感触があることに気づく。何か、厚紙のようなものが入っていたようだ。

 袋が貼り付いてしまっていたが、俺はなんとかそれを取り出す。


「これ……バースデーカードだ」


 2つ折りにされた少々厚い紙は、袋同様に血で汚れ、文字が読めなくなっていた。

 しかし、内側までは滲み出していなかったらしく、開くと中に書かれた文字ははっきりと読むことができた。


『HappyBirthday! いつもお仕事お疲れ様! どうせあんたのことだから誕生日なんて忘れてるだろうけど、私は覚えてるんだからね。今年の誕生日くらいはゆっくり過ごしたかったけど、あんたの仕事忙しそうだし、今年もケーキ一緒に食べるだけで我慢してあげる』


 丸い文字で書かれた強気な文章は、紛れもなくなつみのものだった。

 つまり、このネックレスは、俺への誕生日プレゼント。

 そして、あの日、彼女が早く帰ってくるように言ったのは……俺の誕生日を祝いたかったから。


「あ、あぁ……!」


 それを読んだ瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。

 なんて馬鹿だったんだ、俺は。

 彼女は俺を祝おうとしてくれたのに、俺は彼女を怒ってしまった。

 こんなの、彼女が家を飛び出して当然じゃないか。


「おネエさん、たいせつにもってタ。かんせんしゃ、なってモ、たいせつダッた」


 俺はハッとして顔を上げる。

 目が合うと、彼はニコッと笑った。


「そレ、こわれてナイ。きっと、おネエさん、たいせつにしてタ。おニイさん、すきだから。あいしてたかラ」


 彼は相変わらず片言で、その言葉の意味を俺がちゃんと理解できているかわからない。

 だけど、俺はその言葉に涙を流した。

 その涙でなつみからのプレゼントを汚してしまわないよう、胸に抱いた。

 嗚咽を漏らしながら泣く俺を、アオはただ隣に寄り添って見守ってくれた。


 ――――――――――――――――――――


 翌朝。


「お世話になりました」


 アカが頭を下げる。

 その瞬間、なつみと同じ香りがして、つい涙腺が緩んでしまった。

 なつみの部屋を使っていたから、匂いがついてしまったのだろう。


「……どうかしましたか?」


 俺の様子がおかしいのに気づいたアカが首を傾げる。


「……いや、何でもないよ」

「そうですか」


 深く追及してこないのは優しさからなのか、面倒事に関わりたくないからなのか。

 いずれにせよ、俺としては有難かった。


「お兄さんはこれからどうするのですか?」


 昨晩、アオに聞かれたことと同じことをアカも聞いてきた。

 あの後、俺は考えていた。

 大切な人達はもういない。俺がいなくなっても悲しむ人はこの世にいない。

 でも、俺は――。


「俺は、まだ封鎖されていない都市へ行こうと思う」


 俺は、生きることを選択した。

 悲しむ人がこの世にいなくても、あの世にはきっといる。

 何より、こんなに早くあの世へいったら、なつみに怒られそうだ。


「ここは俺以外にも残っている人がいるから、時々ボランティア団体の人が物資を運んでくるんだ。その車に乗せてもらおうと思っている」

「そうですか」

「君達はどうするの?」

「私達も大都市へ向かおうかと思ってます」

「それじゃあ、一緒に乗せてもらった方が良いんじゃないか? いくらアオ君が強くても危険だろう?」


 そう提案したが、彼女は首を横に振った。


「……アオのこと、バレたくないので」


 彼女はどこか悲しげにそう言った。

 俺にバラしたのは良かったのだろうか?


「あの場でお兄さんにバラしたのは、これ以上関わらないと思ったからです。普通、化け物だなんて怖いでしょう? 世間にバレたら大騒ぎになりますよ」

「言われてみればそうだな……」


 アオが化け物だと知れ渡れば、その場で殺されるか、捕まえられて妙な研究機関で被検体にされかねない。

 フィクション作品の見過ぎかもしれないが、少なくとも彼らの身が危険に晒されることは起こるだろう。


「じゃあ、今からもう向かうのか?」

「はい。これ以上お世話になる訳にはいきませんから」

「そうか。あ、餞別代わりに食料を持っていくといい。多分明日明後日にはボランティアの方々が来るから、食料が余りそうだからな」

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、少しばかり貰っていきます」


 そして、彼女達は俺の家を後にした。

 その後、俺はボランティア団体の車に乗せてもらい、無事に都市へとたどり着いた。

 今では新たな就職先を見つけ、仕事をしながら日々を過ごしている。

 その間、彼女達に会うことは無かった。

 まだたどり着いていないのか、どこかで亡くなってしまったのか、それすらもわからない。

 でも、俺は彼女達と出会えて良かったと思う。

 今、俺がこうして生きているのは、彼女達に色々と気付かされたからだ。

 首にぶら下がるネックレスの、小さな十字架に触れる。

 願わくば、彼女達が無事に都市へとたどり着きますように。

 そして、悪夢にうなされることなく、幸せに暮らせますように。

 そう願いながら、俺は日常を過ごすのだった。

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