第2話 前編
あの日の夢を見た。
変わらないと思っていた日常が、非日常に変わってしまったあの日。
この幸せがずっと続くと思っていたのに、たった一瞬で絶望に変わってしまった。
……あの時、あんなことを言わなければ。
あなたは、まだ、隣で笑っていてくれたのかな?
――――――――――――――――――――
俺は、最後まで希望を捨てなかった。
まだ彼女は生きている。
そう思って、ここが封鎖されたあの日からずっと彼女を探し続けてきた。
そして、今。
俺は、彼女を見つけた。
「ウゥゥ……」
低い唸り声を上げて、フラフラと徘徊する彼女を。
髪はボサボサ、顔も汚れてしまっており、常にオシャレに気を使っていた彼女とは思えない変貌ぶりだった。
「なつみ……迎えに、来たぞ」
俺はそんな彼女に近づいた。
「グルル……ガアァ!」
だが、そんな望みは簡単に打ち砕かれた。
彼女が……彼女だったモノが、俺に向かって飛びかかってくる。
体力も気力も限界を超えていた俺は、あっさりと組み伏せられた。
――もう、生きていてもしょうがないよな。
俺は目を瞑り、彼女だったモノに食われるのを待った。
……グシャリ。
何かが潰れる音がした。
だけど、痛みは感じない。
生暖かい液体が、顔に落ちてくる。
俺は、そっと目を開けた。
「……ひっ!」
彼女だったモノは、頭が無くなっていた。
俺の頬に垂れたのは、それの血のようだ。
それは俺に食らいつこうと口を開いたまま、俺の上に崩れ落ちた。
「……いきテル?」
突然、頭上から声が聞こえた。
顔を上げると、すぐ側につり目の男の子が立っていた。
「いきテル!」
彼は俺が生きているのを確認すると、嬉しそうに笑った。
ニカッと歯を見せて笑うと、彼の八重歯が異様に長く、鋭く尖っているのが目立つ。
「だいじょブ?」
「え……あ、はい」
俺は呆然としたまま、目線を彼の顔から下に移動させる。
まず目に止まったのは、彼がつけているマフラーだ。
ずいぶんとボロボロになってしまっているだけでなく、元の色がわからないくらい赤黒く染まっていた。
さらに視線を落とすと、彼の衣服が赤く汚れているのに気づいた。
たった今付いたものかと思ったが、幾つかの汚れは既に乾いており、ここに来る前から汚れていたのだと推測できた。
「アカ! ヒト、いた!」
男の子が後ろを振り返り、そう叫ぶ。
状況が理解できず、ぼんやりと彼を眺めていた俺は、彼の目線の先を追った。
「……生きてる人? それとも、死んでる人?」
ほんの少し間を置いて、彼と同い年くらいの髪の長い女の子がやってきた。
綺麗な赤いマフラーをしたその子が、俺を一瞥する。
「……生きてる人のようね」
そう呟くように言うと、彼女は男の子の方を向いた。
「アオ、その人の上の死体をどけてあげて。体液を飛ばさないように気をつけながらね」
「わかッタ」
彼が俺の上に覆い被さっていたそれを持ち上げ、俺の横へ慎重に下ろした。
俺はゆっくりと上体を起こす。
「大丈夫ですか?」
女の子が白いタオルを差し出してきた。
新品と思われるそれを血で汚れた手で触るのを躊躇っていると、彼女があまり抑揚の無い声で言った。
「お気になさらず。新品のタオルはいくらか所持してますので」
彼女に笑顔がないせいだろうか、どことなく事務的な感じがする。
「……それじゃあ、ありがたく」
女の子からタオルを受け取り、顔と両手を拭く。
白いタオルが真っ赤に染まる。
視界の端に、動かなくなったそれが映った。
これが全部なつみの――そう思った瞬間、胃の中の物がせり上がってくるのを感じた。
「うぐっ……」
タオルで口元を押さえようとすると、女の子に慌てて止められた。
「それで押さえないで。血が口から入ったら感染するかも」
彼女はすぐさまポケットからハンカチを取り出すと、俺に差し出した。
俺がそのハンカチを受け取ると、彼女は俺から少し離れた。
「堪え切れそうにないなら吐いても構いません」
……そう言われても、女の子が見てる前で吐くのは無理だ。
俺はなんとかせり上がってきた物を胃の中へと押し戻す。
「お兄さんは、こういうの初めてですか?」
吐き気が治まったのを見計らったように、女の子が声をかけてきた。
「こ、こういうのって?」
彼女が目線を俺の横にやる。
「感染者、殺したこと無いですか?」
俺は横を向くことができなくて、女の子の顔を見つめた。
「……死体は見たことあるけど、殺したことも、こんな目の前で殺されたこともないよ」
「そうでしたか。アオが何の気なしにやったこととはいえ、申し訳ございませんでした」
そう言って、彼女は頭を下げる。
やはりその言動は淡々としていて、本当に申し訳ないと思っているのかわからない。
しかし、今の俺にはそれより気になることがあった。
「今『アオがやった』と言ったけど、アオというのはそこにいる男の子のことだよね?」
「はい。それがどうかしましたか?」
女の子が何が疑問なんだと言わんばかりに小首を傾げる。
「彼は、どうやってなつみを……感染者を殺したんだい?」
彼が武器を持っているようには見えない。
隠し持っているのかもしれないが、頭を一撃で砕くような武器を隠し持つのは難しいのではないだろうか?
「ギュッてヤった」
質問に答えたのは女の子ではなく「アオ」というらしい男の子だった。
「テでギュッてして、ツブした」
彼は俺に見せるように右手を上げ、開いたり閉じたりした。
「手でって……素手で握りつぶしたとでも言うのか?」
「ウン」
アオは満面の笑みで頷く。
彼が言ったことは、俺には到底信じられなかった。
「に、人間が人間の頭を握りつぶせるわけないだろ」
なつみの頭は頭蓋骨ごと潰れていた。
常人には絶対にできない……いや、そもそも握力だけで人間の頭蓋骨を砕ける人などいるのだろうか?
「できますよ」
今度は女の子が答えた。
「確かに人であればできないかもしれませんけど、アオは人ではありませんから」
女の子はさも当たり前のように、真顔でそう言った。
俺は、女の子とアオの顔を交互に見た。
「……ああ、安心してください。アオは人間に危害を加えたりしません」
女の子は俺の様子を見て、言いたいことを理解してくれたようだった。
「彼は、私に忠実に従ってくれますから」
「オレ、アカのいうこと、マモる」
女の子の言葉に反応して、アオが得意気に言った。
「まあ、お兄さんがアオのことをどう思っていても構いません。お兄さんが無事なのもわかりましたし、私達はこれで失礼します」
「ま、待ってくれ!」
女の子が踵を返したのを見て、俺は思わず引き止めていた。
「まだ何か?」
女の子が俺の方に振り返る。
「あ……と」
何か理由があって引き止めた訳では無い。
ただ何となく、彼女達のことが気になってしまった。
特に、女の子の方……彼女はどこか、俺に似ている気がする。
何でそう思うのか、自分でもよくわからない。
「き、君達は今夜はどこで寝るの?」
「……比較的安全そうな場所を見つけて、そこで寝ようかと」
女の子の整った顔がわずかに歪む。
そりゃそうだ。知らない奴にいきなりそんなこと聞かれたら、誰だってそんな反応をするだろう。
「もし良かったら、俺の家に来ない?」
……俺は何を言っているんだ。
初対面の相手を自宅に誘うなんて、どうかしてる。
女の子もそう思ったのか、さらにその眉間にシワが寄った。
「何故、お兄さんの家に?」
「あー……俺の家、マンションの一室だけど、そこそこ広くて。食料も2人を一晩泊めるくらいならあるし、近くには感染者もいないから安全だよ」
しどろもどろになりながら、俺は何とか言い訳を考える。
なんとなく誘いました、なんて言える雰囲気ではなかった。
「アオ、貴方はどう思う?」
彼女は冷たい目を俺に向けながら、背後にいるアオ君に尋ねた。
――ああ、これは反対される流れだな。
なんて、思っていたのだけど。
「イイとオモうヨ?」
意外にもアオは賛成の意を示した。
これには女の子も驚いたらしく、わずかに目を丸くしていた。
「……そう。なら、お兄さんの誘いを受けようと思います」
「え、いいの?」
誘っておいてなんだが、正直本当に誘いに乗ってくれるとは思わなかった。
「お兄さんの家に向かう前に、アオの服を探しに行っても良いでしょうか? 流石にこの服でお兄さんの家に上がりたくはないので」
「あ、ああ、構わないよ」
確かに、今のままの服でアオに部屋に入って欲しくない。
俺は女の子の提案を受け入れ、彼らの服探しに付いて行った。
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