第1話 後編

 アカとアオは男に建物の奥の部屋に案内された。

 扉の前で男は立ち止まり、彼女達へ向き直る。


「ほ、本当にやってくれるんですか?」


 不安のせいか声が震えている男に、アカは呆れた顔をする。


「今更ね。やってあげるって言っているのだから、さっさとその扉を開けてもらえないかしら?」


 男は青い顔のまま、扉の鍵を開けた。


「グガアアア!」


 扉を開けてすぐ、耳をつんざく叫び声が聞こえてきた。

 アカが男の後ろから覗くと、ベッドに縛り付けられたアカと同い年くらいの少女が目に入った。


「ベッドなんてあるのね、このガソリンスタンド」

「……気になるのはそっちなんですね。うちは深夜も営業してたので、ここは仮眠室みたいな所だったんです」


 少女は獣のような叫びを上げて、身体を縛る鎖から逃れようともがいている。


「あの鎖は?」

「タイヤのチェーンです」

「ふーん……痛そうね」


 アカが何気なく呟いた言葉に、男は悲しそうな顔をする。


「……実際、縛り付けた時は痛がられましたよ。今は、そんなこと感じていないみたいですが」


 何を当たり前のことを言っているのだろうと、アカは思った。

 感染者は腕をもがれようが足を折られようが、止まることなく非感染者へ襲いかかってくる。

 頭を潰さない限り、感染者は痛みに呻くこともなく動き続ける。

 アカが痛そうだと呟いたのは、客観的に見たら鎖がくい込んでいるのが痛そうだと思っただけであり、縛り付けられている少女が実際に痛みを感じているとは思っていない。


「一応聞くけど、娘さんの頭を砕くことになるわよ。それでも良いのね?」


 男は、より一層顔色が悪くなっている。

 アカは男の額から尋常ではない汗が噴き出していることに気づいた。


「……具合でも悪いの?」


 男は何かを隠すように、左腕を右手で押さえていた。

 アカは無理矢理その右手を引き剥がす。

 それなりに体格差があるにもかかわらず、男の右手は簡単に引き剥がすことができた。


「これ……いつ、噛まれたの?」


 男の左腕には、噛まれた跡があった。

 血は出ていないが、比較的新しいもののように見える。


「……今朝、です。鎖が緩んでいたのか、近くを通ったら襲いかかられてしまって」

「何故それを最初に言わなかったのよ!?」


 アカが怒りを露わにする。

 当然の反応だった。

 噛まれたのが今朝なら、場合によってはガソリンを入れている最中に襲われていたかもしれないのだ。


「……こ、怖かった」


 男は蚊の鳴くような声で言った。


「殺されるのが、怖かったんだ」


 その言葉に、アカの怒りが頂点に達する。


「何よ、それ。娘さんは狂暴化する前に殺して欲しいと頼んだのに、自分は狂暴化するまで殺されたくないの?」


 鎖に繋がれている少女の叫び声よりも大きなアカの声が部屋中に響き渡る。


「殺されるのは誰だって怖いわよ。でも、貴方の娘はそれでも殺して欲しいと頼んだの。それはきっと、貴方に生きていて欲しかったからじゃないの?」


 普段は笑顔以外の表情をあまり見せないアカの顔は、怒りにより鬼のような形相になっていた。


「貴方は、どうしようもないくらい自分勝手なのね。娘さんとの約束を破った挙句、彼女の最期の願いまで叶えてあげなかったのだから」


 男からの反応は無い。

 ただ、苦しそうに胸を押さえていた。


「……もういいわ。アオ、後は頼んだわよ」

「わかっタ」


 アカはそのまま背を向けて部屋から立ち去ろうとしたが、何かを思い出したように男の方を向く。


「言い忘れていたけど、アオは人間を殺さないわよ。アオが殺すのは、狂暴化した感染者だけ。貴方がどんなに苦しくても、彼は貴方が死ぬまで貴方を殺さないわ」


 やはり、男は反応しなかった。

 彼はうずくまり、何かをこらえているようだった。

 アカの声は、もう彼の耳には届いていないのかもしれない。


「まあ、いいわ。さようなら、店員さん」


 アカは今度こそ部屋を出た。

 扉を閉めると、少女の叫び声は聞こえなくなった。

 アカは建物の入口付近まで戻り、その近くにあった比較的綺麗な椅子に腰をかける。

 入口付近の荒れ方は酷い。

 ガラスは全て割られ、休憩室であろう場所は椅子と机が散乱し、床には赤黒い染みが大量にこびりついている。

 だが、それも彼女にとっては最早見飽きたも同然の光景だ。

 この惨状にいちいち反応していては、心が持たない。

 外を見れば、来た時には真上にあった太陽が今は沈みかけていた。

 赤い夕日が周囲をオレンジ色にしている。

 アオが戻ってくるまでどのくらいかかるだろうか?

 最悪、ここで1泊しなければいけないかもしれない。

 そんな事を考えながら、彼女は外の景色をぼんやりと眺めていた。


 ――どれくらい時間が経ったのだろう。

 夕日の位置はそれほど変わっていないから、ほんの数十分程度しか経っていないかもしれない。

 遠くから、扉が開く音がした。

 周囲はとても静かなので、そんな小さな音でも聞こえてくる。

 彼女が目を向けると、アオがこちらに歩み寄ってきていた。


「アカ、オワった」


 アオは全身を赤い液体で濡らしていた。

 特に、口の周りが酷く汚れている。


「またそんなに汚して。もう少し綺麗に食べられないの?」

「コレでも、ガンバった、よ?」


 小首を傾げるアオを見て、アカは呆れたように笑った。


「せめて、首のマフラーを外してから食べなさい。ほら、またそんなに汚れてしまっているじゃない」


 アカは、アオの首に巻かれたマフラーを指さす。

 それは全体的に赤黒いが、彼の口に近い所は赤く染まっていた。


「いい加減、捨てたら?」

「ヤだ!」


 アオはマフラーをぎゅっと握りしめ、ブンブンと首を横に振る。


「じゃあ、それを外してから食べなさい。そしたら、それ以上汚さずに済むのよ?」

「ソレもヤだ」


 駄々をこねる子供のように嫌だと言い続けるアオに、アカは困った顔をする。

 彼は普段、彼女の言うことなら何でも聞く。

 もしかすると、「死んでくれ」と頼めば本当に死んでしまうのではないかと思えるほどに、何でも聞く。

 しかし、マフラーに関しては別だ。

 彼女がどれだけ言っても、彼はマフラーを手放そうとしないし、脱ごうともしない。

 理由を聞いても、「ヤだから」としか答えない。

 彼が身につけている他の衣服は簡単に捨てても良いと言うのに、マフラーだけは絶対に手放さないのだ。

 彼女は何回か捨てさせようとしているが、どう言っても彼は捨てようとしないので半ば諦めていた。


「しょうがないわね。マフラーの件は置いておいて、今着てる服は捨てることになるから、次の町で新しいものを探しましょう」


 外へ出ようとしたアカだったが、不意に奥の部屋へと目を向けた。

 もう、その部屋からは、何の音も聞こえない。


「……結構きついことを言ってしまったけど、私もあの男性と同じ状況に置かれたら、同じような行動をとっていたかもね」


 感染者は理性を失って狂暴化し、痛みを感じなくなり、力が強くなる。

 それだけ聞くと、よく物語で見られるゾンビウイルスのように思われるが、この未知のウイルスとゾンビウイルスの決定的な違いは、感染者がゾンビのような醜悪な見た目にはならない点だ。

 感染者は狂暴化する前と何ら変わらない見た目で、人を襲う。

 感染者が見知らぬ他人であれば、自分の身を守るためにその頭を躊躇ためらうことなく砕けるだろう。

 しかし、見知った人物――特に、家族のような、自分にとって大切な人であれば、どうだろうか?

 躊躇いが生まれてしまうのは当然なのかもしれない。


「結局、自分勝手よね」


 奥の部屋を見つめるアカの目は悲しそうで、どこか辛そうにも見える。


「娘さんを殺せなかった彼も……私自身も」


 アカの呟きはとても小さく、静かな空間でも誰の耳にも届かなかった。

 彼女はそれ以上何も言わず、アオを伴って外へ出た。


「さて、それじゃあ、日が暮れる前にここを離れましょう」


 アカはヘルメットを着け、バイクのエンジンをかける。


「オレ、たべタばっかリ」

「あら、食後の運動には丁度良いでしょう?」


 不貞腐れるアオを尻目に、アカはバイクを動かした。


「私はこんな所に長居したくないもの。早くしないと置いていくわよ」

「アカ、ヒドい!」


 アカのバイクは、道路に出てスピードを上げていく。

 アオは置いていかれないよう、全速力でその後を追った。

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