第1話 前編

「ようやく着いた……」


 アカは首に巻いたマフラーを緩めて、「ふうっ」と息をつく。

 彼女がバイクを押して給油機に近づけると、建物の中から店員らしき男が現れた。


「いらっしゃいませ!」

「……驚いた。営業してるの?」


 アカはてっきり誰もいないと思っていた。

 そのため驚きの余り、アカの父親と同年代であろう中年の男に向かって、ため口になってしまった。


「はい。といっても、お代は結構です」

「お金を取らないでくれるのは有難いけど、それなら何故貴方はここに残っているの?」


 商売のためであったとしても、こんな所に客など来ないだろう。

 放置していっても勝手にガソリンを入れていくから、男が残っている必要は無い。

 現に、ここに来るまでの間、無人となったガソリンスタンドからアカは勝手にガソリンを頂戴してきている。


「いやぁ、お恥ずかしい話なのですが、逃げる手段が無くて残るしかなかったんですよ」

「出勤する時に使った車は?」

「私はこの近くに住んでいたので自転車通勤をしてたんですよ。流石に自転車では安全な場所を探して移動するのは難しいと思いまして」


 周囲に車が見当たらないことから、アカは男の話が嘘ではないと判断した。


「でも、それならここを通る人達に頼んで乗せてもらったら良かったのでは?」

「……皆さん嫌がって乗せてもらえなかったんですよ」


 そう言って、男は苦笑した。

 大都市を目指す人達は、感染者に襲われる危険を伴いながら移動している。

 自分が生きることに精一杯なのに、見知らぬ他人を助けるような余裕は無い。

 そんな理由から、男は同乗を断られ続けたのだろう。


「言っておくけど、私も貴方を乗せてあげられないわよ」

「わかってますよ。そもそも、そのバイクに3人も乗れないでしょう」


 実際にはアオはバイクの横を走ってついてくるので3人乗りになることは無いのだが、アカはそのことを黙っておいた。

 時速60kmで走るバイクと並走できる人間など、普通はいるわけないのだから。


「おっと、すみませんね。お急ぎなのに余計な時間を取らせてしまって。今ガソリンを入れますので」


 慌てた様子で男は給油する準備を始めた。


「ありがとう。完全なガソリン切れだから、満タンにできるか不安なのだけれど」

「ああ、タンク内のガソリンが空っぽなんですね。今残ってるガソリンの量だとギリギリかもしれませんね」


 アカはバイクの給油口を開ける。

 男は短いお礼を述べて、そこに給油ホースを差し込んだ。


「満タンにならなくても良いわ。残り全部を入れていくのも迷惑でしょうから、次のガソリンスタンドまで持つくらいに入れてもらえれば」

「いえ、全部入れていってください! また人がやってくるかわからないですし、あなたに全部入れていってもらえた方がガソリンも無駄にならずに済みます」


 アカは男をじっと見つめた。


「……ありがとう。それならお言葉に甘えて、入れてもらえるだけもらっていくわ」


 それからバイクの給油が完了するまで、沈黙が流れた。

 普段はしつこいくらい何かしら聞いてくるアオでさえ、終始無言のままだった。


「給油終わりました。ギリギリ満タンになりましたよ」


 沈黙を破ったのは、男の安堵したような声だった。

 残り少ないガソリンで満タンにできたのが嬉しかったのか、彼はやりきったというような顔をしている。


「それは良かった。でも、本当に良かったの?」

「ええ。私はここから離れられませんから、せめてあなた達のような若い人が安全な場所に逃げることを手伝えたなら幸いです」


 眉を八の字にして笑う男を、アカは冷やかな目で見る。


「……本当に、それだけ?」


 男の肩が、微かに跳ね上がった。

 アカはさらに言葉を続ける。


「貴方が嘘をついてるとは思ってないわ。ただ、隠していることがあると思っただけよ」


 男の目が泳ぎ始める。

 彼はアカを見たかと思えば、すぐに視線を下に落とすという行為を繰り返していた。


「別に隠さなくてもいいわ。私達に頼みたいことがあるのでしょう?」


 男は目を見開くと、やがて観念した様に話し始めた。


「……実は、娘のことを頼みたいんです」

「娘さん?」

「はい。……正確には、娘だったもの、なんでしょうけど」


 男の顔は、先程までの笑顔からは想像できないほど疲れ切っていた。


「私は妻と離婚しておりまして、男手一つで娘を育てていたんです。あの日は、娘が学校帰りに私の職場を訪ねてきたんです」


 男が、悔しそうに下唇を噛む。


「ガソリンスタンドにまで感染者が押し寄せてきて、私は娘と奥の部屋に隠れました。ほとぼりが冷めるまで何日か隠れて待っていたのですが、痺れを切らした娘が部屋を飛び出してしまって……」

「それで、娘さんは感染者に襲われたのね」


 男が今にも泣き出しそうな顔で頷いた。


「何日もそこに居たので食料も飲み物も底を尽き、娘はこのまま隠れていても飢え死にするだけだと言って、私の制止を振り切って食料を探しに行こうとしたんです。ですが、建物の入口で感染者に見つかってしまい、そのまま噛まれて……!」


 大粒の涙が男の頬を伝う。

 アカは無表情のまま、彼を見ていた。


「感染者は1人だけでしたから何とか倒せましたが、娘は瀕死の状態でした。私は娘を部屋まで運び、必死に手当てをしました」


 そんなことをしても、感染者になることは避けられない。

 感染者に噛まれた時点でウイルスは体内に侵入し、噛まれた人物は生きていようが死んでいようが、やがて狂暴化する。


「無駄だとはわかっていました。でも、私は諦め切れなかった」


 袖口で涙を拭いながら、男は話し続ける。


「娘からは狂暴化する前に殺して欲しいと頼まれたのですが、私にそんなことできるはずがありません。結局、私は狂暴化してから殺すと娘に約束し、暴れられても大丈夫なようにあの子を縛り付けました」

「殺すことはできないのに、縛り付けることはできたのね」


 アカの皮肉めいた言葉に、男は泣くのを止めて顔をしかめた。


「縛り付けるのだって、心が痛かったですよ。ですが、娘を殺すよりはマシだと思ったんです」

「でも、貴方は約束を破った」


 その言葉に、男の顔が苦しそうに歪む。

 アカから目を逸らすと、彼は消え入るような声で言った。


「できなかったんだ、どうしても」


 再び、男の目に涙が滲んだ。


「次の日、狂暴化した娘を見ても、過去の娘との思い出が蘇ってきて。殺そうとしても、元気だった頃の娘の姿がちらついた」


 アカが、小さなため息をつく。


「それで、貴方が娘さんを殺せないから私達に彼女を殺して欲しい、と」

「……はい」


 消え入るような声で返事をした男を、アカは不機嫌そうな顔で見つめた。


「随分と勝手ね。自分よりもずっと年下の私達にそんなことを頼むなんて。しかも、こちらには何のメリットも無いじゃない」

「ガソリン代の代わり、だと思っていただければ」


 アカの眉間にますますシワが寄る。


「成程ね。ガソリンをあげる代わりに娘を殺して欲しいと。それ、他の人にも話したのかしら?」

「……いえ、あなた方が初めてです」


 アカよりも背が高いはずの男が、今は彼女よりもずっと小さく見えた。


「あなたが聞かなければ、私はあなた方を普通に見送っていました」

「つまり、私が貴方に聞いてしまったから、こんなことを頼んできたのね」


 男が小さく頷いた。

 アカは、盛大にため息をつく。

 彼女は正直、面倒なことは避けたいと思っている。

 別にここで感染者が増えようが、彼女達はもう二度とここに足を踏み入れることは無いから、どうでもいいことだった。

 ただただ、時間を取られるだけ。


「アオ、貴方はどう思う?」


 アカは振り返って、先程から一言も喋らないアオを見る。

 彼は、ただじっと、建物の中を見つめていた。


「……貴方の意見はそうなのね」


 アカは男の方に向き直り、はっきりと告げた。


「良いわよ。その頼み、引き受けてあげる」

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