第6話


 *



『だから言ったのよ、――、やめましょう――』

『でもお前――を――できるか?――鬼め』

『そういうのは――だって、言ったわよ?――』

 何の言葉?誰の言葉?沙羅は遠のく意識のまま、ぼんやり眺めているような、浮いているような、夢を見ているような、そんな漠然としない状態で何かを思っていた。何だろう。気だるい。このまま、何も感じずにいたい。

『私は――でも、――あなた』

「何?」

『――雪』

「ゆき?」

 目は全く機能しなかったが、こちらに多くの視線が集中しているのを感じた。沙羅は恐怖した。何かを発言しなければと思うのに、意味を持つ言葉でなく弱々しい音しか出なかった。

『へえ。あなたが選ばれたんだ』

『あなた、――を知っている?選ばれた理由も?』

「え、聞こえない……」

『まあ頑張っていきなさい。見守っていますから』

 手を思い切り引き込まれた。体は崩れて倒れながら、凄まじい速さで落下していく。止まれ、そう願っても何も起こらない。落ちて、そして急に上がって行った。揺さぶられている。沙羅は遠のく意識の中で、たくさんの声を聞いていた。夢を見ている感覚に近い。何かに近くて、遠い。


『早く、早く帰らないと』

『私の表情を返して、変わり者だなんて嫌よ……』

『もういいでしょ』

『私には、大事な娘がいるんだ』

『帰らないと。……でもこのまま、命を落とすのも、悪くないかも』

『どうか、姉様たちは助かってくれ』

『どうせ誰からも必要とされていないのだから』

 様々な声。落胆する声、歓喜する声。低い声、高い声。混じるように脳内に入って、直接語りかけてくる。懐かしい声も、誰かも分からない声も、そして自分の知る声も、聞こえて来た。沙羅は色々なものに飲み込まれて、自分が消えるのを感じた。

 見ているはずの物が、暗闇に包まれている。自分の腕も、足も、髪もそれに吸い込まれていく。

 消失。何故かこの言葉が、頭に浮かんで消えた。

 上下に体が忙しなく浮くので、頭がぐちゃぐちゃになって、もう何も考えられなくなってしまいそうで、それがただ恐かった。

『助けて欲しい?』

「モ、チロン」

『じゃあ、これらの声を全部抱え込んで、進まなきゃ』

「前に?後ろに?」

『はは、人は前後に進むのかい!』

 ついに、言葉も分からなくなったのか、私は。沙羅は思った。一瞬、自分の名前を忘れかけて、少しだけ、焦った。

『僕は、人はずっと平行線だと思ってたけど』

 昔のことを、気づかない内に思い出していた。身分が低いから、それだけで多くの人に見下され、嫌なことをやらされて、女としても、人としても見てもらえない日々。暴力だって受けたこともある。辛かった。痛いのは、本当に辛かった。

 腕が、戻ってきた。何か稲のような蔓のようなものが、巻きついて放してくれない。もしかしたら、これがずっと私を縛ってきたのだろうか。沙羅は右腕を動かしてみた。普段のようにはいかなくとも、蔓から逃れようとしてくれた。

「よいこ」

 引っ張れば、耳元で人生を嘆く声がした。怒り狂う声もした。

 どうして私だけ。どうして聞こえるのだろう。こんな目に遭うなんて、最悪だわ。

 呟けば、口が戻ってきた。徐々に自分の体が戻ってくる。感覚も、ゆっくりと帰ってくる。体に巻きつけられた蔓を千切ろうと、両手に力を入れた。もう、どこへでもいい。ここ以外なら。

『わたしはひとりになるの!』

『死にたくない、死にたくないんだ』

『あの人はどうして、私を選んでくれなかったのかしら、馬鹿だわ、狂ってるのよ』

 千切った蔓を掴んで、上へと登っていく。ここから開放されたい。こんな気持ちの悪いところから早く。

「沙羅、頑張りなさい。死ぬのは恐くなくとも、寂しいわね。生きたいでしょう!生にしがみ付きなさい、そうすれば私は――」

 眉に皺が寄るのを感じた。胸が締め付けられた。蔓が纏いついているわけでもない。

「――素直に、いられるから」

『うそつき』

 沙羅の隣には、昔会った、懐かしい姿があった。



 *

 


「よく、帰って来てくれた」

 そう言って何かを包んだ布を渡した。中にあるものが強く輝いているようで、光が漏れている。玉のような形。それが三つあった。

「これは、我が作った舞雪の種だ」

 沙羅はそれを聞くと、ゆっくりと抱き込むように抱えた。

「ここから崖を登り、地上に出る。そしてお前の町へ辿り着け。そうすれば、舞雪は完成し、舞雪となったお前は使命を果たせたこととなる。出来るなら送ってやりたい所だが生憎、牛車は無残にも壊れてしまい、牛使いもどこかへ行ってしまった」

 それから、神は外へと案内した。沙羅は後を追う。

 崖は険しく、外はかなりの温度差で、沙羅は自然と震え始める。

「外へはここを通るか、穴をよじ登るかのどちらかだが、こちらを勧める。まだ、安全だ。……頑張ってくれ、我も一緒に行くからな」

 

 何も答えずに、沙羅は崖に手をかけた。ここの熱により雪が融けたことで、岩はかなり濡れていた。滑りそうになる手足に力を入れ、よじ登っていく。

 神が持っていた紐で布の両端を縛って、玉を背負っている。だから、間違っても後ろ向きに落ちることは許されない。

 沙羅はぐい、と手を上へ伸ばす。沙羅の意識は、いつもよりもずっと、遠い所にあった。体は勝手に動いている。心は、ずっと奥に存在する。

 右足を次の岩へと引っ掛けようとした瞬間、嫌な音がして足場が崩れ、落下する。

 この最大の危機に、心はまだ、気づかずにいたのだった。



 **


 昔、鈴音にこう話したことがある。

『身分違いの恋って、憧れるよね!私もしてみたい……。すごく素敵なんだろうなあ』

 その後、文字通り死ぬほど後悔することになった。何が身分違いだ。憧れる?その時の自分は、能無しだったのか。狂っていたのか。

 見知った姿に、動揺を隠せずにいる沙羅は、気づけば昔のことを思い返していた。

 


 いつのことだっただろうか。 

 出会った当時、沙羅は結婚出来る歳となったのにも係わらず、外を出歩いてばかりいたのだった。

 この時代、女は人目を避け、男は女の噂を頼りに文を出し、やり取りをしてから出会い、結婚する。という形式を利用するのがほとんどだった。女は待ち、男から近寄る。その形がいかにも、平安の世に合っていると思ったのだろうか。

 よって、沙羅は姉たちに窘められてよく、落ち着きが無い、下品だとまで笑われたが、沙羅は全く気にも留めなかった。

 なぜなら、結婚して何が楽しいのだろう、とばかり考えていたからだ。自分の自由を奪われるようなものじゃあないのか。――これを口にすれば大目玉を食らうので、決して言わなかったが、ともかく沙羅は結婚する気など毛頭無かった。まず、大人しく待つ、という姿勢が何よりも嫌だったのも理由の一つだ。

(もっと頭が良ければ、昔の人のように天皇様に仕えて、高貴で素晴らしい暮らしが待っていたというのに)

 生活が厳しく、他人より早く働きに出た沙羅は、高い身分への憧れを、人一倍感じていた。勉学は何とか親戚に教えてもらったが、とび抜けて賢かったわけでもなかった。

(けれど、貴族の方は嫌よ。何を考えてらしているのか、とんと理解出来ないもの。――ただ少し、自由がほしいだけ。例えば、いつ買われてしまうか、とおどつきながら焦って、書物を読むことが無いように、とか)

 沙羅は本が好きだった。店番の始まる前に朝早く起きて、働かない頭を開店させ、内容を叩き込む。そして人気のない店でも、残り火を頼ってまた続きを読む。これが彼女の日課だった。

 勿論、読んでいる途中の本が買われることは度々ある。その度に寂しい気持ちになったが、読書を止めることなど一切考えなかった。本は沙羅の唯一の生き甲斐だった。

 店に人手が足りない時以外はいつも外出していた。

 日当たりの良い、道草の花が穏やかに咲く、広けた場所。地面は緑の畳のようでもあった。少し歩くと湖があって、日光を受け輝く水面はそれは美しかった。玉のようでもあった。

 特等席の木に腰掛けると、見慣れない人が湖の近くで座っている。ふとぼんやりと眺めていると、人が湖に何かを放り投げているところを目撃した。

 気に入りの場所を汚すとは。沙羅は怒りを顕わに人影の方へと近寄る。

 足音に気づいたのだろう、人影は振り返った。

「こんにちは」

 花が咲くように笑う男に、沙羅は少なからず脱力してしまう。男の人の笑顔なんて、父の次に初めて見た。表情を表に出すのは、恥とされていたからだ。

「こ、こんにちは。――それよりも、何してるんですか」

「え?」

「今、湖に捨てたでしょ」

 苦手な敬語を早々に止め、沙羅はくだけた物言いで相手に詰め寄る。男の人は分からないのか、頭を抱え、考え込んでいる。

「今!何か投げたでしょ!私見てたんだから」

「……ああ、確かに投げたなあ」

「止めてほしいの。ここ、大好きな場所だから。汚してほしくない」

 ほのかに香る香の匂いで、彼が身分の高い者だということが分かった。だからと言って、今更言葉遣いを変えるのも面倒なので、知らないふりをした。

 男は手元にある紙へ目線をやり、困った風に微笑んだ。

「ごめんね、もうしないよ。……でもね、私も困るんだ」

「どうして」

「この紙束をどうにかして帰らないとね、怒られてしまう」

 そう言うので、興味をそそられた沙羅は紙を覗き込む。その動きに男は咄嗟に両手を使って隠す。先程の言葉はさも見てくれ、と意味しているはずだろう、と沙羅は顔を顰める。

「見せてよ、いいじゃない」

「――誰にも言わないでくれる?」

「どうしてそんなこと気にするの?勿論よ」

 おずおずと手を退ける彼に、じれったくなった沙羅は、手を掴んで無理やり退けた。そこにはこれでもかと詰め込まれた文字が、並んでいた。どの字も男の人が書く字よりも美しく。事実、沙羅よりも美しかった。

「まあ!綺麗な字。女の私よりも美しい字をお書きになるのね」

「そ、そんなことない。――ひらがななんて男が書いていて……女々しいとは思わないかい」

「駄目なの?ひらがな。私いいと思うけど」

 沙羅が言ってのけると、男は唖然とした。目を大きく開き、じっと見つめてくる。

「文字の種類とか、そんなのが貴方にとってそんなに、大事?」

「……素直なんだね、君」

「自分に嘘吐いて生きたくないから」

「素敵だ」

 強い春風が吹いた。水面が揺れて、男の短い髪が揺れた。沙羅は顔が妙に熱くなるのを感じた。こんな風な品の無い口振りを、今までどの殿方も許してくれなかった。今度はこちらが呆然とする番だった。

「そんなの、初めて言われた」

「ふふ、素敵だよ」

 沙羅は赤い顔を隠すために首を振って、ふと紙に視線をやった。


 しばらく話をしてから、機会を窺っていた沙羅は願い出た。

「これ、私が貰ってもいいかしら」

「いるの?処分してくれるならこちらから願いたいけど」

「欲しいの、いいでしょう?捨てる位ならください」

 渋る彼に沙羅は微笑んで、

「その代わり名前を教えてあげる。沙羅よ。高い木の名前から貰ったわけ」

「さら」

 彼はどこか照れたように筆を持ち、紙を取った。そしてそこに何かの文字を書いた。流れる手つきについ見惚れてしまう。

「私は名乗れないんだ、ごめんよ。けれど今日のことは一生忘れはしないだろう。……もう、別れないと」

「もう、会えないの?」

「二度と会えないよ。私は貴方を守れないから」

 立ち上がった彼は、何かを書いた紙を沙羅に渡した。

「さら、私も素直でいられるだろうか」

「どうして、いられないと思うの……」

「――ありがとう、貴方はきっと、魅力的な女性になる」

 そう言い残して去っていった。紙には達筆な字で沙羅の名前が書いてあった。



 その二年後、沙羅が店番をしている時に一冊の本が手渡された。その本は沙羅の一番気に入った本で、人目につかないように、ぎっと本棚の奥へ押し込んでいた。ついに探されてしまった。仕方ない、本との出会いは一期一会。きっと、二度と会えないのだろうな、と気落ちするのを隠して、金額を告げた。しかし、相手は静かに首を振るだけだった。

「どういう事です?」

 訝しんでいると袂に本を入れられた。人肌よりも少し低い本の温度に、あっと驚いていると、人は走り去っていった。事をしっかりと理解する前に、沙羅は急いで追いかけていた。このまま放っておいてはいけない気がした。

 思いの外、相手は外すぐに捕まった。少ししか距離は無いのに、もう既に息があがって、苦しそうに呼吸する人に沙羅は問い詰めた。

「お金は……払ってるの?」

 頷く人は、布で隠した頭を深くふかく下げた。

「謝られても困るわ。私、どうしたらいいの」

「貰って――」

「贈り物のつもり?二度は会えずの方」

 驚いた様子に沙羅は指を差した。

「貴方から香る香が私の鼻をくすぐるのよ。嘘吐いてまで私を突き離して、どうしたかったのよ」

 黙る彼は周りを見渡し、何かに怯えたように走って行った。

 今度は、沙羅は追いかけなかった。

「何度も追いかけると思わないで」

 それから彼が乗り込んだ牛車は、藤の宮の屋敷の方角へと進んだ。

「追いかけるには、位が、違いすぎるじゃない」

 この時ばかりは自分の身分を呪った。沙羅はその場に崩れ落ちた。



 **


 どうしてあなたがいるの、中野家の人間が。

 言葉として吐き出したものが、急速に上昇する体と共に持ち上げられる。今回はすぐに下へ引きづられることはなく、そのままずっと上へと引っ張られる。浮遊感。何て気持ちの悪いものだろう、と沙羅は思った。時折、鳥のように飛びたい、といった風な言葉を耳にしたが、正直願い下げだなと思った。人は、飛ばなくていい。

 腹が後ろから押し込まれ、両手両足が投げ出され、横から見れば、「く」の鏡文字のような形になった。それを感じられるだけ、まだ良いものだと思って、目を閉じた。

 目を開けば、変わらずあなたが側にいた。

(来ないで。何を期待しても、無意味なんだから)

 思った。

(諦めて、誰も、来ない――)

 ようやく頭が動き始めた。現実も、見つめられた。あなたは、現実ではない。


 沙羅。手を伸ばしておくれ。

 馬鹿でしょう、あなた。ちゃんと伸ばしてるじゃない。

 君は今、命を落としてはいけない。

 ああ、このまま、あなたと一緒に、地獄へ落ちてしまいたい!色々なものから放たれたい!もう嫌、考えることが、嫌……。

 掴まれっ!

 生きる意味はあるの? 存在価値は? 生死の違いは? 生きることに意味があるというの? 存在することに、意味はあるの――。

 

 さら。


 ――ああ、そんな声で呼ばないで。



 **


「貴方は、北の地で雪を見たことがあるかな」

「雪?ここでも見れるじゃない」

 彼は静かに首を振る。

「違うんだ。北の地へ訪れて見ることに意味がある。そこには望みの叶う雪が降るという。本場の雪だ。私は、一度だけで良い、目に映してみたいんだ」

 沙羅は空を仰いで、隣に聞こえるよう呟いた。彼女の横顔は恥ずかしそうに、はにかんでいた。

「じゃあその時は、二人で一緒に見ましょう。貴方の望みは、叶った後に教えてくれる?」

「ええ、勿論。……そんな日が来れば良いものを」

「――あら、願ったって行動なしには何も叶わないわよ? 私は願うだけの人、嫌だな」

「はは、では頑張りましょう。時間がかかると思うけれど」

「なら私がその時間、短くしてあげるわ!」

 元気よく笑う沙羅に、彼は静かに笑い返した。

「どうやって?」

「意地の悪い人ねえ。――私のやれること、やるべきことは全てやってのける。それ以外のものは、そうねえ、こんな風に飛び越えてみせる! これでどう?」

 そう言って立ち上がり、その場で思い切り地面を蹴って跳ねて見せた。それを目にした彼には、声を上げてまで笑われた。馬鹿にされたとふくれながら、本気にしてよ、と願いながらそっぽを向いた。湖は太陽の光を反射して、きらきらと輝いていた。


 **


「嘘を吐かないことが、どれ程大切なのだろう」

 自問する沙羅には、答えが見つからない。岩にしがみ付く沙羅は険しい表情を浮かべる。

「身分を知った私は、届かないことを理解して、それで、私の言葉が、真っ直ぐ貫けなくなって。それが嫌で、私は色々なことを隠して、忘れたふりをして。……届かないなら、諦めてしまえば良かった」

 それが出来ないから、苦しいのだろうか――。

 あの声によって沙羅は完全に意識を取り戻し、近くにあった鋭い岩に手を伸ばすことが出来た。急いで周りを見渡す。もう少しで本当に、死ぬ所だった。既に経験したことのある恐怖だが、あまりの地面との高さに、体が震える。必死に岩を掴むが、感覚はもうどこかへ行ってしまっていた。

「人を、馬鹿にしてるの……?」

 唇を噛み締める。沙羅の思いが作り出した幻にしては、あまりにも現実味を帯びすぎていた。今はもういないにせよ、馬鹿にされたのだと思った。

 どこかに居るであろう、神の仕業だと沙羅は怒り狂った。

「あんたがしたことは、私にとってどれ程苦痛なのか、知っててやってるわけ?……あんたは、私があの方に永遠に辿り着けないと、思ってるわけでしょう?辿り着いてみせる。舞雪だろうと、何だってなってやる……!」

 体を丸めて苦し紛れに叫ぶ。泉の水が風に当たり、体の熱を奪っていく。またもや遠くなる意識に、沙羅はゆっくりと確実に上へと進んでいく。しかし徐々に力がうまく入らなくなっていき、何度も落下しかける。

(頑張りなさい沙羅。貴方、昔から木登りが得意だったでしょうに)

 叱咤して、ただ上を目指して登った。負けてなるものか、と段々傾斜が酷くなる崖を登った。本来ならば、高さや外の温度、体力などの問題から、限界を既に通り越して、落ちる落ちないに関わらず、生死を彷徨ってもおかしくなかった。それなのに。

 沙羅は、死だって覚悟していた。けれど死を望む度に彼の姿が、まぶたの裏に焼け付いて離れない。

 頭を鈍く回転させながら、沙羅はあの水には、何か力を吹き込んでいるのでは?と考えていた。たくさんの人の声を飲み込んで、沙羅にまさに注ぎ入れるように、包み込んだ。それをさせたことによって、誰の得になったのかは全く分からないが。



「……会いたい」

 体力もすでに底つき、気力だけで体を保っている彼女は、気づけばそんな言葉を口にしていた。 

「どうして。もう約束も、私も忘れてしまったの」

 二人の涙を見てきたせいか、泣き虫になってしまったと、上へと進む。

 鼠色の空が、ようやく視界に入ってきた。崖を登り終えて涙を乱暴に拭う。達成感なんてもの、どこにも存在しなかった。そんな余裕が無いからだろうか。

 白い積もった雪を踏みしめ、自分の住む町へと足を進めた。その間、言葉としては音量の小さい声が、口の端からぼそぼそと漏れた。

「――忘れてしまえば、この気持ちに気づかずにいたことにすれば、自分への嘘にはならないと思ったの」

 ぽつりと漏れた。また一粒、涙が零れた。泣きすぎだ。笑おうとして失敗して、また悲しくなる。虚しくなる。 

 彼が去ってから店番を多く担当することになったのも、湖で人影を落ち着きなく探すようになったのも。北の雪についての物語を読むようになったのも、どこへ行っても人の顔を窺うようになったのも。

「全部、ぜんぶ、貴方のせいじゃない……」

 崩れ落ちた体に、沙羅は限界を感じた。気力が消え入りそうだった。足が上手く動いてくれない。感覚も無い。――それでも自分が放った言葉を、頑張ると返してくれた答えの為に、嘘にしたくない。汚したくない。

 這うしか方法が無いと、手を前へと出し体を運んだ。

 彼に会いたい。その言葉を大事に抱えて、沙羅は前へと進んだ。辛かった。正直、諦めてしまいたかった。

「諦めて、しまおうか?」

 けれど、それならもっと早くに決断すれば良かったのだ。なのに、今まで大事に抱え込んで、忘れた振りをしていた。この気持ちを捨てることは、今の自分を捨てることに等しい。沙羅は痛いほどに理解していた。

「つつめども――」

 つつめども かくれぬものは 夏虫の 身よりあまれる 思ひなりけり

 

 北の話を探していた彼女に偶然か、この話を読む機会があった。内容は女主人に通う宮を慕う少女が、蛍の光を借りて思いを告げるというものだった。

 無邪気に宮は少女に言う。あの蛍を取ってみせて欲しい。近くでようく見てみたい。

 一体、少女は何を考えていたのだろう。――召使である自分の位置に、叶わないと知りつつも思いを告げた少女は。

 蛍を捕まえ、服の袖に隠した少女は詠んでみせた。

 包んでも、包んでも。どうしたって隠し切れないものは、蛍の身から溢れる、灯(ひ)のような、貴方への思いなのですよ。

 これを読んだ時、沙羅は思った。私と、同じだと。私も、叶わぬことを知りながら追いかけているのだと。追わないと決めたはずなのに。


「つつめども――」

 蛍の力を借りずに、私は貴方に思いを告げてみせよう。次に会った時に思いを告げよう。沙羅は何度も立ち上がろうとして、力が入らず雪に突っ伏す。身分なんて、この世から消えてしまえ、と沙羅は思った。身分の違いで諦めないといけない恋なんて、無くなってしまえばいい。

「――ごめんなさい、ずっと嘘吐いてたのは、私だわ。――私は貴方を」

 続けられない言葉を飲み込み、再び泣き叫んだ。呼吸もし辛くなり、前へ進むことも出来ない。体を震わせて泣く姿に誰かが近付く気配がした

「ここまでか。真の己の心に気づいたというのに」

 神のお声。全く、有難くない。信仰心はあまりないけれど、神のお声を授かったら、必ず言う通りにしようと思っていたのに、と沙羅は地面を見つめる。

「あの方の姿をちらつかせてまで、私に嫌がらせをしたかったというの」

「そんなことをすると思うのか」

「……貴方は、励ましてくれたのでしょう?そして、大事なことを嫌でも思い出させた。違う?」

「――いや、その通りだ」

 苦笑する神に、どうやったら幻を作れるのかを問うた。幻で満足するつもりは無いが、やはり気持ちに整理がつくまでは、彼に縋っていたい。

「……それは、お前が持っている物に籠められた強い心を、具現しただけなんだ。つまりこちらが少しの力を貸して出来た幻覚というわけだ」

「持っている物」

 沙羅は震えて言うことを聞かない手を無理矢理に懐へと入れた。中にある本を取り出し、雪に触れないよう注意して掲げた。

「これに、そんな強い力があるというの?」

「ああ。本、というよりも本に隠された手紙によるものだろうがな」

 その言葉を理解するのに時間が掛かった。本以外のもの?

 急いで沙羅は、本のを探る。しかしこれを愛読書として持ち運ぶ位に読み込んでいる。北の地の話が載っている所なんて破れて読めない所まで存在する。ぱらぱらと捲る手を休めることなく探してみるが、一向に手紙が見つかることはなかった。

「……嘘吐いた?」

「それは折り本だろう?一枚の紙を折り畳んで一つの本にする形の」

 折り本。沙羅ははっとして本を大きく広げ、上から覗く。そこには丁寧に畳まれている紙が入っているように見えた。沙羅は急いで本を傷つけないようそれを取り出し、美しい字の手紙を手にした。

「ああ……」

 宛名は確かに自分の名だ。上手く捲れない指に焦れながらも、紙から透ける彼の字に、涙がまた零れた。

 黙って読み進めていくと、今までのこと、将来についてのことが事細かく書かれてあった。そして何より最後には、彼の名前が記されていた。

「藤、道様」

 愛する人の名を知った瞬間だった。

「――私、やっぱり彼に会わないと。そんなこと、許さないから。……言いたいことがたくさん出来た」

 そう言って立ち上がる沙羅に、神は静かに側に寄る。自然と寒さを感じなかった。彼の言葉だけでここまで力を得られたのだ。笑う沙羅に頼もしい、と言葉を返した。

「さすがだな。女は強い」

「あら、諦めが悪いだけよ。皆が皆、強いわけではないの。――私は、あの少女のように思いを告げます。この気持ちに気づいたのも、貴方のお陰だわ。神様、私に何かして欲しいこと、ある? もう、余興だなんて嘘を吐かなくともいいのよ」

「――その言葉に嘘が無いなら、頼りたい」

「どうしたらいいの?」

 神は俯いて自身のことを話した。そこに見知った名前が出てきたことに、沙羅は驚愕することとなる。


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