第4話


 ***


 

明子は、藤篤の現在の身分でさえ、優に上を行く天皇の娘であった。しかし、神は何を思ったか知らないが、彼女と藤篤が出会えることとした。

二人は初対面にも関わらず意気投合し、文のやり取りを始める。藤篤はその頃から気難しい者だったが、明子とは心を開いて、接した。

しかし、藤篤の元々の身分は町長の息子であったので、他よりは幾分高い身分であったとしても、天皇の娘とは、まったくもって釣り合わない。

そのやり取りを知った天皇は激怒し、恥晒しとまで蔑まれ、明子を屋敷から追い出した。それだけではこと足りず、親の縁までも切るという始末だった。

無一文となった明子に頼れる者は藤篤だけだった。すぐさま藤篤の元を訪ねた。

そして、その後に夫婦の仲となる。


 藤篤が就いた職で彼の手腕が見事に発揮され、二人は上流貴族までのし上ってみせた。今では〝藤の宮〟と庶民から呼ばれるほどに、天皇に遠くない位置にいた。

 次第に増えていく力という名の権力、財力。徐々に藤篤は、その果てしない魅力あるそれに溺れていくようになり、二人の仲は裂け、深い溝が出来てしまった。

「貴方は、どうしてそんなものに拘るの?藤道や私を何だと思っているの?家族ではないの?愛してなんてなかったの?」

「お前は、元々が偉い地位に居たから、この素晴らしさに気づかないのだ。別に私はお前を嫌になったわけでもない。ただ、もっと財が得られるのならば、何もしておらぬお前が働いて、もっと裕福になろうと言ってるだけだ。藤道も後にこの家を継ぐのだ。この名に誇りを持って生きて欲しいと思うのは、当然だろう?親として」

「だから、藤道をこき使って金を稼いだの?まだ体がしっかり出来ていないのに……それでなくとも、金を稼ぐなんてこと……しなくて良いのに!今、ここで体に何か異常があったらどうしてくれるの!あの子の将来を考えてっ!たくさんの重たいものを担がせてまで、そんなに金が欲しいの?ならば貴方自身が行けばいいじゃない。――狂ってる。何故、あの子を使うの、狂ってるわ……。二度と、親の心を語らないで」

藤道は五歳の頃、運び屋をさせられた。他にも、たくさんのことをやらされ、働かされた。それも勉学や音楽に励む時間に、である。母はすっかり安心していたのだ。まさか父に連れ出されているとは思いもせずに。

しかし幼い藤道の頭では、利用されていることが分かるはずもなかった。ただ、父親を喜ばせたいばかりに、必死に重いものを運び続けた。五歳児には持てる重さではなくとも、藤篤は大丈夫だと言って運ばせた。

「出来るな?お前は凄い子だからな。簡単だな?」

「も、もちろんです」

「凄いぞ、私は嬉しい。――私を失望させてくれるなよ?最後まで頑張れよ」

「わかっております」

 そんな無感情の言葉でも、藤道は嬉しかった。藤篤はここ最近実の息子でさえ、顔を合わせると眉を顰めて、嫌なものを見るようにするのだった。ここで、こんなにも優しい声を掛けて貰えるのなら、藤道は自分から志願してまで、働いていた。

 父からもっと褒められたいが為に、担ぎながらも全力で走ったりもした。それもかなり長い時間、駆け回り続けていた。


 母が気づいたのは、藤道が足を引きずるように歩き、それを必死で隠すような仕草をよく目にしたからだ。このことは内緒だと念を押されていた藤道は、絶対に話さなかった。

「母様にも言えないことなのねっ?貴方は私にそんな接し方をするのね!」

「そんな……ちがいます。でも、……言えません」

 埒があかない状況に、母は目を潤ませて首を振る息子の足を掴んだ。すると、藤道は絶叫して、離してください、と懇願し始めた。驚いた母はすぐさま手を退けて、そっと触れないように足を見た。

 皮膚の色は変色し、違う方の足と比べれば、明らかに大きさが違った。母に掴まれたことがきっかけで、耐え切れなくなったのだろう、ひどい痛みを訴え始めた。

「助けて下さい、たすけて、母様あ!」

 その声が、今現在も明子の耳につき、夢に現われて、離れない。


 *


「あのお方に、何があったのかしらね」

 辛そうに笑う母を見て育った藤道は、自分のせいなのだ、と悔やんだ。どうして、自分は黙っておけなかったのだろう、勝手に治すべきだったのだ。薬草でも見つけるなりして。

 父とは、事がばれてしまってからは会うことは出来なかった。

 藤道の足は後遺症もなく、完治したことにはしたが、塗りたくられた薬草やらの匂いや固定された布の感覚がこびり付いていて、しばらくは歩き方がたどたどしくあった。

藤篤は、この場所を母に譲り、出て行ったという。後から考えれば、それは藤篤をどうしても思い出させるように仕組んだのだ。藤篤を思い出すことにより、明子は苦しむ。それをよく分かってのことだろう。


 明子は藤篤と別れてしばらくして、ここに居ることを不快に思い、金もまた藤圧が置いていったのでそれを使い、自分は彼に騙されていたのだと嘘を吐いて、親戚などに手助けされることによって、自身の家へと帰ることが出来た。譲り受けた土地は売り払った。

 母は藤道が勉学に努めることを、快く思っていなかった。よって、教育など一切受けさせなかった。その時代考えられないことを明子はやっていた。慕う者が出来たのならこちらに嫁入りさせて、一緒に暮らせばいい。金はたんまりと存在するのだから。藤道に必要ではないことは、極力させたくなかったと言う。よって、勉学については独学でやることとなり、理解出来ないところは、従者に隠れて尋ねなければならなかった。

母はあの時の失敗から、他人を頼ることが出来ず、自分以外信頼出来ないと藤道を自室に居座らせ、寝かせた。母は、

「そんなにね、勉強なんてしなくて良いの。賢い子にならなくとも良いのよ。貴方は優しい子に育ってくれた。母様はそれだけで十分なのです」

 と、微笑んで言った。

……それでも。十分ではないのは、藤道だって理解出来た。藤道の前では強く生きているように見えても一人になれば、辛そうに息を吐く母の後姿を、藤道は知っていたのだ。当然だ。愛していた男が裏切り、息子を傷つけられ、自分をも、傷つけた。

 母はまだ、父を愛していた。今も多分どこかで、愛しているのかもしれない。許したいけれど、許せないのだ。自分の存在のせいで。

藤道は自分を守ってくれた母に感謝している。……けれど、もし、一度でも母が守ったことに後悔していたら。どうしたらいいだろう。藤道は命を捨てたくなった。

 

――高い身分に酔った者がこうまで、おちぶれてしまうのなら、もっと低い、低い身分ならば良かったんだと、屋敷の周りを歩く子供を見る度に羨んだ。

 

藤道は短時間で、恐ろしい程成長した。伸び盛りというのも手助けしているとしても、その神童ぶりには、周りの大人を驚かせるには十分だった。藤道の噂は屋敷から、貴族へ、そして多くの民にまで行き渡っていった。そして、藤篤の耳にも当然、その音は届いていた。

藤道は得意げに母に問うた。

「母上、私は聡い子になりました。今では多くの者がそれを知っています。嬉しいですか?」

「嬉しいわ」

 微笑んで答えてくれた。その笑顔に、藤道は痺れるような歓喜を感じていた。

「だからもう――」

「母上、私、もっと頑張りますね!頑張ります、絶対に。母上は、誇りに思って……くれますか?」

「もう、貴方は既に私の誇りですよ」


しばらくして、藤道宛に文が届いた。父からだった。わざわざ母の目が届かないように文使いをやったのだ。藤道は純粋に喜んだ。そして焦って震える手を使って封を開けた。

内容は簡潔で、自分と一緒に住まないか、といった誘いだった。その、二、三行で終わっている文を見つめ、父の考えが手に取るように分かってしまった。もう、自分は昔の無知な自分ではない。

(父上は、恐れているのだ。私が、復讐でも企てないか、と)

 だから身近でそれを阻止したい。そういうことなのだ。決して、実の息子に会いたいわけでもなく。藤道は落胆した。けれど、一瞬だけだった。

(ならばこちらも、利用しよう。今まで練っていたことを、実行する機会がやって来たのだ)

藤道はこのことを嘘を吐かずに、真実だけ述べた。というよりも、述べざるを得なかった。母に嘘など通じないし、嘘を吐くことを心底嫌っていた。

藤篤には既に妻がいた。ならば必要ない、むしろ邪魔にしかならない藤道を、何を思って側に置くのか。貴方を利用しようとしているんだわ、と勿論、母は猛反対し反発した。年も僅かな最愛の息子まで、奪われてなるものかと。

しかし、藤道は何と言われても、自分の意見を貫き続けた。

「母上、私は行きます」

 藤道の意思により、藤道は中野の姓を、再び背負うこととなった。

「どうして……!」

 荷物を牛車に乗せて、立ち去ろうとする息子に縋り、嘆き狂った母。藤道は一切理由を口にしなかった。ここで口にすれば、失敗する確率がぐん、と上がってしまう。

ただひたすらに、

「このことは、母上のためになりますから」

 と言い聞かせることしか、出来なかった。


藤道はそれから、様々な制限により縛られ続けている。外出の禁止や歌を詠んではいけないこと、音楽に親しんではいけないことなどがあり、ともかく藤道の才能を高めることをしてはならないことになっている。

 何より厳しく言われ続けているのは、藤篤と新しい妻の子――藤丸との係わりだ。

決して余計な言葉を交わすな。顔を合わせるな、絶対に。この言葉により藤道は義弟と話したことがない。

怨むべき位置にいるはずの藤丸を、藤道は家族として接していた。彼が悪いわけでは決してない。可哀想に巻き込まれただけである。藤丸との会話がないことを、誰よりも悲しく思っているのは、藤道であることを皆は知らない。


**


「兄上、どこに行ってらしたのですか」

しまった、と藤道は後悔する。いつもなら従者が使う廊下を選び、弟の部屋から遠ざかり、部屋へと帰るのに。多くのことが起こりすぎて、すっかり忘れていた。

「大したことなどないよ」

 そう言ってあしらおうとしたのに、

「答えになってません」

 藤丸が引くことはなかった。

藤丸もまた同じように父から、

「義兄と近づくな」

と、言われているはずなのに、藤丸はお構い無しに声を荒上げる。まだ幼さが残る、義母に良く似た顔に、藤道は苦い表情を向ける。こんな所を目撃され、告げ口をされたりすれば、間違いなく仕置きだろう。義弟も馬鹿ではない。分かっているはずだ。

分かっていてやっているのならば、こちらから去ろう、と足を向けると、藤丸も動きを真似する。

「早く離れなさい」

自分で言って寂しく思うが、慌てる様子が一切ない弟を見て、気が気でない。

「お答えをまだ耳にしてません」

「藤丸」

「兄上の母上ですね?そうでしょう!――話したくないのも、私みたいな憎い者に大切な人を話したくなくて……」

「違うよ」

部屋の戸を開け、そっと藤丸を見る。

「もうすぐ、終わるからね。藤丸が悩んでいることには、消えてもらうから」

「……わ、私を亡き者にしようと――」

「だから違うよ。……ほら、そんなことより土産がある」

袂から小さな包みを取り出す。八郎に買ってきてもらった品だ。藤道は弟の小さい手に握らせて囁いた。

「唐菓子だ。一人の時にお食べ」

「に、兄様」

「うん、まだ兄様にしておいてくれ。急に大人びては寂しい」

無邪気に微笑む藤道を目にして、藤丸は戸惑いながらも笑い返した。不格好な笑みだった。それに対し、さらに笑みを深めた藤道はまるで、小さな子供のようだった。

さあ。早くお帰り、と背中を押す手に、藤丸は反発するよう足に力を込めた。

「兄様、私は貴方を嫌だと思ったことは、ありませんから!」

「ありがとう。嬉しいよ」

「う、嘘だと思ってますね!本当です、貴方みたいに嘘はつきませんから!」

「ようく分かった、だから早くお帰り?」

まだ渋る藤丸を、父上に怒られるのでは?と呟けば、仕方ないとゆっくりではあるが動き始めた。その後ろ姿を見送って、空を仰ぐ。大分あちらに長居していたようで、もう日が暮れようとしていた。

(母上、藤丸。私の家族を取り巻く悪いもの全て、とはいかずとも……私の出来る限りでそれらを無くしてしまおう。それが私の使命。私の愛する人たちの為――)

「時はのちに満ちる」

襖を閉めた音だけが残り、そして消えた。



 *


 従者は女たちが寝静まった夜の内に、地面に向けて雪の入った桶を引っくり返した。ばさり、とかなり大きな音がした。しかしそのことに、あまり危機感を覚えなかった。目が何度も閉じかけて、意識が飛んで行きかけた。さすがに寝ずに北から戻ってくることは難しいのか、とつらつら思った。

 朝、まだ太陽が昇らない、元気のない空を仰いだ。もう帰られる。もう少しだ。


「君に願いたいんだ。頼むよ。彼女らを守ってくれ」

 藤道の言葉を頭の中で繰り返す。従者は、首が取れそうなほどに頷いた。藤道はその様子に苦笑してみせた。

「さくら、寒いね。早く帰ろうね。藤道様が待ってるからね」

 優しい人だ。それと、可哀想な人だ。わざわざ女の従者を選んだ藤道は、

「守ってくれ。それだけでいいから」

 とだけ言った。そんな風に、優しさを誰かに向けられるなんて、自分には出来ない。藤篤の命に従って、藤道の分を捨ててしまった。そうしないと、自分の立場が危うい。そんな自己中心の考え方に対して、やはり罪悪感を感じてしまう。


「次は、誰かの為に、優しさを……ね」

 ふと、この方向でいいのか?という疑問が湧き上がった。辺りはまだ暗い。道を見失いがちだが、急いで帰らないと。藤道が待っているのだと、夜であっても一睡もせずに前を向き続けた。

ふと、一瞬光った気がした。何かは分からない。その時に遠くに崖が見えた。危ない!そう思って道を変えようとしても、遅かった。そう思った。

やって来た浮遊感。牛車は気づけば、落下していたのだった。


 *


「あ、また」

早く目覚めた女たちは、談笑していた。蛍がふと外を眺めて言った。

「どうしました?」

「また牛車が。昨日もすれ違ったわ。どこのお貴族様かしら」

「噂を聞いた物好きが、北へ出向くと。なるほど。お暇ですね」

「ふふ伊勢、貴方ったら厳しいのね」

「……驚いた、無意識の内でした」

沙羅のことで貴族に対しての考え方が変わった女達は、笑う目にどこか皮肉と嫌悪感を詰め込んでしまっていた。それを知る沙羅は、どことなく苦い表情をするが、自分も確かに貴族については、姉たちと同じ意見である。少し頭が変だ。金の無駄遣いとか。

未だ元気が出ない沙羅を気遣って、皆面白い話をしようと口を動かしていた。

「そういえば透子は、好きな殿方がいるの?」

 蛍の声に反応した沙羅を見て、皆心の中で蛍を称える。そして自然と皆の透子への視線が縋る風になった頃、透子はもったいぶるように言った。

「さてねえ、言うのも惜しいわね」

「あら、私は言ったわよ?教えないなんて理不尽ではなくて?」

「どうしましょう」

「とある物語の殿方のように、たくさんの恋をしてきた貴方が選ぶ人は、どんな人なのでしょう……。気になりませんか、沙羅」

 わざとらしい言い方だが、沙羅は全く気にせずに、瞳を輝かせて頷いた。

「透子姉様は、本当に好きな方がいるの?」

「ふふ、いるわよ」

「本当!誰?ねえ、私が知ってる方?」

「ようく、知ってるわよ」

 横目で考え込む沙羅を見つめる。

「時間あげる。考えてみせて」

「教えてはくれないの?」

「ええ、だってその方が楽しいじゃない」

 先程よりも断然楽しそうな沙羅を、女たちは目配せしながら微笑み合う。そして不自然に思われないように、こちらも会話する。

「伊勢はいないの?慕っているお方は」

「今の所はいませんねえ……」

「まあ伊勢よりも格好良い方なんて、滅多にいないものね」

「そうでしょうか、分かりません」

 苦笑する伊勢を見上げて、沙羅は問う。

「伊勢姉様は分かってるの?」

「ふふ、知っています」

 ということが嘘です。と心の中で追加する。多分透子が好きな方も、きっといないだろう。嘘も方便というからなあ、と伊勢は思っていた。

「そんな!では、蛍姉様も?」

「私は知らないわよ?でもねえ、何となく予想は出来るかな」

「誰?」

 笑う蛍は透子を一瞥して、答える。

「――伊勢」

「え?」

 沙羅は目を丸くする。何を言っているのか、よく分からない。

「お姉様、伊勢姉様は女の方で……」

「そうでしょう、透子」

答えようと口が開かれた瞬間、牛車が急に揺れ、下へと落下していくような感覚に陥った。

「ひゃっ!」

 中にいる女達は辺り構わずぶつかり、前につんのめる形で団子状態となっていた。遠くで牛の悲鳴が聞こえる。時は待ったを与えず、新たに被さってきた雪の重さで潰れた屋根から雪崩が起きた。体の小さい沙羅はすっぽりと雪に埋もれて、息が出来なくなる。他の者たちも首まで雪に埋もれ、必死に息を吸おうとした。

もがく女達に容赦なく下からも、鋭く尖ったような物が突き刺さり、沙羅の右足を掠った。

「ひっ」

 広がる痛みにより、さらに呼吸がし辛くなる。沙羅は荒い息をしながら雪を無茶苦茶に掻き分けた。あまりの冷たさに瞬間的に手の感覚が無くなるが、こんな雪に殺されてたまるか、と闇雲に掘った。

すると、背後から押し上げてくれるものがあって、沙羅は何とか空気を吸うことが出来た。

「大丈夫ですか、沙羅」

 顔が青い伊勢に、沙羅は困惑する。感謝の言葉も忘れて、どうしたの、何があったの、と問い詰めると伊勢は、腕に木が少し刺さったのだと、苦笑混じりに答えた。

「医学については全くの無知ですから、この状況をどうしたらいいのか……分からないんです」

 ずっと血が流れ続けているのだろう、掘り出した腕の近くの雪が濃い赤に染まっている。しかしこの量は、伊勢だけの血ではない。

ふと辺りを見渡すと、伊勢の片腕に蛍の頭があった。意識を失っていて、額には汗が張りつかせている。荒い呼吸に時折、苦しそうな呻き声が混じる。

「蛍、姉様……?」

「彼女は腹をやられているみたいで……傷は私より浅そうですが、元々体が丈夫でないし、それにもし無理やり抜いて、変な病に侵されたりしたら私は――」

「透子姉様は?」

「……分からない」

その言葉に沙羅は違う意味で震えが止まらない。二度は泣くものかと唇を噛み締めるが、早くも視界が歪み始める。沙羅は憎しみとたまらない不安を抱えながら辺りを掘り始めた。その手に、ありったけの憎悪を込めて。

「全部……全部こいつのせいで……!」

「沙羅、蛍姉様を頼みます」

はっとする程の優しい囁きに、沙羅は動きを止める。そして驚愕する。

動けないはずの伊勢は、足を前に動かし、歩き出していた。膝まである雪を掻き分けて進む彼女の腕に、視線が吸い付いた。

腕は雪によって見えはしないが、通った後の白に薄ら、鮮明な赤が点々としている。無理をしているのだ。制止させようと、必死について来る沙羅に、伊勢は切迫した顔で詰め寄った。その顔は汗でびっしょりで、眉に深い皺が刻まれていた。歩く度にうごめく痛みの元に、きつく爪を立てていた。それを見て、咄嗟に沙羅はその手を掴んだ。が、力が強くてとてもじゃないが、引き剥がせない。

伊勢は言った。その声があまりにも冷静で、沙羅は驚きの色を顕わにする。

「何をしているのです、聞こえませんでしたか?」

「へ……?」

「蛍姉様を頼みます。――沙羅、ねえ、どうして動かないんですか。貴方が、こんなに……こんなに!聞き分けのない子だと、思わなかった!」

 途切れ途切れになる言葉は、痛みが呼吸を邪魔するせいでも、寒さのせいでもないのが、沙羅には分かっていた。

ただ、どんなに嘘であろうとも、初めて受けた棘のような伊勢の言葉に、どうしても唖然としてしまう。気圧され、傷つけられ、沙羅は何も音に出来なかった。目が大きく開き、揺れる。

「――貴方は今、何を優先すべきだと感じる?今、何を考えているの?私はねもう、すぐにもぶっ倒れそうなんですよ……!動ける貴方はしっかりと蛍姉様を守りなさい、お願いよ。……私も、頑張るから」

「いやよ、いかないで」

「沙羅、貴方は小さくとも、きちんとした心を持っているでしょう?大丈夫、まだ生きたいから」

 掠れる語尾に、伊勢は情けなくなりながらも、厳しい表情を作ろうとして失敗した。呆れて伊勢は笑ってしまった。その笑顔は、何かを諦めた風でもあった。

「沙羅、蛍姉様の元へ。――そう、蛍姉様を動かさないように、抱え込んで。いいですね、では行きますよ」

 そう言い終えるなり、伊勢は思い切り牛車の壁に蹴り込んだ。恐ろしい音が辺りに跳ね返ってきたが、薄らひびが入っただけで、大きな変化はなかった。

「……堅いな、さすが貴族の車」

 伊勢は女だが、昔武士の友と体を鍛えたりしていたのだ。よって普通の女とは違い、体力も腕力もあった。しかし今の時代それは恥ずべき、はしたないこと。彼女は普段からおしとやかに生活するよう心がけていた。

 何発も蹴りや拳を当て続けていると、ようやく大きなひびが出来た。伊勢は何度も消えそうになる意識を呼び覚まし、渾身の一撃を与えた。

 先程よりも鈍く低い音がしたと思った瞬間、雪が開いた穴から雪崩れ落ちていく。それにより傾く牛車に沙羅は、一生懸命蛍を抱え込んだ。動かさないようにしないと、そう思っても上手くいかない。蛍は何度も苦しそうに呻き、叫んだ。

「蛍姉様、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 牛車が地面に落ちた衝撃により、沙羅は強く背を打ち、外へ出た。どうやら牛車と地面は離れていたらしい。あまりの痛みにしばらく動けずにいたが、ようやく薄く目を開けて、周りを見る。すぐ目前には巨大な木があった。その枝は所々赤く染まっている。そして牛車の残骸が、枝に残っていた。どうやら宙吊りの状態にあったらしい。道理で地面に叩きつけられたわけだ。

「皆は……?」

 沙羅は起き上がって、もう一度きちんと周りを見渡す。外は不思議と暖かい気候にあり、牛車に降りかかっていた雪は、みるみる融けていった。

沙羅はそれを優越感の混じった目で見つめて、――はっとする。

「私は、今、何を思っていたの」

 この白に何を感じているの。沙羅は強く打った頭を抱えた。何かを思い出しそうになって、必死に止める。言うことを聞かない自身に恐怖さえ感じていた。

「何があったというの、私――私が、北の地に憧れた理由――」

 思わず泣きそうになっている自分。沙羅は力無く崩れ落ちた。

「あの方に会っただけじゃない……」

「沙羅」

 伊勢の声がしたような気がして、人の姿を探す。そこに、黒い髪が見えて、がむしゃらに這い、近寄った。

ぐったりと倒れたまま起き上がれない伊勢に、声をかける。

「お気をしっかり……!」

 すぐに伊勢の近くへしゃがみ込み、持っていた小さな布で傷を塞ぐ。しかし、沙羅もまた医学については無知であったので、ただ包み込んだだけである。震える沙羅の指先を、伊勢は自身の手でしっかりと包み込んだ。

「ごめんね」

「え?伊勢――」

「ごめん、沙羅。貴方の為にはならなかった……!」

「どういう意味……」

 遠のく意識を繋ぎながら、伊勢は何度も謝った。虚ろな瞳を沙羅は、どうする術もなく、ただ祈るように手を握り続けた。このまま、伊勢が息を引き取ってしまったら――。考えるだけでおぞましかった。ずっと喋り続けて欲しくて、ひたすらに相槌を打った。

「貴方が北に憧れていたのを知っていたから、戸惑う貴方を丸め込んだ……。けれど、着いた早々絶望した。私が、ね、何も言わなければ良かった。そうなんだよ。そうすれば……、こんなことに巻き込まれなかったんだ」

「そ、そんなこと!だって私は私の意志で――」

「私は、貴方に幸せになってほしい。勿論私の家族は皆、幸せになってほしい。誰か一人でも、不幸になんてならないで。そんな風に思ってる、いつも」

 無言になる沙羅に、伊勢は少し視線を上げてただ呟く。細々と動く唇が発する音は弱々しく、小さかった。

「私の本当の母は、貴方たちが呼ぶ母様だ。どうして母様が母と呼ぶように言うのか。どうして部屋を用意するのか。それは全部私のせいなんだよ。

 私の父は事故で亡くなった。あれは冬の時だったかな。私はひたすらに寂しかった。母もそうだった。……けれど、新しい父などほしくなかった。大好きな父の代わりなど、誰も務まらない。というよりも、亡くなった者の代わりなど元々いないだろう?……けれど一人っ子だった私は姉妹がほしかった。寂しかったんだ。そのことを、ずっと黙っていた。でも、耐えるに耐え切れなくて、勇気を出して告げると、母はすぐに答えてみせた。

『私はもう、貴方だけの母ではなくなるけれど、それでもいい?』

 私は勿論だと頷いた。当時幼い私には家族が増えることだけで頭が一杯だったのだ。

そして母は今の店を建てた。そしてたくさんの女たちを雇い始めた。女だけなのは、母が店内での問題を少なくしようとした為だ。殿方が周りにいれば、恋愛後となど、問題が出てくるだろう?――よって私は家族を、手に入れた」

「姉様……」

「沙羅、私は元々男っ気があった。物事を隠すことは今になってもまだ、苦手だ。私の性格で傷つけられた人はたくさんいる。家族と言ったって、仮の家族だ。謝る前に店から出て行く者だっていた。それは一度じゃない。何度もあったんだ。私は変わる決心をしたんだ。このままではいけないと思った。――大切な家族を大切にするため、態度だろうと言葉遣いだろうと丁寧に、触れるのさえ恐れるほどに優しく接した」

 眉根を寄せて、胸の辺りを握り締め、伊勢は眉間をきつく顰め、告げた。

「沙羅、私は間違っていたんだ。幸せになる蛍姉様を、去ってしまう蛍姉様を私が、――な、亡き者にしたんだ……!透子も、生きてないかもしれない……。私が願ったから、白粉に、〝行かないで〟と願ったから――、きっとそうなんだ!」

「え?」

 伊勢は怪我のない腕で顔を隠し、嗚咽を漏らした。そしてしきりに、私のせいだと呟いた。

「大事にしたかった、それだけなのに――、沙羅、ごめんなさい。皆、ごめんなさい」

「伊勢姉様、大丈夫よ。それに蛍姉様もまだ生きてるわ、絶対に」

「何が大丈夫なんだ……」

「大丈夫。だってその白粉は、本物ではないもの」

 首を力なく振る伊勢の手を、強く握り締めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る