第3話


 *


 

 太陽が空高くに昇る頃、ようやく目的地に辿り着いた。藤道は珍しく焦る心を無茶苦茶に押さえつけ、ゆっくりと地に足を着けた。

「懐かしいな」

 幼少時に植えた苗は今やもう、立派に成長していた。随分前から大きくなっていたのだが、来る度に苗の時の高さを思い浮かべる。――当然だが身長も優に越えている。葉がほとんど散ってしまい、茶色の枝のみが風に揺られていたが、その姿はどこか堂々としていた。けれど、それが見栄を張っているように見えて、少し笑う。

 この木を見上げると、どうしても時が経ったことを痛感してしまう。

 木の姿をじっくりと堪能してから、伸びをして、久し振りの外の空気を思い切り吸い込む。広大な池、豪華な建物。周りを覆う竹の垣。ここは藤道が幼少の頃に、少しの間だけ暮らしていた場所である。しかし、自分の中では最も思い出深い場所に、藤道は微笑んだ。

 普段の落ち着いた表情と、時折見せる幼い表情が逆に入れ替わり、付き添いの者は目を細める。

 垣にあった黒い染みを探し出し、彼は楽しそうに指差す。

「これ、この字読めるかい?――ああ、雨などで大分ぼやけてきてるなあ。実はここにね、私の名が書いてあるんだ」

 従者は染みを凝視した。言われて初めて分かるような小ささだ。解読しようと顔を寄せる付き人を放って、藤道は場所を転々とする。

(前に来たのはさて、いつだっただろう。――初夏だったかな、新緑が美しかったのを覚えている……)

 池を差し示して心底楽しそうに話しかけた。

「あそこ辺りで、私は一度水の中に落ちてしまったのだ。母上は心底心配してくれた。……しかし私は反省もせず走り回り、心配をかけたものだ」

「へえ――」

「勿論、二度と水に入ることはなかったよ。学習したんだ」

 口を閉じて、何かを言いたそうにしている従者に尋ねた。すると彼は苦笑して

「実にらしくないお姿だと」

 と答えた。藤道は問う。

「――それは今の姿かな、それとも昔?」

「どちらもですよ」

「そうか、私もそろそろ止めないといけないと、思っていた」

 落ち込んだ風に言うので、慌てて冗談だと取り繕っても、藤道は遠くを見据えて離さない。その顔には、先程の無邪気さが消えてしまっていた。

「分かるよ、先程の私は実にはしたないね。――それでも、心情を晒すことに恥じてはいけないんだ。私もやっと理解したばかりだけれど」

「……すみません」

「謝ることはないよ、八郎」

 そう口にしてから笑みを作った姿が何故か、痛々しく覚えて。苛立たしげに待っていた案内の者でさえ、はっとした表情になる。

 八郎と呼ばれた男は、従者になってまだ年も明けていない。が、藤道が酷い、辛い状況にいることは痛い程知っていた。

 藤道の横顔を目にして、先程の無礼と変わらない言葉を取り消したい思いで一杯になった。第一に従者の名を覚えてくれる貴族など、初めてだというのに。つい、馴れ馴れしく接してしまったと心底後悔する。

 藤道は、父親から外出禁止を命じられている。母親との対面も、母親から強く責められなければ、一生叶うことがなかっただろう。それ程に、徹底して藤道の行動を制限していた。

 それなのに、彼は一切、怒りをあらわにせず過ごしている。微塵も見せない。むしろ、それが世の常識とさえ思っていそうであった。このことによって、退屈そうにすることはあっても、塞ぎ込むことも、怒り狂うことも無かった。いつも物静かに、優しげな微笑をたたえている。

 それを見た女子は余りのいじらしさに、心を捕まれてしまうのだと聞いた。

 母性本能をくすぐられ、守ってあげたくなる、とも言っていた。

 よって、彼女らは隠れて、藤道の退屈を紛らわすため、菓子や物を贈ってい

 るらしい。それに対して藤道は父の目を盗んで、貰った物以上の礼を返すとか。それを知って、倍の物欲しさに物を贈るのも中にはいるが、ほとんどは好意からだろう。

 八郎から見たら、守ってもらいたい男というのは如何なものかと思うが、藤道ならば、それも良いかもしれない。守ってもらうべきだとも思った。

 落ち込む従者に、鋭く気づいた藤道は少し困った表情を浮かべた。ここで何かを発言しても、従者の表情が明るくなるとは考えにくい、と。

 なので、藤道はお待ちかねの案内人に声をかけた。そしてようやく藤道を呼んだ者へと、足を向けたのだった。



 *



 案内された場所にも、自然と懐かしみを覚えた。この空間を包み込む香の香りも、昔の記憶を呼び戻した。障子に描かれた山の絵を藤道は食い入るように見つめた。この客間には、母親に内緒で入り込んだ。この山の絵の下にある雲が、お気に入りだったのだ。

「山に登ったことはあるかい?」

 未だに落ち込む従者に声をかけた瞬間、勢いよく開いた障子に、返事がかき消されてしまった。

 開いた障子から出てきた女性は、急いで走ってきたのか、ひどく呼吸を乱していた。その立っている女性に、座っていた藤道は嬉しそうに顔を上げる。

「母う……」

「藤、道っ!」

 有無を言わさぬ速さで、藤道を抱き締めた。母と呼ばれた女性は、既に涙でぐしゃぐしゃな顔なのに、腕の中にいる彼はとても愉快そうに笑い声を上げている。あまりにも異なる二人の表情に、思わず滑稽な舞台でも見ている風な錯覚に陥る。

 八郎がぼう、としていると藤道が笑って、母とは違う意味の涙まで流しながらも説明した。

「いつもの事だよ。母上が大げさなだけだ」

 そう口にした途端に母の力が強く込められる。苦しそうにしながらもその笑みが消えることはなかった。

 すると、追いかけてきた様子の従者が女を叱る。

「明子様!女性がそう走り回るものではありませんよ!」

 息も絶え絶えに言った従者に、明子はつまらないと鼻であしらった。

「藤道様が到着してから、あんなに我慢してたんですから……最後まで頑張って下さい!」

「――あら、あなたにそこまで言われるだなんて。心外だわ、辞めてもらおうかしら?」

 すっと恐怖の色に染まる従者に、藤道は助け舟を出した。

「……母上、それはあんまりですよ。私は別に気にはしませんが、お祖母様にまた怒られることになったら面倒でしょう?彼女の言葉は正論ですよ」

 その一言で明子は従者に、

「冗談よ、馬鹿ねえ」

 と、先程の表情を引っ込めて、声をかけてみせるのだった。


 離れる腕にどこか悲しい表情をして、藤道は母と向き合う。きらめく黒髪を一束にまとめ、全身から優美さを撒き散らしている風に感じられる女だった。それはどこか藤道の雰囲気と似ていた。

 息子の覚悟を決めた――何と言われても動かない誰かに良く似た頑固な――瞳の輝きから、気づかれないようそっと目を逸らし、明子は本題に入る前に世間話を振る。久しぶりに出会えたのに、こんな目をされては、歓喜の念も、幾分か減ってしまう。

「貴方と会えたのは、いつぶりかしら……。駄目ね、最近物忘れがひどいわ。藤道は覚えていて?」

「……五年ほど前では?木の葉が青々と茂る初夏だったと思います」

「そうだったかしらね。――また春になれば花が咲くわ。甘い香りを乗せて」

「それは楽しみです」

 間が空く。母は、言葉は全て用意出来ているだろう。ただ、その時を見極めようとしているのだ。藤道は待った。こちらは既に用意出来ている。いつでも、大丈夫だ。たとえ、罵られても。

 ようやく母は口を開いた。その声色は同一の人物か疑いたくなるほどに低い声だった。

「今回の騒ぎ、一体どういうことです。願いが叶うとは――実に馬鹿らしい。何よりも貴方らしくない。……この事態は全て貴方の口から出たそうですが本当だというの?」

「ええ。全て私の考えです」

 すぐに返ってくる答えに、母は眉を顰めた。

「あの人に……騙されているのでは、なさそうですね」

「父上は何も知りませんよ」

「貴方のことを何一つね」

 二人の視線が交わる。ぴん、と張り詰めた空気の中、八郎は呼吸を忘れる程、二人に見入っていた。

 何故なら、このようにはっきりと自身の意見を言う彼を、初めて見たからである。いつも事に拘らず、好きにしなさい、と微笑む彼が普段の姿であった。  

 ――だから父親に願い出たことは、屋敷中が困惑するほど、珍しいことだったのだ。女たちは藤道が大きく前進したことに、嬉しいやら寂しいやら、身勝手にも口々に呟いていた。

 母は、藤道を見据えた。言葉を紡ぐ。

「竹取の姫のように、そんなわがままを言って。本当にらしくありませんね。……雪に趣があるなどと人を北へやって、雪を取って来いですって?――全く、全く!らしくないわ。あんなにねだるのが上手だった貴方が、そんな風に願い出るものかしら」

 言葉の続きを待つ藤道に、母は思ったことを挙げていく。

「まずね、大っぴらにやることが理解できない。……その話が百歩譲って本当であったとして、どうして他人に知らせる必要がある?それを聞いた物好きまでも、使いをやっていると耳にしたわ。……幼い心など、従者の子を使えばいいではないの?――それとも、選ばれた女子の中の子を遠くにやり、事故に合わせて、亡き者にでもしたかったの?」

「違いますよ」

 ようやく帰って来た返答に、母は不可解そうにした。

「北を選んだ理由は、母上の言葉にあったように、実に馬鹿らしい理由です。――が、本当の目的は他にあります」

「しかしそれを話すつもりはない、でしょう?」

 藤道の笑みに苦しそうな色が混じり始める。母も分かってやっているのだろう、少し辛そうに笑ってみせた。

「どうして、――話せない?」

「……ここで話すことは、ここまでの動きを全て水に流すことになります。ここまでの、貴方と別れた時から、今までの動き――全てを」

 すると母の笑みが瞬時に消え失せ、傷ついたように顔を強張らせた。

「だから、話せません。今、ここには私の従者がおります。勿論母上の従者も。つまり誰が聞いて真実を父上に話すか、分からないのです。私も、貴方に伝えられないのは、耐えられないほどに苦しく、身を貫かれるほどに辛い。だから」

「――貴方が、私を思って動いていることは分かりました」

 最愛の息子の言葉を遮ってまで発せられた言葉は、もう喋るな、という意が強く込められていた。俯く母に、彼は思わず黙ってしまう。

「私が、何より訊きたいのは……、貴方はまだ、あそこに居なければならないの?ここでその計画とやらを進めては駄目なの?ねえ、ここで一緒に暮らしましょうよ、何もあんな所を選ばなくたって」

 きつく握られた手に、藤道は目をやった。

「成功のためには、あそこに居座ることが大事なのです」

「私のことはもういいのよ」

「良くなんてありません。そして、何より貴方のことだけではない話なのです。――これは、中野家全てに関わること。私はその為に動いております。私の存在理由はそれだけなのです」

「そんなことは、あり得ません」

 大粒の涙を溢す母に、藤道はどれほど胸を痛め、自分を呪ったことだろう。溢れ出る涙を止めてしまえたらいいのに。考えて、閃いた比喩を用いて母の悲しみを消そうと試みた。出来るだけ楽しそうに努めて話し出す。こちらを見た母の目が、また、赤くなっていた。

「母上、一石二鳥という言葉をご存知で?一つ石を投げてみると偶然にも、二つの利益を手に入れたという意味なんです。私はそれをしてみたい。やっとのことで見つけた石を手に、空に舞う鳥を、出来るなら二羽以上仕留めてみたい。それだけのことですよ」

「……その鳥は、あの人との関係のこと?それとも貴方の両親?」

 返ってきた皮肉めいた言葉に、藤道は床に手を着き、頭を下げてみせた。

「母上、私は決して貴方を裏切りません。むしろ、お手をお貸し願いたくて、こちらから文を出しました」

「それは何?」

「――何度もこれ以上ないご厚意を粗末にし、失礼したのにも関わらず、恥を忍んで申し上げます。どうか、……ここに置いてくれはしませんでしょうか」

 黙り込む母に藤道は、恥と不安で視線を落としながら言葉を続ける。

「勿論貴方には拒絶する権利がある。私を無礼者だと追い出しても構いません。何をされたって、不思議ではありませんし、覚悟も出来ております。……けれど、けれどどうか……、私を置いて下さい。どんなこともやりますから、どんなことでも、やってみせますから……!」

 顔を上げた時に、見えるだろう表情が恐くて、藤道は震えた。それが、拒絶の色であったら。どんなに覚悟していても、恐ろしくてたまらなかった。

 母は顔を上げなさい、と言った。それでも、上げられなかった。母にまで拒まれたら、自分はどうなってしまうのだろうと思った。ついに狂うのか。藤道は目を閉じた。もう一度、母は声を掛けた。何度も覚悟を決めて、ようやく体を起こした。

 そこには、嘆き悲しんでいたはずの女の、満面の笑みがあった。恐れていた顔色ではないことに安堵するよりも先に、突然の笑みに、思わず気抜けしてしまう。

 そんな藤道はお構いなしに、母は藤道の手を取って立ち上がり、再び抱き締めた。じっと息を詰めて見入っていた八郎も、目まぐるしい展開についていけず。既に諦めに入っている。呆然と二人を見つめていた。

「ああ、どれ程この時を待っていたかしら。やっと……、私の望みが叶いました……!ほら、雪なんてなくとも叶ったわ!……だから、貴方の望みも叶います。そんなものに頼らなくてもね」

 そう優しく諭すように言われ、藤道は言葉を忘れてしまう。それを目にした母は何度も言い聞かせた。

「大丈夫、貴方は私の自慢の子どもですもの。私はね、貴方がすることに何一つ不安はありません。思い切りやりなさい。ただし、殺生はいけません。分かるわね?――あと、私のことも考える必要ありませんからね」

「……はは、うえ」

「貴方の望みが叶うことを、何よりも望みます」

 やはり母には敵わないと藤道は思った。少しだけ微笑んで、それから天井を仰いで、ぽつり、と弱々しく謝罪の言葉を口にした。

 それに母は、瞳を閉じて首を振った。何も言わずにいた。そのことで、何かを感じたのか。

「私たちは親子だけれど、そんなひ弱な関係でも、貴方を守りたいと思うの。愚かだと思う?」

 藤道は静かに涙を落とした。


 *


 落ち着いた彼は、瞳に揺るがない覚悟を宿していた。

(私は、母を助ける。――私は、私の使命を果たすのだ)

 名残惜しそうに別れる二人に八郎は、彼らの壁をここまで憎むことになるとは、と思った。こんなにも温かい家族を初めて見たし、実のところ羨ましく感じもしたのだ。

 去り際、母は藤道を呼び止めた。その声は弾んでいた。

「貴方が変わった理由は誰?」

 珍しく直球な問い方に、藤道は驚く。それに母は優しく微笑んでみせたのだった。

「分からないと思った?」

「……さすがです」

 藤道は母に近寄り、耳元に囁き、その場を去った。


「母上にしか言いませんよ?」

「ええ」

 その顔は可笑しいほどに真っ赤に染まっていた。その必死な様子に、母は微笑んだ。息子だって、こんな顔をするのだ。親が感じれる息子の成長を、少しも寂しいとは思わなかった。ひたすらに、嬉しかった。


「無邪気な女性のお陰です。名は――さら」


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