第2話
**
「それで、沙羅はどうして北が憧れの地なんです?」
伊勢に問われ、沙羅は少し照れくさそうに語った。
「私の親はどちらとも、北の生まれで。けれど、暖かい所に住んでみたい、ということでわざわざ引越ししたわけ。だから、私が生まれてから上京するまで、暮らしていた家は南なの。それで雪の話をされても、それは何?食べられるもの?といった感じで。あ、これは勿論、小さい頃の話よ?今はもう分かってるから。……うん、だから本場の雪を見たいと日頃から思っていて」
「あら、それだけの理由?本場じゃないと駄目なの?あそこでも雪は降るじゃない」
沙羅のうっとりした言葉に、呆れた声が返ってきた。沙羅はその物言いが面白くなくて、一瞥してすぐそっぽを向いた。
声の主は一つ年上の透子という、目の大きい美人な女だった。多くの殿方から好かれていると、町で評判である。こういう者たちは、ちやほやされるのに優越を感じ、驕り高ぶる傾向がよくあるのだが、透子は稀に見る例外で、どの殿方にも優しく接していた。しかし、仲が深いものになりかける度に別れては付き合い、別れては――を繰り返していた。
それを沙羅や他の者たちは、少なくとも良くは思っていなかった。しかし、それを問い詰めると、曇らせる顔を見れば色々と複雑なのだろうか、と考えてしまい、何も言えずにいた。
「沙羅、私は良いと思いますよ。私なんてほぼ年の半分以上冬でしたから、雪なんて趣も感じられません。けれど、貴方は違う。素敵なことです」
助け船を出すように口を挟んだ女は、この仲で年上の蛍だった。
「そういうものは大切に、大事にして。常識なんて、出来るだけ持たなくていいの。小さなことでも喜べるようにしておくのよ。――どんなに北の地に近くとも、食料もなく、案内人もいなければ命を落としかねないもの。良い機会を持てたわね」
蛍は微笑んだ。物腰の柔らかい話し方で、沙羅は安心する。はい、と笑い返すと透子はつまらなそうに口を動かした。
「何よお姉様。そりゃあ沙羅の方が、無邪気で可愛らしいわよねえ」
「あら、透子は。……別にそういうわけではないのよ」
「それに蛍姉様は麗しいし。殿方にも人気でしょう」
話が逸れる。皮肉げに発せられる言葉に蛍は、愛しそうに笑ってみせた。
「ふふ、あなたには敵わないわよ」
「そんなこと、微塵も思ってらっしゃらないくせに」
「どうして?」
確かに透子の方が整った顔をしていたが、蛍にはそれ以上のものを持ち合わせていた。それを透子は言っているのだろう。
淡雪のような、繊細な雰囲気はとてもじゃないが、彼女には作れない。そしてもう一つ、蛍は貴族のような長く艶のある黒髪を持っていた。それに見惚れて立ち止まる者も少なくない。
微笑んだまま首を傾げている蛍が、余裕を持った風に思えたのか。透子は人の悪い表情を浮かべて、ゆっくりと口元を裾で隠した。
「ねえ、沙羅は知っていて?蛍姉様は少し前に、色よい縁組の話があったのよ?」
その言葉に皆、驚きを隠せない。元々殿方といるのを苦手としている蛍がまさか縁組とは。
蛍についての話はよく耳にしている。ある時は、急に近付いてきた殿方を川へと突き飛ばして、走り去ったなど。また、視線を何秒かでも合わせただけで、呼吸を止めるほど集中してしまっていたとか。腕が触れ合っただけでも、平手打ちを食らわせたこともあったのだ。
(初心といえばいいのかしらねえ。そんな姉様を妻にだなんて……、殿方も大変だわ)
そんな当の本人は白い肌に薄ら赤を混ぜている。信じられなくて、隣にいた伊勢に尋ねた。
「伊勢姉様はこのこと知っていた?」
「いいえ……、初耳ですね」
「そりゃあそうよ。言ってないもの、私」
俯く蛍に、透子は意地の悪い顔で詰め寄る。
「見慣れぬ殿方が熱心に訪れて、店を覗いては思案顔で帰って行かれましたから。もしかして何かあるのでは、と思ったまでです。文使いもよくいらしてましたし、何より蛍姉様が、普段よりずっと、ぼうっとしてらしているんですもの!あれは女子の顔よ。――二人とも気づかなかったの!他のお姉様方は結構知ってらしたわよ?」
まあでも、と続ける言葉に誰よりも蛍が驚愕する。
「お相手が蛍姉様だとは、私も今知ったけど」
けろり、と言ってのけた透子に、逆に蛍から詰め寄った。えらく興奮した様子で、顔と顔が引っ付きそうな程に近寄る。
「どういう意味?知っていたのではなかったの!」
「あら、私は〝殿方が蛍姉様を見て帰った〟とは言ってませんし、〝蛍姉様がその殿方を慕っている〟とも言っておりませんわ。ちなみに〝他のお姉様方は知っていた〟というのも、姉様が誰か殿方を恋い慕っている、という意味ですから。限定は出来てなかったんです。――けれど。帰ったら皆で楽しい話が出来ますわ!ふふ、上手いように話しておきますからね」
釣られたことにようやく気づいた蛍は、さらに紅潮させて恨めしそうに睨む。
「嫌だわ透子、意地の悪いこと!」
「そんなことありませんわ。隠していた姉様が悪いと思いません?」
「……だって、恥ずかしいもの」
楽しげに笑う透子を見て、沙羅は一番に見抜けなかったことを悔しく思った。
透子は一体いつから気づいていたのだろう。鈍感な沙羅たちを見て嘲笑う、
とまではいかなくとも、馬鹿な奴だと笑っていたのだろうか。未だに、彼女の考え方が読めない。今回の旅も、伊勢や蛍がいたから良かったものの、二人きりだったら、心休まることが無かったろう、と思いを馳せる。
返って来ない答えに、痺れを切らした沙羅は話を進めるべく、問うた。
「で、どうなさったの?お答えは?良いお方だった?」
「……答えはもう、あのお方のものです」
まだ火照っている顔に手をやりながらも、目を伏せて静かに答えた。二度とこのことに他言しないと心に決めたようだった。
あまり人に関与しない伊勢でさえも、少し残念そうにしている。
そんな女達を乗せながら、牛車はゆっくり揺れ動いていた。
皆それぞれに思うところがあるのか黙り込んだ。すだれから見える外の景色を眺めながら、またあの寂しさが流れ込んできて胸を苦しくさせた。
外はまだ雪こそ降っていないが、風が刺す様に冷たく、暗い。遠くの空は鼠色になっていて、どんよりとしている。それが、とても濃い色に思えて。
(ああ、空も寂しいのかしら)
と、考えて息が詰まりそうになりながらも、もっとよく景色を見ようとして体を乗り出した。
すると近くから、かさりと紙の音がした。はっとして沙羅は、足元を見る。落ちていたものを視界に入れるなり、すぐさまそれを懐に仕舞い直した。
「それは何?」
猫みたく目を細めて笑う透子に、沙羅ははしたないが舌を出してみせた。
「本よ、透子姉様が大嫌いなね」
苦いお茶を口にした風に渋い顔をする透子に、人生の無駄遣いよ、と笑いかける。
「本が面白いと感じる人にとっては、それこそ金やお宝みたいに価値があるのよ。馬鹿みたいに金をつぎ込んじゃう位にね」
それを毎日のように、店で目前にしているから想像しやすかっただろう。沙羅は本に載っていた歌を口に出してみた。
「つつめども かくれぬものは 夏虫の 身よりあまれる 思ひなりけり」
「あら、沙羅が恋歌だなんて」
茶化す彼女に沙羅は大いに笑ってみせた。これは物語から引用した和歌で、有名なものなのよ。それを聞くと透子は、顔を真っ赤にさせて他所を向いた。
こういう日もなくては、と沙羅は一人笑った。
*
翌日の昼時に、牛車はようやく目的地へと辿り着いた。
「到着しました」
という牛車引きの声にわずかな暖を惜しむように、じりじりと女たちは動き始めた。すだれを開けて外に出ると、白い固まりしか視界に入って来なかった。沙羅はそれが雪だということに全く気づかなかった。
「何これ」
「雪じゃないの、あなたの憧れ」
「……違う」
懐かしむようにしゃがみ込んだ蛍は、驚いて沙羅を見つめる。
「どうしたの?何が違うの?」
「違う、違う!嘘、待って。雪、雪でしょう?白い、さらさらした雪でしょう――?」
耐えられなくて、思わず膝を着く。嘘だ、こんなものが雪であるはずがない。頭で物が考えられなくなる。蛍の手が彼女の背に触れる。呻くような泣き声に皆、驚きを隠せない。珍しいどころではない。初めて目にした沙羅の弱々しい姿に、誰もが戸惑ってしまった。
心配させまい、と顔を上げ微笑もうとしても、すぐにその顔は崩れてしまう。眉間にぎゅっと皺を寄せ、涙を溢した。必死に口を開けば、言葉にならない音が漏れた。沙羅はそっと瞳を閉じた。
何も目に映したくなかった。手は縋る様に、胸の辺りを握り締めている。
涙が何度か口の中へ流れた。袖で無茶苦茶に拭うが、次々と止まることなく出て来る。それが嫌で嫌で、顔がひりひりと痛むまで拭い続けた。
「どうしたの沙羅、そんなに残念だったの」
幼い子に話しかけるように透子は問うた。それに泣きながらも、頷いてみせる。
「そんなに雪が――?」
「……伊勢、先程から従者さんが呼んでるわ。ここは透子に任せましょう」
二人が遠ざかる足音が聞こえる。俯いている自分に気づいて、沙羅は恥ずかしく思った。顔を上げると透子の、眉を顰めた表情が見えた。
「酷い顔。落ち着くまで泣いておきなさい」
「うん……」
理由はあとで聞いてあげるから。その言葉にさらに恥ずかしく、情けなくなった。久しぶり、と言うよりも生まれてからの二回目の涙では、と思った。それ程、涙と無縁の生活を送っていた。沙羅は決して裕福でなかったが、不幸ではなかった。
息がうまく吸えず、何度もむせる。地面に積もる雪に、透明の水が幾度も落ちる。
「ごめん」
「分かってるから」
「ごめん」
「だからね」
「――私は、分からないから」
どういう意味?と、こちらを覗く透子に首を振った。
「今どうして泣いてるのか、全然分からない。から、謝ってる。説明、出来ないから」
「……呆れた。泣く理由がないのに、泣いてるの?」
「うん。変だね」
本当に可笑しい。何を泣くことがあるのか。自分を、自分の家族を馬鹿にされた訳でも、虐められたわけでもないのに。自分のことが分からなくて、消えてしまいたくなった。
「――でも、それは元々だから仕方ないかな!」
明るく声を上げた透子に、呆然としてしまう。透子はきっと自分のことを面倒な奴だと思っていたはずだ。もしかしたら、嫌だと思っていたかもしれない。それなのに、その慰める姿勢に、また涙が生まれてしまった。
沙羅は感謝した。心の中では、ありがとう、と何度も繰り返した。呻きが混じった感謝の言葉を述べた。
「馬鹿ねえ」
透子はやはり、噂通り優しかった。沙羅の頭を軽くはたいて、早く元気になりなさいよ、と笑ってくれた。
――分かることは一つだけ。雪に心底落胆してしまったのだ。目にしなければ良かったとまで思うほどに、出来の悪い偽物を見た気分だった。
今更ながら後悔し始める自分に、腹が立つやら苦しいやらで沙羅はまた涙を落とす。空から降る冷たいものが、どうしてこれ程心を締めつけるのか。
白を踏む音に、透子は声を掛ける。
「伊勢、従者は何て?」
伊勢の方を見ると、どこか苦しそうな表情をされた。そんなに汚い顔をしているのだろうか。もう一度、拭った。
伊勢は三つ、小さな桶を抱えていた。後ろから、両手で抱き締めるように桶を抱える蛍がやって来た。
「……この桶に雪を詰めろ、と。それも空から降ってるもの限定だそうで。しばらく外にいないとならないらしいですよ。何でもいいから、桶を満杯にしたら帰れるんだとか。――怒らないで下さい、従者さんがそうおっしゃるんですから」
「何考えてるのかしら、金持ちの考えることはおかしいのね!今心の底から思ったわ」
「声が大きいです」
「――全くね、今の私の妹分を見ても、そんなことを口に出来るんだから。あの従者は鬼?私、何回もお願いしたわよ?沙羅だけでも、牛車に帰らせてって。でも、あの人は薄情にも、『命ぜられたことも出来ないのですか?そんなことではこれから生きていけませんよ』と言うの!私たちが代わりになる、って言っても全然聞いてくれない。願いが叶う雪なんて、存在するはずないのに!」
「蛍姉様まで……」
事の発端である沙羅は、申し訳なくて謝った。すると意外なことにも、冷静な位置にいる伊勢が
「そういうのは必要ありません」
と答えた。
「あなたを可愛い妹分だと思うのは、ここにいる私達だけではありません。謝る前に思い切り泣きなさい。暗い表情のあなたを連れて帰れば、私達が怒られますから」
「あらあ、珍しいわね。伊勢がここまで肩持つの」
「珍しい姿ですからね。あなたはすぐ泣きますから」
「失礼ねえ」
沙羅は皆の優しさに、ただただ申し訳なかった。思えば二度とこんな事をするまいと誓ったはずなのに、また迷惑をかけてしまっている。自分の弱さだ。
沙羅は心底苛立って、思わず唇を噛み締める。
(二度と、泣きはしまい。泣きはしない。泣くことは、迷惑なことだから)
また一筋涙が伝った。その雫にさえも苛立って仕方なかった。雪は相も変わらず白くあった。
たまらず沙羅は、その白を思い切り踏みつけてやったのだった。
「どうして若い人でないといけないのかしら」
まだ鼻声の沙羅に、皆それぞれに心配そうな視線を向けるので、普段よりも口角を上げて笑みを作る。すると、安心したのか、皆一斉に答える。
「藤の宮の、第一子息様がおっしゃったそうですよ」
「清い心でなくては、白粉を見極めることはできない、と」
「特に女子がいいのですって。不思議よね、赤ん坊の方が余程清いと思うけれど」
確かに、と頷く女たちに、沙羅は微笑ましくなった。
笑い声を上げようとして、気管に唾が入ってむせた。その動作にさえ、敏感になっている女たちは、背を撫でたり、優しく叩いて落ち着かせた。
「もう大丈夫ですか?ゆっくり息を吸って。――でも、妙だと思いませんか。その雪の伝説が本物なら、内密に……間違っても大っぴらには出ないはずでは?私たちをわざわざ使う理由が理解できない」
「独り占めしたくないのかな?一つでも手に入ればいい、みたいな」
言うと女たちは首を捻った。結局の所、身分の高い者の考えることなど、分かるはずもない。
(自分の思いも分からない私には、尚更、ね)
それならば自分たちの使命を全うするだけだ。沙羅は桶を抱えるようにして立ち、降る雪を入れていこうとした。息が白く吐き出される。もう雪を見ても刺さるような痛みだけで、涙は出てこない。まだ心配しているのか、こちらを盗み見る視線をこれこそ痛い程感じる。その一つ一つに沙羅は飛び切りの笑顔を向けてみせる。まだ頬は引き攣っているが、分からないだろう。
雪の量はかなり多く、あっという間に桶は満杯になった。蛍は何度か引っくり返していたが、皆壁となって地面の雪をかき集めていった。
「どうせ願いが叶うなんて、嘘だから」
透子は悪人のように口を歪める。しかしその姿も、可愛らしいといえばそうだった。
ようやく雪を牛車に置いて、中に入った頃には、もう足の感覚などなく。自然と震える体を寄せ合って暖を取った。
降っている白は、光輝く雪でも、願いが叶う雪でもなかったが。沙羅は雪を集めながら密かに願い続けた。しかし、それによって思い通りになることはなかった。それを蛍だけに告げると彼女は小首を傾げて、
「きちんとした、お願いの仕方があるのかも」
と言った。その理由でも腑に落ちなかった。もしそんな力があるのなら、どんな形の願いであっても、叶えて欲しかった。
沙羅はふと、願いを叶えたがっている存在に思いを馳せる。藤の宮は何を望んでいるのだろうか。少しはまともな考えであればいいのに。
何故かそう思った。
*
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます