第2話
∞
「助けて……、誰か……、お願いだから……!」
この三つの単語が、鼻を啜る音とともに辺りに響いていた。その声の主に、僕は驚きを顕わにした。
リラがつきとめた裏口とは所謂、非常口とされているところであった。上から衝撃を感じると蓋が開き、素早く落下。これは緊急時に備えてのことだろう。確かに緊急時、リフトなんかでおちおち降りてはいられない。蛇足だが、この塔にいる者なら簡単に開く仕組みになっている。それともう一つ。下から地上へ行くのには、着地した場所の、とある壁の蓋を取り除き、空間にぽっかりと浮かぶリフトに乗るようだった。リラが発見したのだ。
僕らは地面に激突することもなく、ふかふかの布団の上での着地を成功させた。床一面に布団が敷き詰めてある。何故クッションなど、コンパクトで便利なものを使用しないのかが不思議だった。
辺りは自動で電気がついたことで、真っ白で無機的な壁を認められた。せめて、もっと違う色にすればいいのに、と思った。たとえば、そう、緑色とか? 目がよくなりそうだ。
「エレベーターだったっけ? これで上に行けるよ」
現在の流行は、エレベーターではなく瞬間移動だ。分速を秒速にしようと、コンマ一秒でも速くさせようと、人間たちは日夜戦っている。
昔、よく通っていた『エデンの園』だったが、こんな場所は初めてであった。もう少し詳しく調べてもよかったが、リラを待たせて不機嫌にさせるのも、後々面倒になってくる。それでなくとも先程まで大変だったのだから。
エレベーターへ乗る瞬間、ふと目に入ったものがあった。大きな扉だった。床から天井まで全てが銅色の扉。どこか神々しさを感じさせる佇まいであった。
「ちょっと待っ――」
「え?」
左手を伸ばした時には既に遅かった。エレベーターは指示された通り、ぐんぐんと上昇していく。そしてここでも不思議なことが一つ。『未来』・『現在』・『過去』の三つをボタンとして、存在していたことである。彼女は『現在』を押した。理由は単純、天の神の言う通りにしたのだ。結果、それが上へ行くボタンであり、大正解だったわけだが。
「助けて……、お願い……、誰か、誰か……」
縋りつく声に、我に返って急いで足を進めた。一切変わっていない物の配置に、少し懐かしみを感じつつも、奥から聞こえる声の下へと駆けつけた。カウンターの奥、そこには二人の人間の姿があった。
がしゃん、という不細工な僕の体の音に、顔を上げた少女は、涙で充血した目を苦しげに細めた。
少女――メルは、七歳くらいの体格で、もうすっかり消えてしまった東洋文化を唯一身につけている。淡い紅色の着物が、よく似合っていた。左右に一つずつ、団子のような髪のかたまりが可愛らしい。そして、しゃら、と鳴る鈴をこれでもかと飾り付けられた被り物を、今も変わらず被っていた。動く度に僕とは比べ物にならないほど、本当に美しい調べを奏でていた。――メルの方は現在そんなこと、考えている暇もないだろうが。
その被り物の内側から、頭全体を覆う白いベールから、黒と銀の瞳が窺えた。その目からは、涙が幾度も零れていた。
「ロロさま……、助けて……」
珍しい姿に僕は思わず、思考が止まってしまった。メルはぎゅっと誰かの手を握っていた。それに頬を押しつけて、泣いていた。
その誰かは銀色の巨大な扉に挟まっていた。扉からかなりの圧力を受けているようで、顔中汗でびっしょりだった。辛そうなうめき声が時折、空気を震わせる。あまりの痛みに意識が飛びそうなのだろう。視線が一点に集中することなく、虚ろであった。しかし、ここで夢へと旅立てば力を入れていた腹が萎み、このままでは簡単に腹が千切れてしまうかも、という分析に至った僕は、すぐに分厚い扉の隙間に左手を挟ませた。そして、こじ開けるために左腕を変形させた。その動きに対して、僕の左手が潰れ始める音と、妙に甲高い悲鳴とが交じり合った。
「やめてっ! ロロ、私がやるから、そんなことしないでっ!」
「いたた……。じゃあ、リラ頼むから早くしてね。僕は動けないし」
左右からT字型の太い棒を出して、扉と扉とに平らな面を擦りつける。そこから力を加えていき、彼の体と厚い壁との隙間を生み出そうとするが、上手く行かない。ここでやっと、この扉がツワモノだということを実感する。重厚にそれもかなり頑丈に造られている。この塔に住む、極度の機械音痴の家族らしくない。
「手を出してよぉ……。早くしないと腕が……!」
「……リラ。早くして?」
こうなれば僕は最早、時間稼ぎでしかない。扉は、みしりみしり、と棒を折り曲げ、左腕を食らう。
リラは僕の言葉で心が戻ってきたかのように、はっとして辺りを見渡した。お目当てのものがあったのだろう、扉の少し離れた壁に、突撃する勢いで辿り着いてこじ開ける。実際にぶつかった音がした気もする。
蓋はすぐに外れて、今度は薄いモニター画面と対面する。
「何でここだけ進んでるんだ……」
ひとりごちて、すぐに無駄の無い動作で、リラは両手の親指と人差し指に青色の指サックをはめ、その指で長方形を宙に描いた。すると、そこから透明の画面が浮かび上がり、文字が表示された。起動開始の合図だ。これに酷似しているのはパソコン画面だろう。
それに一度触れ、そして壁にあるモニターにも触れて、システム内に入るための作業をし、空中の画面にパッと出てきた文字に触れてから、何かを素早い動きで打ち込んでいった。間もなく、
『扉が開きます』
という声とともに開き始めた扉。左腕を抜き取り、軽く握ってみる。あまり、うまくいかない。これは、もう直してもらわないといけないな。ガタがきている。
ようやく自由になった体を見て、挟まっていた人は安堵したのだろう、ゆっくり瞳を閉じた。
「助かったよ……。ありがとう」
かなり脱力している様子であった。仕方無いだろう。先程まで生死の狭間にいたのだから。僕は首を左右に振リラリーを見つめた。僕はこれといった活躍を見せていない。
「ていうか、どうして挟まってたの」
純粋な質問にたじろぐ彼。しばらくして、苦笑しながら簡潔に答えてくれた。
「メルちゃんが挟まりそうになって、背中を思い切り押したんだ。僕は間に合わなくてこの様。あ、でも、もう少しゆっくり助けてくれても良かったよ? メルちゃんから手繋いでくれるとか。――もう嬉しすぎるや、昇天しそうだ……」
最後の方は僕だけに聞こえるよう囁かれた。行ってらっしゃい、とは言わなかった。
ずっと注がれていた僕の視線に、ようやく気づいたリラは、飛びつくように僕の左腕へ走り寄り、持ち上げたり下げたりを入念に繰り返した。呆けていたのだろうか。らしくない。いつもならすぐそれこそ飛んで来るくせに。その間中ずっと、眉間に皺を作って咎めた。その発せられた音からでも、僕が思っていた以上に、心配をかけていたのがわかった。
「どうしてこんなことしたの」
「この人の英雄にでも、なってみたかったからかなあ」
「そんなことで?」
「そんなことって。人助け、いいことでしょ?」
「あなたがこんなことになるなら、全部、ぜんぶ悪いことだよ。最悪。あなたが出て行かなくても、一番初めに、ワタシに言ってくれたら良かったのに」
メルはしばらく何も言えずにいた。さすがに急には起き上がれないのだろう、彼は力無く笑った。若い男性であった。腹が痛んだのか、途中から咳に変わった。小さな手で、背中を優しく摩るメルの横顔は、ひどく安心した様子だった。
「メル、ごめん」
まだ噎せつつも、言葉を紡いだ。メルの両手を優しく握って。メルは黙ってひたすら、安堵から生まれた涙を零し続けていた。恥ずかしくなったのか、交わしていた視線を外し、俯いた。ぽろぽろと落ちるその涙を、拭うために彼は握った手を離して、顔へと持っていく。しかし、手は顔の前で再び捕まり、また同じ位置へと戻ってしまった。息を吐いた彼は、仕方がないのでメルの手ごと、目の高さまで持ち上げて、傷つけないように流れた水をふき取った。
そっと重ねられた手を、僕らは静かに見つめていた。
「姉さん、杉田さん! 大丈夫ですか!」
その沈黙を破ったのは、男性よりも高い体をした、けれど細く美しい女性だった。
髪は腰に達しそうなほど長く、バンダナか何かで一纏めにして、大人びた顔がよく
見せていた。女性もまたメルとお揃いの淡い青の着物を着用していた。
メルはすっかり腫れてしまった目で、辺りを見た。
「ケイ、どこに行ってた?」
「どこって……。姉さんにちゃんと言ったよ? この機械止めるために、人を呼
んでくるって――。あ! 杉田さん抜け出せてる! よかった! 本当によかった!」
そう言ってメルを押し退けて、挟まっていた人にがっしり、と抱きついた。その時に、二人を繋ぐ手も離れてしまった。繋いでいた手に、唯一興味を持っていたリラはふっと興ざめた様子で、僕の腕に視線を戻す。僕も何だか居た堪れなくて、視線を外した。
体勢を崩したままのメルは横倒れに二人を見つめ、またも目を潤ませていた。その様子はちょうど、杉田さんには見えないのだった。
「それよりも、ロボットさん、あとそこのお嬢さん。本当にありがとうございます。僕、もう少しで死ぬところだった……。何かお礼をさせて下さい。何がいいですか? 何でもいいですよ! 命の恩人ですからね!」
「ありがとう。店の主人の私からも何かする」
リラは何も動じない。要は、これらの厚意に返答することを任されたわけだ。
僕はそれらに甘えて、正直にお願いした。
「それじゃあ、僕の過去を下さい」
「へ?」
間の抜けた声は一つだけであった。よく分からないだろう杉田さんは、こちらを見つめてきた。
一方で、メルの目は、すっと細くなり、どこか妖艶な空気を漂わせ始めた。客と接する態度に変わったのだ。メルとはあまり会うことは無かったが、これが普段の姿であるはずだった。先程の七歳の少女とは打って変わって、大人びているように感じさせた。
「確かにそれは、礼に見合う行為。だけれど、そう簡単に頷くことは出来ない」
「だと思うよ」
メルはこちらを見上げた。
「相手を困らせても、それでも願うの」
「勿論。何度失敗したって、これだけは諦めきれない」
リラが少し震えたのが分かった。
「死ぬまでに、すべてを知っておきたい」
杉田さんはどうしていいのか分からず、事の成り行きを黙って見ている。何かを口にしようとして、止める。その考えは正しい。ここで口を挟むのは、少し遠慮が足りない。そう思っているのに、メルの妹は首を傾げながら、訊ねてきた。
「あれ、ロロさま? えっとすみません、どこから入って来ました? ここ、電気系統は残らず狂ってたはずで、今確認しに行ったら入り口が全く開かなくて、私たち一生外に出られないかもって……」
「そんな大袈裟な」
そう笑っていると、メルの顔色がみるみる蒼白になっていった。そして立ち上がり、姉妹揃って慌て始め、嘆き始めるので、静止しようとした途端、
「落ち着きなさい」
と声が入ってきた。低い男の声だった。僕は手を挙げて、合図する。彼は会釈をもって返してくれた。珍しくぴちり、とした服装の彼は、二人の娘に向かって叱りつけた。
「お客様を危険に晒し、あろうことかお客様に救ってもらうとは、何という失態! お前たちは何をしていたんだ?」
「ファ、ファザーに言える権利ないで、すよ!」
「珍しく正論。その通りです、ファザー」
「反省の色は全く見えていないようだなあ……。よし、メルとケイの普段の仕事を逆転! 半年……は長いか、三ヶ月! みっちり働けよお?」
「そ、そんな……! 私、知識の管理とか嫌ですよ! つまんない!」
「私だって、接客なんて、嫌! つまらない……」
「ファザーだってこんなことしたくないけどな、何で帰ってきたファザーに優しく扉を開けてあげる、という行為が出来ないのか! 寂しかったんだぞ? ――娘二人には愛されたいに決まってるだろ? お帰りなさいって言ってもらいたいに決まってるだろ? それなのに、結果自ら扉を開けるなんて、なんて悲しいことだ……。我が娘らよ、反省せよ」
「何ですかそれ! 身勝手にも程があるってば!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ家族に、このままでは話が進まない、と僕は彼に声を掛けた。
「あの、僕さ、過去が欲しいんだけど。駄目かな?」
「ロロさま! 貴方のお陰で、我々は本当に救われました。ありがとうございます。我々がこの仕事を続けていけるのも、貴方の救いの手によるもの。二度とこのような過ちを犯さぬように、再発防止に努めるつもりです、そして――」
「あ、うん。いいから。その代わりに僕、過去が欲しいんだ」
「勿論、いいですよ?」
あっけらかんとした返事に、僕ではなく娘二人が驚愕し、憤慨する。
「何勝手なこと言ってるんですか!」
「じゃあロロさま、明日また来てもらえますか? 説明等、色々したいと思っているので。待ってますね」
「わかった」
既に扉の前に立っているリラに、彼は微笑みかける。あからさまに嫌悪感を顔に張り付かせているのに、彼は気づいていないようだ。
「先程のご活躍、素晴らしかった。さすがはロロさまのご夫人。手馴れたように機械を触る貴方を――どこかでお見かけした気がするのですけれど、どうでしょう?」
「口説かないでもらってもいい?」
僕がそう挟むと、誤解ですよ、と同じように微笑まれた。これだから、彼は苦手なのだ。とため息。誰がどう見てもナンパの手口だ。
僕らは颯爽と帰宅した。始終寂しそうにしていたリラが、何となく気になって仕方がなかった。
∞∞∞
「ねえ、ロロ。お前は、あたしから離れたりなんて、しないわよね?」
「どうしてそんな風に思うの?」
彼女はベッドから立ち上がり、カーテンを開けて、こちらを振り返った。黒い髪が日光を浴びて、緑色にも見える。長いながい髪を手で梳いて、目を細めた。その姿は、これでもかと上品な雰囲気を纏っていた。素足のまま床を歩くので、注意したら、怒鳴られた。
「お前に何一つ、叱られることはないのよ?」
「……すみません」
せっかくスリッパが足もとにあるのに、と思っていると、彼女はこちらに近づき、額と額を合わせて、背の低い僕の目線の上から見下し、嘲笑した。
「お前が離れたら、あたしが虐める子、いなくなっちゃうじゃない。ふふ、安心して、飽きたら消してあげるから」
――オマエガ、
キエテ、
シマエ――。
∞∞∞
「リラ、おはよう」
「うん」
「髪、ぼさぼさだね」
「……これ、もっと早く……、伸びないかな」
「なんで」
「――秘密」
どんなに仲が良くとも、一緒には暮らしていない。リラもそれを提案してこないから、別にそれでいいのだ。今思えば、少し彼女らしくなくて、不思議だったが。女の子には色々あるのだろう、多分。
リラには、毎日どこかへ帰って寝るところがある。太陽が昇れば、僕がいる公園に訪れて、歩き回る僕を探し出すのだ。これを二年も続けてきたのだから、笑えてしまう。それにどうして僕は待っているのだろう。何よりどうしてリラは、僕の居所がわかってしまうのだろう。機械、だからだろうか。彼女にとっては僕の思考なんて、そこまで考えて、リラがずっと黙っているのに気づいた。
「どうしたの? 今日、元気ないね」
「嫌なこと、思い出したの」
「そうなの? そういう時って、今日という日に全く関係ないから。気にしなくていいんだよ」
「慰めてくれるの」
「うん」
「緊張してるの」
「うん」
「怖いの」
「……うん」
リラは少し視線を落とした。それによって、さら、と長めの髪が顔にかかった。最近の人間の髪色は、色の三原色にある緑が強く出ているようで、リラもまた例によって緑色の髪だった。けれど、ある時から黒色に染めてしまった。少し残念でもあったが、彼女の自由なので、何も言わないでいた。
「散歩する?」
「ううん。いいや」
「左腕、そのままなの」
「うん。全てが終わってからにしようと思って。さっき見てきたら、専属医師、留守だったから」
「……あ、着いたね。大丈夫だよ? 怖がらないでいいの。リラが一緒に居てあげるから」
「頼もしいよ」
昨日と同じように、また透明の扉をくぐった。
∞
チャンスは三回であること。
一番初めにこれが彼の口から放たれた。再びエレベーターに乗せられて、『過去』と表示された場所に連れて行かれた。昨日と同じ銅の扉の前に立たされる。その時、昨日潰れた左腕が目に入った。直して、と一度頼んでみたが、黙ったまま苦しそうな顔をするので、他の人に頼もうかと放置している。リラは僕をいじくるのが、これ以上なく苦痛らしい。あと、僕が機械らしいこと、たとえば変形だといった行為をすると、嫌悪感に苛まれるらしい。昨日改めて確信したことだ。
再び僕は覚悟を決めて、扉の中へ入っていく。そこで、少し前の出来事を思い出し、注意事項を反芻する。
∞
「あれ、エレフや挟まれた彼は?」
僕らを奥の自室から出て、ずっと待っていたメルに問うと、かなり嫌そうな顔をされた。そう言えば、この呼び方はよろしくないのだったっけ。
「その名前は使わないで。色々ややこしくなるから。――ファザーと杉田さんはいない。まず、杉田さんが居ることは有り得ない。貴方だって本当は――」
「……あ、ごめん」
「謝るなら、この作業は全部止める」
「それは困る。撤回するよ」
この過去への旅は、僕が体感したことのない痛みを受けてしまうらしい。機械の僕であっても、だ。彼は一つひとつ丁寧に説明してくれた。
まず、チャンスは三回まで。泣いても叫んでも延長は無理。特定の客にここまで特別扱いすることは、『エデンの園』を営む彼らにとっては、かなり危険であるという。よってこのことは極秘情報。他言すると二度とここへは入れない契約を結ばされた。――そう言えば、塔の人間ではないのに、この話を聞いてしまった者が一人いる。それについて訊くと、
「あの人は大丈夫」
と皆揃って口を開かれたので、僕は何も言えなくなった。リラまでもそう言い切ったので、驚いた。
時間制限は一日。これは過去内での時間を指す。ちなみに僕らが過去で一日を過ごすと、こちらの世界では一時間経過したことになる。機械がてんで駄目な家族なのに、何故かこういう類の機械だと最先端を用いている彼らに、訳がわからなくなった。意味がわからない。
そして最大の疑問は、何故、チャンスが三回なのか。僕は一回で充分ではないのかと不思議に思ったので質問した。すると、彼ではなくメルが答えてくれた。彼は普段から娘二人に店を任せっぱなしで、家に居ることが非常に少ない。当然といえば当然か。
「私が多くの記憶、知識を管理しているの、知ってるでしょ。先代から受け継いだ知識たち。それを――私たち人間の脳にとって、莫大な量の情報を――全て私の一つの脳で管理すれば、私がとち狂ってしまう。だから、あまりこういう内側の話をするのはいけないけれど、『未来』、『現在』、『過去』。この三つの中に分けて実際にこちら側に具現化することで、脳の混乱を避けてる。勿論、今までの知識は私の中にある。要は全く同じものが扉の中、そして私の脳にも存在するというわけ」
何故か彼がパニック状態に陥って、おろおろと皆の様子を窺うので、分かりやすく教えてあげた。
「主体はメルの頭で、扉の中のものは、あくまでコピー。けれど同等の価値がある」
この説明でもまだ首を傾げる彼に、メルは苛立ちげに、
「また後で教えてあげるから」
と、言い捨てた。この様子を見ると、もう何度も説明を受けているようだった。
「つまり、私の脳の中身を具現化したものが、扉の中にある。だから、貴方の過去もあそこにある。だけれど、人間の脳みそがはっきりと、貴方の記憶と誰かの記憶とを、隔てていることはない。完璧に記憶していても、常に混濁。一発で貴方の記憶に潜り込めたら、それは限りなく奇跡。だけれど、そう簡単に行かない。だって、私の中には、貴方を含めて何万人の過去が存在するのだもの。まるで、宝くじ。……意味、わかる?」
僕は頷いて、しばらく黙考した。
つまりは、メルの頭には当然入れない。が、具現化した扉の中には入れる。ただし、僕の過去がそこに必ずあるけれど、そこまでうまくたどり着くのは、奇跡――不可能に近い。そして回数制限。プラスして時間制限まである。仮に僕の過去に着いても、一日で終わりというわけだ。
「そして貴方の場合はかなりの特例。だって実際に一度、『具現化』させたことがあるもの。完全な過去としては現せない。貴方たちが入り込むことにより、変形する」
言い終わった後でケイが補った。
「本来ならば、過去の世界の人に話したりすることは出来ないけど、貴方たちの場合は出来るってことね。そして、本来の過去とは少し違う形のものを見ることとなる」
それでもいいのなら、協力する、と。メルは言っているのだ。
それでいいのか。いいけど、でも。
「……怖いなら、やめない?」
隣で、リラは無表情のまま、問い掛けた。
「迷っているってことは……、怖いってことでしょう? なら、ねえ、やめようよ。知らなくてもいいこと、きっとたくさんあるよ」
しかしその目線は、鋭く直線的に、メルへと向かっていた。
「……そんな顔しないで。仕方ないでしょう。そんな便利でも、器用でもないの。私の頭は、それ専用に作られたわけではない。先代の店主の脳から、少しの成長はあっても、大して変わらない脳の働き。負担をかけて、無理をしながらも、ここ『エデンの園』を営んでた。私もそう。だから」
「言い逃れ?」
メルは、むっと眉間に皺を寄せた。
「不可能を不可能だと、教えてあげてるの」
「姉さん、お客さま」
「……私だって、手助けしたくないわけじゃない、わかって」
リラはこちらを見た。優しい口調で問うた。無表情であっても、声色が変わることはない、いつだって。
「やめたいなら、やめよう。無理すること、ないよ」
「……リラが、ここに入る前と違って、そうやって諭すのは、僕が過去を知ってほしくないから? 過去を知って変わる僕を、見たくない、から?」
「――そうだよ。ワタシも怖いの」
そこまで言って、今日初めて笑ってくれた。
「でも、あなたが望むなら、どこでも一緒に居てあげる」
そこで初めて覚悟が決まった。妙な話だ。何となく僕はこの笑顔を待っていたのだ。
「――メル。よろしく頼むよ」
ほっとしたような、息をふっと吐いたような音が、隣から聞こえた。
∞
「扉の中にある本、わかる?」
暗闇の中、聞こえるメルの声に従い、ぽつんとスポットを浴びて浮かび上がった本を視界に映す。丸い卓の上にある分厚い本。僕はゆっくりと、そこへ近づこうと足を動かした。手に届く範囲に着きそうなところで、リラの声により停止する。
「待って、ロロが挟まれないようにしなきゃ」
「異物が挟まったら、一時的に開くようにインプットするの?」
「そうすると、悪意を持った人とかに、危険に晒されてしまう」
メルの声にいちいち不機嫌になるリラ。爆発される前に僕はそっと耳打ちした。
「僕からのお願い。メルに手を貸してあげて」
「――じゃあ、機械に善悪判断させて、潰し――ぺっちゃんこにしていい人間と悪い人間とを分ける。どう?」
「機械判断はちょっと……」
「じゃあ、ここの住人の判断で決めさせる」
「ちょっと、そんなこと本当に出来るの」
と疑うメルに、リラは、
「出来ないなら言わない」
と一蹴して、僕にすぐ帰る旨を伝えて出て行った。まあ、リラなら出来るだろう、と予想通りにすぐさま帰って来た彼女に、本の下へ向かおうと促した。
「本当に出来てる――。……すごい。――うあ、えっと、本に着いたら適当なページを開いて」
戸惑うメルに、何の反応も示さないリラは、興味なさげに遠くへ視線を置いた。その様子に少し心細くなって、こっちみてて、と呟くと、弾かれたようにこちらを見てくれた。さっき怖いとか言ったくせに、何だ。嘘だったのか、と少しむっとする。
「その本、すごく分厚いでしょう。そのページのどこかに、貴方の過去が刻まれているから。頑張って何かを感じて」
ぱらぱらとページを捲り、とある場所を開けた。特別感じるものなんてものは無かったが。
「じゃあ、右か左どちらかに、黒いベールを被せて、そう」
こちらからの様子が見えるのだろう。僕はそれからの指示によって、卓の後ろにあったベンチに腰掛けた。何故かベルトがあり、それを巻きつけて次の導きを待った。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
ガコン、と床が外れて、気づけばアトラクションのように下へと急降下していた。
∞∞
「そういえば、何で杉田さん、現在の扉に挟まったんだろ」
「さあ」
「そういえば、何で彼のこと、信頼してるの? 意味わかんないんだけど」
「それはほら、あの人、大切にしてるから」
「メルを? それは見たらわかるよね」
「そう。あの子を含めて、あの子が大切だと思うもの全て、大切だと思っているの」
「……え? 何でそこまでわかるの」
「見たらわかるよね」
「いや、だからわかんないって」
そう言うと、もどかしそうに訊かれた。
「本当にわかんないの? ロロ、本当に? あの手の扱い方から何も感じなかったの?」
「な、何だよ、その言い方。リラ、間違えてたら恥ずかしいぞ」
「間違ってないよ。絶対そう。あの人は絶対、あの子を傷つけたりしない」
「……外野がとやかく言うことじゃないよ。――そんなことより! まだ着かないね。もしかしてここが過去?」
リラから視線を外して、頭を回転させ、この空間を見渡した。辺りは黒一色の海だった。落ちた先は暗闇ではなかったが、薄暗く、少し気味が悪かった。とぷ、と波が奏でる音から、荒々しさは感じられないが、漂流しているみたいで嫌だった。そんな僕の思いを汲み取ったかのように、ベンチが大きく傾いた。既に足は水に浸かっていたが、足を上げた時に水の抵抗を受けなかったので、そういう風に具現化されているだけで、本物ではないことが窺えた。
「ロロ、すごい渦あるよ!」
「え、渦?」
まだ落ちるのか。それを見た瞬間、思った。渦巻いていた所は、じわじわと干乾びるように水が消えていき、気づけばぱっくりと海面が割れてしまっていた。僕らの乗るベンチはどんぶらこっこと、そこへ向かう。まるで一寸法師の気分だ。あまりにも巨大すぎる世界である。
「ね、これ上から見たら、本を開いた形に似てない?」
またもや落下。いい加減どこまでいけば気が済むのか。リラが嬉しそうなことだけが、唯一の救いであった。
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