fragment:10 「鳩小屋にて」

 暗い螺旋階段を上りきって東の塔の上へ出ると、天頂は透き通る青さで夜明けの予感に満ちていた。乱れなく積まれた胸壁の間隙からは南の平野の広がりの向こうに青黒く沈む山並みが見える。その険しい稜線の端に仄々とした明るさを認めてエルマーは目を細めた。

 しかし彼女は立ち止まらずに、そのまま屋上から渡ることができる隣接した塔に作られた鳩小屋へと進む。眠っていた管理人に声をかけて扉を開けると、奥行きのある部屋の壁面にまるで蜂の巣のように巣箱が並んでいた。格子の木の蓋がついたその四角い連なりの中からエルマーは鳩を一羽選び、糞や抜け落ちた羽にまみれた巣箱のなかから掴みだすと、細く巻いた紙片を鳩の足に取り付けられた金具に押し込んだ。そうして小窓から放ってやると、鳩は今まさに明けていく空の中を迷わず南へ羽ばたいていった。


 エルマーはそれを見送ったままそこに立っていた。これで彼女が今やるべき仕事は全て終わった。踵を返して塔を降り、自室へ戻って早く眠るべきだった。今更になって体が疲労を覚え、瞼は重く、頭痛がしていた。

 しかしエルマーはそのまま壁にそっと背を預けると、ゆっくりとした動作で腰のベルトに下げたポーチの中身を改めた。インクの小瓶と短い葦ペンを取り出して、鳩の糞がこびりついた窓辺のまだ綺麗そうなところへ置いておき、さらに少し探るとちいさな紙片を二枚取り出す。一枚は吸取り紙だ。少しひしゃげたもう一枚を手にエルマーは心なしか首を傾げたが、どうやら事足りると見てそれも窓辺へ預けた。

 今度は葦ペンの先の形を指でなぞり、ナイフで削りなおす。その時、不意に差し込んだ清潔な光が彼女の薄い皮膚を刺した。青ざめた頬を光に晒し、わずかな暖かさを感じながらエルマーはペンを握った。しかしペン先は紙に近づいては離れ、優柔不断に彷徨うばかりでなかなか紙を汚すことができなかった。エルマーは急な日差しにも動じなかったその眉根を寄せ、意味もなく左手で髪の中を探った。まるでその中に認めるべき文字が落ちているはずだとでもいうように。


 彼女の頭の中でアーデルベルトの言葉が響いた。つい先程、彼が臆面もなく言い放った気恥ずかしい忠告は、エルマーの胸のあたりになにか得体の知れない傷を負わせたらしかった。おかしな人だと笑って受け流してみたものの、正直に言えばエルマーは狼狽したし、その場を去った後もわずかな痛みのようなものを感じていた。

 エルマーは自分が一体何に動揺しているのか、この鳩小屋へ向かう長い階段を上りながら自分の心に問うてみた。彼の好意らしきものに対して心を動かされたなどということではなかった。むしろそれを裏切るかもしれない後ろめたさは多少あったが、それよりもなにか重大な見落としを示唆するかのような焦燥があった。階段がおわってまだ星のちらつく空の下でふと我に返ったとき、心に浮かんでいたのは懐かしさのある広い背中だった。

 エルマーは遠く南にいるはずの彼に手紙を書こうと思った。たったいま結びついた漠然とした理解のようなもの、それを直接確認しようと。


 ――誰かが死んだら悲しいなんて、考えてみたことがなかった。

 エルマーは羊皮紙の柔らかな色を見つめた。言われてみれば今まで仲間が死んで泣いた事があっただろうか。

 彼女の周りでは誰もが明日生きているか確かではなかった。自分のことさえわからない。自分が死んで、誰かが悲しむところを想像したこともなかった。戦場で生きることを選んだ者というのはそんなものだと思っていた。

 けれどアーデルベルトの言葉はそれをはっきりと否定していた。彼も戦場で生きる人間と言えるはずだった。そして生ぬるい同調で悲しむふりをするような人間でもなさそうだ。なにより本心でないならばあんな眼差しはできまい。戦い生き抜くことと、だれかに心を許し共に生きようと寄り添うことは、彼にとってはなんの矛盾もなく両立できるものらしかった。エルマーには理解しがたい感覚だったが、彼の様子からしてもしもそれが一般的なのだとしたら……

 しかし、自分はあの人にそれを確認して、一体どうするつもりなのだろうか?「ただそうしたいのだ」と胸の内で何かが問いに答えた。一方で「深入りしないほうがいい」という声もする。そうだ、あの人は自分が望む答えなど寄越すまい。それでもエルマーは気づかないふりをしてはいけない気がした。明日も自分が生きている保証などないのだから。


 悩んだ挙句、エルマーはやっと短い一文を認めた。送り先にまた少し逡巡してから鳩を選んだ。文を取り付けてその茶色い斑入りの白い鳩を睨む。鳩はとぼけた風に首をひょこひょこ動かすばかりだった。その罪のなさそうな様子に背中を押されて、エルマーは小窓に近寄り、祈るような気持ちで鳩を空へ放った。白い翼が激しく羽ばたいたかと思うとすぐに姿勢を立て直して上昇していく。

 エルマーはまた少し不安になり、手の甲で眉のあたりをこすった。しかし鳩は飛び立ってしまった。もはや成り行きに任せるしかなかった。エルマーはため息をつくと、やっと窓に背を向けて鳩小屋を後にした。

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[創作傭兵]Fragments s.nakamitsu @nakamitsu

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