Fragment:9「親友」


 Ⅰ


 朝の光の中、ウィトマルク城の広々とした前庭に敷かれた白い石畳は、連日の好天で気持ちよく乾いていた。夏に差し掛かり高く昇りつつある陽も今はまだ低い位置にあって、細長く引き伸ばした明るい影を地面に投げかけている。やや風化してざらついた石の地面に、歩廊のアーチの影が心地よいリズムを刻んでいた。

 その柱の影を踏みながらゆったりと歩いてきたのは近衛騎士アーデルベルトだった。石材の白色や淡い砂色に一際映える外套の色は近衛騎士の纏う鮮やかな青色である。彼が影から出るたび波打つ金色の髪に陽光が戯れた。

――その時ふと彼は立ち止まった。駆け寄るものの気配がその足を止めたのだ。彼の従者が後から来るはずだったが、その割には足音が重い。

「よう、アーデルベルト!はやいな。調子はどうだ?」

 すぐに近くの回廊の出入口から軽い調子で声をかけてきたのは、近衛騎士オルドヴィードだった。アーデルベルトと同じ色の外套を身に纏っているが大柄の美丈夫で、暗色の赤毛や顔立ちはどことなく野生的な雰囲気がある。かるく駆けてきた様子で勢いがついていたが呼吸が乱れるほどではない。任務の関係でしばらく会っていなかったアーデルベルトに対して、気楽ながらも親しみのこもった挨拶だった。

 しかし、アーデルベルトはどことなく沈んだ色に見える瞳でオルドヴィードを見返し、「やぁ」とだけ言って薄く笑った。

 続けて軽口を叩くつもりだったオルドヴィードは、言葉を忘れて訝しげに眉をひそめた。


 ウィトマルクで光の騎士と言えば、おそらく誰でもアーデルベルトのことだとわかるだろう。見目好く血筋確かな名家の子息ばかりの近衛騎士の中でも、ひときわ目立つ彼は王の近侍でもあり、その名を市井にも広く知られていた。

 しかしオルドヴィードに言わせれば、アーデルベルトは容貌そのものというより全体の印象が光輝燦爛としていて、漣立つ湖水に反射する光のように、涼やかで明るい雰囲気がひときわ人目を引くのだ。濃く艶やかな黄金色の髪、生まれてこのかた荒れたことがないかの如き肌や透き通る水色の瞳も、たしかに彼を美しく構成する要素ではあったが、その明るさの根源ではないようだった。

 現に今、オルドヴィードの目の前で振り返ったアーデルベルトは普段通り何一つ欠けたところはないようだが、燦めくような印象は今ひとつ感じられなかった。


 オルドヴィードは常日頃、彼をひどく揶揄うことを喜びの種にしていたが、さすがにこの時は素直に彼の体を慮る気持ちが先立った。

 あまりにも恵まれた境遇かに思えるアーデルベルトだが、彼の陰口や妬む輩の噂をウィトマルクで聞くことはない。どんな人間だって彼としばらく時間を過ごせば、それほど酷い感情を持ち続けることは難しいだろうとオルドヴィードは思っている。

 オルドヴィードは子供の時分から、歳が近い彼のことを勝手に好敵手と思ってきた。やや思慮に欠ける向きのあった少年時代のオルドヴィードが彼にその感情をぶつけた時、意外にもアーデルベルトはそのことを喜んだものだ。それからというもの2人は競って研鑽を積み、切磋琢磨してきた。実際には常にアーデルベルトの方が一歩先んじていたが、オルドヴィードが醜い嫉妬にかられないですむのは彼が尋常ではない努力の人であると知っているからだ。初めは負けん気が強すぎて荒みがちだったオルドヴィードも、彼のひたむきさに心打たれて、いつしか勝ち負けより現状に甘んじない心を持つ仲間が身近にいることを幸福だと思うようになったのだった。

 彼の印象はそんな彼自身の心の反映に違いないとオルドヴィードは思う。彼の瞳を間近に覗く機会があるならば、きっとだれもがその明るい水色のなかに凝る、強い覚悟が織りなす清々しい煌めきを見るだろう。

 といっても、憎しみではないにしろ、彼に対してやや歪んだ感情を抱き続けている人間ならば、確実にひとりいるのをオルドヴィードは知っていた。


「なにか……よくないことでもあったか?体調が悪いとか」

 オルドヴィードが尋ねると、アーデルベルトは心底意外そうな顔をした。

「まさか。そんな風に見えるか?特になにもないが……そういえば、最近少し寝不足だな」

 アーデルベルトはふいに遠い目をして額を軽くこすった。

 オルドヴィードは近寄って、アーデルベルトの横に立ちながら彼の顔をまじまじと見る。やはり少し青ざめて具合が悪そうだった。

「医者に見てもらったほうがいいんじゃないか。寝不足はいつからだ?」

「それほど大げさなことじゃないが、帰ってきてからというもの、どうも何か……」

 アーデルベルトは観念したようにつぶやいた。帰ってきたというのはおそらくウウァル城への旅のことだろう。その旅はもうひと月も前のことである。オルドヴィードは首を傾げた。

「帰ってきたときにはやっと安眠できそうだと喜んでいたじゃないか」

「もちろん。そのときはそう思っていたさ。ただ……」

「ただ?」

 アーデルベルトは逡巡する様子でオルドヴィードを見た。

「なんといったらいいのか……いや、個人的なことだ。やめておこう」

 オルドヴィードは彼を励ますつもりで、いかにも物分かり良く彼の顔を覗き込んだ。

「無理して話すことはない。心当たりがあるならむしろ安心できるな。他人が口を出せる問題じゃないかもしれないが、俺にできることがあれば相談してくれ。役に立つぜ」

「オルドヴィードは口が軽いから、相談するなら覚悟しなければな」

「おい、そりゃないだろ?こう見えて約束は守る。俺だって陛下の騎士だぞ。ま、しかしお前が口留めし忘れるような事があれば話はべつだ。後のことは諦めてくれ」

「お前みたいなやつを近衛騎士に引き立てるとは、陛下には一体どんなお考えがあるのだろうな」

 アーデルベルトがやっと破顔して軽口を叩いたのでオルドヴィードも笑った。やや空気が和み、二人はどちらからともなく並んで歩き出した。

「ひどい言われようだ。腕を見込まれたからに決まってるだろ」

「次の騎馬試合が楽しみだな」

「言ってろよ。次こそ俺が勝つぜ」

「そうしてくれ。私はそろそろ負けないと周りの期待が重荷になる」

「涼しい顔してよく言うよ。簡単に負ける気などないくせに」

「あたりまえだ。本気でやって負けたいだろ」

「たしかに俺も本気でやって勝ちたいな」

「そうだろう」

 アーデルベルトは満足げにオルドヴィードを見た。

 その時ふいにオルドヴィードの脳裏に閃くものがあった。

「もしかして、さっきの眠れない理由ってのはエルマーのことじゃないか?」

 アーデルベルトは不意を打たれた様子で一瞬足を止めたが、再び歩き出した。

「エルマー?なぜだ?」

「お前、旅の間あれと四六時中べったりだったわけだろ?惚れちまったんじゃないかと思ったんだが」

「は?」

 こんどこそアーデルベルトは足を止めてオルドヴィードを見た。その表情は心底不気味なものを見るかの如くだったので、オルドヴィードは首を傾げた。

「違ったか?」

「何でもかんでも色恋沙汰に仕立てて面白がるのはお前の悪い癖だ」

「ということは、原因がエルマーっていう所まではあってるのか」

「……」

 ここで黙れば図星だと大声で言っているようなものだが、アーデルベルトはお手本の如く動揺に口を閉ざした。こんなところも憎まれない理由だろうとオルドヴィードは思うのだが、あまりにも率直な反応でさすがに呆れてしまう。

「お前みたいな堅物は、ああいうイレギュラーなのに弱そうだよな」

「……いや、強いとか弱いとか、そういうことではない」

「気になってるんだろ?」

「気がかりな問題のひとつではある」

「問題ねぇ……俺にはそうは見えないがなぁ」

 珍しく、あからさまな嫌味でも揶揄でもない調子で食い下がるオルドヴィードに、アーデルベルトは眉をひそめた。

「なにが言いたいんだ」

「エルマーのことが憎いのか?」

「べつに憎くはない」

「嫉妬とか」

「誰があんなものに嫉妬するか」

「陛下の信頼を得てるだろ。ぽっと出のくせに」

「それは旅の間になんとなく納得できた」

「傭兵の女なんて軽蔑してたじゃないか」

「それはそうだが、他の傭兵よりだいぶまともなようだ」

「じゃなにが問題なんだ」

「……」

 オルドヴィードはこれ見よがしにため息をついた。

「敵意がないなら添い寝でも頼んでみたらいい。側にいたらわざわざ心配したり考えることもなかったんだろ。なにか聞きたいなら直接言って懸念を晴らせ。それでも隣にいるせいで余計眠れないとなれば十中八九それは恋だ。あきらめろ」

「くだらない」

 アーデルベルトは苦虫を噛み潰したような顔をして何か言おうとしたが、ため息をついて考えることをやめたようだった。

「アーデルベルトよ。お前が寝不足つづきで不調になって、いざという時陛下のお側にいながら役立たずじゃ困るんだ。原因がわかってるならどうにかしておけよ」

「……否定はしないが大げさだ。大したことじゃない。放っておいてくれ」

 珍しくふてくされたような顔をしてアーデルベルトは黙った。

 オルドヴィードはおおげさに沈痛な表情を作った。

「お前とは長い付き合いだが、まさかああいうのが好みだったとはなぁ……小姓としてわりとその辺にいそうじゃないか。お前の従者がああいう感じの子だったら良かったのにな」

「いい加減にしろ。さすがに言っていいことと悪いことがあるぞ」

 アーデルベルトに睨みつけられてオルドヴィードは肩をすくめて笑ってみせた。

「おっと、噂をすればお前の連れが来たようだ。じゃあな、安眠を祈るぜ」

 オルドヴィードと入れ違いにやってきたオーランドは、渋い顔のアーデルベルトに気付いて不安げに彼を見上げた。

「おまたせしました……何か問題でも?」

「……なにもない」

 オーランドは、明らかに何かあった口ぶりのアーデルベルトと悠々と去っていくオルドヴィードの背中を見比べて、そっと胃のあたりを押さえながらため息をついた。




 Ⅱ


 それから一週間ほどたった昼下がり、オルドヴィードが厩舎から出ようとしたところ、誰かとぶつかりそうになって慌てて脇に避けた。相手とぶつかるかわりに柱に肩を打って、オルドヴィードは呻いた。

「うっ……いてぇ……なんだ、アーデルベルトか」

「悪い……急に出てくるものだから。大丈夫か」

 差し伸べられた手を素直に取って、オルドヴィードは体勢を整えた。

「いや、なんの。真横からきたから、俺の位置が悪かったな。……中へ入らないのか?」

「オルドヴィードがここにいると聞いて来たんだ」

「なんだ?俺に用が?めずらしい」

「エルマーと寝てきた」

「は?」

 オルドヴィードは完全に意表を突かれてアーデルベルトを見た。

 いつもと変わらない表情に見えるが、彼は少し顎を上げて右に首をかしげた。優越感だか達成感だか、そのような感情の表れだとオルドヴィードは読み取った。

「え?なにを言ってるんだ?まさか……」

「エルマーが木陰でサボってるのを見つけたから、断って横で昼寝してきた。よく眠れたぞ」

「ん?」

 さらに想定外の返答に、オルドヴィードは混乱して頭に手を当てた。

「一体なんの話をしてる?」

「お前がやつの横で寝て来いと言ったんだろうが」

 事態を飲み込んだオルドヴィードは今度こそ呆れた。

「アーデルベルト、お前なぁ……慌てて損したぜ」

 アーデルベルトは一瞬わざとらしく眉を上げたのち「ああ、なるほど」などと悠長に呟く。

「だが、それはありえない事だと誰でもわかるだろう?話してる相手はお前なのだし」

「そういう問題じゃ……」

 その時アーデルベルトがふいに目を細めて口角が上がるのを隠すように口元を手で覆ったので、オルドヴィードはやっと自分がやり返されたことに気がついた。

「あっお前、わざとか?わざとだな!」

「ははは、まさか」

「ちくしょう、油断した」

「ともかく、これで恋煩いなどではないとわかったな。ついでに聞きたいことを聞いてきたらすっきりした。今はよく眠れている」

「まさか本当にやるとは思わなかったが……」

「私もオルドヴィードの提案が役に立つことがあるとは思わなかったよ」

 アーデルベルトはすっかり元通りの様子で明るく笑った。

 普段あまり表情を変えない彼が、これほど無邪気に感情を表す相手はそう多くない。オルドヴィードは不意にまぶしさを感じて目を細めた。

「揶揄ったつもりだったが、役に立ったんなら良かった」

「彼女の言うことはどうも……頭から信じるのは危険な気がするが、それでも一人で心配しているより、直接対話した方が良いようだ」

「そりゃそうだ。あの手の輩は簡単には手の内を見せてはくれまいし、特にあれは一筋縄ではいかないだろう。小娘のくせに底が知れん……」

「ところで、随分迷いなくあんなことを言ってくれたが、お前もそんな経験があったのか?誰かのことで夜眠れなくなるような」

 突然の切り返しに、今日のアーデルベルトは痛いところを突いてくる、とオルドヴィードは内心驚き、慌てた。しかしあくまでも素っ気ない態度を装って肩をすくめた。

「まあな」

「本当か?初耳だ」

「そりゃあ……話してないからな」

「お前は人を揶揄ってばかりで自分の事はあまり話さないな」

「おっと、聞かないでくれよ。俺とお前の仲で話さないのには訳があるんだ。といっても、お前の妹に惚れたとかそういうのではないぞ。……とにかく俺を信用してくれ」

 完全に先手を打たれてアーデルベルトは苦笑した。

「そうか。そこまで言われたら仕方ない。少し寂しい気もするが、お前を信じよう」

「ありがたいね……じゃ、悪いが俺はそろそろ行くぜ」

「ああ。そうだ、念のため肩は手当てしておけよ」

 アーデルベルトは真面目な顔に戻って、労わるようにオルドヴィードの肩に軽く触れた。この好敵手に一番敵わないのはこういうところなんだよな、とオルドヴィードは考えながら笑顔で肩を叩き返す。そして意識して背筋を伸ばし、ゆっくりと大きく歩幅をとってその場を後にしたのだった。

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