Fragment:8「掌と葡萄酒【過去編】」
勝利に沸く傭兵たちの朝まで続くかと思われる宴の途中で、エルマーはヴィクトールに呼ばれて席を立った。喧騒を抜け、時折遠くに怒号じみた歓声が上がるのを聞きながら、共に彼の天幕へと向かう。ヴィクトールは小柄なエルマーに歩調を合わせることもなければ振り返ることもしない。しかしそれはいつもの事だった。わずかに虫の音が響く天幕の群れの中、他よりやや大きな幕屋へと消えたヴィクトールの背中をエルマーは追いかけた。
エルマーが入り口の垂れ幕を引き下ろしたのを確認するなり、彼はリヨワの紋章が押された書簡を差し出した。
「話ってこれ?」
次の契約のために交渉をはじめていたリヨワはイスタリア北西部の都市である。近年領土で銀鉱が見つかり、今では大陸南部でも有数の富める都市となったリヨワは、かねてより因縁のある都市国家パスヴァと決着をつけるべく傭兵を雇おうとしていた。
「うわ。さすが気前がいいね。今日はいいことが続くな」
受け取った書簡を一瞥して想定以上の報酬が提示されていることを知り、エルマーは心なしか弾む声で呟いた。
「最終的には直接会って決めるが、おそらく問題ないだろう」
ヴィクトールは部屋の隅の木箱から葡萄酒の瓶を取り出してエルマーをみやった。
「まだ飲めるか?ベレトアのとっておきを開けてやる」
「いいの?」
「お前が戻って最初の手柄だ」
ヴィクトールは慣れた手つきで葡萄酒を開け、陶製のデカンタに注いだ。
「私は一言提案しただけだよ」
「よく読め、それが効いたらしい」
「……じゃあ、もらおうかな。ありがたく」
エルマーは面映いような心持ちで手近な椅子に掛け、彼の手から杯を受け取った。そしてまじまじと手の中の器を見下ろした。
修道院では葡萄酒も作っていたが、エルマーはまだ子供だった。儀式で口にした葡萄酒は苦かったのを覚えている。それ以外では薄めて混ぜ物をしたものしか飲んだことがない。エルマーは蜂蜜と果物を入れたものが好きだった。酒の良し悪しなど自分に分かるものか甚だ疑問だ。それでも自分のための祝杯ならば嬉しかった。
銀の器の中、黒々と揺蕩う液体をランプの灯りの下で揺らせば、それは美しい真紅色に透き通った。そろそろと口に含んでみると華やかに香り高く、エルマーの好みに甘かった。驚いて思わず顔を上げてヴィクトールを見る。彼も杯を煽っていたが、特別な感情は湧かないらしい。相変わらず冷めた菫色の瞳がエルマーを眺めているだけだった。
エルマーは、彼に意見を申し立てる時のように、真っ直ぐに彼を見つめ返して感想を伝えようとした。しかしちょうどその時、外からヘンリクの声がヴィクトールを呼んだ。エルマーは言葉を切ってヴィクトールを見たが、彼は視線を返す事なく葡萄酒の器を置いて天幕の外へ出ていってしまった。
エルマーはしかたなく、ひとり手持ち無沙汰に杯を傾けた。その葡萄酒は本当にとっておきらしかった。口に含むたびに、こんなに甘い葡萄酒があるのかと感心してしまう。エルマーは鼻歌でも歌いたい気分で杯を空けてしまうと遠慮もなくデカンタを掴み、注ぎ足した。彼の好みは辛口のはずだから、自分が多く飲んでも怒られはしまい。
だが舐めるように二杯飲み、三杯目を注いでもまだヴィクトールは戻らなかった。天幕の外からは複数の話し声が聞こえている。エルマーはなんとなく天幕の入り口を見つめてみたが、話の終わる気配はない。時折笑い声が混じるあたり深刻な話ではないようだった。なんとなくその声に耳を澄ませながらまた一口飲み、エルマーはふと、先ほどまで彼が座っていた椅子を見た。
自分は彼に戻ってきて欲しいのだろうか?差し向かいで葡萄酒を飲みながら、別に何を話すわけでもあるまいに。もしかしたらなにか褒めてくれるつもりだったのだろうか。普段の素行だとか?しかしエルマーはすぐさまその考えを打ち消した。ばかばかしい。彼にそんなことは期待しないほうがよかった。この上物の葡萄酒が彼の言葉だ。きっとそれ以上のものはでてきやしない。
エルマーはまだ半分ほどあった杯の残りを一気に飲み干した。甘いが、強い酒だった。喉が熱くなるのをぐっと唾を飲み込んでごまかして、エルマーはまた杯を芳しい液体で満たした。
「エルマー?」
ヴィクトールの声が今まさに沈みつつあったエルマーの意識を掬い上げたが、エルマーは一瞬それとわからなかった。
「ん……」
一拍遅れて呼ばれたのだと理解し、返事をしたつもりが吐息にしかならなかった。しかしすでにどうでもよかった。火照った頬を冷まそうとして卓に寄せたきり体を起こせなくなっていたのだ。完全に酒が回って体がだるい。目が開かない。どれほど時間が経ったのだろう?瞼の中の暗闇を眺めながらエルマーはぼんやりと考えた。歩み寄るヴィクトールの気配がして、卓上に手を伸ばしデカンタの中身を確認したようだった。
「空か」
呆れたようにつぶやくのが聴こえて、エルマーは笑いたくなった。
「エルマー、起きろ」
無遠慮に肩を揺すられると、頭だけ回転するような感覚がして気持ちが悪くなった。エルマーが呻いて眉をひそめると手が離れていき、かわりにため息が降ってくる。
「おまえ、一人で全部飲むやつがあるか」
「…………おいしかった」
「うまかったか」
「うん……」
エルマーは呂律の回らない舌でつぶやいた。おいしかったのだから仕方がない。こんなにおいしい葡萄酒をひとりで飲んだら誰だってこうなる。ヴィクトールが自分をひとりにしたのだから。
その時、エルマーは自分の頭に手のひらの重みを淡く感じとった。それは雑に髪を攫ってすぐに離れていった。夢かしら、と思ってから急に確認したくなり、瞼をこじ開けるとヴィクトールがエルマーの腕を掬い上げるところだった。抱き起こそうとする彼と目が合うが、体は重くて動かない。彼の表情はいつもとあまり変わらないように見えた。少なくとも腹を立ててはいないようだ。
ヴィクトールは構わずにエルマーを抱き上げて、簡素な寝台に下ろした。
「仕方がない。ここで寝ていけ」
彼の体温が離れていくのがわかって、エルマーは思わずその腕を掴んだ。自棄になって祝いの酒を一人で飲んだ事が今更ながら惜しく感じられたのだ。酔いが回っても身のうちにある寒々しい空虚さは消えなかった。自分には別の報酬が必要なのだとエルマーはぼんやりと理解した。幸い、自分らしくない振る舞いをしても今なら全部酒のせいにしてしまえる。
「なんだ」
ヴィクトールは面倒そうに片眉を上げてエルマーを見た。エルマーは言葉を選ぶのも億劫になって、心に浮かんだことをそのまま舌に乗せた。
「ほめて」
ヴィクトールがちょっと変な顔をして、エルマーをいい気分にさせた。
「褒めただろ」
「ほめてない」
「そうだったか」
「うん」
エルマーがねだるようにヴィクトールの腕を掴む指に力を込めると、彼は観念したように身をかがめた。
「……でかしたぞ、おまえのおかげで贅沢ができそうだ」
しかしそれはいかにも彼らしく感情のこもらない声で、素っ気なかった。エルマーが不満を口に出そうとした時、ヴィクトールが手を伸ばしてエルマーの額に触れた。そしてやや乱暴に頭を撫でた。先ほどと同じように、もう少し念入りに。まるで「本心だからな」と言い含めるようだった。
エルマーは思わずヴィクトールを見上げた。いつもと変わらず高圧的な彼の表情が、今はなぜだか可笑しかった。
「……いい拾い物をしたね、ヴィクトール」
急に心が軽くなってエルマーが楽しげに呟くと、ヴィクトールは「あまり調子に乗るなよ」と釘をさした。しかしその言葉はどことなく温かかく感じられた。
エルマーは大きなあくびをして瞼を閉じ、満足して深い眠りに落ちた。
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