Fragment:4「書斎にて」

「いきなりそんなことを言われても困る」

 エルマーは憤慨した様子でヴィクトールに食ってかかった。

 相対するヴィクトールは、銀狐の毛皮をかけた長持に腰かけて不機嫌そうにぶどう酒の杯を傾けていたが、エルマーの言葉にいよいよ剣呑な目つきになって彼女を睨め付けた。並の人間なら恐怖で口を閉ざすところだが、しかしエルマーは臆することなく抗議を続けた。

「もう南行きの手筈は整えてあるし自分が行く前提で計画を立てていたんだ。いったいどんな理由があって予定を変更するのか、説明してほしい」

 ヴィクトールはいかにも面倒な様子で息を吐いた。

「不本意だが俺の判断ではない」

 そう言って、彼はエルマーのそばに置かれた机上の紙片を顎で指し示す。エルマーは不審げにそこへ目をやって彼の意図を汲み取ると、苛立った手つきで紙片を拾い上げた。そして目を通すなり意表を突かれた様子で沈黙した。

「ゲルトルードにまず計画の打診があったらしい。お前が適任だと話をよこした。お前があの山で受けた恩に報いよとのお達しだ」

 エルマーは納得のいかない様子ですぐには紙片から目を離さなかった。

「けして恩を感じていないということではないが……私があそこへ入れたのは、あなたの実家からの継続的な支援という信用に加えて、あなた自身が支払った寄付のためでは?」

「それは入る時の対価で、出るのはまた別ということらしいな。ゲルトルードはお前を引き留めて弟子にしたいと言っていたが、こちらに戻るのはお前の意思だということで諦めさせたつもりだった。だが、今更になってそれを持ち出してきた」

 ヴィクトールは鬱陶しそうに酒杯を呷った。

「まったく聖人面して抜け目のない女衒だ。敵に回せばこれほど厄介な相手もそうはいまい。とにかくお前はたしかにゲルトルードに借りがある。それはお前自身で返すべきだ。この機会に清算しておけ」

 エルマーは紙片を机上へ戻しながら困惑した表情でヴィクトールを見つめた。

「しかし、いくらゲルトルード様のご意向でも今すぐにだなんて……それもこんな形で要請する相当の理由があるようには思えない。あの方らしくもない。確認するべきでは?南方が落ち着いた後にでも――」

 ヴィクトールは立ち上がってエルマーと机の傍へ歩み寄り、銀の杯を寄木の盆に置いた。直後、その手はエルマーの首を荒々しく掴んでいた。エルマーは咄嗟のことに反応できず、衝撃によろめいて背後に倒れこんだ。そこには美しいマホガニーの飾り棚があった。とっさに天板に手をついた拍子に三枝の燭台が倒れて絨毯敷きの床に転がった。

 ――蝋燭にまだ火がついていなくてよかった。エルマーは横目で燭台の行方を追いながらそう考えたが、すぐにヴィクトールに掴まれたままの首に意識が引き戻された。彼が手を緩める気配はない。呼吸がほとんどできなくなっていた。

 なんとか引き剥がそうともがいてみたが、綿入りの襟の上から彼の指が容赦なく首筋に食い込んでいてなす術がなかった。

「まさか、セルジアンナの動乱が半年やそこらで落ち着くと思っているのか?」

 ヴィクトールは身動きの取れないエルマーを冷たく見下ろしていた。エルマー自身も、泥沼の様相を呈しはじめた南部での紛争が早々に片付くとはけして思っていなかった。だが、半年もあれば自分の計画を軌道に乗せるだけの根回しはできると考えていた。そのあとは他の者にでも任せれば良い……しかしまるでエルマーの思考を読むかのようにヴィクトールは続けた。

「たとえお前が半年で片をつけることができたとしても、シニェンヴェッシの冬は驚くほど早い。収穫祭のころには行動が制限されはじめる。ウィトマルクはさらに北だ。今お前を南方へ送れば確実に到着が遅れるうえ、秋以降は西寄りの道しか選べない。経費は軽く見積もっても三倍になる。ゲルトルードへは確認済みだ」

 エルマーは首を振るのもままならず奥歯を噛み締めた。この男が自分を不用意に殺しはしないだろうことをエルマーは知っている。しかし思考の冷静さとは裏腹に、半ば生理的な反射のためにヴィクトールの手首を掴んだ。額に冷や汗が流れるのを感じながら、ヴィクトールの刺すような視線を受け止めることしかできなかった。しだいに眼に映るものが暗く感じられ、輪郭を失って溶けながら揺らいだ。その中でヴィクトールの声が重く響くのをエルマーは聞いた。

「勘違いするな、これは提案ではない。――命令だ」


 唐突に解放されてエルマーは思わず噎せた。飾り棚に寄りかかったまま息が整うのを待ち、ゆっくりと瞼を開き、しだいに正常な世界が戻ってくるのを確かめた。

 ヴィクトールは踵を返すと机に向かい、ペンを掴み、新しい紙に何事か書きつけた。まもなく書き上げたそれを無造作にエルマーの方へ滑らせた。

「概要だ。あとはお前が導け」

 エルマーは眉を顰め、当て付けがましく首をさすりながら歩み寄り、取り上げた書面に目を走らせるとそのまま傍で燃える暖炉に投げ捨てた。たちまち紙が炎に巻かれて灰になるのを見届けると、エルマーは顔をあげ、鋭い視線でヴィクトールを睨みつけた。瞳に炎が映り込んでギラギラと光った。

「ヴィクトールが命令だと言うなら今回は従う。けれど、ゲルトルード様への恩を私がいつどのように返すかということに関しては、本来あなたが決めることではない。少なくとも、私にも交渉する権利があったはずだ。それについては貸しにしておく。いずれ利息つけて返してもらうから覚えておいて」

 エルマーの言葉にヴィクトールは口角を引き上げて鼻で笑い、「トイチでいいぞ」と宣った。

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