Fragment:2「修道院にて」

「エルマー!ああ、本当にエルマーだわ!」

 歓声を上げて葡萄畑を少女が駆ける。灰色のローブを翻して器用に枝を避けながら斜面を駆け下り、その勢いのまま馬から降りたばかりのエルマーに飛びついた。

エルマーはおどけたように小さく声を上げてよろめいたものの、衝撃をそらして軽やかな身体をしっかりと受け止める。ふわりと日向の匂いが掠めて、エルマーは目を細めた。

 少女は次の瞬間、体を離してエルマーの顔を覗き込んだ。きらきらと輝く空色の瞳と薔薇色の頬。いかにも育ちがよさそうな、柔和な印象の女性だった。

髪はまとめて白い頭巾できっちりと覆っているが、美しく波打つブルネットであることをエルマーは知っている。

「よかった、無事だったのね!本当によかった!わたし、とても心配していたのよ……」

 挨拶というには少々情熱的な口付けを浴びせ、明るい音色の声で弾むように笑っていたかと思えば、たちまち眉が下がり澄んだ瞳に涙が滲んでくる。その目元をあわてて細い指先で押さえながら、フランチェスカは誤魔化すようにふにゃふにゃと笑った。

 少し大人びたように見えたルームメイトの、しかし昔と変わらない豊かな感情表現に思わず肩の力が抜けるのを感じて、エルマーはいつのまにか自分が随分と緊張していたことに気がついた。

「また会えて何よりです、フランチェスカ。あなたが手を振ってくれたのが葡萄畑の下から見えましたよ」

「遠くて顔がみえなかったけれど、きっとそうだと思ったの。ああ、何年ぶりかしら……もう会えないかもしれないって思っていたから、本当にうれしい」

「あなたも元気そうでよかった。皆もかわりないですか?ゲルトルード様は?」

「みんな元気よ。院長様はこの時間ならご自室のはず」

 フランチェスカはやっとエルマーを解放すると、その肩のあたりに手を置いたまま、彼女の頭の先からつま先まで物珍しげに眺めた。

「また髪を切ってしまったのね。すっかり殿方みたいだわ」

 そう言われて、エルマーは自分が男ものの服を着ていることを不意に思い出す。自分ではすっかり慣れてしまったが、フランチェスカからすれば奇異に見えるだろう。

「女のなりでは目立つものですから……似合いませんか」

エルマーがやや眉を下げたのでフランチェスカは慌てた。

「まさか!あんまり凛々しくなってしまって驚いたのよ」

 本当のところ、フランチェスカはエルマーの出で立ちよりも、その表情が随分と険しく鋭利に見える事が気に掛かった。しかし、彼女がいま所属する世界のことを思えば、それも仕方のないことかもしれなかった。フランチェスカは、自分がこの守られた場所で平和に毎日を過ごしていた間にエルマーが向き合ってきたであろうもののことを考えた。しかしすぐに、それを知ったところで自分に何が言えるだろうかと思った。

「院長様のお部屋までわたしが一緒に行くわ。ちょうど葡萄の剪定が終わったところなの。さっきまでエレノアが一緒にいたのだけど、片付けをお願いして先に戻ってもらったのよ。彼女、きっとあなたと最初に会えなかったことを悔しがるわね!」

 努めて明るく笑ってみせながらエルマーの手を取ると、思いのほか硬くしっかりとした手指のかたちが手袋越しに伝わってきて、フランチェスカはなんだか泣きたいような気持になった。


 海のすぐそばまで迫るヴィヴィリア山に穿たれたV字谷の、急峻な斜面に張り付くようにして、アルハターク女子修道院は造られていた。煉瓦で作られた古風な美しい聖堂と、修道女らの暮らす建物を複数擁し、その周囲は崖を覆うように積まれたためにひときわ高く見える壁で守られている。比較的なだらかな下の斜面に広がる葡萄畑は石垣で囲まれ、今しがたエルマーが登ってきた道がひとすじ、扇状地の森の中へと消えていた。さらにその先に目を移せば、やや霞んで見える海岸線と、港町アスタハの広がりを見渡すことができた。


 門をくぐると、平かな前庭が静謐な印象でエルマーを迎えた。かつてエルマーが暮らしたこの歴史ある修道院は、彼女が別れを告げたその日から何も変わらないように見えた。其処此処で古い知己に呼び止められ、穏やかな笑顔と慈しむような挨拶を受けながら、歩きなれた石畳をたどった。二人は努めて静かに、ときおり語り合いながら、ゆっくりと懐かしい院内を歩いた。

 前庭を抜けて聖堂に近づくと、懐かしい香りが漂ってきた。まるで過去に引き戻されるかのようにエルマーの脳裏に情景が蘇る。窓が小さく、昼でも暗い聖堂のなかを照らすたくさんの蜜蝋蝋燭の灯火。その光を受けて厳かに浮かび上がるフレスコ画。乳香と没薬の煙。昼に夜に空気を震わせる詠唱の響き。中庭の回廊に射し込む淡い日差し。広げられた書物と光に透ける羊皮紙。文字を指し示すしわがれた指先とインクの匂い――


「ゲルトルード様はエルマーが来ることを知っているの?」

「先に鳩を飛ばしたから、無事着いていればご存知のはずですよ」

「まぁ……では知っていてわたしたちには内緒にしていたのかしら。ひどいわ。でも……そうね、皆がエルマーの到着を気にして、仕事に手がつかなくなってはいけないと配慮されたのかもしれないわね」

フランチェスカはおどけたように眉をあげてみせた。

「そんな大げさな……」

「ちっとも大げさじゃないわ。今でも時々あなたのことが話題に上がるのよ。私たちみんなあなたに憧れていたから」

「まさか。初めて聞きます」

「だって内緒だったんだもの」

フランチェスカは口を尖らせてそう言ってから、悪戯っぽく微笑んだ。

「――私がアンナと道に迷った時のことを覚えてる?森の中で日が暮れてしまって、本当に心細かった。アンナは足をくじいていたのよね。私たちほとんど諦めていたの。動くこともできないし……でもあなたが助けに来てくれた!まるでおとぎ話の王子様みたいだったわ!あなたはアンナを抱えて颯爽と……乗せてくれたのは白馬ではなくて、荷運びの驢馬だったけれど」

「そういえば、そんなこともありましたね」

フランチェスカはくすくすと笑う。

「そんなことが度々あったでしょう?カーラなんか本当に……ほら、風のいたずらで高い枝に掛かった洗濯物を、あなたが木登りして取ってあげたの。それからというものカーラはあなたを見かけるたびに背筋を伸ばして……あら?エルマーあなた、そういえばずいぶん背が伸びたのね?」

 当時の記憶が蘇ったのか、顔を綻ばせ、エルマーに熱い視線を浴びせていたフランチェスカが突然目を丸くして立ち止まった。

「そうでしょうか」

 フランチェスカの移り気なおしゃべりは時折厄介なものだったが、居心地悪そうに頬を掻いていたエルマーは、この時ばかりは彼女のほとんど唯一の悪癖をありがたく思った。

 二人は聖堂の右翼に繋がる、中庭を囲む回廊に差し掛かったところだった。重苦しい印象のゆるやかなアーチから差し込む低い陽光が、ちょうど壁にまっすぐ光を投げかけている。エルマーはフランチェスカに手を引かれてその光の中に並んで立った。

「ほら、見て、私よりも背が高いみたい」

並んだ二つの影は、わずかにエルマーの方が長く伸びているように見えた。

「……本当だ。でも、これでは本当のところはわかりません」

「実際はもっと高く見えるわ。なんだか……逞しくなったせいかしら?……ああ、あの小さなカーラが今のあなたに会ったら、彼女大変なことになってしまいそうね」

「まったく貴女はもう……カーラに怒られますよ」

 ふいにエルマーが呆れたように微笑んだのを見て、フランチェスカは今度こそ本当に、懐かしいエルマーが帰って来たような気がした。とびきりの笑顔になったフランチェスカを見てエルマーは首を傾げた。


 ゲルトルードの部屋が近づくと、どちらからともなく口を噤んだ。静寂の中を進み、金属の板と鋲で補強された大きな黒い扉の前で足を止めるといよいよ重苦しい沈黙が流れる。二人同時にそのことに気付いて目を見合わせ、思わず苦笑した。

 修道院長の部屋に呼び出される事は、ここで暮らすものたち――とくに当時のエルマーやフランチェスカのような修道女見習いの少女たちにとってはたいへんな非常事態であったし、たとえやましいことが無くても、ゲルトルードを前にすれば誰しもその威厳に圧倒されてしまう。二人も例外ではなくこの部屋の近くでは身構えてしまうのが常であった。

 つまらないことではあったが、歳月がたっても変わらないものが自分の中にあることにエルマーは妙な感慨を覚えた。そしてこの場所が、今の自分を形作った生活の場であったことを、確かめるように思い出した。

 フランチェスカが大げさに背筋を伸ばし、二人して取り澄ました顔を作るのをお互いに確認した。いつかと同じ、フランチェスカの優しげな瞳がエルマーを促す。エルマーは一呼吸おいてから、古めかしい扉を叩いた。

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