[創作傭兵]Fragments

s.nakamitsu

Fragment:1 「砦にて」

 アーデルベルトはその足で北の外れの部屋へ向かった。ノックして返答を待たずに軋む古い木戸をひらき、勝手知ったる様子で控えの間になっている薄暗い小部屋を抜けて次の間へ進む。落ち着いた清潔な明るさのなかに、テーブルと長持がいくつか置かれただけの殺風景な部屋だった。正面の分厚い石壁に穿たれた、奥行きのあるアーチの中の小さな窓から差し込む明かりが、砂色の壁と淡い色のタペストリーに反射してぼんやりと拡散していた。

 右手の壁のくぼみに木製の寝台が作りつけてあり、帳の影で眠るエルマーの姿が垣間見える。その脇に置かれた簡素な椅子に座りこみ、寝台に縋るようにうつ伏せていたヨシュカが憔悴した顔を上げた。

「サー……」

 掠れた声でそれだけ言って、なにをいうべきか思いつかないらしい。

 エルマーが意識を失ってからというもの、彼がろくに睡眠も食事もとれずにいるのを近しい者はみんな知っていた。

「見舞いにきた。ノックはしたはずだが」

「ええ、聞こえました。エルマーは、その、かわりないです」

「おまえ……大丈夫か?ひどい様だ」

「……そうですか」

  ヨシュカは隈の浮いた顔を雑にこすりながら、気の抜けたような調子で呟いた。

「構わないから少し休んできたらどうだ」

「……すみません、そうします。女中は今しがた湯を取りに……。何かあれば声をかけてください」

 言ったところで聞き入れはしないだろうとぞんざいに放った言葉だったが、どうやら本人も限界を感じていたものらしい。ヨシュカは力なく立ち上がり、殊勝な様子でアーデルベルトに頭を下げた。普段は生意気に見えるほど勤めて胸を張っている彼だったが、隣室へ去る後ろ姿はひどく肩が落ちて生気がなかった。

 アーデルベルトは憂鬱な気持ちになって寝台の縁に腰掛け、エルマーを眺めた。

 横たわるエルマーの身体は毛布越しでも線が細くてたよりなく見える。露わになった首筋も意外なほど細かった。胸が穏やかに上下しているのがわかる。一見すると安らかな寝姿に見えた。頭に巻かれた包帯だけが白く存在を主張し、不穏な空気を醸し出していた。


 閉ざされたまぶたの辺りをなんとはなしに眺めながら、アーデルベルトはいつのまにか彼女が来た日のことを思い出していた。

 謁見の場で、屈強な数人の男たちの中から頼りなさげな若者がひとり、陛下の前に進み出たのを見て何事かといぶかしんだものだった。さらにそれが実際には少女で、彼女が傭兵隊長ヴィクトールのかわりに馳せ参じたのだと知った時には、おおげさでなく我々は侮辱されたと思った。

 結局それは大変な見込み違いだったことが今となってみれば分かる。彼女の働きでいつのまにか全てが変わりつつあった。自分はふたたび騎士として最高の主君を持ったが、その主を王の器にまで高めたのもおそらくエルマーに他ならなかった。

 姫さまは遠征の中でエルマーから戦術や理論を貪欲に学び、エルマーが意識を失ってからは自ら決断し軍を指揮している。その判断はアーデルベルトにとっても正しいものに思えた。

 しかし作戦を明日に控え、エルマーが補佐をしていた時のような不思議な確信が今はないことにアーデルベルトは気づいていた。おそらく姫さまも、先ほどの様子では同じように感じているのだろう。

 いつのまにか軍の中になにか言いようのない安心があったことをアーデルベルトは認めざるをえなかった。エルマーがいれば勝てる、絶対にうまくいくという空気。 それは幹部たちの間でこそ顕著であった。姫さまに王としてのカリスマがないわけでは絶対にない。しかしそれすらエルマーの存在の確かさに勝るものではなかった。アーデルベルトは軍神と呼ばれる存在をエルマーの後ろに見た気がした。

 一方で我々は、選択の先の運命を受け入れることしかできない。エルマーを頼れない今、采配は姿の見えない神の手に委ねられていた。


 何かが窓の外をよぎったものか、突然視界に影が走って彼は我に返った。同時にそこに横たわるエルマーが、なにか人ならぬものに連れ去られるような不吉な錯覚にとらわれ、思わず手を伸ばして彼女の額のあたりにそっと触れる。少し熱を持った膚がしっとりと汗ばんでいるのが感じられてアーデルベルトを心底安堵させた。自らに言い聞かせるように包帯が巻かれたすぐ下をなぞり、はりついた髪をよけた。

 こうして初めてまじまじと見るエルマーの寝顔は普段よりもずっと幼く平凡に見えた。やや直線的な凛々しい眉もいまは緩やかに弧を描き、薄いまぶたはおおきな眼球の丸みを反映して柔らかな陰影をつくっている。どこかイコンの聖母のような寂しさと静謐さがあった。普段の彼女の厳しい雰囲気は一体どこからきていたのだろうか。どれだけの緊張や重圧がエルマーという人間を作っているのだろう。

 そう考えた後でふと、いや、そうではない……瞳だ、とアーデルベルトは思った。

 彼女の底知れない眼差し、ときに背筋が痺れるような迫力を持つあの瞳。それは思うに意思が迸らせる火花だった。瞳が見たい。アーデルベルトは不意に狂おしい欲求を感じて自分がなぜここへやってきたのかを突如理解した。あの眼差しで不甲斐ない自分の逡巡を射抜いてほしかったのだ。それが叶わないことがこんなにも苦しいものだとは思わなかった。せめて一時の喪失であってほしいとアーデルベルトは願わずにいられなかった。


 彼はおもむろに自らの首から護符を外し、握り締めた。まだ彼が幼かった頃、叔父の小姓として出征する際に祖母が託してくれたものだった。それから間もなくそれは形見となってしまい、彼はその護符をずっと自分のために持ち続けていた。それをエルマーの手首にかけて握らせる。アーデルベルトは上に自分の手を重ねたまましばらくの間じっとエルマーを眺めていたが、やがて意を決したようにゆっくりと背を屈めた。

 かすかに触れるだけの口づけを落とし、名残惜しげに指の背で彼女の頬を撫でる。静かに眠り続けるエルマーの顔を見ながらアーデルベルトは祈った。

 神よ、どうか、どうかこの者に特別の加護を。

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