第8話


            ◇◆◇


 それからリリーは毎日、劇団に足を運んだ。ルイスの手引きもあり、劇団のチケットを全て無料で譲ってもらっていたのだ。これは、ルイスの方から言い出したことであり、自分の稼いだ金から引いてもらっているようだった。

「君のためなら喜んで協力するよ。だから気にしないでね。こんな金、端金なんだからさ」

 リリーは笑った。そうして毎日アーサーに会いに行った。宿舎にはルイスがアーサーに酷く罵倒され、拒絶されたので直接会いに行くことはできなくなってしまったが、アーサーでなくとも、仮面を被ったアルルカンである彼の時でも、見つけ出せたらすぐにでも話し掛けた。時にはファンの女を押しのけてまで彼と話そうと努めたのだから、アーサーはさらなる恐怖に苛まれたことだろう。

 彼はアルルカンとしている時には、前に言った通り、彼女のことを自分の客として応対していたが、その仮面の裏の顔がどれほどの表情を貼り付けていたのだろうか。


 あの一件以来、アーサーは極端なほどにルイスを憎んでいた。一言でも話しかけようとすると、優に百以上の罵詈雑言が返ってきたといっても過言ではない。また、ルイスにあの少女は一体何者なのかと詰め寄る団員たちもそれはもう多くあった。その対応に追われていたルイスは、仕方なく彼との復縁を一時諦めることにした。

「リリーちゃんという少女は、おそらくアーサーの救世主だ」

 ルイスは言い切った。意味がわからないという団員たちには、彼が少女に対しどのような反応を示したかを細々と説明してみせた。そうすることで、彼女がどれほどの希望であるかを確認していたようであった。

 ジャンヌは怪訝そうにしていた。

「へえ、あんたが逢瀬の手引きをするなんてね。珍しいことは続くっていうけど、本当だったわねぇ」

 たじろぐルイスに、ジャンヌは顔を近づけて、たいそう不快そうに言った。

「あんたの考えてることは、いつになっても全然読めない」

「そ、そうかな」

「――気に入らない。元々あんたたちのことは気に入らないけど、特にあんたは今まで会った男の中で一番気に入らない。この、金持ちのボンボンが」

 ふん、と苛立ちを隠さずに思い切り顔を背けた。その勢いで色素の薄い長髪が波打って、彼女のつけた香水の香りが薫ってきた。ルイスは彼女の言葉に少しも意に介さず、その女特有の甘やかな香りに惚けている。それを見て、ジャンヌは物足りなく、不服そうに鼻を鳴らすのだった。

「こら、ジャンヌ。そうルイスに当たってやるな」

「でも。アーサーが今不安定なのは、間違いなくこいつのせいじゃない。そうでしょ、アルダシールさん」

 これにはアルダシールではなく、また別の女が反応した。

「そ、それは本当ですかジャンヌさん! ルイさん、あなた一体何をしたんです……!」

 詰め寄ってきた女は板のように痩せて一般女性より幾分も背丈の高い女だった。また顔色は悪く、不健康そうに見え、鼻の周りの茶のそばかすとこれまた茶の髪を三つ編みにしていたが、長い前髪のせいで陰気な雰囲気を纏っていた。 ジャンヌと呼ばれた女と並び立つと、見劣りするどころの話ではなく。二人はまったく真逆の立場に位置する女たちであった。ちなみに、彼女は裏方の専門家である。アルテ劇団は人数不足により他の劇団から団員を借りることもあったが、大道具から小道具まで大方のものは彼女による手作りであった。リリーが見た『女神の像』での女神像も彼女の力作だ。名前はサーシャ=クルル。役者というものに対し強烈なまでの憧れ意識があり、中でもアーサーへの憧憬の念が大きく占められており、アルルカンの熱烈な支持者の一人であった。

 またサーシャ、ジャンヌの他にも正規劇団員はいる。以前集まりに参加していたバルサックもそのうちの一人だ。

「あんた、まだ知らなかったの、例のアーサーの事件。もう、鈍いどころの次元じゃないわよ。劇団中その話題でもちきりだっていうのに、……病的ね」 

 すっかり呆れ顔のジャンヌは、ルイスに説明してもらいなさいと匙を投げた。ジャンヌに少なからず好意を持っている彼は、彼女の頼みを全うしようと力を入れたが、アルダシールに、

「これからのことと、劇の台本のこと、あと劇の稽古もついでに見てやるから、ちょっとこっち来い」

 と言われ、結局そちらへと足を向けた。

「ちょ、ちょっとルイさん!」

 サーシャは放っておかれることとなった。

 ――ちなみにルイスが毎度舞台に上がっているのかと問われれば、答えは否だった。ルイスの本来任されている仕事は劇作家だ。つまり、演じる劇の内容を作る仕事だ。アルテ劇の特徴はあくまで即興性にあるので、台本で台詞を細かく指定することはないが、大まかな話の筋は劇作家の方に任せている。ただ、ルイスはあくまで演じ手と作り手の両立を望んだ。それもあり、またアルテ劇団は人員不足なので時折舞台上に姿を出すこともあったが、演者として特別優れているわけでもない。そんな彼は主にアルダシールに指導してもらい、芸を磨いている。


 以前にも呼ばれた四人全員とアルダシールとで会議が幾度も繰り返された。

「前にも伝えたことだが、今回の話は今世紀あるかないかの僥倖だ――いや、これほどまでの機会を作るために尽力した人物がいるのだから、僥倖というのはちょっとちがうか――ともかく。我々は絶対にここで成功しなければならない。王の前で必ず、素晴らしいこれ以上ないほどの劇を演じる。皆、いいな?」

 ジャンヌは不機嫌そうに頬杖をして、厳しい声で尋ねた。

「その情報、本当に信じていいの? ガセだったら一体どうするの」

「そこは安心してくれ。確かな筋からの情報だ。間違いない。ブルーノとも確認したからな」

「そのブルーノさんはどこに」

「……おそらく酒屋だろうな。まったくあいつは――何度会議するつもりだ、一回で十分だ! なんて言い出すんだから、全くわかってない。細かく確認を繰り返すことで本番を落ち着いて迎えることができるというものだろう」

 皆一瞬黙ったが、アルダシールは特に気にする様子もなく、会議を進めた。

「まず、今回の話はアーサーの意見もあり、我らが演じてきた中で一番反響があった『ピエロットの悲恋』にしようと思う。これはピエロットが主役の話でアルルカンが彼の恋を支援するというものだ。結局彼が愛した女はすでに想い人がおり、その恋は破れる。悲しみに暮れるピエロットは偶然にも女の命の危険を目の当たりにし、それを咄嗟に身代わりして命を落とす。アルルカンがその想いを受け継ぐと言って女に近づいたところ、その女が想いを寄せていたのが実は当のアルルカンであったことがわかり、二人は晴れて結ばれるという物語。一見すると悲劇だが、これを滑稽に面白くすることで喜劇になる。これはアルルカンの腕にかかっているから頼むぞ。この女役は確かコロンビーヌでよかったんだよな。アルルカンの恋人はコロンビーヌと決まっているから。そしてピエロット役だがそれは私が――」

 するとずっと黙っていたはずのアーサーが口を挟んだ。

「今回、副団長は参加しない方がいいと思う」

 アルダシールはひどく興奮した様子で立ち上がり、彼に抗議する。「何故」

「副団長はただでなくとも、三つの役を専門にやってる。正直、多すぎると思っていた。いや、演技が悪いというわけじゃない。あんたの演技はおれが見ても凄いと思う。でも、その多い役柄を任されてるせいで、精神的に参ってるように見える。実際、そうだとあんたも言っていたはずだ。だから、今回は休んで、代わりに最近入ってきたピエールを入れたらどうかと思う。筋はいいと思うし、あんたほどの演技ができるとは思わないが、そこはおれが何とかする」

「別に大丈夫だ、確かに疲れてはいるが、そんな大したことじゃ――」

「おれの目を莫迦にしてもらっちゃ困る。おれは今まで色んな役者を見てきた。精神を悪くしたやつ、とち狂ったやつ、劇団を去ったやつ。年齢はあんたが上だが、おれの方が芸歴は上。ちょっと辛いが大丈夫だと無理を押したやつが精神ぶっ壊してきたんだ。狂気にとらわれたくないのなら、ここはあまり気張らない方が賢いとおれは思う」

 言いつつも、アーサーはアルダシールに対し選択の自由を与えてはいなかった。休め。それ以外は許容できないと。それでも彼は何度もなんども反論しようとして口を開閉するが、最後には「わかったよ……」と肩を落として座り込んだ。そうしてアルダシールは純粋な質問としてアーサーに投げ掛けた。

「そう言うお前は大丈夫なのか?」

「おれは別に構わない」

「どういう――」

「アルルカンにのみ込まれようと、構わない。むしろ本望だ」

 反論は認めないとばかりに彼は次の話題へと移行し、やや強引に会議を終わらせた。

「ピエールに話を伝えてくる」

 とだけ言い残し、彼はどこかへ行ってしまった。ジャンヌは立ち上がり、長い髪を束ねながら出て行った。「ほんと、あいつ気に入らない」

 バルサックは苦笑しつつ席を立った。

 残されたアルダシールは深い溜息をついた。


            ◇◆◇


 アーサーの仕事帰りを待つ女性たちに紛れ、リリーもまた贈り物を抱き締めて彼を待った。いくら劇のチケットが無料で貰えるからといって、彼女の雀の涙ほどの給料ではそう何度も花束などを買うことはできない。だから。彼女は自分なりに考えて、故郷の料理であるパンプキンパイを作り、彼に贈った。

 アルルカンの時の彼ならば、「ありがとう」とうれしそうに受け取ってくれるが、アーサーの時の彼では、彼女の声に気づかぬふりをして立ち去ってしまうこともしばしばだった。彼は滅多に仮面を外さない。ただし、リリーと二人きりの時にはわざとに仮面を外して、冷たい態度を取るのだった。仮面を取るという行為は彼の中では明確な違いではあるものの、リリーにとっては理解しがたい感覚だ。しかし彼女も彼女なりに仮面というものの意義を理解しようと努めている。それでも、冷淡に振る舞われたあとに、仮面を被って優しく慰められては、彼女じゃなくとも混乱する。けれども彼の中では、全く別の人間が彼女と出くわしただけであり、あくまでアーサーという人間が二度彼女と出会ったわけではない。仮面という境界線。確かにこれは、どの演者にも少なからず持っている感覚であったが、アーサーの拘り方は他と比べても過剰すぎた。


「あんたさあ、何でおれにつきまとうの? 正直鬱陶しいんだけど」

 アーサーはいつものように劇場にやってきたリリーを物陰に連れて行き、仮面を外してわざとらしく溜息をついた。彼女は何も言わず、きつい言葉をぶつけられているのにも関わらず、平気そうに辺りを見つめていた。

「……別におれじゃなくてもいいんじゃないの? そりゃ、あんたが言うようにおれが励ましてやったお蔭で元気になれたみたいだけどさ、それってたまたまそれがおれだっただけで、もしおれ以外のやつが言い寄ってきたら、あんたそいつを好きになるんじゃねえの? だからさ――」

「そうだとしても。あなたが救ってくれたのよ」

「おれとあんたは、性質とか根本的に違うって言ってんだよ。あんたは自分が辛い時に優しくされたから、それを恋とかそういう類いのもんに錯覚しちまってるだけで、本当は誰でもいいんだよ。おれじゃなくてもな。大体あんたには夢があんだろ? それに向かって頑張るんじゃなかったっけ? こんなとこで時間無駄にしてていいわけ。おれもあんたが客として来るなら普通に応対するとは言ったが、そう毎日来なくても……。というかあんたチケットどこから入手してるんだ、金無かったんじゃねえの」

 リリーは始終笑顔をたたえて、黙っていた。その屈託無い、無邪気な笑みにアーサーはこれ以上なく苛立ち、口早に相手を詰った。

「田舎から都会へやって来て、恋愛やら夢やら輝かしいものに憧れてるのかもしれねえけど、そこにおれを巻き込まないでくれる? 迷惑だから。あんたと居ると調子が狂って、せっかく作り上げたアルルカンってものが崩れるんだよ」

 それに。アーサーはぐっと彼女に顔を近づけ、吐き捨てた。

「ちょっと優しくしただけで図に乗りやがって。おれは絶対にあんたを好きになることはない。もうほんとお願いだから諦めてくれ」

 何も言わないリリーにアーサーは舌打ちし、こうなればと彼は彼女とともに再び劇場のところへ戻り、そこにいる一人の女性を示し、言った。

「あいつが見えるだろ。ほら、アルルカンの恋人役のコロンビーヌ。あいつがおれの本当の恋人だ。だからおまえを好きになってやることはできない」

 そうして仮面をつけ、「おーい、コロンビーヌ!」と大声で呼んだ。ポニーテール姿のジャンヌはにこやかに手を振り、またどこかへと足を向けた。満足したようすのアーサーはちら、と横にいるリリーを一瞥する。ここで彼女はようやく反応を示したが、あまりにわずかな変化だったのでどんな表情だったかは見て取れなかった。しかし、これでもう懲りただろうとアーサーは半ば得意顔で彼女の返事を待った。

 そうして出された答えが、これだった。

「わかった。じゃあ、これからは二人の迷惑にならないように、あなたのお客さんとしてあなたに会いに来るよ」

「お、おう」

 ここまで酷い仕打ちを受けていながら、まだおれに会う気が起こるのか。こいつ莫迦なのか、鈍いのか、頭弱いのか何なんだ。アーサーは内心思いながらも、「まあ客としてならこっちも有り難いけど」とだけ言い捨て、その場を去った。

 その後、コロンビーヌの役を解いたジャンヌがつかつかと歩み寄ってきて、甲高い声で怒鳴った。

「あんた何なの? あたしもコロンビーヌだったし、あんたも仮面つけてたから相手してやったけれど、劇以外では極力話しかけないでって言ってるじゃない。正直あんたと同じ劇団ってだけでも嫌なのに、むだな接点作らないでよ」「……ぎゃんぎゃんうるせえ女」

「しかも、さっき一緒にいた女の子――また、ファンの子たぶらかして遊びほうけてるの? 男として最低の部類よあんた」

「はいはい。もうしませんよっと。……これでいいんだろ」

 飄々とした態度で自室に帰って行った彼の背を、ジャンヌはぎっと睨み続けていた。そこへ偶然通りかかったルイスに、怒りがおさまらないジャンヌはつっ掛かった。

「なんであいつ、あたしに話し掛けてくんのよ。しかもあいつのファンから嫌がらせとかもされるし――あいつ何やってんの? どうせルイは全部知ってるんでしょ!」

「……君、たぶん利用されてるんだと思う」

「は?」

「面倒なファンがいたら、『あいつがおれのガールフレンドだ』って同じ団員のコロンビーヌを指して手を振るんだ。事情を知らない団員はそれに応える。それによって、ファンはその団員がアーサーの恋人だと信じ込む。面倒を嫌って詐欺まがいのことをしてるんだよ、前の劇団でも同じことやってて、僕は何度も注意してるんだけど……」

「何それ!」

 ジャンヌは叫んだ。「それってあたしにも、そのファンの子にも、濡れ衣の子にも失礼じゃない! 女をなんだと思ってるの? ああもう、底辺の男だわ! 本気で劇団変えようかしら!」

「えっ」

 ルイスは慌てて彼女を引き止める。「そんなの淋しいじゃないか、行かないでよ」

 ジャンヌは射抜くように睨んだ。しかし怒った顔も素晴らしく美しくあった。「じゃああんたが何とかしなさいよ」

「そんな無茶な――。僕今、彼に口もきいてもらえないのに」

「自業自得ね」

 途方に暮れる彼を見て、久しぶりに日頃の彼への不満が満たされたのか、ジャンヌは満足そうにブーツを高鳴らし、髪をなびかせて自分の部屋へと帰っていった。その一部始終を見ていたサーシャはそんな彼を哀れに思ったのか、足早に近寄って、

「気にしちゃだめですよルイさん、ジャンヌさんの男嫌いは今に始まったことじゃないんですから!」

 と励ましてみたが、ルイスは他のことにひどく気を取られている様子で、彼女の話など少しも聞いてなかった。

「私なんだかこんなのばっかり」

 結局肩を落としたのはサーシャ一人だけである。


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