第7話
◇◆◇
ある日の未明。アルテ劇団に一通の手紙が送られてきた。急いで書いたのだろうひどく荒れた殴り書きの文字で解読に時間が掛かった。内容は、非常に簡潔に述べられていた。否、それしか書かれていなかった。ただ、重要な事柄をについてのみ。
「近々、シャルル王がお忍びでこのアルテ劇団を鑑賞なさる予定――か。おい、これ本当なのか?」
「……おそらく、真実だろう」
アルテ劇団の副団長である二人は、人の無い場所を選んで顔を見合わせ小声で話し合った。
アルテ劇団は団長が不在という異例な劇団だったが、二人の副団長の手腕により、なかなかの収益を上げていた。
一人はパンタローネ役の男、太鼓腹が特徴なブルーノ。もう一人は赤褐色の肌に白髪の長身痩身の男で、一人三役をこなすアルダシール。彼らはともに年齢も近くあったが、アルダシールの珍しい容姿のせいだろうか、彼の方が何倍も若く見える。また、誠実なアルダシールとは打って変わってブルーノという男は、金や酒や煙草といったものに目が無く、ずいぶんと自堕落な生活を送っていた。
そんなふしだらな男の酔いでさえも一瞬にして醒ましてしまうほどの内容が、そこにはあったのだ。手紙の差し出し人は書かれていない。しかし、こんなことを知る者でアルテ劇団に関係のある者など一人しかいない。アルダシールは手紙を眺めつつ呟く。
「これはおそらく、あいつが必死の思いで作り上げた奇跡だろう。こんな一劇団に、王族が足を運ぶ日など――夢のまた夢、高嶺の花、青い鳥といったところか? それが今、現実に実現しようとしている。こんな最高の機会を逃すわけにはいかない、そうだろ? 必ず何があっても成功させてみせる。そう、絶対だ。――そして。我々はいずれ王家お抱えの劇団員となり、仮面劇に輝かしい功績を……」
ブルーノは苦笑して、歓喜に震えるアルダシールの肩を軽く叩いた。
アルダシールは海をいくつも渡った国の生まれで、そこで見た旅芸人の仮面劇に一目惚れし劇団へ飛び入りで入団したという経歴をもつ。人とは違う容姿でずいぶん苦労したようだったが、彼の多彩な役柄を演じ分けることができるという技術はどこに行っても高く評価され、劇団から大いに信頼されていたようだった。また、彼は最も仮面劇の歴史を重んじる古典主義でもあった。それにより劇団内で揉め事が起こることもあったが、今のところ副団長同士の意見は一致していた。ブルーノは人の悪そうな笑みを浮かべて、アルダシールの耳に小声で囁きかける。
「つまりは、俺らはこの機会をうまく生かすことができりゃぁ、あっという間にお偉いさん方の仲間入りで、明日の生活に心配する必要はさっぱりなくなっちまうって話だろ! いやぁうれしいねえ……ということは俺は毎日酒を浴びるように飲めるって話だろ? 全く、こんな愉快な話があっていいのかってぐれぇだな!」
「どうしてそう私利私欲のためだけに行動できるのか……。私には全く理解できないよ」
「こっちこそおまえには呆れちまうよ。仮面劇の歴史だ? 笑わせんな。俺はこれに毎日の生活がかかってるから演者なんぞやってるが、伝統で飯が食えるか、酒が飲めるか、え?」
「――よそう。私たちはこの話題については決して相容れることはできないだろう。そんなことより、これからのことを話し合わねば。まずは我らが花形役者たちに意見をあおいでみようか」
「そうだな」
裏口の扉を開けて宿舎の中に入り、その場で賑やかに談話している団員たちに向け、何人かの名前を呼んだ。
「ルイス、ジャンヌ、バルサック、アーサー。ちょっとこっちへ来てくれ」
「ルイスは今いない」
アーサーは簡潔に答えて、「あいつは別にいなくてもいい。あとで誰か伝えとけばいいでしょう。何かあったんですか」と切り捨てた。アルダシールは少し悩んでから、
「そうか。まあとにかく居る者だけに話しておこう。さっき呼んだ者以外は席を外して欲しい。三人はこの机に集まってくれ」
ざわつきながらも副団長の指示に従い、人々は動く。バルサックという若い男は不思議そうに人懐っこい子供のように近寄り、アーサーは非常に面倒そうに椅子を引き、ジャンヌという綺麗な少女は、他の女団員と離れた席で談笑していたらしく、やや億劫そうに椅子から立ち上がり、席についた。皆が集まったのを確認してから、アルダシールは口を開いた。
◇◆◇
僕にはもうあなた以上の適任者を見いだすことができない、とは一体どういう意味だろう。リリーはひとり思い悩んだ。アーサーは自分にとって救世主だ。なのに、その人を自分が救う立場になるだなんて。勿論、彼の闇を知りたいと思った。自分の出来ることなら、何でもやるという覚悟はもう疾うに出来ている。迷いもない。けれど。自分が必死にがんばっても、彼を救い出すことができなかったら? 引き受けることは簡単だ。しかし、いざ自分が救うとなった時、わたしは彼のように強く、彼を支えることができるだろうか。そればかりが胸に引っかかる。中途半端に投げ出すことなんて出来ない。自分の歌のように、諦めることはきっと許されないだろう。いや、何よりもわたし自身が許したくない。失敗は、許されないし許せない。
「何か、考え事かい?」
今日も歌の稽古に付き合ってくれたトマスが、ピアノの横から顔を覗かせ、問うてきた。リリーははっと意識を戻し、少しためらいつつも頷いた。トマスは優しいまなざしを向け、自分の孫に接するかのように話す。
「歌のことかい? それならユグノーが言ったように耳栓をつけることで、大分良くなったじゃないか。音色がより正確になった。素晴らしい。これなら演奏会に出られる日も近いんじゃないのかい?」
「うん……」
トマスは目尻の皺を深くして、彼女に温かな表情を浮かべた。
「僕は君たちの歌を聴くのがとても好きだよ。アニスは激しく情感豊かに。エウリカは美しい旋律で透き通るように。ネムはよく変調するけれど、それが個性的で面白い」
「……わたしは?」
「リリー、君は、誰よりも優しい」
トマスは彼女を手招きし、近づいてきた彼女の両手をマメばかりの手でやんわりと包み込んだ。
「君の歌は、僕らに寄り添って、包み込んでくれる、こんな風にそっと」
「そうかな」
「君が自分とちゃんと向き合うことができたら、そんな歌をうたうことが出来るようになるよ、リリー。もうちょっとだけ、頑張ってごらん」
うん、と強く頷こうとしたところに、どこに隠れていたのか楽員の女たちが「もう、トマスさんったら。全然見当違いのことを仰って」と口々に笑いながら近寄ってきた。
「リリーはとある殿方への思いに頭を悩ませているのよねぇ?」
アニスは悪戯っぽく口の端を上げて、リリーの頬をつついた。その指を何度も払ってから、リリーは姉たちに向かって声を張り上げた。
「た、確かにそうだけど、でも、歌のことも悩んでいたもの! トマスさんの言葉もとってもうれしかった! いつも本当にありがとうございます」
女たちは各々思う存分笑ってからかってから、リリーを見た。
「それで? 姉さまたちに何か訊きたいこととかあったら訊きなさいよ? 特に恋愛のこととかはね!」
これは勿論、〝姉さま〟のちょっとした冗談であったが、リリーは大真面目に姉たちを見つめて質問を口にした。それもあまりに直球な問いに姉たちの方が戸惑ってしまった。
「大事な人がいるの。その人はわたしの歌を好きだと言ってくれた人なの。その人がね、とっても辛い思いをしているみたいで、わたし彼を救ってくれってその友人の方に頼まれたの。でも、わたしにそんなことできるかしら。ねえ、姉さま……」
答えに戸惑う姉たちの中で、誰よりも先に答えたのは先ほど名前が出てきたネムという女性だった。彼女はのんびりとした口調であったが、はっきりと堂々と宣言するかのように言い切った。
「できるできないで、考えるから迷うんだよ。今やりたいことは今やるしかないんだよ。私はやりたいことがあればすぐに行動してきた。それを無計画だ向こう見ずだと親にも友達にも散々言われ続けてきたよ。でも、そのお蔭で私は人生一度だって後悔したことないんだ。リリー、あなたもしも明日死んじゃったらどうするの? ――突拍子すぎ? でも、いいでしょ。極端に考えてごらん。明日死んじゃったら、このままいくとリリーは絶対今日しなかったことを後悔するよ。でも私は絶対後悔しないよ。それってなんだか悔しくない? 私の友達はみんな例外無く悔しいって言うよ、ふふ。……ねえ。リリーはどう思う?」
リリーはネムを惚けたように見つめた。他の楽員たちも同じようであった。トマスは「こりゃ一本取られたね」とうれしそうにしている。リリーはぐっと唇を引き締めて、息を吸い、腹から声を出して、ここに宣言した。
「ありがとうネム姉! わたし、行ってくる!」
「行っておいで。あまり遅くなっちゃだめだよ?」
「うん!」
向かう先はただひとつ。乱れた呼吸を整えながら、リリーは劇場の前に立った。そこには後片付けをしているルイスの姿があった。彼女は一言告げた。
「彼に会いたいの」
「待ってたよ、リリーちゃん。本当に、ありがとう」
ルイスは彼女を宿舎の方へと連れて行き、彼女の前でその扉を開けた。
◇◆◇
「アーサーっ!」
辺りは、一瞬にして音が消えた。皆の動きが止まる。空気が凍ったとはまさにこのことだろう。机に座っていた五人の団員が声のする方へぎちぎちと機械のように振り返る。少女はそんな異変に一切気づくことなく、アーサーただ一人を見つめた。
「話したいことがあるの。お願い、来て」
弾かれたように突然立ち上がったアーサーの表情は、一切が消えてしまっていた。立った勢いにより、椅子が大きく音を立てて倒れたが、彼は少しも目を向けない。ただ手にしていた仮面を震える手で素早く被って、彼女に従うべく動いた。皆、唖然として声を失う。事態が全くといって良いほど理解できない。ルイスと入れ違いに、アーサーはリリーの隣に立った。リリーは団員たちに一礼して、彼の手を引いて、その場を去った。それからしばらく経っても、皆自分たちの目を信じられず、全く頭が回らずそのまま茫然自失の態となった。
◇◆◇
ある日の未明。アルテ劇団に一通の手紙が送られてきた。急いで書いたのだろうひどく荒れた殴り書きの文字で解読に時間が掛かった。内容は、非常に簡潔に述べられていた。否、それしか書かれていなかった。ただ、重要な事柄をについてのみ。
「近々、シャルル王がお忍びでこのアルテ劇団を鑑賞なさる予定――か。おい、これ本当なのか?」
「……おそらく、真実だろう」
アルテ劇団の副団長である二人は、人の無い場所を選んで顔を見合わせ小声で話し合った。
アルテ劇団は団長が不在という異例な劇団だったが、二人の副団長の手腕により、なかなかの収益を上げていた。
一人はパンタローネ役の男、太鼓腹が特徴なブルーノ。もう一人は赤褐色の肌に白髪の長身痩身の男で、一人三役をこなすアルダシール。彼らはともに年齢も近くあったが、アルダシールの珍しい容姿のせいだろうか、彼の方が何倍も若く見える。また、誠実なアルダシールとは打って変わってブルーノという男は、金や酒や煙草といったものに目が無く、ずいぶんと自堕落な生活を送っていた。
そんなふしだらな男の酔いでさえも一瞬にして醒ましてしまうほどの内容が、そこにはあったのだ。手紙の差し出し人は書かれていない。しかし、こんなことを知る者でアルテ劇団に関係のある者など一人しかいない。アルダシールは手紙を眺めつつ呟く。
「これはおそらく、あいつが必死の思いで作り上げた奇跡だろう。こんな一劇団に、王族が足を運ぶ日など――夢のまた夢、高嶺の花、青い鳥といったところか? それが今、現実に実現しようとしている。こんな最高の機会を逃すわけにはいかない、そうだろ? 必ず何があっても成功させてみせる。そう、絶対だ。――そして。我々はいずれ王家お抱えの劇団員となり、仮面劇に輝かしい功績を……」
ブルーノは苦笑して、歓喜に震えるアルダシールの肩を軽く叩いた。
アルダシールは海をいくつも渡った国の生まれで、そこで見た旅芸人の仮面劇に一目惚れし劇団へ飛び入りで入団したという経歴をもつ。人とは違う容姿でずいぶん苦労したようだったが、彼の多彩な役柄を演じ分けることができるという技術はどこに行っても高く評価され、劇団から大いに信頼されていたようだった。また、彼は最も仮面劇の歴史を重んじる古典主義でもあった。それにより劇団内で揉め事が起こることもあったが、今のところ副団長同士の意見は一致していた。ブルーノは人の悪そうな笑みを浮かべて、アルダシールの耳に小声で囁きかける。
「つまりは、俺らはこの機会をうまく生かすことができりゃぁ、あっという間にお偉いさん方の仲間入りで、明日の生活に心配する必要はさっぱりなくなっちまうって話だろ! いやぁうれしいねえ……ということは俺は毎日酒を浴びるように飲めるって話だろ? 全く、こんな愉快な話があっていいのかってぐれぇだな!」
「どうしてそう私利私欲のためだけに行動できるのか……。私には全く理解できないよ」
「こっちこそおまえには呆れちまうよ。仮面劇の歴史だ? 笑わせんな。俺はこれに毎日の生活がかかってるから演者なんぞやってるが、伝統で飯が食えるか、酒が飲めるか、え?」
「――よそう。私たちはこの話題については決して相容れることはできないだろう。そんなことより、これからのことを話し合わねば。まずは我らが花形役者たちに意見をあおいでみようか」
「そうだな」
裏口の扉を開けて宿舎の中に入り、その場で賑やかに談話している団員たちに向け、何人かの名前を呼んだ。
「ルイス、ジャンヌ、バルサック、アーサー。ちょっとこっちへ来てくれ」
「ルイスは今いない」
アーサーは簡潔に答えて、「あいつは別にいなくてもいい。あとで誰か伝えとけばいいでしょう。何かあったんですか」と切り捨てた。アルダシールは少し悩んでから、
「そうか。まあとにかく居る者だけに話しておこう。さっき呼んだ者以外は席を外して欲しい。三人はこの机に集まってくれ」
ざわつきながらも副団長の指示に従い、人々は動く。バルサックという若い男は不思議そうに人懐っこい子供のように近寄り、アーサーは非常に面倒そうに椅子を引き、ジャンヌという綺麗な少女は、他の女団員と離れた席で談笑していたらしく、やや億劫そうに椅子から立ち上がり、席についた。皆が集まったのを確認してから、アルダシールは口を開いた。
◇◆◇
僕にはもうあなた以上の適任者を見いだすことができない、とは一体どういう意味だろう。リリーはひとり思い悩んだ。アーサーは自分にとって救世主だ。なのに、その人を自分が救う立場になるだなんて。勿論、彼の闇を知りたいと思った。自分の出来ることなら、何でもやるという覚悟はもう疾うに出来ている。迷いもない。けれど。自分が必死にがんばっても、彼を救い出すことができなかったら? 引き受けることは簡単だ。しかし、いざ自分が救うとなった時、わたしは彼のように強く、彼を支えることができるだろうか。そればかりが胸に引っかかる。中途半端に投げ出すことなんて出来ない。自分の歌のように、諦めることはきっと許されないだろう。いや、何よりもわたし自身が許したくない。失敗は、許されないし許せない。
「何か、考え事かい?」
今日も歌の稽古に付き合ってくれたトマスが、ピアノの横から顔を覗かせ、問うてきた。リリーははっと意識を戻し、少しためらいつつも頷いた。トマスは優しいまなざしを向け、自分の孫に接するかのように話す。
「歌のことかい? それならユグノーが言ったように耳栓をつけることで、大分良くなったじゃないか。音色がより正確になった。素晴らしい。これなら演奏会に出られる日も近いんじゃないのかい?」
「うん……」
トマスは目尻の皺を深くして、彼女に温かな表情を浮かべた。
「僕は君たちの歌を聴くのがとても好きだよ。アニスは激しく情感豊かに。エウリカは美しい旋律で透き通るように。ネムはよく変調するけれど、それが個性的で面白い」
「……わたしは?」
「リリー、君は、誰よりも優しい」
トマスは彼女を手招きし、近づいてきた彼女の両手をマメばかりの手でやんわりと包み込んだ。
「君の歌は、僕らに寄り添って、包み込んでくれる、こんな風にそっと」
「そうかな」
「君が自分とちゃんと向き合うことができたら、そんな歌をうたうことが出来るようになるよ、リリー。もうちょっとだけ、頑張ってごらん」
うん、と強く頷こうとしたところに、どこに隠れていたのか楽員の女たちが「もう、トマスさんったら。全然見当違いのことを仰って」と口々に笑いながら近寄ってきた。
「リリーはとある殿方への思いに頭を悩ませているのよねぇ?」
アニスは悪戯っぽく口の端を上げて、リリーの頬をつついた。その指を何度も払ってから、リリーは姉たちに向かって声を張り上げた。
「た、確かにそうだけど、でも、歌のことも悩んでいたもの! トマスさんの言葉もとってもうれしかった! いつも本当にありがとうございます」
女たちは各々思う存分笑ってからかってから、リリーを見た。
「それで? 姉さまたちに何か訊きたいこととかあったら訊きなさいよ? 特に恋愛のこととかはね!」
これは勿論、〝姉さま〟のちょっとした冗談であったが、リリーは大真面目に姉たちを見つめて質問を口にした。それもあまりに直球な問いに姉たちの方が戸惑ってしまった。
「大事な人がいるの。その人はわたしの歌を好きだと言ってくれた人なの。その人がね、とっても辛い思いをしているみたいで、わたし彼を救ってくれってその友人の方に頼まれたの。でも、わたしにそんなことできるかしら。ねえ、姉さま……」
答えに戸惑う姉たちの中で、誰よりも先に答えたのは先ほど名前が出てきたネムという女性だった。彼女はのんびりとした口調であったが、はっきりと堂々と宣言するかのように言い切った。
「できるできないで、考えるから迷うんだよ。今やりたいことは今やるしかないんだよ。私はやりたいことがあればすぐに行動してきた。それを無計画だ向こう見ずだと親にも友達にも散々言われ続けてきたよ。でも、そのお蔭で私は人生一度だって後悔したことないんだ。リリー、あなたもしも明日死んじゃったらどうするの? ――突拍子すぎ? でも、いいでしょ。極端に考えてごらん。明日死んじゃったら、このままいくとリリーは絶対今日しなかったことを後悔するよ。でも私は絶対後悔しないよ。それってなんだか悔しくない? 私の友達はみんな例外無く悔しいって言うよ、ふふ。……ねえ。リリーはどう思う?」
リリーはネムを惚けたように見つめた。他の楽員たちも同じようであった。トマスは「こりゃ一本取られたね」とうれしそうにしている。リリーはぐっと唇を引き締めて、息を吸い、腹から声を出して、ここに宣言した。
「ありがとうネム姉! わたし、行ってくる!」
「行っておいで。あまり遅くなっちゃだめだよ?」
「うん!」
向かう先はただひとつ。乱れた呼吸を整えながら、リリーは劇場の前に立った。そこには後片付けをしているルイスの姿があった。彼女は一言告げた。
「彼に会いたいの」
「待ってたよ、リリーちゃん。本当に、ありがとう」
ルイスは彼女を宿舎の方へと連れて行き、彼女の前でその扉を開けた。
◇◆◇
「アーサーっ!」
辺りは、一瞬にして音が消えた。皆の動きが止まる。空気が凍ったとはまさにこのことだろう。机に座っていた五人の団員が声のする方へぎちぎちと機械のように振り返る。少女はそんな異変に一切気づくことなく、アーサーただ一人を見つめた。
「話したいことがあるの。お願い、来て」
弾かれたように突然立ち上がったアーサーの表情は、一切が消えてしまっていた。立った勢いにより、椅子が大きく音を立てて倒れたが、彼は少しも目を向けない。ただ手にしていた仮面を震える手で素早く被って、彼女に従うべく動いた。皆、唖然として声を失う。事態が全くといって良いほど理解できない。ルイスと入れ違いに、アーサーはリリーの隣に立った。リリーは団員たちに一礼して、彼の手を引いて、その場を去った。それからしばらく経っても、皆自分たちの目を信じられず、全く頭が回らずそのまま茫然自失の態となった。
◇◆◇
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