第9話
◇◆◇
「最近、調子いいじゃないかリリー。今週の演奏会、出てみるかい?」
そんな楽長からの提案に、大喜びするかと思っていたリリーは、むしろ意気消沈して不安そうに楽長を見つめた。その様子に首を傾げ、楽長は
「どうしたんだい、元気ないじゃないか。どうしたの。自信がないのかい? それなら大丈夫。私が言ってるんだ、この調子でいけばうまくいくよ、大丈夫。やってごらん」
「はい……」
「――今日は久しぶりに市場に出てみようかしらね。あんた、夕食当番なんだろ? ちょっと早いけど、買い出しに行こうか。私もついていくからさ」
そうして二人は市場へと出掛けた。トマスはそんな彼女たちの姿を愛しそうにみつめながら、セロを気ままに弾き興じていると、珍しい訪問者がやってきた。
「トマスはいるか」
呼ばれた彼は立ち上がり、ずっと座っていたためよたつきながらも、訪問者の方へ急ぎ、非常にうれしそうに声を弾ませた。
「ユグノーじゃないか! こっちに出る用があったのか? もっと早くに言ってくれればよかったのに」
喜ぶトマスとは対照的にユグノーの表情は厳しかった。
「マリアーヌはいるか?」
「マリ……ああ、リリーのことか。彼女はたった今市場へ向かったところだよ。フローラも一緒だ。彼女たちに用があったのか?」
「いないならいい。最近マリアーヌがうちに来て、歌が上達したからお礼にと挨拶に来たんだが――」
「礼儀正しい子だねえリリーは。とっても良い子だろう」
「……良い子かどうかは置いといて、気づいたことがある。俺は今まで結構な数の歌い手を見てきた。努力して成功するやつ、無茶なことして喉をつぶして失敗したやつ……色々な。それを見るのが嫌になって森の中で名前も隠して生活しているわけだが。最後の教え子である彼女に対し、妙な不安感を抱いた。気のせいだとは思うんだが、どうもそれが雲みたいに心に貼りついて晴れないんだ――」
「……つまり、何が言いたい?」
ユグノーは視線を落とし、眉間に皺を寄せ、心苦しそうに告げた。
「一緒なんだよ」
「え」
「喉がつぶれて歌えなくなった時の教え子たちの、辛いのを我慢したような顔に、そっくりなんだよ」
ユグノーは弾かれたようにトマスの両腕を握り締め、重々しく、懇願するかのように必死になって叫んだ。
「お前、ちゃんとあいつの側にいるなら、見といてやれよ。元気そうだからって油断するなよ、頼むから、お前だけでも注意しておけよ。――じゃないとあいつは」
「あいつは……?」
「あいつは」
――こなごなに、砕けちまうぞ。
◇◆◇
来たるべき日に備え、アルテ劇団は熱心な特訓を行っていた。劇に出られないアルダシールが指揮を執り、劇に出る予定の演者は徹底的な技術磨きを、出番の無い者は舞台の見栄えを少しでもよくするために各々が動き回っていた。
今回の主役に起用されたピエールは引っ込み思案の男で、始終おどおどと視線を彷徨わせている。アーサーは彼に何度も言い聞かせた。
「自信を持て、ピエール。確かに入団してそう日も経ってはいないけれど、筋はいいんだ。おまえにしか出来ないんだ。いいな? 何かあったらおれが助けてやるから、おまえはおまえなりに努力しろ」
「うあ、は、はい」
アーサーは少し不安になる。アーサーの方がピエールより役者として仕事してはいるが、年下に対しここまで従順にならなくともよいのでは――。しかし、彼の神経質な性格と夢想家で繊細なピエロットの役との相性はばっちりだ。少しくらい荒くとも、あとは自分が何とかすれば、十分笑いは取れる。これで王様のご機嫌もいとも簡単に取ることができるだろう。アーサーは人知れず笑みをこぼす。コロンビーヌとは仮面抜きでは取り付く島もないが、ひとたび舞台に上がれば、二人の波長はぴったり合い、様々な即興を交わすことができる。あまり大きく認めたくはないが、確かに彼女の演技は優れている。そして、ルイスの話作り。彼には台本を改めて推敲するよう指示してある。彼に演技の才はないが、彼の書く物語は面白い。ここにサーシャら裏方の大道具、小道具が用意され、劇の質を上げる。あとはピエロットがアルダシールであれば完璧だったが、まあ仕方のないことだろう。着々と準備はできていた。
しかし、その日の為ばかりに力を注ぐわけにはいかない。日々の活動も大事なのだ。それに王がこの劇団を見物しに来るということは、あくまで内密にしなければならない。よって、急に豪華に、質が高くなってしまっては普段から足を運んでいる常連客が怪しむ。したがって、王が訪問するその日までに少しずつ、不自然にならない程度に劇団の核を上げていかねばならないのだ――。
今日もまたルイスとともに街へ出て、劇団の宣伝をせねばいけなくなり、アーサーはやむを得ず、できるだけ話しかけないようにして仕事を行った。ルイスは最初、相手にされないことをわかってはいるものの懸命に声を掛けてきたが、疲れたのか音量を下げ、独りごちるように呟き始めた。
「王様がやって来る日に合わせて色々動かなくちゃならないから、本当大変だよ。それでなくとも団員が足りなくって困っているのに、このままじゃ過労で死んでしまうよ……。昼の鐘が鳴ったら僕は受付役に回されるから、劇場に行かなくちゃいけない。僕の代わりには違う子が来るから、よかったねアーサー。僕を無視しなくて済むよ」
彼と一緒の時間もあと僅かか、と気を良くしたアーサーは些か愉快そうに言いのけた。
「なら、よそから誰かを短期で雇ってくればいい」
「でもそんなお金……」
「――入るだろ。我らが王様から、な」
どうせ仮面被って、チケットちぎる仕事とかだろ? それくらい誰か適当なやつに任せておけばいいんだよ。そんな言葉にルイスは苦笑する。
「うーん。まあちょっとは考えてみようかな」
「そうしとけ。おまえは話作りにだけ力入れとけばいいんだよ」
橋を渡り、北区の方へ進んでいくと、何やら人が大勢いて、わざわざと騒いでいる。二人は不思議に思ってそちらへ近づいてゆくと、どうやらフローラ楽団の演奏会が開かれるようであった。アーサーの足が止まったのを見て、ルイスはぼそ、とさり気なく呟いてみた。
「今ならまだ間に合うかも」
「……、」
「彼女、出るかもしれないよ、舞台に。僕さ、彼女が歌ってくれたとき、風が強くてうまく聞き取れなくってさ……交代にはまだ早いし、時間もあるし、ちょっと覗いて行こうかなー」
そう言ってチケット売り場の方へ忍び足で歩いていくルイスの肩を、力強い手が引き止めた。
「……二枚だ」
「はいよ」
◇◆◇
中は、さすが評判の高い楽団だと思わせるほどに広く、綺麗で、華やかだった。二人は思わず息を呑んだ。観客の数が半端ではない。席はすべて満席で、彼らを含め多くの人が立ち見席――この場合は立ち聴きだろうか――であった。アルテ劇場のすり鉢状の造りとは違って、観客席よりも高い位置に舞台が設けられており、そこでは既に楽手と歌い手が暗い舞台の上に立って最後の調整を行っていた。低い音、高い音。控えめではあるが、それを耳にしただけでこの楽団の超越的音楽性を否が応でも認めずにはいられない。びりびりと空気が音を伝え、響かせる。アーサーは音楽に疎かったが、そんな彼でもこれらの音に心が震えた。まして音楽に心得があるルイスは感動のあまり涙ぐんでさえいた。
楽手と歌い手の緊張が伝わってくる。アルテ劇団とは打って変わってフローラ楽団は、演奏が始まる前でも辺りは静まりかえり、口を開いている人の方が少なかった。二人は並び立ち、それぞれに感動を覚えつつも何もいわなかった。 やがて眩しい光が一瞬にして舞台を照らした。そして舞台に立つ者たちが一斉に礼をして、指揮者が壇に上がった。指揮棒を空中に上げ、楽手が楽器を構える。楽手の後ろに並び立ち、大きく口を開けたのは歌い手たち。そして、演奏会が始まった。
そこからは、一気に彼女らの音楽に引き込まれた。様々な楽器の多彩な色がひとつの調べを創りだし、それに合唱が乗り、完成された音として観客のところへ届いてくる。鼓膜を時には切なく、時には甘く、優しく、強く、哀しく、温かくふるわせる。観客たちは目を閉じて聴く者もいれば、その圧巻の景色に目を奪われる者もいる。一曲、二曲とあっという間に流れてゆく。
少しの休憩のあと、いくつかの楽器が去り、わずかな楽手と何人かの歌い手が前に出てきた。
「あ……」
思わず声が漏れる。そこにひどく心細そうな面もちをした少女が背の高い女性の間に挟まれていた。アーサーはじっと彼女を見ていた。舞台とは距離があったので、勿論彼女がアーサーに気づくことはない。仮に近くにいたとしても、今の彼女には辺りを見渡すといった余裕など持ち合わせてはいないだろう。彼からは見えない、汗ばんだ丸い手が小刻みにふるえている。よく見ると唇も、不安そうにわなないている。そこから声を出して歌をうたうというのに、なんという頼りなさだろうか。
ピアノが鳴り始めた。リリーは息を吸い、軽く耳を押さえて歌い始めた。歌が、はじまる。他の者の歌につられないよう、伴奏につられないよう、必死に自分の音を探した。手の震えが体の震えに繋がり、やがて声の震えへと変わっていく。隣に立つ歌い手が彼女を一瞥する。怖い。失敗が、自分の歌が消えていくのが、自分がいなくなるのが、恐ろしくてたまらない。リリーはこのまま膝から崩れ落ちてしまいそうだと思った。それでも歌い続けた。こんな状態であっても、彼女は歌をうたっていたかったのだ。何故かはわからない。ただ漠然とした感情が歌うことを強いた。ここから逃げることを禁じた。
掴んでいたはずの音が遠のく。歌声が揺らぐ。しっかりしろと自分に言い聞かせる。眩しい、光。自分を照らしているはずの光が、何故か自分を痛めつけているように思えた。自分の耳に触れ、耳栓を深く押しやろうとした。――瞬間、片方の耳からそれがぽろりと落ちてしまった。
「う、あ……?」
途端に耳に入ってくる音、音、おと。怒濤のように流れ込んでくるそれに、リリーは動きが止まった。もう、わからない。自分がどの小節をうたっているのか、どのパートにいるのか、どこにいるのか。わからなくなった。立ちすくむ。ここで初めて、リリーは会場を見た。多くの人がこちらを見ていた。実際には彼女の異変に訝しむような視線を送っていたのだが、リリーはそれらが全て自分を責めているように思えた。そうとしか思えなかった。足が震える。このまま倒れそうになったところを、すんでの所で両隣にいた歌い手が彼女の背中を支えた。口を開くだけでいい。最後まで歌いきれと目が強く訴えていた。虚空を映していたリリーの瞳に、わずかばかりの光が点った。足を踏ん張らせ、何とか自分の体を自分で支えてみた。歌ってみようと喉をふるわせてみた。擦り切れた吐息しか出てこなかった。絶望。リリーは再びこの文字を思い浮かべることとなる。――。
歌が終わり、次の演奏も終わり、演奏会は閉幕した。アーサーは足早に出て行った。ルイスが慌てて後を追いかける。
「どうしたのさ」
振り返り、アーサーは真っ赤な顔をして、彼に理不尽なまでに怒号を浴びせた。周りの人々が喧嘩か何かと勘違いして集まってきた。それに気づいて、アーサーは言い足りないのを必死に我慢して、思い切り吐き捨てた。彼の心を渦巻くこの感情は、裏切りに遭った者のそれに似ていた。
「あいつには……ッ、がっかりだよ!」
「あ、アーサー……」
「なんだよあれ、あんなの、あんな態度で、舞台に立つなんて……!」
心底悔しそうに、アーサーは詰った。
「おまえ、あの舞台に立ちたくてここまで来たんじゃなかったのかよ……」
――おれ、おまえの歌は、うそじゃなくて本当に、ほんとうに、すきだったのに。
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