2.
ひんやりした風が頬を撫でる。僕ははっと目をひらいた。左手には脱いだ上着を抱え、右手にはあの懐中時計を握っている。僕自身は、さっきと何も違わない。
違ったのは、周りだった。
僕は、あたり一面に薄く靄のかかった、花畑に立っていた。
さらさらと遠く水音が聞こえる。どこかに小川でも流れているのだろうか。足もとには、膝から腰くらいの高さまで、いろんな花が咲いている。桃色、橙、青、赤、黄、紫……大きさも形も色も、様々だ。でも、僕が知っている花は一つもない。
「なんだ、これ……」
僕は今の今まで、セント・トリーニュ郊外の、ロザリア大おばさんの屋敷にいたのだ。なんで僕はこんなところにいるんだ? どうやって? そして、どうやったら戻れるんだろう?
なんでなんでなんで!
「あのーう……」
不意に後ろから、おずおずとした少女の声がした。僕はがばっとふりむいた。
大きな、明るい茶色の瞳と、目が合った。
「貴方――」
「ねえ、いったいここはどこなんだ?」
僕は、少女の言葉をさえぎって詰問した。この、僕の理解を超えた出来事を、誰かにぶちまけずにはいられなかった。
「いったいなんだっていうんだ、この花畑は。僕はどうやったら帰れる?」
少女は、思いっきり怪訝な顔をした。
「貴方、何を言っているの?」
僕はさらに言葉を続けようとして、そこでようやく、少女の姿が目に入った。僕が今まで見たどんな人とも、少女の姿は違っていた。
どこか変わった型の、くたびれた粗末な服に、白い、継ぎの当たったエプロン。その身を飾っているのは、豊かな栗色の髪と、それを押さえる白いリボンだけ。ほんの二、三輪の白い花が入ったブリキのバケツを、両手で下げている。
僕が少女を観察している間に、彼女も僕を観察していたようだった。少女は、ためらいがちに口をひらいた。
「こんなの、ばかげてるって私にだってわかっているけど……、貴方、ひょっとして……まさか……迷いこんで来たの?」
その言い方には引っかかるものがあったけれど、道がわからなくなっているのは確かなので、僕は黙って頷いた。
少女は、大きな目をまん丸にみひらいた。微かに開いた口から、「うそ……」という呟きが漏れる。
一瞬ののちに、少女の頬はみるみる上気した。少女は僕の肩をぎゅっと掴んだ。少女の手から滑り落ちたバケツを、足もとの草がやわらかく受け止める。少女は、きらきらした瞳で僕の目を覗きこんで、薄紅色の頬で叫んだ。
「夢みたい……!」
「僕だってそう思うよ――白昼夢を見ているに違いないって」
僕は少女の興奮ぶりにたじろいて、もごもごと答えた。
……いや、本当は、たじろいただけじゃなかった。急に距離を縮めた、溢れんばかりの喜びに輝いているその子の顔が、あんまりきれいだったから。
そう、貧しそうな身なりをしてはいたけれど、その子は、僕が生まれて初めて『かわいい』と思える少女だった。
「そうなの?」
少女は首を傾げた。
「ねえ、貴方は、別の国からやってきた人なのでしょう? 私、このお花畑に伝わる伝説を、小さい頃にお母さんに聞いているの。ここには、別の、ずっと遠くの国からやってきた人が、時折迷いこむんですって。その迷い人に会った人には、幸運が訪れるのよ」
少女は、華やいだ声でまくしたてた。
「私、今日は奥さまのお言いつけで……」
言いさして、少女はぱっと口を押さえた。
慌てて足許のバケツを拾い上げる。バケツの中身は、幸い無事だ。もう一度両手で持つと、少女は安堵の息をついた。僕はといえば、ようやく少女との距離が開いたので、内心胸をなでおろしていた。心臓が、いつもより勢いよく仕事をしている。
「よかった……。私、このバケツいっぱいに、白いお花を集めなくちゃいけないの」
少女はうって変わって、哀しげに言った。
「でも、白いお花は全然集まらないの。もともと、白がいちばん少ないんですもの。だけど、白いお花が必要なんだから、仕方ないわ」
そこまで言って、少女は再び笑顔を取り戻した。
「〝迷い人〟に会えたんですもの。きっと、お花だって集まるわね」
気づいた時には、言葉が口をついて出ていた。
「僕も、花を集めるのを手伝おうか?」
少女はびっくりして僕を見上げたけれど――少女よりも、僕の方が少し、背が高かった――余計な遠慮はしなかった。少女は嬉しそうに言った。
「本当に? ありがとう!」
僕は再び上着をはおると、懐に時計をしまった。抱えたままでは、花を摘むには邪魔になる。
少女が握っているバケツの柄に、手を伸ばす。
「貸して、僕が持つよ。僕だと摘んだ花を傷めてしまうかもしれないから、すぐにバケツに入れられるようにしておいたほうがいい」
「そう? じゃあ、お願い」
僕は、少女からバケツを受け取りながら名のった。
「僕はカート。君の名前は?」
「ターニャよ」
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