第8話 初めての…?

「風邪…!?」


 僕がオーバーなリアクションでそう返すと、遥さんは無言で頷いた。

 葵が病に伏すことは十八年の間で初めてのことなのだそうだが――正直、拍子抜けしてしまった。

 まさか、体温三十七度台は前半で呼び出されようとは、ある意味夢にも思わなかったことだったからだ。どこか凄く痛むだとか、あり得ないくらいの高熱だとか、足が動かなくなったとか、重篤な病だとか、わざわざ電話をかけて他人を呼ぶからには、普通はその辺りのことを想像しようものだ。

 しかし。いや、よくよく考えてみれば、それはそうだ。僕を呼び出すのはもっともだ。

 何せ、ただの風邪なのだから。


 救急車を呼ぶに至らないなら、それは軽い筈だ。

 冷静でなかったのは僕の方――って、あれ?


 まぁ、いいか。無事で何よりだ。


「まぁ葵が大変なのは分かりました。熱こそ低いですけれど、しんどそうにしてますし。でもですよ? どうして僕を呼び出したんです? 来てくれって、まさかとは思いますが――」


 言いかけ、少しジトっとした目を向けてやると、遥さんは存外素直に吐いた。


 これから、バイトの時間なのだと。


 別に責めはしまい。葵の為に、葵が余裕ある為にと、自分の儲けを考えている訳ではないのだから、赤の他人である僕に責める権利は一つもない。

 しかし。しかしだぞ。

 看病を願うなら、僕でなくとも、医者に来てもらうでも良し。一度も受け取らず断ってはいるけれど、折に触れてこの人は僕に「礼はする」と言う。なら、その分に充てるであろう金銭を、ちゃんとした機関に入れてやった方が確実ではないのだろうか。


 と、そう言ったところ。


「医者、嫌……まことが良い」


「こういうことだ」


「どういうことだ…!?」


 葵きっての頼みだということか?

 僕は大学生だけれど、医学生じゃないんだぞ。


 反論する僕に簡単に語られたのは、葵がまだ小学二年の時の話だ。

 曰く、ドリルが怖いと――


「それは歯医者だよ、葵……」


 呆れて肩を落とす僕に、しかし葵はそれでも「やだ」の一点張り。

 遥さんの任せるオーラの強さも相まって。


 結局、請けることにした。


 助かる助かる、と言ってくれる分には悪いにもしないのだけれど、聊かいい風に使われている感も否めないのが悩みどころである。

 葵も、そして遥さんも助かるのなら、それで良い。文句はない。遥さんのバイトが捗り、それによって葵にまた少しの余裕ができるのなら、ただの看病だなんて温い。


「早速で悪いが、バイトだから行くわ」


「あぁ、はい。お気をつけて」


「……悪いな」


「そう思うのなら、葵の為に帰りにゼリーでも」


「勿論だ。じゃあ、行ってくる」


 バタン。

 勢いよく出ていき、勢いよく閉められる扉。急いでいたのは確からしかった。

 疑っていたわけでもないけれど。


 さて。 

 一息つくと、気になるのは葵の状態だ。

 熱はそこまで高くない。咳も出てはいないし、深刻に動けない程怠いというわけでもなさそうだ。

 ただ、汗の量は中々なもので、枕を濡らし、パジャマまで薄っすら透ける程に浸透している。


「普段、運動ってやってる?」


「あんまり……代謝の問題かな?」


「だと思うよ。ともあれ、着替え――の前に、さっぱりとシャワーってわけにもいかないし、うーん。実家にいた頃は、祖父母に姉さんの身体拭きも手伝ってたことはあるけれど、流石になぁ」


「お湯は勝手に切り替えて良いから、まことに頼みたい」


「そう言われるとは思ってたんだけどね。ただ、全部はやらないよ、色々とマズいから」


 倫理的なアレというか、自制心的なそれというか。

 ともかく、まだそういった関係でもない、且つ身内でもない葵には、実施出来ないことである。


 かと言ってやらないわけにもいかないので、条件は以下の通り。

 前面、及び届く所が自分で。

 怠さがあるのなら身体は曲げられないので、足、それから背部は僕が。

 どちらかと言えばそれもアウトだとは思うのだけれど、届かないからには仕方がない。ずっとこのままというのも段々と心地が悪くなってくるだろうから。


 それに葵が頷いたことで、手早く作業を開始する。

 タオルを三枚濡らしてビニール袋に入れ、レンジに一分かける。その間で葵の長い髪をお団子にして、もう一枚の乾いたタオルで覆っておく。

 チーン、と響く聞き慣れた音を合図にそれを取り出し、葵の元へ。

 身体の前面は布団で隠しておいて貰って、背中だけ露出して貰う。


「ちょっとだけ熱いかもだけど、そこは我慢してね」


「うん……ありがと、ごめんね」


 弱々しく返す葵も新鮮だったけれど、やはり元気で冷静ないつも通りに越したことはない。


 早速と一枚目を手に取って、まずは広げて背中全体に当てる。

 一度温めておくことですぐには気化熱が奪われず、拭く作業をやりやすくするためだ。


「あったかい。気持ち良い」


「それは良かった。じゃあ拭いていくね」


「うん」


 当てていたタオルを手早く小さく纏め、首元から順に拭いていく。


 小さいな、背中。随分と、小さい。

 服の上からでは――いや、明らかに変わってるよな、これ。


「ねえ、葵」


「何?」


「最近、ちゃんと食べてる?」


 そう尋ねると。


「……分かる?」


 と、一言。


「背中だけではあるし、裸を見るのも初めてだけど……違和感って言うのかな。何だか、前よりも華奢になった感じがする」


「うーん……食べてないわけじゃない。けど、ちょっと量は減ってるかも。受験の緊張とか、兄貴に申し訳ないから贅沢も言えないし、とか……色々あって、あんまり食べられてない」


「それが別に悪いとは思わないけどさ。小さくても高カロリーな物だってあるし、色々とやりようはあるからさ。無理はしないで――って、もしかして、今回体調を崩したのって…?」


「うん。多分、そのせいかも……」


 気を遣うあまり、また自分のことで気負うあまり、それがストレスとして溜まってしまっていたのか。

 良いところではあるけれど、時に欠点でもあるな、葵のそれは。


 原因が分かったところで、背面は終了。

 新しいパジャマを羽織らせて、全面拭いて貰うべく一時退室。

 奥からガサガサと聞こえてくる音も、不思議と気にならない。


 思いやりとは、かくも美しく、また悲しいものか。自己犠牲とまではいかないまでも、思いやりをもった行動とは、必ず一つ小さなことでも我慢がつきものだ。遥さんの”バイト”という思いやりに対し、葵も”遠慮”という思いやりでもって答える。

 これでは矢印の方向もあべこべになっているけれど、それで二人、バランスを取れているのが不思議なところだ。


『終わったよ』


 襖向こうから、葵が言った。


「服はちゃんと着てる?」


『うん、大丈夫。脱ぐ?』


「冗談言えるなら大丈夫そうだ。入るよ」


 襖を開き中へ入ると、しっかりとパジャマのボタンを上まで閉め切っている葵が横たわっていた。

 惜しいなんて思ってはいない。本当に。


 太腿までは届いたから自分でやってしまったということで、足底と脹脛だけを手伝う。

 途中、笑いを堪えるのに必死になっている葵が可笑しくて、つい時間をかけて丁寧に――という名目で、意地悪をしてしまった。

 後から「わざとでしょ」と睨まれてしまうと、謝る他なかった。


 最後に枕カバーだけ変えて、何だかんだと全て終えると、葵はさっぱりしたと布団に潜りなおした。


「何か、プロっぽかった」


「何のだよ?」


「えっと……介護? 看護? 分かんないけど。まことって、ただの大学生だよね?」


 不思議そうに首を傾げる葵。


「看護学科がある大学は沢山ある。まぁ僕は違うけど、ただの、とは言わないかな」


「あ、そっか」


 なるほどと得心がいく葵。

 同時に、ではなぜ手慣れているのかと、更に疑問を募らせる。


 母親が現役の看護師をしているからだ。

 僕がまだ小さかった頃は、姉さんや祖父母が風邪をひいた時には面倒を見ていたのだけれど、ずっとそれを観察して成長し、僕の身体も大きくなると、忙しい母親に代わって僕が諸々のことをやっていた。

 病院にはある物が家には無いのが当然。そういう時はこれを使え、こうしろと、色々教えてもらったことが懐かしい。

 結局進路はその方面にいかなかったけれど、こうして別の所でも役に立っている。

 結果オーライ、なのかな。


「まことのお母さん……なるほどね」


「何がなるほど?」


「あの人の包容力、異常だったから。経験がものを言っていたんだね」


「それもあるかも。あの人の場合、何でも受け入れちゃう体質みたいだし、それのが大きいかな」


「なに、それ。ただの良い人じゃん」


「はは。言えてる」


 そんなことを言いながら笑うと、身体拭に追加してすり減った体力は、少し限界だったようで。


「ちょっと、寝るね。いつ起きるか分かんないから、ほっといて帰っても大丈夫だよ」


「なんとなーく、無理しそうな嫌な予感。遥さんが帰って来るまでは一応いるよ。何かあったら言って」


「……うん。ありがと」


 そう言って、葵は直ぐに寝付いた。

 時間にすれば一分未満。相当に消耗していたんだな。




 気が付くと、壁に背中を預けて眠っていた僕は、遥さんの帰宅を以って目が覚めた。

 あまり五月蠅くならないようにという配慮で響くガチャガチャと言う音は、気を付ければ気を付ける程、逆に鳴り響くものらしかった。


 ただいま。


 控えめにそう言って見せびらかしてくるビニール袋には、数個のゼリー。

 忘れず買ってきてやったぞ。目がそう語っていた。


「葵は寝てるか」


「ええ、ぐっすりと。すいません、背中だけですけれど、身体拭くのを手伝いました」


「報告するのか、実の兄に。律儀な奴だ」


 義理のような何となくのような、曖昧なものだったけれど。


「気にするな。言ったろ、信頼してるって。風邪でぐったりな女を襲ったりするような屑じゃないだろ?」


「そこですか」


「はは。ほら、礼だ」


 不意に投げて寄越される熱い缶。

 ラベルには”珈琲”の二文字。


 有難く頂戴して開け、口を付けた。


 眠ってしまってはいたけれど、ようやくとついた一息は、諸々の理由から予想外に溜まっていた疲労を優しく解きほぐした。

 ありがとな。

 遥さんはそう言うが、口にするべきは寧ろ僕の方だった。


「お疲れ様です、遥さん」


「何だ急に?」


「いえ、何となく。バイト、随分と詰めてるみたいだから」


「……まぁな。俺が頑張らねえとダメだからな」


 時には分け合うことも必要だとは思うけれど。

 お互いに分かり合っていているのは良いことだ。


「そろそろおいとましますね」


「もうか?」


「ええ。葵には、気を遣って帰っても良いって言われたんですけれど、僕が『遥さんが帰って来るまで』って傍にいたので」


「ほほう、そいつは面白い話じゃないか。どんだけ好きなんだよこいつのこと」


 遥さんはそう言って茶化すけれど。


 もう別に、怖いことはない。遥さんも、認めてくれてはいるわけだ。


「ええ、大好きですとも。こんなにいい子、貴方に猛反対されたって離れません」


「……言うじゃないか」


 少し変わる声音。

 怒っているわけではなく、真剣な話をする時のそれだ。


「物好きなのは、寧ろ葵の方ですよ。先に”好きだ”なんて言い出したのは葵の方なんですから」


「でも今は?」


「誘導は無しですよ。まぁ、僕の方から少しは押してみてますけれど」


 流石に恥ずかしくて控えめに言うと、遥さんは声の大小関係なく笑いを漏らした。


「ご馳走様だ、もう。えらく素直な奴だな。益々気に入ったぞ」


「……できれば葵に気に入られたい」


「兄貴の評価は大事だろうが。まぁ何にせよ――」


 少し溜めて、立ち上がる遥さん。

 倣って僕も立ち上がると、手を差し出してきた。


「家庭教師のこと、あと今日のこと、先のことも、ありがとうついでに宜しく頼むわ」


「遥さんが忙しい時、いつでも連絡ください。空いてたら何時でも来ます」


「忘れんなよ、その言葉。こき使ってやるから」


「それくらいの方が、貴方も楽になるでしょう?」


「……違いない。頼らせてもらうわ」


「ええ」


 取った手を強く握られる感触。

 釣られて握り返すと、安心したように目を伏せた。


 改めてもう一度「よろしく」と言われたのに対し、任せてくれと強く出る僕に、また笑って返されると、ようやく解放されて荷物を纏め始めた。

 使ったタオルは洗濯機、おかゆの作り置きもあるからと伝えると、おう、と短く返して、葵から少し離れた所に寝そべった。


 この人にも、流石に疲れは来るか。

 無茶をしているのはお互い様、と。


 刺激しないよう何も言わずに出ていこうとする僕に、後ろから遥さんが声を掛けて呼び止めた。

 何か、と振り返るや、


「そういうことは致してねぇだろうな?」


 と強い睨み。


 冗談が言えるなら、この人も限界ではなさそうだ。


 素っ気なく「さぁ」とだけ返し、家を出る。

 どういう意味だ、とは追随されなかっただけマシだろう。

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