第7話 不器用な心遣い

 あまりに衝撃的な告白に、僕は言葉を失ってしまった。

 最近はもうずっと、驚く度にそうなっているのだけれど、今日のはまた段違いに長い時間、口を開けて固まっていたと思う。


 桐島さんに倒語を教えたのがお兄さんだって?


 ずっと、その言葉だけが頭の中で復唱されていた。

 どう返せばいいのか。いや、どんな言葉を発せばいいものやら分からず、僕はただ黙っているばかり。

 するとふと、お兄さんが「はぁ」と息を吐いた。


「まだ料理は来ていませんが、仕方がありません。本題に入るといたしましょう」


 切り替え方は、存外と兄妹で似ていた。

 と、お兄さんは鞄を漁って何かを取り出し、机の上に置いた。


「これは……」


 僕の見やすいように向きを変えて寄越されたのは、一枚の写真。

 依頼と持ち込まれるものはいつも、決まってこの形だ。


 映っているのは、仲良さそうにカメラに向かい、お揃いのピースサインをする小さな子ども二人。大きい方が女の子で、それより少しだけ小さい方が男の子。辺りは小高い丘に囲まれた緑、その中心に小さな池は湖かの水場を設けた何もない空間だ。

 二人ともが、とてもいい笑顔を浮かべている。

 まさか――まさかな。


 願わくば、思うような内容でないことを。

 そうでなければ、僕が今この人に抱いている感情は――


「あの、これってまさか……?」


 恐る恐る尋ねる僕に、


「えぇ。小さい方が私で、隣のが藍です」


 事も無げに、隠すことなくそう言った。


 ……やはりそうか。

 幼少期であれば、それは仲の良いことは至極当然のことだ。何ら不思議はない。桐島さんの話でも、力を認めてもらえなかった自分を見捨てたのは少なくともその時が初めてなのだろう。

 しかし――しかしだ。そうであるならば、この怒りは全くのお門違い。こんな頃があったというのであればだ、ただ今の状況を知っての何も知らない僕の勝手な判断、ただ桐島さんから聞き齧っただけの話を鵜呑みにしていた大馬鹿者ではないか。

 怒りなんて、勘違いの甚だしい話だ。


「す、すいませんでした…!」


 何を置くより先に、まずは謝った。

 合理的でも理知的でもない結論を信じて疑っていたこと、勝手な怒りを募らせていたこと。


「何がです?」


 そんな胸中知らぬお兄さんは首を傾げていた。


「色々にです。桐島さ――藍子さんから、ちょっと昔の話を聞いてしまったもので……」


「昔の? あぁ、そういうことでしたか」


「勝手に貴方の事を敵だとみなし……お恥ずかしい限りです。今思えば僕は全くの他人なのに」


 たったの半年間一緒にいただけで、もうそんな感情を抱いて許されると思っていた自分が馬鹿馬鹿しい。

 同時に――死ぬほど恥ずかしい。


「お気になさらず。そういうことでしたら、この写真について語るのもやはり良いことでしょう」


「良い……?」


「ええ」


 そう言って眼鏡を外すと机の上に置いて、お兄さんは昔話を始めた。


 この写真を撮った当初は、お兄さんが小五で桐島さんが小四。お互い、将来を誓いあった――


「ってストーップ…! 待て待て待て、導入から可笑しいでしょう!」


「子どもの頃の話です、そういったことも言いましょう。それより――」


 流石の切り替えの速さ。

 突っ込む余地すら与えないどころか、それを恥じず口にする辺り、ある意味大物感があるな。

 流石に、兄妹でする話だろうか、それは。凄く昔に幼馴染と交わした約束を覚えたまま引っ越してばらばらになって、随分経った高校生くらいに再会をして、女の子の方は覚えていたのに男の方は――といった青春ものによくある話ではなかろうか。


 兄妹で……兄妹で……?


 とりあえずは、止まることなく先をいくお兄さんの話を聞くべく、僕は思考を停止した。


 桐島さんの子どもの頃はそれはそれは可愛く、何処へ行くにも兄の背中を追いかけて走るような無邪気さであった。何をするにも常に一緒で、片時も離れたことなど無かったという。

 そんな仲良し兄妹が両親に連れられて訪れた地が、この写真の場所。

 二人並んで自然な笑顔で、最高の一枚が撮れた瞬間なのだそうだ。


「それが…?」


「単刀直入に言います。記憶堂の名の通り、この写真を頼りに、どうかこの場所が何処なのか突き止めてはいただけないでしょうか? つきましては、藍と共にもう一度この場所へ」


「えっと……それは…」


 土台無理な話であろうと直感した。

 昔のことはどうあれ、桐島さんが今のお兄さんを恨んでいることは事実だ。自らの存在を否定された心地の桐島さんに、昔はこうだったのだから一緒に行ってあげてくださいよ、なんて口が裂けても言えない。


「そも、どうして今になってまた桐島さんの所へ?」


「それは……」


 唐突に見せる、見た目にそぐわない詰まり方。


「どこから話したものでしょう、色々と複雑と申しますか」


「複雑?」


「はい。私――と言うか我々、藍を除いた私と両親の二人はですね――」


 少し溜め、放たれる強烈な一言。


「極度の――口下手なのです」


 ――んあ?

 喉で変な音が鳴った。


 お兄さん曰く、事実はこうだ。

 桐島さんが教員ではなく小説の道を選ぶと公言した際、両親含め家族皆が応援していた。

 しかし極度の”口下手”故、頭の中では『賛成だけど、小説って大変な道らしいじゃない。でも自分で選んだのなら何も言う事はないし、この子には文才も学力ある。でも万が一食べていけなかったら困るし、そうなれば良い男の人も見つけないと。あぁでも――』と考えに考え過ぎて、それが長い時間続いたものだから、沈黙と解釈されてしまったのだとか。

 桐島さんが記憶堂を継ぐと言い出した時も『四代続いているお店だし、とてもいい仕事だとは思うけれど、やっぱり歩合制というか厳しいだろうし、そうなったら――』と、そこでもまた考えに考え過ぎて言葉が出てこなかったのだと。


 口下手――なんてレベルではないな。

 気持ちや思いが先行して、声が着いてこないとは。


「そ、それなら、それをはっきりと伝えれば良いのでは…!? 今更ながらな話ではありますけれど、言わないよりずっといい」


「それが――私たちに出来るとでも?」


「……不可能ですかね」


「でしょう。それにこの顔――目つきの悪さ親譲りでして。それも相まって、沈黙は圧力となって藍を圧迫してしまっていたのでしょう」


 お兄さんは少し寂しそうに呟いた。


 しかしだ。

 それを僕が知ったところで、記憶堂の仕事は桐島さんの領分であって、あの人の頭なくして僕がこの場所を特定することは難しい。何かヒントや手掛かりでもあれば別の話ではあるけれど。


「何か――何か、ここについて覚えていることはありますか?」


「……! お請けしてくださるのですか?」


「いえ、それは分かりません。ですが、まぁ話を聞かないことには」


「そうですか……いえ、十分に有難い話です」


 少し表情が和らいだ気がした。

 話してみると、存外いい人なのかも、なんて早くも思えてしまう自分が怖い。

 最初は、この丁寧口調は厳しさ故のものだと思っていたけれど、そうではないのかもしれないな。





「――といったところです」


 運ばれてきた食事をさっさと食べ終えて一息に話すと、お兄さんは傍らにあった水の残りを飲み干した。


「寒い、ずっと北の方、やたらに甘いウニ……ですか」


 何とも、ヒントとは言えぬヒントだ。

 冬になれば寒い地域は多いし、海鮮が美味しいところだっていくらでもある。

 北の方となれば東北、北海道方面なのだろうけれど、ただ寒いだけなら富山だって負けてはいないし――うーん。

 やたらに甘いウニ――これが一番大きなヒントにはなりそうだけれど。


「今の段階だと、何とも、いった感じですかね。僕の知識は桐島さんのそれと大きく違いますし」


「重々承知です。無理にとは言いません。お話を聞いて貰えただけでも」


「それは――」


 いっそのこと、桐島さんに正直に話してしまって、一発で答えを得てしまうのはどうだろうか。

 これを機に仲直りして、家族仲円満になって、どうせなら皆でその場所に行けばいい。


 ともすれば、それが一番名案なのでは?


「今日のところは改めますね。すいません、大切な休日にわざわざお呼びたてして」


「あぁいえ、それは全然。本当に」


「どうも。では、私はこれで――っと、帰り道は大丈夫でしょうか?」


「実を申しますと、お兄さんにばったり会ったあの日、藍子さんとここで夕食を」


「――またそれは随分と数奇な」


 持ってくる言葉まで妹似。


「では、行きますね」


「あ、はい。すいません、お力になれず。お気をつけて」


「お気になさらず。神前さんも、お気をつけて」


 ぺこりと一礼、お兄さんは店を後にする。

 と、そこで気が付いたのはお勘定のことだ。


(まさか学生の僕に――ん?)


 伝票挿しの下に、風に揺れる紙切れ一枚。

 手に取って確認すると、印刷されていたのは樋口一葉だ。


(これじゃあお釣り貰い過ぎじゃないか。今度会った時に返そう)


 溜息交じりに、とりあえず会計を済ませる。

 つい数分前にお兄さんを見送った階段を降り、道路に出たその時。


 いい加減慣れた、不意の着信音。

 表示されていた名前は遥さんだった。


「もしも――」


『頼む、今すぐうちに来てくれ…! 葵が倒れた!』




「…………え?」

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