第4話 家庭教師
「か、家庭教師…!?」
葵の漏らした一言に、僕は思わず大きな声を上げて後退る。
「文系に行くつもりだけど、数学も必要だし……でも私、ぼろぼろで…それで兄貴が、無理やりだけど塾の合間にって…」
「いや待って、僕も初めて聞いたよそんな話…! え、いや家庭教師云々もそうなんだけど、えっと……わざわざ増やす程のものなの…?」
葵は無言で頷いた。
驚きは二重だった。
何も告げられぬまま軽い気持ちで来てみれば、その実将来を左右するようなことを任され――その相手が才色兼備とでも言っていいような葵だなんて。
ぺらぺらと英語は話せていたし、それを返せるくらいなら国語の方も問題はないのだろう。
しかし理系と来たか。これは困った。
苦手ではない。出来ないわけでもない。
ただ、僕が今の大学に入れたのは、多分ギリギリの筈なのだ。受験直後に自己採点をしてみて、落ちたなと肩を落としたのをよく覚えている。受かっていたことに安堵して落ち着いて、それから半年間、それについては全然触れてすらいないというのに。
「そういった類の登録とか一切してないんだけど……遥さんは一体何を考えてるんだ?」
先の言い分からして、おそらくはそういうことなのだろうけれど――しかし、
「高三レベルの数学か大丈夫かな」
正直、自身はあまりない。
ぼろぼろと言っても流石に現役、ブランクのある僕なんかより少しは上の筈だ。
「これは後で遥さんに話があるな――っと、どうしたの、葵?」
ふと気が付いてみれば、葵が狭く開いた扉から目だけで覗いていた。
「え、と……とりあえず上がっても?」
「…………どうぞ」
と言って、葵は扉を閉めた。どういうことなのだろう。
考えながらもそれに敢えて逆らってノブを捻ると、鍵はかかっていない様子。そのまま開け放ち、家の中に顔を突っ込んでみると、
「いない…」
既にその場に葵の姿はなく。
ぱたぱたと響いて来る足音は、どうやら居間ではなく奥の個室の方から聞こえているらしかった。
靴を脱ぐと同時に気付いた、律儀にもそこに用意されていたスリッパを見て苦笑して、お邪魔しますとそれに足を通して廊下を進む。
「葵、失礼するよ?」
『どど、どうぞ…!』
扉の先から、噛み噛みの返事が聞こえて来た。
大丈夫だろうかと思いつつも、部屋の扉を開ける。
そこには、定規よりも真っ直ぐに背筋を伸ばし、机に向き合って椅子に座る葵の姿があった。
その机の上には教科書に参考書、傍らの小さい方には問題集、ノートにルーズリーフといった勉強道具一式が揃えられている。
「えっと……うん、先ずはそうだな。何でそんなに緊張してるの?」
「え…!? ぜぜ全然っ!」
その噛みようは、最早語るより明らかだと思うのだけれど。
「し、しばらく会ってなかったから……その…何て言えばいいのか、分からなくて」
「別に普通にしていればいいと思うんだけど」
「むぅー……」
「膨れない膨れない。ちょっとそれ、見ても良い?」
「え、あ、ちょ…!」
構わず僕がノートを取り上げるのを必死に抑えようとする手は空を切る。
びっしりと埋まっている計算式の端には、赤色で✕の付いた解答が。割合で言えば六割――いや七割は✕だ。世辞にもいい結果だとは言い難い。
しかし正答率はどうあれ、努力が窺えるのは決して悪い話ではない。寧ろそれだけでも、褒める要素は十二分に――なんて考えてしまうのはどうなのだろうか、家庭教師として。
いや、まだ請けると言ってはいないけれど。
「酷い、でしょ……直感で分からないものは、苦手」
「うーん…」
よく見れば確かに回答と値ずれているけれど、その過程に問題は特に見当たらない。
一つ言えるのは、計算式がとても”遠回り”だということだ。そして付随するかのように、その長い式の中て少しずつ計算ミスが起こっている。
「改善の余地はある、かな」
「ほ、ほんと…!?」
「うん。数学はぶっちゃけ自身なかったけど、これならあんまりそれも関係なさそうだ」
一から教えるわけでも無さそうだし。
しかし、そう言った僕に、葵は首を傾げた。
「どういうこと?」
「簡単に言えば、無駄が多い。あぁ悪口じゃなくてね、必要な式では確かにあるんだけれど、それを短縮する方法とか、違ったやり方もあるって話だよ」
「私にも出来るレベル…?」
「寧ろ葵用かな。まぁそれはこれに限った話ではあるけれど。他のも――うん、根本から考え方が間違ってたり、そも理解すらしていない訳じゃない。これなら大丈夫そうだ」
「よ、良かった……」
ほっと胸を撫でおろすと、ようやく少し背中も丸くなる葵。
家庭教師なんて言って僕を寄越した理由は後で考えるとして、しかしそこで気になるのは、どうして今呼び出したのかということだ。
時間はある。けれど、何の準備もしていない僕に、今すぐこれを教えてやれ――とは、流石に言うまい。
何か裏があるのではなかろうか。
「っと、ごめん、兄貴からメール」
「どうぞ」
まだ家庭教師も始まっていないわけだから、どうぞご自由に。
と、メールを開いた葵が溜息を吐いた。
「よからぬことでも書いてあった?」
「えっと、『夕飯は適当に済ませてくれ』だって」
適当とはこれ如何に。
バイトで忙しいのは分かるし、それで葵が蔑ろにされているとも思わない。
しかし、ものには言い方というものがあろう。
その後葵は『了解』と短く打って返信した様子。
いつものことだから。そう笑ってはいるけれど、どこかぎこちなさはある。
「えっと……それで、今日はどうしよう?」
ふと葵が尋ねてきた。
「どうするも何も、別に帰る理由も、帰ってから特別やることもないからなぁ」
「じ、じゃあ、ちょっとだけ教えてくれない…?」
「構わないけど――僕、人に教えたことってないから」
「大丈夫、そこは私の国語力で…!」
フォローはしてくれないのね。
肩を落とす僕に、葵はちょっと待っててと部屋を出ていった。程なくして戻って来た手には、二人分の麦茶が。
「何もないと、流石に申し訳ないから」
「ありがと」
有難く受け取って、早速と一口。
さて、という僕の掛け声に続いて葵も改めて背筋を伸ばすと、文句やら何やらを残して臨時の家庭教師が始まった。
―――
取り組み始めて早四時間。
休み休み効率よく、無理の祟らないようにやっていくと分かって来たのは、葵の異常なまでの飲み込みの速さだった。
「合ってる?」
「どれどれ」
何度も繰り広げられるやり取りの後、僕は先ほどから決まって「完璧」としか言っていない。
一度教えればそれに対応し、少し難しい問題が出ても、それまで出てきた幾つかの式を組み合わせての応用も出来ている。
僕から言わせてもらえば、今まで出来ていなかったことの方が驚きだった。
そして今回の解答も、見事に正解。
いらないのではなかろうか、僕。
大きく伸びをして、少し集中力の切れて来た葵の方を見やる。
丁度ペンを置いたタイミングで、
「さてと。少し休憩にしよう」
「うっ……ん、と。ふぅ。分かった」
僕に倣うようにして五秒以上の大きな伸びをすると、葵は再び「ちょっと待ってて」と部屋を出ていき、今度はクッキーを皿に乗せて戻って来た。
貰いものだけど、と控えめに置かれたそれを一つ手に取って齧る。
それから何となく見回した部屋は、よく見れば存外女の子っぽい部分もあった。
僕の背丈を超える大きな本棚の一角、それとベッドの上に一つずつ置かれた、異なるデザインのクマのぬいぐるみ。片方は僕でも知っているくらい有名な某作だったが、もう一つは見たこともない。可愛いものに違いはなかったけれど――少し色褪せていた。
しかしその中でも最も目を引いたのは、葵の向かい合う机の上。
「これ、篤郎さん?」
大きく仕切られた空間に大事そうに置かれていたのは、綺麗な額に入った赤ちゃんとおじいさんのツーショット写真。
まだ病気を発症する前の元気な頃だろうか、車椅子には乗っていない。
「この赤ちゃんって――」
「うん、私」
それは葵が生まれてすぐ、家族で抱いて回した時の一枚。唯一残る、葵と二人だけで映っている写真なのだそうだ。
「へぇ。とってもいい笑顔。それに、葵も可愛いじゃん」
「とっても優しくていい人――って、私のことはいい」
素っ気なく言い捨てつつも、頬が仄かに染まっている。
写真中の篤郎さんは、それだけで人となりが分かってしまうような優しい笑みを浮かべている。葵が懐くのも頷ける。
「今更だけどね」
「ん?」
葵が写真を見ながら呟く。
「通潤橋の時のこと。もっとちゃんと、藍子さんとまことにはお礼を言いたい」
依頼を受けてくれたこと。
場所を教えてくれたこと。
着いて来てくれたこと。
一度も文句を言わなかったこと。
頭から最後まで、その全てに感謝をしている。
そう、写真の中で笑う篤郎さんに報告するように優しく、ゆっくりと言った。
「それからヴェネツィアまで連れて行って貰って――まことに、告白された」
「蒸し返さないでよ恥ずかしい。その話は、葵の受験が終わった後だ」
「うん、分かってる。でもね、その所為なんだよ……私が今日、まことの目が見れないの」
「随分と今更だね。祭りには一緒に行ったろ?」
「それも込みで。色々と忙しくてずっと一緒にいた所為で、その時まではあんまり何も思わなったんだけどね、それが終わってから今までの一ヶ月以上一度も会わなくて、あれこれ頭の中で回って、離れなくて。それでいきなり今日来たものだから、どうしたらいいのか分からなくて……」
葵の言い分は最もだった。
たまにスマホで文字のやり取りはしていたとは言え、今日の昼過ぎに遥さんから「葵のことで」と連絡を貰った時は嬉しかったし、うちに来てくれと言われた時には心臓も五月蠅くなっていた。
そうしてここに来てみれば遥さんが逃げるようにバイトへ行ってしまい、葵とは二人きり。
勉強の為とはいえ、こうして話せていることはとても嬉しいことだった。
そう思うと、葵の言葉に何か返すことが出来ず、黙ってしまった。
変な沈黙に葵もどうしたものかと黙り、それにまたどうしようと悩むと、変な沈黙が続いた。
代わりにと口に含んだ麦茶は、何の味もしない。
「ねぇ、まこと」
沈黙を切り裂いたのは葵のそんな一言。
「何?」
「お腹、減ってる?」
「へ……?」
思いがけない言葉に変な声を出しつつ、目を向けた腕時計は夕刻六時を示していた。
「そういえば、遥さんが好きにやっとけって言ってたね」
「うん」
「久々、どこか食べに行こうか?」
良かれと思ったそんな僕の提案に、しかし葵は首を横に振る。
「私、作るから……食べていって、欲しい…」
頬を仄かに赤らめつつ、ちらとこちらを見ながら問いかける葵。
頷く以外に何が出来ただろう。
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