第5話 手作りとお手伝い

 トン、トン、トン。


 規則正しい包丁の音が、背後から心地よく響いてくる。


「何か手伝おうか?」


「ありがと。でも、大丈夫」


「そっか」


 トントントン。


 緊張感からか、あるいは意地からか。不意に速くなる包丁の音。

 それでもリズムは乱れず、たまにズルズルと聞こえるのは、切った物を端によけている音だろう。


 テレビでも見て待っててくれと言われた僕は今、言われた通りソファに座ってテレビを正面にしているのだけれど、どうにも落ち着かない。

 他人、それも女の子の家で、料理を振舞うから待っていろだなんて。

 つい今朝に桐島さんと同じようなことになっていたけれど、複雑な事情が事情なだけに、楽しむ余裕はあまりなかったのだ。

 加えて言うなら、僕と葵は今、そういう状態なのであって。


 トントントン――カラン。


 初めて聞く音がなった。

 音の質からして、おそらくはシンクに何かが落ちた音。


 そしてそれは、次いで耳を打った「いたっ」という葵の声によって何が起こったのか明確に分かった。


「葵…!?」


 慌ててソファから飛び上がって料理場へと行くと、思っていた通りの事態なっていた。


「ち、ちょっと指先切っただけ。大丈夫」


「それは確認してからだ。見せて」


 止まることなく流れる鮮血の量は、とてもではないが料理を続けるには不十分な手のコンディションへと落としていた。

 傍らには切っていない野菜が残っている。包丁の出番は、まだあるということだ。


「悪いけど葵、これはドクターストップだ」


「でも、料理…!」


「分かってる、ありがと。だから、代わるのは危険がないところまでだ」


 僕の言葉に、葵は渋る。

 それもそうだろう。せっかく振舞ってやると意気込んで向かい、いざ始まってしばらく、まだ半分も進んでいないというのにこれでは無念だろう。

 しかし、それでも下手に進めてこれ以上の怪我をされたら困る。


「何も、やめろっていってる訳じゃない。包丁作業が終われば、ちゃんと葵に代わるから」


「……分かった」


「ありがと。じゃあ一旦交代だ。今度は葵がテレビでも見てて」


 促すと、葵はくすりと笑ってソファの方へ。

 良かった。機嫌は損ねていないらしい。


 さて交代して貰って分かったこと一つ。

 こうして少し離れた位置から葵を見ていると、どうにも細すぎるように思えてしまう。

 小さな頭に細い腕手足、着ている服も少し余裕がありそうだ。

 生活のこと、それに対し葵の人柄による遠慮もあって、篤郎さんへの接し方同様にきっと強請るようなことをしていないのだろう。

 遥さんは葵のことをとにかくも可愛がっている。それを葵も分かっているようだから、強く何かを求めようとはしないのかもしれない。


 そう考えると、案外上手いことバランスが取れているのだろうな。

 兄が色々と自分のことを考えてくれるから葵はそれ以上を欲しないようにして――と、プラスとマイナスが丁度いい具合に均衡している。

 それも、きっと遥さんも葵の遠慮が分かっているからなのだろう。


 トントン、トン。


 もう一つ分かったこと。

 こっちに越してきて自炊を始めてからそこそこの時間が経つけれど、僕の包丁のリズムにはまだ少しバラつきがあり、対して葵は一定のリズムて刻んでいるということ。

 外で忙しい兄の代わりに家のことは一手に引き受けていると前に言っていたけれど、おそらくはその前から料理はしていたのだろう。篤郎さんが去る前に両親をなくし、その篤郎さんも自由には動けない身であったわけなのだから。


 明らかな経験値の差は、葵の今までの人生そのものだ。


 さて、野菜も切れた。

 傍らに準備されているのは香辛料一式。

 これ以上の危険はなさそうだ。


「葵ー、遅くなってごめん、切り終わったよ」


「分かった」


 呼びかけると、待ってましたと言わんばかりに俊敏な動きで調理場へ。

 一応念の為にと近くにいることを伝えると、またも「分かった」と短い返事で了解を出してくれた。


 クミン、コリアンダー、カルダモンにオールスパイス、ターメリックと並べられたそれはカレーに使われるスパイス類だ。

 慣れた手つきで次々足して、たまに味を確かめては微調整。

 二度三度とそれを繰り返すと、葵は直ぐに、


「完成」


 と振り返った。


「驚いた。調味料から作るのにもだけど、恐ろしく速いね。よく作るの?」


「月一かな。香辛料は身体に良いからって、兄貴が好きなの」


「ふぅん。それでか」


「……何が?」


「いや、野菜を切ってて思ったんだ、随分と多いなって。僕と葵の分を作るだけなら、もっと少なくても良いはずだ。遥さんがいつ疲れて帰ってきてもいいようにって、作り置きの分も含まれてるんでしょ?」


「わ、悪い?」


 いいや、寧ろ逆も逆、真逆だ。

 たった今、葵の他人に対する気遣いや思いやり、家族への愛なんかを再認識したところだ。


 昨夜あんな現場を見てしまった手前、この高宮家の家族愛は凄まじいものだとさえ感じる。


「いいや、良いことだよ」


「ふん……よそうからお皿取って」


「はーい」


 そっぽを向いて投げやりに放たれた言葉に応じ、二人分の皿を取り出して渡す。

 葵それを無言で受け取ると、白米をよそって上からカレーをかけていく。

 手作りのそれは、見た目だけでもう涎が止まらなくなるくらいの存在感だった。


 最後にスプーンを取り出して机の方へ。

 背の低い木の机で床に座り込んでというのは、実家を思い出して少しいい気分だ。


「うちってこんなだからさ、机とか椅子とかあんまり置けないの。ごめんね」


「僕の実家だって同じだよ。来たでしょ?」


「うん……ありがと」


「どういたしまして? はは、分かんないな。食べようか」


「うん」


 いつもの癖で手を合わせると、葵も自然な流れで両手の平を合わせた。


「岸家やうちではやってなかったよね」


「ひ、一人だとつい…!」


「普通逆じゃないかな?」


「え、えっと、それは……ほら、おじいちゃんが見てるから」


 ちらと寄越された視線の先、部屋の隅には仏壇が。傍らには、遠目にも分かる大きめサイズの篤郎さんの写真が置いてあった。

 なるほどな。

 礼儀や作法を教えてくれた祖父に恥じぬように、か。


「それなら、外でもやってこそだよね」


「……今度から気を付けるよ。いただきます」


「なら僕がしっかり観察しておくよ。いただきます」


 時間差で手を離すと、葵手製のカレーに手を付け始めた。


 どこかで見たことがあるって程度の知識だけで判断するなら、葵のスパイスカレーは完璧だった。

 香り七割色味が二割、辛み一割辺りが目安割合らしいのだけれど、見事にその通り、作業中の葵はターメリック以外の香辛料で先ずは味を調えていた。そうして出来上がったベースに色付けをして、完成だ。

 その香辛料の配分も、今回の野菜が多くて肉は鶏を使っている物に合うよう、クミンとコリアンダーで調整していた。


 手つきも慣れたもので、主婦というよりかは料理人のそれだ。


「美味しい」


「ほんと…?」


「不安そうな顔をする必要ない程にね。僕好みの完璧な味付けだ」


「そ、そっか……良かった」


 安堵する葵の表情は柔らかい。

 先までの緊張していた感じとは大違いだ。


 程よく辛みも出ているカレーは、二口三口と進める度に次を欲する美味さだ。その度に葵が嬉しそうに笑っているのも、見ていて心地が良いものだ。


「小説やドラマなんかだと、手作りって言ってもルーを使ってるのをよく見るけどさ、これは本当の手作りだね」


「趣味……なのかな。手の込んだ料理は、作ってて楽しい」


「そうなんだ」


 また一つ、葵のことを知られた。

 可愛いクマのぬいぐるみに料理好き――有りだな。


 これだけ優しくていい子が、どうしてまた僕なんかを――と、今でも疑問に思うことがある。




 一杯目を食べ終えると、存外に量が多かったようで腹は八分目まで満たされていた。

 おかわりは、と聞いてくる葵の綺麗な瞳には悪いけれど遠慮すると、実は一杯目は少し多く入れていたのだと明かされた。


 朝の桐島宅のように皿洗いを手伝って帰り支度を済ませ、玄関へ。

 靴を履いて立ち上がると、後からパタパタと着いて来ていた葵に振り返る。


「すっかり長居しちゃった。ありがと、夕飯まで」


「それは、全然。あの、それで――」


「何?」


 葵は俯き、直ぐには答えない。

 手を握っては開いてみたり、口を少し緩めてはまた閉じてみたり。


 しかしこちらから何も言わないで少し待っていると、葵は意を決したように尋ねてきた。


「か、家庭教師……受けてくれない?」


 そういえば。

 午後から通して教えておいて、今更「やっぱやーめた」もないな。

 しかし、本当に僕でいいのだろうか。

 懐いてくれていることはとても嬉しいし、葵とまた話せるのも有難いことだけれど、今日一日であれだけの吸収力を見せつけられては、そう何度も通わなくとも、すぐに学力の向上は望める筈だ。


「力不足じゃないかな、僕だと。勿論、葵がいいならいいんだけどさ」


「全然、そんなことない。まこと、教え方も上手いし」


「葵の理解力の高さあってのようなものだよ」


 事実、何度か「こういうこと?」と聞き返されたこともあった。


「遥さんと後から話はつけるとして、僕は別に雇用者じゃないからね。料金を頂くわけにはいかないけれど――そうだな。記憶堂の仕事もあるから、お互い空いている時に、予定を立てて。それなら大丈夫だけど。どう?」


「う、うん、それでいい」


「なら決まりだ。アドレスは知っているわけだし――って、今日は遥さんから来たけどね。仕事も急だったし」


「今度は、ちゃんと」


「分かった。カレー、美味しかったよ。ありがと」


「うん。ばいばい」


 揃った動きで手を振り合って、僕は扉を開ける。

 閉め際に見た葵は「早く兄貴帰ってこないかな」と語っているように瞳が揺れていた。


 辺りは既に宵闇に包まれていて、道行く人は昼間以上にいない。

 ただただ静かな空間の中で、僕一人の足音が響く。


 と、来た道をゆっくり歩いていると、向かいから見慣れた人物が歩いて来た。

 目の前まで来ると片手を挙げて、


「よ、お帰りか」


「遥さん……ある意味、居心地が悪くて仕方がありませんでしたよ」


「お互い好意を寄せあってる仲だろ、褒美じゃねーか」


「そう思えるのは――って、最愛の妹の恋路に反対しないんですね。てっきり殺されるかと」


「アホ言え、誰がそんなことするかよ」


 遥さんは当然のように言い捨てた。


「お前が良い奴なのは分かる。これでも人を見る目はあるつもりだ。あんだけ人見知りだった葵がいよいよ仲良くなった奴に、しかも恋までしてるなんて、兄としては応援してやるのが筋だ」


「遥さん……」


 そんな風に思っているとは知らなかった。

 この人はあまり自分のことは話さない。そこは葵と同じと言えば同じではあるのだけれど、不必要に自分の置かれている状況や考えを話そうとはしない。

 そんな中でだ。

 このような評価を頂けているとは、露とも思わなかった。


「早い話だが、お前なら安心して葵を預けられる」


「ちょ、それは本当に早い…!」


「それくらいの信頼度って話だ。まぁ不器用な奴だけど、これからもよろしくしてやってくれると助かる」


「言われなくても、ですよ」


 断られたって、誰が離れてやるものか。


「そうだった。お前の方が葵にゾッコンなんだったな」


「どこ情報だそれ…!」


 身に覚えのないとは正にこのこと。理不尽もいいところだな。

 すると、遥さんは上げていた笑い声をふと止め、真顔に戻った。


「本当はな、俺が教えてやるのが一番なんだ。金もない、余裕もない、それでもって行かせている塾に加えて家庭教師なんて雇う金はねぇ。でも、バイトっつか、葵を食わせてやるには俺が働くしかないんだよ。でもそれで時間がないって――そんな馬鹿な話はないわな」


「遥さんは――」


 頭の中は、あまり整理できていない。

 葵の遥さんに対する評価とか、逆の評価とか、それを傍から見ている僕からすれば、遥さんは凄くよくやっていると思う。

 通潤橋のこと、その後のこと、全て葵に心配をかけまいと自分で背負い込んで、解決もしてみせて。


 尊敬――葵の言う羨望なんて、僕ではなくこの人の為にある言葉だ。


「遥さんは、とてもよくやっていると思いますよ。それは葵も分かっている筈です。四月の男気は流石にかっこよすぎましたよ」


「四月――あぁ、金のことか」


「ごめんなさい、葵には話しちゃいましたけど……葵は凄く驚いていましたが、でも、凄く感謝もしていました」


「何てことはない。一種のけじめってだけだ」


「そうやって言えるところが素晴らしいって話ですよ。なかなか、そうはいない」


 自己犠牲ではない、人のための行為。

 透き通った色をしている心の持ち主だ。


「……やっぱり、お前なら安心だな」


 呟くように遥さんが目を伏せて言った。


「家庭教師、任せるな」


「出来るだけご期待に沿えるようにはします」


「十分だ。じゃな」


 最後に軽くポンポンと僕の肩を叩くと、遥さんは横を通り抜けて自宅の方へと歩いて行った。


 家までは随分と距離と時間がある。

 少し、色々と整理しながら帰ろう。




 とりあえず家庭教師は受けるけれど、遥さんの言うお礼は受け取らないでおこう。

 向こうからすれば僕の決定は都合が良いのだろうけれど、それはこちらだって同じことだ。隠すことなく言えば、好きな子の家に行ける口実が出来たという事なのだから。


 意気込んだはいいけれど、結局そんな纏めしか出来なくて。

 我ながら情けなくて溜息を吐いて、電車を降りる。それからまたしばらく歩いて自宅へと向かっていると、丁度記憶堂へと続く交差点に――


「神前真さん、ですね。ご相談があります」


 一度見知った黒のスーツ。


 桐島さんのお兄さんだ。

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