第2話 認められない努力と結果
「何年ぶりでしょう。お久しぶりです、兄さん」
「心にもない世間話は結構。帰りますよ」
見るからに、仲はあまりよろしくなさそうな感じ。
すると、静かに構える兄の横を縫うようにして、桐島さんはさっさと記憶堂――ではなく、階段の方へと歩いていってしまう。そして、どうしたものかと立ち尽くす僕には「こちらへいらしてください」と手招く。
言われた通りに着いて行くのだけれど、それで止められでもしたら、と身構える僕に、桐島さんのお兄さんは見向きもしない。
そのまま桐島さんの後に続いて階段を上がって、ついぞ自宅の方に上がり込んでしまった。
「えぇっと……」
玄関扉を抜けたすぐの所で靴も脱がず、お兄さんはどうしよう、上がって良いものか、とあれこれ考えてしまって僕は身動きが取れない。
「明日が休日で良かったです。ごめんなさい神前さん。連れてきてしまった手前、今日はこちらにお泊りになってください」
「え――は…!? 何を言ってるんですか、自分が女性だってことをお忘れですか…!?」
「無論、部屋は分けさせていただきますから。兄さんは、下手をすればあのまま朝まで動かないこともありますので」
「どういった神経なんだそれは――っと、それはとりあえず置いておいて。僕は別に構わないんですけどっていう言い分は通るんですかね? 荷物は明日でも良いから、とりあえず帰るというのは」
「単独で出れば、おそらく兄さまに捕まって、私のことについて根掘り葉掘り何時間も聞かれる羽目になりますけれど?」
「泊まらせていただきます…!」
女性の家に泊まるのは流石に、と考えた末のちょっとの勇気は、脆く崩れ去ってしまった。
しかし、あのお兄さんとの関係って――目元の感じは似ているから、やっぱり本当の兄妹なのだろうけれど、どうしてああも睨み合っていたのか。
お兄さんは桐島さんに帰るぞと言い、桐島さんはそれを無視して部屋に上がった。
帰りたくない?
あるいは、帰るというのがそういう意味ではない?
いずれにせよ、桐島さんはそれを良くは思っていない。むしろ拒絶している。
僕が関わるべきでない雰囲気は、先の無言の闘争を見ていれば分かる。
けれど――
「どうしたのですか?」
ずっとその場で立ち往生する僕に、早くもトレンチコートを脱いでいた桐島さんが尋ねる。
別に何も、とはぐらかしても良かったのだろうけれど、あの”眼”を持つ彼女に隠し事は無意味だ。
僕は正直に尋ねようと、とりあえずは靴を脱いで廊下へ。
と、そう思っていたのだけれど。
一歩、また一歩と進む度、その意欲はみるみる内に削がれていく。
楽しそうに笑える自由なあの人のあんな表情を見てしまって、僕は桐島さんのことについて触れるのを躊躇っている。
赤の他人が何を。
何も知らない人が何を。
そんなことを言われる可能性を考えて、臆病になっている。
「神前さん」
ふと、レストランと同じように名前を呼ばれる。
しかし声音は、先のそれとは大違い。
感情を持たない機械――無機質に響いた声は、僕の耳に届くと同時に背筋を震わせた。
「は、はい…!」
つい裏返った声まで出てしまう。
そんな僕の様子に桐島さんは、
「――ふふ。どうしたんですか? とりあえず珈琲でも入れますから、上がって待っていてください」」
笑顔で僕を迎え入れた。
「桐島さん…」
「はい?」
いつものように明るく、朗らかに振り返る。
――その表情が作りものだってことくらい、流石に僕でも分かりますよ――
そう言葉に出来ないのは、まだ僕が弱いからだ。
「……何でも。お邪魔します」
「はい。どうぞ上がってください」
傍らにあったスリッパを置いて、僕はようやくと靴を脱いでそれに足を入れた。
もこもこと心地の良い感触は伝わって来るけれど、その温かさだけは分からなかった。
廊下を抜けてリビングへと上がる。
まず目に入ったキッチン、併設されているテーブルと椅子、ソファにテレビ――他に最低限の小道具を除いて、目立った物は置いていない質素な部屋。
休日はこんなことをして過ごしているんですよ、なんて話を夕餉のお供にも出来ないような、何もない空間が広がっていた。
ここに住んでいて、趣味や楽しみ、息抜きは一体どうやって――
「何もないでしょう?」
「え、っと……はい」
「素直でよろしい。先に申し上げておきますと、他の部屋も同じです。本棚に文庫本、サブの作業部屋、それ以外は何もありません。おかしいでしょう」
「そんなことは…!」
「ええ。灰色は見えませんから、貴方は本当にそうは思っている。優しい方です」
そう言いながら、桐島さんはミルを回し始めていた。
「紅茶ではないんですね。豆から挽いているんですか?」
「ええ」
返事は素っ気ない。
やがてそれをカップに注ぎ、キッチンからテーブルへとそれを運んだ。
挽きたてのそれはとても芳醇な香りがして、つい喉が鳴ってしまう。
遠慮せずにどうぞ、と促されると、僕は一口含んで喉に送った。
「美味しいです」
「それはどうも。二杯目を所望でしたら仰ってください」
「ど、どうも」
優しく笑う桐島さんに礼を言って、僕は文字通り遠慮なく飲み進めていく。
改めてキッチンから自分の分も入れて戻ってくると、向かいに座って一口。「はぁ」と、いつもとは違う息を漏らして落ち着いた。
それからちまちまと何口にも分けて飲む僕を見ては微笑んでいたけれど、その眼は、僕ではないどこか遠くを見ているように揺れている。いつもは澄んだ瑠璃色の瞳が、今日は薄く濁っているように見える。
と、急にその焦点は僕を中心に捉えた。
驚いて目を見開く僕に小さく笑って、
「『気になる』って――そんな顔をしていますね」
「……色、とは言わないんですね?」
「えぇ、見ていれば分かります。先のあれ以来、ずっとそわそわしていますから」
「じゃあ隠さず聞きます、どうして帰らないのか。”帰省”という意味ではないのでしょう?」
僕の問に、桐島さんはええと頷いた。
そうしてまた一口含んで、今度はしばらく口内で弄んでから喉へと送った。
同じく「はぁ」と息を吐くと、少しだけ長くなることの了解を求めてくる。この人にまつわる何かが教えてもらえるのであればとノータイムでそれを受けた僕に、もうひと笑い「ふふ」と置いてから、さてどこから話したものかと頬杖をついた。
「桐島家はですね、代々という訳ではなく父母の代からですけれど、教育の名門みたいな売りをしておりまして。ええ、自称です」
「教育、ですか。ではあのお兄さんも?」
「私立高校の教師をしております。それも、ここら界隈ではトップクラスの。父母は大学の教授です」
そんな話を聞いて気になったのは、目の前に座るこの人自身のことだった。
副業にここをやっていると言っても、しかし本業も小説家だ。売れっ子とはいえ全く方針が違う。言い方はあれだけれど、ある程度の自由が許されている職種だ。
すると、桐島さんはまた途端に遠い目をして、眼下のカップに目を落とした。深い深い溜息一つ、今話したことに対する不満を孕んで。
「教職が悪いだなんて一切思いません。むしろ尊敬に値します。ですが、私は――そう、自由が欲しかったのです。遊んで暮らすという意味ではなく、自分の道は自分で決めたかった。だから、私は学生時代から活動を始め、新人賞に応募して上手くいって、程なくしてドラマ化も決まって……でも、それを報告した時、両親や兄は何て言ったと思いますか?」
「え……良かったじゃないか、とは言わなかったようですね、その表情から察するに。何でしょう……であれば、くだらないと蔑まれた?」
桐島さんは首を横に振った。
「何も、言わなかったのです。良くやったとも、くだらないとも、全然だとも。何も、言ってくれなかった」
「無言…!?」
「兄が教職をとった時は、無表情でしたが褒めていましたよ。酷いでしょう。あんまりでしょう。力を、可能性を証明したら、それを認めて背中を押してくれると思ったのに、三人とも誰一人として、私の報告に見向きもしなかった。せめて否定でもしてくれたら、更なる原動力にもなったのに」
「そんなこと……」
あっていいものか。
親が我が子のことで喜ばないなんて、そんなこと在っていいはずが――
「祖父が亡くなった時――言い方はあれですけれど、記憶堂は利用する価値がありました。これを副業と掲げて小説家を続けていれば、流石に両親の入り込む余地もないだろうと」
「それは……いえ、賢い選択だったと思いますよ」
「ありがとう。でも、それでもあの人たちは私を認めない。認めようとしない。理解しようとしてくれない。さきほどのあの言い分も、要約すると『こんなくだらないことは辞めてさっさと家に帰れ』です。誰が言う通りにするものですか」
珍しく憤慨する桐島さん。
強く握られた拳はやがて、どこに打ち付ける宛てもなく力んだまま開かれた。
「私がここにいるのは、言ってみれば家出です。笑ってしまうでしょう、大人なのに」
「それは……」
僕には何とも言えなかった。
それだけの覚悟があって、事実自分の可能性を証明して、しかし認められなくて――怒りもする。誰がそれを否定できよう。笑えよう。
何とも言えないけれど、それだけは断じて否だ。
「ふぅ……話し疲れてしまいました。慣れない昔話はするものではありませんね。ごめんなさい神前さん、今日はこのくらいで。お風呂の湯は張ったままですから、ご自由にお使いください」
「貴女は?」
「少し一睡して、目が覚めたら入ります。それでは」
席を立ち、カップを流しへと置くと、桐島さんはさっさとリビングを後にしてしまった。
そう言えば彼女が言っていた僕の今日の寝床は?
そんなこと、今から追いかけて聞ける筈もなかった。
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