EX:4 齢11の初恋
当時十一歳の
凄く幼い頃からの友人で、親共々の付き合いだった。
田んぼでおたまじゃくしを見つけて喜んだり、彼が捕まえたバッタに気持ち悪がったり、サンダルで川に入ってはしゃいだり。
田舎暮らしなものだから、若い私にはそれくらいしかやることがなかったのですが、それがつまらないと思ったことは一度もない。同じようにはしゃいで、楽しいんでくれる彼が隣で笑っているだけで、幼心にも幸せだと思えていたから。
今思えば、その時の私は、彼に恋をしていたんだと思う。
でもその日だけは、どこか様子が変だった。
テンションが低いとか、無口だとか、そういったこととは真逆――そう、異常にテンションが高かった。
まるで何かを噛み締めているように、忘れないようにしているように、よく喋り、よく笑い、私の手を引いてどこまでも、どこまでも駆けていく。
追い越していった田んぼの数も分からなくなるほど、どこまでも。午後一だっただけに時間はたっぷりとあったのが幸いだった。
結局辿り着いたのは、二、三キロ程離れた所にある山の休憩場所。
二つある木の椅子に腰かけて、ふぅと溜息を吐くと、彼は途端に無口になった。
強張った面持ちに、不自然に流れる汗。
何か言い出したくて言い出せない、そんな感じだった。
やがて二人の呼吸が整った辺りで、彼は意を決したように口を開いた。
「……ひ、引っ越し……するらしい。一週間後」
とだけ、一言。
それを聞いた瞬間、私は驚きと何かよく分からない感情に支配されて、言葉を失ってしまった。
どんな表情をしていたのか、彼は私の顔を見て、それ以上は何も追随しなかった。
「引っ越しって……どこ?」
そう聞いても、彼は答えてくれなかった。
遠く、とっても遠く、多分会えなくなる――と、それだけを繰り返すばかり。
具体的に何県、何地方、とは言ってくれない。
ここが鳥取だから、なら北海道? あるいは沖縄?
そう質問しても、ただ「違う」と返す。
「ごめん、涼ちゃん。でも、それだけは伝えなあんと思ったけん」
「それだけはって。でも、たまには帰って来るんやろ? 日本とか知れてるけん、夏休みとか、冬休みとか……ねぇ、何で……何で、こっち向いてくれんの?」
彼は俯いたまま、ただ片を震わせて黙っている。
耐え切れなくなって尋ねてしまったけれど、今思えば、当然すぐに答えられる筈もなかった。
その後も、彼はずっと辛気臭い顔をしていたものだから、私の方がそれに甘えて黙っていては仕方がないと、いっそのことさっきの彼のテンションのように、楽しむだけ楽しみましょうと提案した。
そして、そうだな、と受け入れてくれた彼と共に、その日は日が暮れるまで遊んで――
翌日も遊んで、
その次の日も遊んで、
日を追う毎に、少しずつ私の方が寂しく、辛く、悲しくなっていって――
六日目、私は彼とは会わなかった。
七日目の朝、私は確かに彼を乗せた車が遠ざかっていくのを、自室の窓から眺めていた。
彼の方からちゃんと言ってくれたというのに、それを無碍にして、一人で泣いていた。
どうせすぐに戻って来るんでしょ。
ただいまって私の家の玄関から顔を出すんでしょ。
そんな勝手な妄想をしながら。
後から両親に聞いた話によると、彼は余命が迫っていて、何でも海外の有名な病院に移ったのだとか。
知らなかったのかと、知った上で遊んでいたんじゃないのかと両親からは言われた。自分の愚かさを呪いもしたし、当の本人たる彼が若くしてそういう状態にあるというのに、笑顔を見せて、駆け回って遊んでくれていたことが、とにかくも申し訳なくて、私はその日、また泣いた。
彼が去った日よりも泣いて、泣いて、ただただ泣いて、頭が痛くなる頃には日も沈んでいて。
やがて秋になると、悲しくも寂しくもあったけれど現実と向き合いはじめ、良い思い出だったと、楽しい思い出だったと考えるようにした。
それから一月経つ頃になると、私はちゃんと、そう思うことが出来ていた。
彼は遠くで戦っているんだ。健康な私がしっかりしないでどうする。
そう思う一心で、私は彼を応援し続けた。
そんなある日のことだった。
彼の実家から、訃報が届いたのは。
予定では、まだ数年は生きていられる筈だった。
しかし容体が急変して、彼はそのまま息を引き取ったのだそうだ。
あまりの現実に――と考える間もなく、私は倒れるように布団に潜って、また泣いた。
甘えて、我儘を言って来た分しっかりしようと、心も強くなった気でいたのに。
残酷にも降りかかる現実は、まるで神様が、人の命など何も思っていないように感じてしまって――私は、悲しみに泣くとともに、僅かな怒りすらも覚えていた。
不思議な体験をしたのは、その報せがあった日の夜だ。
夕飯も食べずに布団にくるまっていつの間にか眠って、気が付いたのは深夜の二時。
丑三つ時と言われるその時間帯に、ひょっとしたら彼が姿を見せるかも――なんて馬鹿な想像もしていた。
お手洗いに行って戻って来ても、やはり家の中にも窓の外にも彼の姿はない。
それは至極当然のことではあったけれど、勝手な妄想に期待すら抱いていただけに、その光景はやけに寂しく見えた。
再び布団をかぶって丸まって、しばらくした時だった。
『涼ちゃん――』
ふと、そんな声が聞こえたのだ。
幻聴。でなければ、別の言葉がそう聞こえただけ。
下手な幻想が捨てて、そう信じ込むようにした。
それでも、それはしつこく、何度も何度も聞こえて来た。
涼ちゃん、涼ちゃんと、あの優しい声で。
とても落ち着いて安心する、大好きだったあの声で。
『涼ちゃん――』
もう何度目かになるか分からないその呼びかけで、私は布団から飛び出ようと手に力を込めた。
しかし、そんな私の行動を、その声が制した。
誰あろう、私の名前を呼び続けているその声が。
強めのそんな物言いに、私はまるで金縛りにでもあったかのように固まった。
『君が僕の方を見ると、きっと言いたいことが言えなくなる』
「そんな……やだよ、誰にも言わんけん、会いたいよたけちゃん…」
『……ごめん、涼ちゃん』
声は、分かったとは言ってくれなかった。
『今日ここに来たんは、六日目に涼ちゃんに言えなかったことを伝えるため。正直に言うから、寝ないで聞いてね』
「……うん」
『いい子だ』
小学校で、それも一つしか変わらないというのに――私はこの言葉に、何度も安心感を得ていた。
『君が来てくれなかったあの日――僕は君に、好きだと伝えるつもりだったんだ』
「……………………」
私は、彼の話を黙って聞いていた。
『君といると楽しくて、君の笑顔を見ると心が温かくなって。君が悲しむと、僕の胸も一緒に痛くなった。お兄ちゃんにそれを話すと、それはその子のことが好きなんだよって。難しくてよく分からなかったけれど、「もっと一緒にいたい感覚」だって言われると分かった』
「……そう、なんだ。お兄ちゃんが」
『うん』
「私も……私も、たけちゃんと、もっと一緒に…」
『うん、ありがとう。でも……ごめんね』
謝るのは私の方だった。
彼の為にと思っていながら、結局は自分の弱さに負けて、逃げた。
その行為が、彼の言葉を聞けない結果に繋がって、ずっと心が痛かった。
『君のことが好きだ、涼ちゃん。もっと沢山話したかったし、もっと沢山、遊びたかった』
「私も……たけちゃんと、もっとお喋り…」
出来ない現実を知っているだけに、はっきりとは言えなかった。
難しいことはよく分からないけれど、もう一緒にいられないことだけは知っている。
そんな私に、彼はまた短く「ごめん」と置いた。
『ありがとう、涼ちゃん。君といられて、僕は幸せだったよ。それから、やっぱりごめんね。ずっと、僕のことについて話せなくて』
そして――
『それじゃあ。さようなら』
言うだけ言って、すぐに消えてしまうなんて。
そんなの絶対に、
「嫌だ…! たけちゃん、たけちゃん…!」
聞くことを聞けたのなら、もう彼の言うことに従わなくて良かった。
どうせ消えてしまうのなら、最後にその影だけでも――
「……っ……!」
ずっと声のしていた庭へと続くガラス戸にやった目が捉えたのは、消える間際のシルエット。それは確かに彼と同じサイズだった。
懐かしく、よく見知ったシルエットだったのだけれど。
それが、おかしな話だった。
彼は自分のお兄さんの話を私にする時、決まって”兄さん”という呼び方をしていた。
兄さんはこれを知らないけどね、と言っていたのを、よく覚えている。
私は分かっていたのだ。
この声の主が、高校二年の、彼の兄であることを。
知った上で、けれど声は彼と全く同じで、耐え切れなくて、私は会話を続けていた。
でも、そうであるならば。
(なんで、たけちゃんと同じ大きさ……?)
お兄さんの身長は百七十を超えている。それなのに、シルエットが彼と同じ大きさな筈がない。
この際、お兄さんが代役を務めたことは問題にしない。
彼はお兄さんに私の話をよくしていたみたいだから、きっと今の言葉に嘘はない。
けれど、そのシルエットに関しては――
実は彼の幽霊で、その時その場所にいたのか。
お兄さんであるならば、どうして彼と同じ身長で映っていたのか。
そこに、どちらか、あるいは二人ともの気持ちが籠っていると思うの。
だからお願い、まこと、葵ちゃん。
どうか私の心にかかった靄を取り去って、楽しかった思い出に変えてください。
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