第19話 約束
「せっかくだから、最初の二日間とかで回ったところに行こうよ」
との葵からの提案により、僕らはここサン・マルコ広場を始めとした道筋をなぞっていく。
まぁ、そうは言ってもあまり大きく広範囲には動いていないので、限られた近場ばかりなのだけれど。
サン・マルコ広場寺院を眺めて初日のように「おっきいね」と話しをして、そのまま鐘楼の方へと歩く。そして二人分の料金を払ってエレベータに乗り、上へとあがっていく。
程なくして辿り着いたそこで待っていたのは、少し見方の変わったヴェネツィアの街並み。
夕焼けに染まる白い建物群は幻想的で、ここが何処か現実ではない、異界の地なのではと思わせてくれる。
それ程までに、美しい。
「真っ赤だね」
「だね、真っ赤。ここまで光を取り込むとは思わなかったな」
「綺麗……」
うっとりと景色に目をやる葵の横顔は、日本で子猫に向けたそれを非情によく似ている。
心の横から、本当に綺麗だと思っている証拠だ。
四方一望すると、鐘楼を降りてそのままサン・マルコ寺院の裏手、溜息橋を目指し歩いた。
少しの移動ではあるけれど、癖で葵の方をちらと見ながら歩く。すると、二度目くらいで目が合って、
「ふふ」
笑いかけてきた。
思わず、勢いよく前に向き直って前進再開。
顔、見られてなきゃいいけど。
「溜息橋。ここも、昼間とは随分と違うな。暗いし、空気もここに溜まってる」
「狭いね」
狭い。
溜息を吐ける程の距離があるのか、と疑問に思う程に。
夕闇も相まって輪をかけてそう見えているのだろうが、対岸から対岸まで、数メートル程しかない。
桐島さんはああ言っていたけれど、僕にはここが、逆の意味を持っているのではないだろうかと思えてならない。ヴェネツィアの街を思って溜息を吐いたのではなく、街すらも見えない狭い格子戸と短い渡し橋に、溜息も吐けぬ程だったのではないだろうか、と。
桐島さんの言を否定しているわけではない。事実、そういったエピソードが残っているのだから。
ただ、僕の考え方がひねくれているだけ。
しかし。
「これじゃあ、溜息も吐けないよね」
そう葵が言ったことで、僕の考えもただの独り言ではなくなった。
まさか、同じ考え方をしていようとは思いもよらなかった。
「短いし狭いし、とっても寂しい」
「…かもしれないね」
と言いながら、二人顔を見合わせて溜息。
浅く弱く、呼吸を整えるように。
「次は――ここからだとリアルトかな?」
「他、どこ行ったっけ?」
「レストラン、リルと出会ったフォルモーザ教会にサン・ジョルジョ――あっ」
言いかけて、思い出した。
あそこに行ったのは、僕と桐島さんの二人だけだ。
不自然に途中で切った僕に、葵が「怪しい」と詰め寄って来る。
隠すつもりはないけれど、そうまで顔を近付けられると話しにくい。
「葵がリルと会ってた時に、ちょっと訳あって行ったんだ」
「どこ?」
「遠くはないけど……まぁ戻れるか。行ってみる?」
葵は無言で頷いた。
再びサン・マルコ広場を抜けて反対側へ向かい、フェリー乗り場へと辿りつく。
一度見知った船員に会釈をして、何とかサン・ジョルジョ・マッジョーレへ。
こちらも、随分と違う雰囲気でもって僕らを出迎えた。
「これも、おっきいね」
葵はてっぺんに視線をやって、それでも覗けなくて背伸びをしていた。
僅か数センチの足掻きがやけに可愛く見えてしまう。
「すぐ脇に川、その堂々としながらも静かに佇む様から、”水辺の貴婦人”なんて呼ばれる教会だ。中には”最後の晩餐”とかっていった有名な絵画が飾ってある」
「へぇ…」
短く返しながら、じっと建物に目を奪われている。
僕も、ゆっくりと眺めている分に暇は感じなかった――が、しかし、葵は僕の手を取って中へと足を踏み入れていった。
床のタイル、窓から差し込む光、空気の冷たさ。
どれをとっても、やはりここも昼間とは大きく異なる。
光に照らされた中で天井を見上げる葵の姿は、風景に溶けてしまいそうに淡い。
儚く、弱く見えて、僕はふと、握られた手に力を込めていた。
一瞬、驚いたように指先がピクリと動いたけれど、少し遅れて葵も握り返してきてくれた。
傍から見れば――
「って、何を考えてるんだか」
「何の話?」
「独り言。それより、ここにも鐘楼があるんだけど、どう?」
「乗る」
葵はノータイムで返事。
心なしか、瞳は楽しそうに輝いて見えた。
自然な流れで、どちらともなく繋いでいた手を離して歩き始める。
そしてエレベータに乗り、上へ、上へ。
「向こうもいいけど、こっちも綺麗だね」
「うん。手前に大きな川を捉えてるからね。豪華さで言えば向こうが勝ってるけど、綺麗さならこっちの方が上だ」
「綺麗……」
葵は頬杖をついて景色に目をやる。
僕も僕とて、ただ正面に広がる風景を楽しむだけだ。
そういえば、ここで桐島さんの涙を見たんだったかな。葵が心配だ、葵の力になってやりたいと、感情を露わにした桐島さんの。
色々とあり過ぎて、つい数日だけの記憶が遠い昔に感じてしまう。
忘れはしないだろうけど。
結果、葵には何もなくて、別に厄介に巻き込まれているわけではなかったわけだけど。
今、一番ほっとしているのは桐島さんだろうな。
と遠くない昔を懐かしんではみたものの。
ふと気になったのは、
「そういえば、あの子猫ってどうしたの?」
「子猫?」
「ほら、僕らが出会った公園でさ。何ヶ月も前の話だけど」
「あぁ、木登りの」
新居近くの公園で初めて葵と出会って、その時に葵が目を奪われていたスコティッシュ。
成り行きで何となく助けて、その後の会談でも連れていたみたいだけど。
「どうしようかと迷ってたんだけど、あの後、すれ違いに飼い主さんが受け取っていったよ」
「そうだったんだ。首輪はなかったよね」
「苦しそうで可哀そうだからって、着けないで懐かせてたんだって」
「へぇ。いい飼い主さんで良かった」
「うん、本当に」
あれは四月だから、実に四ヶ月が経過している。
懐かしいけれど、つい最近のことのようだ。
近いものが遠くて、遠いものが近くて――といった感覚は、たまにある。
「足に乗っけたあの子猫、幸せそうに寝てたね。それなのに、葵ってば怖がってなかなか触らなくて」
「そ、それは、びっくりさせちゃった手前、すぐに手を出しにくくて…!」
振り返り、激しい身振り手振りで猛抗議。
分かっている。
触ろうとしたら逃げられて、降りられなくなった――と言っていたことは、はっきりと覚えている。
「まぁ、そんな縁があったから、今こうして遠い地に来てるわけだけれど」
時間潰しにと公園に立ち寄らなければ、葵と出会うことはなかった。
後に記憶堂にこそ来たけれど、子猫のことがなければ、きっとこうはなっていなかっただろう。
そうして遥さんと出会って、岸家と出会って、奇妙な繋がりに感動して、一緒に遥々熊本まで行って、祖父との大切な記憶に触れて。
途中には告白もされて、涙も見て。
色んなことがあったな、あの一件では。
僕がまさか、知り合ったばかりの女の子に、あそこまで躍起になるとは思わなかった。
今も、どうしてこの小さい背中の隣を離れられないでいる。
「どうしたの?」
ふと、葵が覗き込むように僕の目を見て言った。
「いや、本当に色んなことがあったなって。通潤橋への長旅、凄く良い思い出だよ」
「良い……本当に…!?」
と、珍しくも強い声音で葵が言う。
そういえば、私情に付き合わせてとか、着いて来てくれて感謝してるとか言ってたっけな。
「本当も本当だよ、嘘は言わない。自分のことに着き合わせてって言ってたけど、僕は僕で、ただ頼まれたから着いて行ったわけでもないさ。元より、面倒だったり行きたくなかったら、遠慮なく断ってた」
「……かな? まこと、良い人だから」
「その評価も、嬉しいけど買い被りだ。僕も割と、自分の興味にしか走らない人だし――って言い方はあれだけど、本当に楽しい旅だったよ。葵の幸せそうな顔も見れて、着いて行った甲斐は十二分にあった」
「まこと…」
人の思い出に触れるということに、あまり良い印象はなかった。
下手に深入りすれば傷つけ、傷つけられ、ともすれば双方が嫌な思いをすることだってある。なまじ表面だけを知って、知った気になって、ズカズカと踏み込んで荒らすことはない。
それならいっそ、少しも触れずに、波風を立てないようにしていればいいと。
しかし、岸家、桐島さん、そして葵とのあの旅は、僕に別の見方をさせてくれた。
人の思い出に、心に触れることが、あんなにも温かくて、寂しくて、優しいものだとは知らなかった。
それを少しでも知られたことは、僕にとって大きなものだった。
「今も、葵と旅が出来て楽しい」
「……私も、楽しい。景色綺麗だし、料理は美味しいし、ジェラートは甘いし」
「ははは、まぁそうだね」
楽しいことばかりだ。
しかし、だからこそ、現実にも目をやらなきゃいけない。
僕は十九で大学一年、葵は十八で――高校三年だ。
「相当な無理を言って、許可してもらったって遥さんから聞いたよ」
「……うん」
「受験、僕とお兄さんと同じあの大学を受けるってことも」
「うん」
「僕よりも随分と頭のいい葵のことだから合格できるとは思う。でも、それで僕が連れまわして下がっていったら悪い」
「そんなことは…!」
強い口調ながらも、ない、と言い切れない葵は、ちゃんと現実を見ていた。
リルの一件を片付けたらという話だったけれど、そのタイミングでノーなら構わないけれど、イエスを貰おうものなら、まず間違いなく僕は葵を甘やかす。浮かれて、連れまわして、葵の本分を侵してしまう。
ちょっと待ってくれと言ってくれたのは嬉しいけれど、それは先延ばしにするべきだ。
「僕が言うのもおかしな話だけど、やっぱり返事は、晴れて受験に合格してから欲しいな」
「……それは……うん、分かってる。それが正しい」
「ごめんね、急かしたりわがまま言ったり」
「ううん、全然。今までは私が我儘言ってた方だし」
「ありがとう」
短く礼と謝罪を繰り返すと、葵は「それに」と置いて、
「受かって、一緒の大学に行けた方がいいもんね」
と。
これは天然なのか狙ってなのか――いや、この自然な表情、屈託のない笑み、狙っていないことは確かだ。
恐ろしいな。
心臓、壊れるかと思った。
それはもう、答えを出してるのと同じことなのでは。
「そ、そういうことだから。ごめん、ありがとう」
「二つを一緒に置かれるのはあんまり好きじゃない」
「じゃあどっちにしよう」
「後者だけでいい」
「そ、っか。じゃあ、ありがとう」
「うん」
葵は優しく微笑んだ。
さて、これで一つのケジメは着けた。
残るはあと一つだ。
「最後の我儘。これ、見て」
スマホを操作して、とある画面を開いて見せた。
つい先日、母から送られてきたメッセージに添付されていた画像で、地元鳥取県は鳥取市で毎年開催されている、しゃんしゃん祭開催についてのチラシだった。
子どもの頃から好きだったでしょ、との母からのメッセージではあったが、戻るつもりはなかったのだけれど。
「僕の地元、鳥取県でやってるお祭り。この旅行が終わって直ぐなんだけど、どうかな? 遥さんやご両親は、僕が責任をもって説得するから」
「……………………」
葵は言葉を詰まらせた。
何を思っているのかは分からないけれど――と、急に首を横に振った。
ダメ、だったか。
そう思ったのも束の間。
「楽しそう、行きたい」
「え…? あ、よ、よかった――でも、親御さんは?」
「八月後半は夏期講習の予定。でも、その前まで、羽目を外し過ぎないならって許してもらってるから」
「それじゃあ…!」
「うん。鳥取、行ってみたい。それに――」
と続けた葵に首を傾げると、上品に口元を隠すようにして、
「ゆ、浴衣…自慢したいし」
控えめにそう言った。
普段は、今も例外ではなくボーイッシュな格好をしている葵からは、想像も出来ない――けれど、髪色も黒で凹凸もあって、きっと似合いはするのだろう。
クールで大人しい雰囲気にもピッタリだ。
「夏祭りなんかとは違って、屋台数は少ないけどね。でも、実家地区の人たちは皆、浴衣を着こんではしゃいでたな」
「じゃあ、着ていくね」
「うん、楽しみにしてる」
開催は八月十三日から十五日。
そのどこかで、日帰り旅行をしようと決定。
まさか、来てくれるとは。
ありがたいし、期待に胸も膨らむ。
そんな浮かれ気分で踵を返し、鐘楼を降りようとエレベータの方へと向き直った時。
「やれば出来るものですね。とっても素敵な殿方です」
そこには、僕に見せた天使姿ではなくいつも通りの格好をして、片手で口元を押さえ、くすりと笑うリルの姿があった。
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