第18話 素直になって
どこまでも、桐島さんは意地が悪い。
いや、どれも別に嫌な気はしないから良いのは良いのだけれど、最近は輪をかけて酷いと言うか、何と言うかといった感じであって。
二人を弄って――とはよく言ったものだ。僕にしか攻撃してこないくせに。
そうして一通り弄ったあとは、またいつものように大人っぽい雰囲気を纏って、今みたいににっこりと微笑むんだ。こちらの気も知らないで、あるいは知っていて、余裕の笑みを見せてくる。
それがあまりに眩しいものだから、以上は言い返せなくて結局はこちらが黙ってしまうのだ。
「いい男って――僕は男と思われていなかったのですか?」
「いえいえそのようなことは。以前までは”優しい”男の子でしたよ」
「今は?」
「”優しくて素敵”な男の子です」
そう語る表情は、悪戯な時のそれではない。
恥ずかしい、むず痒い、落ち着かない。
どうしてこの人は、そんなことをさらっと言ってのけるのだろう。言ってのけることが出来るのだろう。
僕なら、思っても口にはしない。
言われた方もそうだが、言う方はもっと恥ずかしくなるレベルのものだぞ、これは。
「やめましょう、やめましょう。これ以上は心臓がもたない」
「あらあら、憂いですね」
「今度は騙されませんよ、それは悪い顔だ」
「あら残念」
うふふ、と笑って、桐島さんは席を立つ。
そのままベッドに移動して座って、傍らの文庫本を手に取って読み始めた。
自由人。
自分のことに関しても、周りにいる人たちに対しても。
でもそれが不快でないのが、この人の凄いところだ。
散々弄って、笑って、好き勝手に言って、それでも何一つ嫌味に聞こえないとは、一体どんな魔法なのだろうか。頭を開いて中身を見てみたい。
そんなことを話している内に、葵がお手洗いから戻って来た。
一人落ち着かないでそわそわしている僕に「どうしたの?」と尋ねるものだから、条件反射的に「何でもない」とだけ答えると、少し遠くで桐島さんがくすりと笑った。
「藍子さん、今日はどうするの?」
ふと、葵が桐島さんに聞いた。
そういえば。夕食までにまだまだ時間はあるけれど、桐島さん自身は取材を一人で終えてしまっているわけで、僕らには以降のプランが皆無だった。
「そういえばそうでしたね。いかがいたしましょうか」
自分の目的を終えた桐島さんはノープラン。
わざとらしく口元に手を添えて考える仕草は、暗に「勝手に楽しんで来い」と言っているようなものだ。
では大人しく、僕らはそれに応えるとしよう。
せっかくだから、二人で話したいこともあるし。
「夕飯までには戻ります。ちょっと、葵と散歩でもしてきます」
「あらあら、デートのお誘いですか?」
「流石にそろそろ怒っちゃいますよ?」
「勿論、冗談ですとも。しかし、それはまたどうしてです?」
まぁ、確かに。
理由もなしに、わざわざ葵を名指して出る必要はないか。
とは言え、言い訳の材料ならあった。
「さっき僕が戻った時、ここで変な音がしたからって怖がってたんですよ。だから、ちょっと息抜きと言うかリラックスと言うか、これだけの街並みを眺めてれば少しは気が晴れるかなって」
そんなことを言うと、桐島さんはいつものように「嘘ではなさそうですね」と目を瞑る動作でもって語り、そうですかと文庫本を閉じた。
「そういうことであれば、ご存分に。葵さんを癒してあげてください」
「それほど長くは出ないつもりですから、また小一時間か少し超過くらい後に。では、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
と、本人の了解を得ぬまま扉を目指してはみたのだが。
まさか葵が、抵抗の文句の一つもなく、大人しく着いて来るとは思わなかった。
―――
さてどこに行こう――と、もはや見慣れたサン・マルコ広場にて思考する。
ジェラートは今し方食べたばかりだし、かといって夕食前にカフェをするわけにもいかない。と思えども、気の利いたデートプランなんて思いつかないし、うーん。
結論。
「まぁ近くには観光スポットも多いし、適当にぶらつこうか」
諦めではなく前向きに、とにかく足で何かを探そうと提案した。
食事云々に関しては葵も同じことを思っていたらしく、こちらも迷うことなく「うん」と横に並んで歩き始めた。
昨日までは、名所や歴史背景の重いものばかりを眺めては感動していたものだけれど、こうして改めて目的無く歩いてみれば、何の変化もないように見える家屋にはそれぞれの特徴があったり、ただの狭い水路が絶景に見えてきてしまう。
これがこの街全部に張り巡らされていて、それを誰一人として例外なく毎日利用しているとは、驚きだ。
広場を歩いていると、その広さにも圧倒させられる。
前方を向いていればあまり意識はしないけれど、少し離れた宮殿や鐘楼の方に目をやりながら進むと、その広大さから、あまり前へと進めていない錯覚にすら陥る。
そんなことを思いつつ、たまに暇をしていないか葵の様子をちらと見ながら歩いていると、
「アクア・アルタ……」
ふと、葵が呟いた。
アクア・アルタ――ヴェネツィアで年に五十回は起こると言われている、街一面を埋め尽くす洪水のことで、直訳すれば”満潮”を意味する言葉だ。
それだけ聞けば、あまりその時に街へと繰り出したくはないけれど、そうでもないのだ。
と言うのも、水路の水は世辞にも綺麗だとは言えないものだけれど、サン・マルコ広場を始めとする主要観光地前に水が溜まると、水面が鏡のようにその建物を映し出してくれる。日本人に分かり易くは、逆さ富士を見ることが出来るのだ。
それ故に、アルタの多い時期である冬を敢えて選び、ヴェネツィアの街を観光する人も少なくはない。
しかし、今の季節は夏。
起こらないこともないけれど、冬に比べれば格段に少ない。
「アルタがどうしたの?」
「ううん。見れたら良いなって、それだけ」
「店の人にとっては災難だけどね。移動用の足場は組まれるけど、それは町中を歩く人の為にだから。物が流されちゃうのは可哀そうだ」
「それは分かってるんだけどね」
僕だって、憧れのヴェネツィアに於いてそれを見ない手はないと思っている。
しかし、ただこちらの都合でそれを喜んでしまっては、苦労してあれやこれやと忙しそうにしている人たちに申し訳なくなってしまう。
見られるものなら見てみたいのは本音だけれど。
「不思議な街だね」
「そうだね。魔法かってくらい」
「それは大袈裟」
「えー」
珍しく詩的なことを言ってみれば、この有様だ。
しかし、声音も落ち着いてトーンも低くないのは、まだ有難い話だ。
肩を落とす僕に、葵が「でも」と追い打ちをかける
「やっぱり、そうかも。色んな伝説もあって、不思議もあって、迷路みたいで――魔法だって、あるかも知れないね」
「あったらどうする?」
「うーん」
暇つぶしに広げた質問に対して葵は少し悩み、すぐに結論を出した。
「もっと深く、この街に入ってみたい、かな」
「深く?」
「うん。この数日間だけでも色んなことがあって、それがどれも面白くて、可笑しくて。もっと、この街について知りたくなった。藍子さんには感謝だよ。勿論、まことにも」
「僕?」
それはまた、どうしてだろうか。
ここでの説明役も案内役も、基本的ではなく全面的に桐島さんだった。
僕は特に何もしてやれていないのだけれど。
「当然だよ。改めて、まことの優しいところも分かったし」
「どこかだよ。特に何もしてないだろ?」
「ううん、そんなことない」
葵は強く首を横に振って、否定した。
その様子が、あまりにも通潤橋でのそれと被って見えて――思わず足を止めて、葵の方を向いて固まってしまった。
「今もだけどね。たまに、ちらちらこっち見てるでしょ。いやらしい目じゃなくて」
「それは、まぁ。葵、ちっこくてすぐにはぐれそうだから」
「ちっこいは余計。でも、それが凄く安心する。藍子さんも歩く速度を調整したりするけど、こっちは見ないもん。対してまことは、分かり易いくらいはっきりとこっち見てるから」
別に、意識してそうしていたわけでもないのだけれど。
本当に単純に、はぐれてないか、離れたないか気になっていたから見ていただけだ。
しかし、葵に言わせればそれは、初めて来た土地にあっては緊張が解ける瞬間らしい。
慣れ親しんだ日本と変わらず気にかけていたことが、少し嬉しかったのだとか。
わざとでも、恩を売っていたわけでもないのだけれど――何だろう、言われて悪い気はしない。
「見過ぎ?」
「ううん、全然。もっと、尊敬するようになった」
「非凡な僕をか?」
「才能じゃない部分だよ」
「ふうん。それもやっぱり、好きとは違うんだね」
「それは……うん、やっぱり、尊敬。羨望かな」
「そっか」
胸がざわついて落ち着かない。
心臓は速くなって五月蠅いし、視点も葵を正面に捉えられない。
どこまで単純なのだろうか、僕は。ただちょっと褒められただけで、これほどまでに嬉しいと思えるなんて、どうかしているのだろうか。
あの時と同様に、葵は僕を”羨望”していると言って譲らないのに。
「僕は――」
もっと後で、もっと気持ちを整理してから話すつもりだったんだけどな。
それで結果が変わるとは思わないけれど、急いだとも思わないけれど――
「僕は、葵が好きだよ」
「え、ふぇ……!?」
ほら、驚かせた。
「なな、何を言ってるの…? 頭打った…!?」
「失礼なやつだな」
「じ、じゃあ何で…!?」
何で、とは。これまた、どう話したものか。
それを語るには先ず、リルとのやり取りから入る必要があるな。
一瞬間でリルに言われたことを整理して、僕は噛み砕いて説明した。
ガブリエルとは聖母マリアに受胎告知をした存在で――と難しい話は抜きにして、恋のキューピッド的な何かを買って出たリルの言うことには、僕らをくっつけようというのが目的であったこと。
何か僕が、一つでも正直な気持ちを伝えるのが条件であること。
言っていて、葵の表情が少し曇った。
分かっている。リルに唆されてか促されてか、焦ってこんなことを言っているのではないか、と。
そんなことはない。
「きっかけがあいつなのは否定しないけれど――そうだな。本当は、通潤橋で葵に言われた時から、ずっと思っていた」
「え、だって、羨望だって…」
「うん。だから、勘違いでも良かった。勘違いでも、僕はあれから葵が好きだったんだ」
嘘、偽りのない、正直な気持ちだ。
知り合ってちょっとのリルに再認識させられたかと思うと少し癪ではあるけれど。
「大切な思い出の為に必死になれるところ、それでいて周りの人たちに優しいところ。って、まぁ、僕だって羨望でもあるんだけどね。僕にはない、葵の良いところだ」
「う、ううん、まことだって優しい。それに、私の為に必死になってくれた」
「自分のことには無自覚な人間って多いからさ。僕は、僕に無いものを持っている葵が好きになっていたんだ」
「う、うぅ……ちょ、ちょっと待って、顔熱い、頭痛い、一旦ストップ…!」
耳まで赤くなって、頬とそれを両手で隠して、蹲った。
小さく何か言っているのは聞こえる。
薄っすらと、「まだ整理が…」と何度も呟いている。
やがて立ち上がっていつも通りの表情を作ってこちらに目を向けるが、変な汗にぎこちない筋肉は誤魔化せないでいた。
「わ、私の好きは――ちょっとは、本当の好き…」
「うん」
「でも、えっと、その…何て言うのかな…何て言うのか分からない」
「それは僕もだ。嘘はないけれど、これがイコール恋愛のそれかって言われると、どちらかと言えば葵のものと同じな気がする」
「そ、そうだよね、うん」
「でも――」
それでも、やっぱり嘘ではないのだ。
嘘ではなく、僕は本当に葵のことが好きだ。
優しさに憧れて――同時に、それに惚れている。
我ながら、言葉に出来ないのが弱い点ではあるのだけれど。
「僕も、少しは本当の好きがあるよ。何にも優しくて、自由で、諦めの悪いところが、好きだ」
「ちょ、もう、ちょっと待ってって…!」
畳みかけるように言うと、今度は薄い上着のフードを被って顔を隠してしまった。
そうしてそのまま後ろを向いて、向き直ってはくれない。
そんな仕草の一つも、何だか無性に愛おしくて、可笑しくて。
本当の好きはやっぱり混ざっているのだと、改めて理解した。
やがてフードをとって、しかし振り返りはしないままで、葵は一言。
「こ……」
「こ?」
「こ、この……リルのことが収まりついたら、もう一回…聞いてあげなくも、ない…」
それは、僕が通潤橋で葵に言ったことだった。
気持ちの整理が着くまで、待ってくれないかといった意味を込めて。
今思えば、はっきりとそう伝えればとかったのだけれど――こうして伝えられた以上、それは葵にとって、同じ意味が込められているのだろうと分かる。
まったく。何も、今でなくても。唐突で驚くのは当然だ。
田舎者のくせに、空気が読めないなんて。
でも――
「直ぐには嫌だけど、もう返事は決めてるから…」
振り返りざま、頬を染めながらそんなことを言われたものだから。
「わ、分かった…!」
言ったこっちの方が恥ずかしくて、また体温が上がった気がして。
不意に浮かべられた優しい笑みが、とにかくも眩しかった。
これは宿に帰った時、桐島さんにどう弄られるか。
考えただけで恐ろしくはあったけれど、それもいいだろうと、今は許せてしまった。
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