第14話 確認
「サン・ミケーレ島?」
リルは桐島さんに聞き返した。
桐島さんは、たった今見せた緊張感を隠して穏やかに「はい」と頷くと、一瞬僕らに”いいですね?”といった意味合いを含んでいそうな視線を送って来た。
葵は少し浮かない表情をしていたけれど、リルが振り返らぬ内に頷いて桐島さんのそれに応えると、リルにまた目線を落として言葉を紡ぐ。
「すいません、葵さんから聞いちゃいました。リルちゃんがとある場所を探しているという話を」
「木と四角と十二年?」
「ええ。心当たりがあって、それがサン・ミケーレ島という場所なのです。行ったことはありますか?」
リルは首を横に振った。
やはり、肝心な部分は抜け落ちってしまっているらしい。
どんな場所、と質問をするリルの声音は心なしか元気がないように聞こえて、どこかで分かっているのか忘れきれていないのか、記憶は微妙なラインである。
正直に話してしまうには場所もタイミングも悪いのでと、桐島さんはとりあえずの移動を提案し、到着したゴンドラに乗り込んだ。
「ねえ、まこと」
桐島さんにくっついて座るリルから少し離れた僕に葵が寄って来て、耳打ちするように聞く。
「大一番、かな。ともすれば、今日でお別れってこともある」
「……だよね」
葵は俯き、躊躇いがちに受け入れた。
「寂しい?」
「ううん、寂しくはない。会ったばかりだし、まだそんなにリルのことは分からないから」
「うん」
「でも……悲しくはある、かな。やっぱり、知り合った人がいなくなるのは、嫌」
「うん」
それは僕も同じだった。
ベネツィアにまつわる霊的なお話には恐ろしいものが多いから、下手をすればと思っていたけれど、リルはとてもいい子だ。間違っても悪霊の類ではないし、霊じゃない何かでもない。
ただ――そうだとするならば、最初に会った時のあれは。悩みを打ち明ける相手は葵だったのに、どうして僕にだけ変な現象が起こったのだろう。
そんなことを思いながらリルの方に目線だけやると、その瞳はしっかりと僕を捉え、
『ふふ――』
微笑んだ。
桐島さん、葵に動きがないことから声が聞こえなかったのは確かだけれど、それは直接、耳元で囁かれたように頭に響いて、僕は咄嗟に葵が居ない方の横、後ろを見回した。
急な奇行に驚いた葵がどうしたのか尋ねてくるが、何でもないと一蹴してリルに向き直る。
その時になると、またさっきと同じように桐島さんを見上げ、会話をしていた。
(気のせい……いや、でも…)
不思議な現象は、またしても僕にだけ起こった。
黙っていて、急に変な行動を落としてはまた黙った僕に、葵から「聞いてる?」と声がかけられる。
「もちろん。アニサキスの話でしょ?」
「寄生虫の話なんかしてない」
それは失敬。
数十センチも離れる程引かれると、流石にぐさりと来る。
「冗談、ミケーレ島の話だよね」
「……たまに、まこと嫌い」
「それは心外だ。ジャパニーズジョークじゃないか」
「鯨とかイルカに寄生するような壮大なジョークは知らない」
「そこまで分かってるなら、せめて流してほしかったね」
と、もはやここまでは一連の絡みで。
葵が僕の頬を軽くつねるのを機に、話は真面目な方向へ。
リルが覚えていないということは、先ずはそれを思い出させてやることからしなければ成仏も何もあった話ではない。しかし、どうやってそれを自覚させるか――というのは、最悪は強硬手段、直接自分の墓石をその目に写してあげることなのだが、まだ思い出していないリルを連れて行こうとしている現状、その方法に向かっているような気がしてならない。
では他の、霊を霊だと自覚させてあげる方法。
そんなものはない。
僕らは霊能力者でも霊媒師でも、ましてそれ以外の特殊能力者でも何でもないただの一般人。手段は、その一つしかないのだ。
「歯がゆい」
「とってもね。でも、それしか方法がないのなら、やっぱり――」
「着きましたよ」
衝撃なくいつの間にか止まっていたゴンドラから降りていた桐島さんは、目線上から僕らを呼んだ。
詰まる話は歩きながらと、とりあえず差し出された手を取ってゴンドラを降りた。
リアルト橋を越えて四百メートル程歩くと、フェリー乗り場が見えてきた。遠くの方には小さな島――サン・ミケーレ島の全貌が伺えて、無駄な現実味を与えられる。
これからあと数分もすれば、リルと別れてしまうことになるかもしれない。
そう実感すると、やけに気分がざわついて仕方がない。
そんな僕と葵の胸中や知る由の無いヴェネツィアの現実は、無慈悲にもフェリーの準備を整え終わり、中から現れた男性が手招く。
気が引き締まる思いと聊かの不安を残して、桐島さんの号令の下、僕らはフェリーに乗り込んだ。
「不思議」
ふと葵が呟いた。
「何が?」
「悲しいのは本当。多分、泣く」
「うん」
「でも、何だろう……あまりに淡々と進み過ぎていて、逆の意味で心の準備が出来てないっていうか」
「緊張しない?」
「ううん、する。してる。でも、これからすぐにリルと別れるんだって、どうしても思えない」
その瞳は、ミケーレ島を眺めながら桐島さんの話を聞くリルを真っ直ぐに捉えていた。
実体はある、話も出来る、誰にも見えている、そんな存在がいなくなってしまうなんて、確かに誰にも思えないようなことだ。
しかし、現実とは得てしてそういうものなのではないだろうか。
生者でも、何が起こるか分からないこの世の中で、今すぐに亡くなることなんて無い、とは言い切れない。
桐島さんの言葉を借りるなら、それこそ数奇な運命に流されて、誰も予想し得なかった結末を迎えてしまうものなのだ。
生者であろうが幽霊であろうが、同じくここに存在している者である限り、何人もそれから外れることはない。
「って、はっきり言えたらいいんだけどなぁ」
「何…?」
「いや、こっちの話」
僕だって悲しいのは同じだ。
だから、強く上からはものを言えない。
そんな少しの会話をしていた時間だけで、フェリーはサン・ミケーレ島へと辿り着いた。
日本出立前に見た写真は夜で少し不気味な雰囲気だったけれど、
「不謹慎なものだけれど……昼間のミケーレ島って、こんなに奇麗なんだ」
国際都市であるヴェネツィアならでは、ユダヤ教、カトリック、正教会などの宗派に分かれている墓地は、こういった表現は不適切であろうが、堂々たる佇まいで以って僕らを島へと歓迎する。
十字架を讃えた墓石、壺、ハナに、名のある人は写真まで飾り立ててある。
それらは、綺麗に整えられた石場の上に整然と並んでいたり、わざわざ設けられた芝の空間上にあったり――
多くの棺を眠らせておける集合空間と、様々な場所に分けられていた。
リルの名前を探す目的の下で申し訳はないのだけれど、様々な名前に目を通した。
中には有名人、バレエ音楽の父ストラヴィンスキーの名前もあった。
そんな中を縫うようにして歩き、一周、念のためにと二周したのだが――
「ジブリール・ベニーニのお墓。どうして”無い”のでしょう」
少し離れた所で、そこに咲いていた花を眺めるリルに視線を送りながら、桐島さんが呟いた。
そう。一周回って、一般開放されている墓石には全て目を通したのだけれど、どこに行ってもその名前が無かった為にもう一周したのだ。
桐島さんは、一周目で見た名前は全て覚えている為、見ていない墓石が無いかと歩いた。が、やはりそれは存在しなかった。
花を愛で終えてこちらに駆けて来たリルが、
「私に、何を見せたかったの?」
と問う。
欠片も情報が得られなかった為に、珍しく桐島さんがだんまり。
代わりに何か気の利いたセリフの一つでもかけてあげなければいけない場面ではあったが、僕にはどうにも出来ず、葵も共に言葉を発せないでいた。
「向こうに、大きな教会がある。ちょっと歩こうか」
そう僕が声をかけると、リルは少し躊躇いがちに「うん」と僕の後に続く。
「Sto cercando chi è grave?」
ふと後ろから、僕らをここまで運んでくれたフェリーの運転手が、隣にもう一人連れて「誰の墓をお探しで?」と声をかけてきた。なんでも、その人はこの島を管理する内の一人で、名簿から誰の棺がどこにあるのかを調べられるらしい。
僕はそのままリルの注意を引きながら、背後の様子を伺う。
「È il nome di Jibril Venini.」
「Jibril Venini…un attimo, per favore.」
「Grazie.」
と、男性は手元の資料を捲り始めた。
綴りの確認をして、J始まりの名前が羅列されているページを開け、順に一つずつ目を通していく。
やがて最後まで達すると、首を傾げてもう一度。それが終わるともう一度と、何度も確認して、その度に首を傾げて「Non lo è.」”無い”と首を横に振った。
「È giusto…Si,grazie.」
「…Prego.」
どうしたのか、とは聞かず、男性はそこで会話を切った。
そんな会話を終えた桐島さんの顔には、特にこれといった変化などはなかったのだけれど。
「お墓……ない?」
ただ一人、葵だけは難しい表情を浮かべていた。
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