第13話 観光と称して

 一度行った、とは言うまい。

 これだけ美しい景観なんてそうそう見れるものでも、飽きるものでもない。

 ましてあと数日で帰ってしまうのなら、これはまた絶好の機会と言えよう。新しい場所に行くのも勿論良いものだけれど、初見は感動で溢れてじっくり眺める余裕はなかったのだから。

 これはもう、リルに感謝までしてもいい。


 と前向きな思考をずっと続けているのも、この女子二人と女性に囲まれているという状況が、非常に窮屈であるからだ。

 ある種、緊張や興奮のピークに達しそうな時、円周率を数えだすアレと似ている。

 疲弊しきった僕より気力が削られている葵には目を逸らされ、それを起こさせた当の二人は我関せずといった様子で僕らの前を歩いている。

 あれが有名な寺院で、あれが鐘楼で――と、知らぬ人から見れば、それはそれはとても仲睦まじい光景なのだけれど、たった今その波に体力を根こそぎ持っていかれた僕からすれば、何を二人だけ楽しそうにと、わずかばかりではあるが呆れてしまう。


「鐘楼……」


 リルは、鐘楼の頂上一点を見つめて立ち止まった。

 どこか物憂げな細めた瞳で、慈しむように。


「リル?」


 葵が呼ぶとはっとして、何事もなかったかのように駆け寄って来た。


(気のせい…かな?)


 深くは追及しないようにして、僕も三人の後を追う。


 有名な寺院――サン・マルコ寺院を通り過ぎて少し歩いて、僕らはジェラート屋に来ていた。

 ヴェネツィアで歩き疲れたらこれです、と桐島さんの紹介を受けながら注文をし、渡されたそれを手に持ってまた歩く。

 歩き疲れたらって、僕がげっそりとしている理由は貴女方にあるのだけれど。そこのところ、自覚があるのだろうか。いや、そも発端は葵だ。

 さっきまでは真っ赤に膨れて早歩きをしていたけれど、今は――


「美味しい…!」


 すっかりスイーツ目になって、手に持ったそれに夢中だった。

 本当に、どこまでも自由。

 呆れて肩を竦めて、それでもやっぱりどこか放っておけなくて――なんて考えていると、ふと遥さんの顔が浮かんだ。


 そういえば、どうしているのだろう。

 葵のことが心配で何も手に着いていなかったり、はたまたそれすら感じさせないほど岸姉妹に遊ばれていたりするのだろうか。

 どちらも微笑ましいというか楽しそうな雰囲気ではあるのだけれど、何だか不憫な気がしてならないな。


 そんなことを考えている内に、サンマルコ広場は反対側の”コッレール博物館”へ。

 と、辿り着いた矢先に桐島さんが振り返り、一言。


「今日はとことん回りますので。覚悟しておいてくださいね」


 今更そんな”今夜は寝かさないぞ”風に言われても。

 とはいえ、リルも葵も目を輝かせているから僕も構いはしないのだけれど。


 宣言通り「まずは」と置いて、博物館の外から攻め始めた。


「リルちゃんには「ごめんなさい」なんですけれど、私たちは初めてなもので。至らぬ解説だと思いますので、補填があれば頂けると幸いです」


「もちろん、任せて!」


 意気揚々。

 四人でワイワイとしていること自体を楽しんでいる様子で、リルは全力でガッツポーズ。

 言葉の力強さが身体にも現れている。


「こほん。コッレール博物館。コの字全体が博物館であるこれは、かつてはヴェネツィア共和国の行政長官の執務室だったとされています。併設されている図書館には、コッレールの遺書を元に作成された歴史の公文書にデッサン、写真の記録本などを閲覧することが可能です」


 饒舌も饒舌。

 流石の一言に尽きる知識量は、割り込む余地なしと悟ったリルの開いた口が塞がらない程に、補填を必要としていない完璧さだった。

 そこまで語り終えた桐島さんは「どうでしょう?」と尋ねるのだが、リルは無言で首を横にブンブンと振ってその意を示した。


「やった」


 喜びに対する反応が子どもっぽいのはいつも通りだ。


 では中へ、と促されると、ようやく博物館の中へ。

 絵画、絵画、絵画と歴史ある絵画群を順に眺めていき、ある一室の前で立ち止まると、再び桐島さんが振り返った。


「一九五五年公開、ロミー・シュナイダー主演映画”エリザベート”にも出て来ました皇女シシーという人物が実際に使用した部屋です。今はこれだけさらっと入れましたが、ここが一般公開されたのは二〇一四年と最近なのです」


「十四年? それって――」


「はい。近かったというのはほんの一割程度の理由。きっとリルちゃんは知らないだろうと思いまして、まずはここを」


「桐島さん……流石ですね」


「惚れてはいけませんよ?」


「葵の前で言いますか…」


 再びむっと膨れる葵。

 いい加減何かしら答えないといけないのは分かってはいるのだけれど、あの時「恋じゃなくて羨望」だとはっきり言われてしまった手前、それを”愛”の告白と受け取って良いものやらとグズグズしているのが現状だ。

 しかし、であれば葵のこの態度の不自然であり。

 リルの件をちゃんと片付けて、このヴェネツィア旅行が終われば――と焦っても、仕方がないことなのだけれど。


「十九世紀の貴族生活の一端に触れられるとあって、人気の…スポットと言っていいものなのでしょうか、よく観光客が訪れますね」


「へぇ…」


 言葉のない感想を漏らすリルは、桐島さんの目論見通り、室内の様子に目を奪われて動けないでいる。

 それを見てまた満足げな表情を浮かべた桐島さんは、しばらくリルの様子を見てから「次に行きましょうか」と柏手を打った。


 再開のリアルト橋の今日は、観光客で大変な賑わいを見せていた。

 ただでさえ通路が全体的に狭いヴェネツィアの街で、これははぐれてしまいそう。

 桐島さんが気を利かせて、一番小さいリルの手を取って先行する。しかし、いくらリルよりは大きいとは言え、この人込みの中では後続する僕らも列から外れかねない。


 すると、必死になって喰らいついて歩く僕の手を、誰かが強く握った。

 それは前を進む桐島さんの背中を真っすぐに追いかけ、決して逃さないで進んでいく。


 てっぺんまで上ってアーケードを通り過ぎて、最後まで下ったところで――


「あら、大変仲のよろしいことで」


 桐島さんは僕の手元を見て微笑んだ。いや、にやついた。

 その隣では、リルが桐島さんと繋いでいない方の手を口元に添えて、こちらもにやついている。


「一体、何がそんなに――」


 と目をやった自分の左手元は。

 左横で目を逸らす葵の右手が、がっちり掴んで離さなかった。


 なるほど、僕を引いていたのは葵だったのか。と思うと同時に、無性に恥ずかしさが込み上げてきて僕は慌てて手を離す。

 すると桐島さんとリルは残念そうな顔をして、葵は逃げる鹿を追うように僕の手を再び取った。

 ぎょっとして葵の顔を伺うも、特に変わった表情は浮かべていない様子。


「この手は何かな?」


 と尋ねるや。

 黙ったままそっぽを向く葵に代わって、桐島さんが前に出た。


「無粋な質問は不要じゃないですか。『人込みではぐれるのも寂しいからもうずっと離さない』って意味ですよ。ねぇ葵さん?」


「世迷言を。そんなわけ――」


「……うん」


 葵はこくりと頷いた。

 マジですか。


「ほらほら、ね? こんなにいい子なのに、早く答えてあげないと神前さん…!」


「そうだよお兄ちゃん! お兄ちゃんには過ぎる程に憂い反応だよ葵姉さん!」


 と興奮して、また先ほどのように迫って来る猛獣二人。

 お似合いなのは寧ろそっちでは。


「ヴェネツィアに来てからの桐島さんのテンションスイッチが分かりません、ちょっと落ち着いて…! リルはどさくさに紛れて悪口を言うな…!」


 払いのけるようにして抵抗。

 先と違って意外とあっさり引いていく高波二人は、しかし離れた先では不敵な笑みを浮かべていた。


 本当にどうかしている。桐島さんに於いては、ここまでテンションが上がる人ではないと思っていたのに。

 これではまるで、葵の告白が――と、ふと見やった隣では、その葵がまた真っ赤になっていた。

 頬などのパーツパーツではなく、耳に至るまで全体的に。


「葵……?」


「し、知らない…!」


 そう答える葵の口調は、通潤橋にて、岸家で寝顔を見たという報告をした際に見せたものと同じ、ただ恥ずかしさだけを含んだものだった。




 一旦呼吸を整えてから再び歩き出し、ものの数分程度で着いた正面には川。

 ここに何が、と質問しかけたところで、桐島さんは一歩前に出た。


「ここからゴンドラに少しだけ揺られて、海上より入場する素敵スポットがあるのですよ」


「海上から、素敵スポット?」


 目を丸くして聞き返したのはリルだ。

 生前にそういった経験がなかったのか、興味津々な顔をして聞き入っている。


「カ・ペーザロ。現在は国際現代美術館となっている、旧ヴェネツィアの宮殿ですね」


「美術館、ですか」


「あ、今「またか」と思いましたね?」


「いえいえそんなことは」 


 真顔で反論する内心は、かなり焦っていた。


 桐島さんは「行ってからビックリしても遅いですから」と言ってゴンドラへ。

 何でも、意外や意外なものが展示されているのだとか。


 公言通り、ゴンドラに揺られること数分で到着。

 小さな停留所は、そのまま美術館へと繋がっていた。


「さっそくと本題です。四階へ行きましょう」


「二、三階は?」


「それはまた後で。まずは見せたいものがあります」


 と言われたリルは僕らに振り返り、三人揃って首を傾げ、まあいいかととりあえず桐島さんの後を追う。


 二階。なるほど、外国の絵でピッタリだ。

 三階。こちらも同じく外国の絵。やはりこういったものがヴェネツィアのこの美しさには映える。


 そして、四階。


「ミュージオ・オリエンタル。”東洋”美術館となっております」


 桐島さんが手で示したそのフロアは、これまでの階とは全く異なって”見覚えのある”雰囲気を醸し出していた。


「宿に戻ったら、ガイドブックの二百三十ページを見ると分かりますが、一応解説をば」


 二、三階は一八九五年から開催されている現代美術の国際展覧会”ヴェネツィア・ビエンナーレ”に種ピンされたことのある現代美術品が展示されている。

 そして、ここ最上四階。

 浮世絵師の磯田湖龍斎いそだこりゅうさい、鈴木春信、葛飾北斎といった日本を代表する絵師のものから、インド、中国といった東洋の作品まで展示されている。


 なぜこんな地にアジア諸国の物が集められているのか。それは、最後のパルマ公ロベルト一世の弟、バルディ伯の儀礼称号で呼ばれたエンリコが東洋を訪れた際に集めた物を寄贈したことによると、桐島さんは言う。


「私たちが産まれ、育った国である日本の紹介も、ほんの僅かではありますが、リルちゃんに話してあげることが出来ます」


「日本……私、興味あった…!」


「ふふ。では、まずは葛飾の――」


 跳びはねて喜ぶリルの手を取り、桐島さんは奥の方へと進んでいく。

 背丈の差、母性溢れる落ち着いた物腰の桐島さんと、対照にただただ明るく元気なリルは、傍から見れば――


「何だか、親子みたい」


 と、葵が呟く。


「僕も同じこと思ってた。桐島さんって、見た目綺麗で若そうなのに、お姉さんっていうよりかはお母さん寄りだよね」


「それ、悪口」


「言い出したのは葵だろ」


「いいの。まことのは棘がある」


「何を言うか。僕くらい丸い針はない」


 そんな、どうでもいい会話をして、二人顔を見合わせて笑って。

 ようやく、いつも通りに戻れた気がして。


「行こ。藍子さんの解説、私も興味ある」


「だね」


 また葵に手を引かれて奥の方へ。

 悪い気はしない。


 桐島さんの解説は、やはりただ者ではないくらいのクオリティで、葵や僕でさえ無言で聞き入る程に喋り方や構成も上手くて、ただただ感心するばかりだった。

 富岳三十六景、遊女道中図、美人愛猫図、なんて聞き慣れていないであろう漢字の羅列にすらも目を輝かせるリルの様子からは、日本に興味があるという言葉に偽りがない何よりの証拠だった。


 それは”視る”ことの出来る桐島さんには当然分かっているであろうことで、後一時間、その解説が止まることはなかった。


 満足して三階、二階と見て回って、外でゴンドラの到着を待つ。

 じっと建物を見つめて名残惜しそうにしているリルをそのままに、桐島さんは少し離れた僕の方へとやってきた。


「神前さんは、死後の世界はあると思いますか?」


「また唐突な。まぁ、あるんじゃないでしょかね。仏教では、輪廻転生なんて言葉もありますし」


「ええ。私も、あると思います。いえ、あると信じています」


 そう話す桐島さんは、いつになく強気な目をしていた。


「信じたくなった、というのも理由の内ですかね。リルちゃんを見ていて、漠然としたものではなくなったと言いますか…」


「確信に変わった?」


「どうでしょう。神前さんはこの数ヶ月間で、記憶堂とはどういうものだと理解しましたか?」


「記憶堂ですか。そうですねぇ」


 とても、温かい場所だと思う。

 依頼内容の大小関係なく、桐島さんはその相手に真摯な態度で接し、とても優しく慈愛に満ちた言葉と心で以って答えを渡す。

 相手の記憶を元に幸せを与える――と言えば少し大袈裟ではあろうが、そういった意味合いがあって”記憶堂”なのだと思う。


 しかし、そう話した僕に桐島さんは「五十点です」と厳しい評価。


「完璧です。完璧ではありますが、それは過去に対してのこと」


「過去、ですか。まあ記憶ですから」


「そうではありません」


 とは、一体どういうことなのか。

 桐島さんは葵の方を見て、


「葵さんからの依頼に関して言えば、その時の記憶とは『覚えていること』です。すなわち、神前さんが今仰ったことですね」


「ええ」


「では、リルさんの場合。ミケーレ島に行きたい、という願いは過去の記憶を辿るものでしたが、こうして私が今行っていることは?」


「それは……未来に残す記憶?」


「その通りです」


 そう言いながら僕に向き直って、これまでにない優しい表情を浮かべた。


「死後の世界があるのかないのか。それが誰にも分からないのなら、あると信じて、そこに至ってからも思い出せるような記憶があると、幸せだとは思いませんか?」


 つまり、桐島さんの言い分はこうだ。

 記憶を辿るだけではなく、記憶を提供してあげることも”記憶堂”の仕事の一つだ、と。


「……確かに。それは、何よりの土産でしょうね」


「分かっていただけましたか」


「流石が過ぎますよ、まったく。どこまで良い人なんだか」


「ふふ。惚れてはいけませんよ?」


 また同じことを言って、はにかんでみせる。


「もう惚れてますよ」


 と、聞こえないほどの小声で。

 葵の言葉を借りるなら、それこそ羨望と言った意味で。


「来ましたね」


 ふと桐島さんの声音が変わった。

 太く、低く、これまでとは違う何かを感じさせる声へと。


 急激な変わりように、一斉に視線を送られた桐島さんは、深呼吸と空嚥下を二度ほど繰り返して、緊張感を纏った一言。


「サン・ミケーレ島に行きます」


 それが耳に届いた瞬間、僕と葵は気が引き締まる思いがして――


 リルは、首を傾げて桐島さんと向かい合っていた。

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